( 91 ) 「すすき」と云ふ魚

 旱天が続けば、川下から登って來る。音響を非常に嫌ふものなり。尾部をうっかり掴むと、思ひきり手を切る。

( 92 ) 小さな蛭の事

 余、かつて水源地に至る。蕗の葉の間より水流出づる。初めは小さいので気付かざりしも、手に何か附いたのでよく見ると、体長1cm位の小さな蛭ではないか。葉の間に手を入れると、赤外線かを感ずるか、触れもせぬに何育もの蛭が一斉に頭を傾けて吸ひつかうとする。氣味悪いこと甚だし。昔は、この里近くにも大きい方の蛭がゐたさうだが、今は殆ど見られない。
 然し、白谷山など深山にはまだまだゐるよしにて、例の如く一斉に頭を傾け、吸ひかかって來るよし。

( 93 ) 大友の事

 数年前、薨りし中作市老人(84歳)に聞いたのであるが、狼に山野を人里を頻々として襲はれし頃、一定の群れをなして來るを、大友と云ひしよしなり。

( 94 ) 狼にかたげらるる話

 昔、子供を親たちがすかすに、「狼にかたげらるるぞ」と云ひたるよし。實際なる話なりと大伯父(東藤二郎、84歳没)が云ひたり。
 或る日のこと、一匹の狼が鹿の肢を己が首にふりかけ、運び去るを見たる由なり。

( 95 ) 狼の仔を捕らへし話

 明治5年頃、下葛川に安吉と云ふものあり。或る日、玉置山に詣で、帰途俗称ヨコウネを通行中、便意を催ししかば、山中に入り、用を足し居れり。ふと氣付くと何か幽にうなる声、それも仔獣の声らし。用すみて裏手を探し見るに狼の巣ありて、三匹の仔のみゐて、親は不在なりき。若し、親狼が來たらんにはと恐怖に堪へざるも、一匹だけとりて帰り、飼育してみんと思ひ、「仔を一匹貰ひ度いからどうぞ下され」と云ひ殘し、仔を抱きて後をも見ずに逃げ帰りたり。犬ども寄り付かず。或る日、當地第一のクロと云ふ猟犬を土間に呼び入れ、箱の中の狼の仔を出しやりたるに、大きな猛犬も吃驚仰天、遁れんとするも障子戸あり。必死の勢ひにて障子を破壊して、その犬逃げ去りしよし。
 後にこの狼は新宮方面に賣却されしと云ふ。

注-
・安吉-不詳
・ヨコウネ-玉置神社と花折塚の間の尾根(ウネ)道

( 96 ) 三國にまたがる聲やほととぎす

 プロペラ船ガールが、安政の大地震の節、墜落して出來たという辷り岩はもちろん出鱈目だ。また、三縣接触のあたり、
三國にまたがる聲やほととぎす
 と云ふ句がある旨説明するが、これは正確でない。むしろ「三縣に」がよろしい。國界から言へば、こちらは大和であり、向かふは両岸とも紀州領である。作者は30数年前三重県知事である島井烏水の詠んだもので、「三國に」と唄ったのがそのまま踏襲されて今日に至るなり。

( 97 ) 狼の喰ひ殘せし野獣の殘り物を人がとる、時には如如にせしか、及び生態に関して

 昔は、狼を日本武尊以來、非常に神秘視したり。恐ろしい乍らこれに畏服せるよし。また、助けられし話もあり。狼は明治33年吉野口方面で捕らへしを最後なりと言ふ。明治22、3年頃より急激に減少(一種ヂステンバーか。)、今は殆ど見る能はず。それ迄は徘徊し、唸りを上げて犬なども喰ひ、人々を縮み上がらせしものならん。然し、余尋常4年生の頃だが、日本狼の檻を見たる心地するあり。特徴は日本犬より稍大きく、痩せてゐ、さながら身軽さう。そして唯一の特徴は普通の毛の中に更に綿毛が密生してゐることであり、獲物を捕らへると眞先に蔵器を好んで喰ふよしなり。
 昔は、狼の殘せし猪の肉など黙ってとる事をしなかった。神通力のある相手だから、「どうぞ下され。ドコドコまで貰ひます。」と断ってから少し殘し、皮のみなれば振って見せ、とって帰ったと云ふことなり。竹の内大叔父に聞く。
 狼のことは、昭和5年頃、田辺南方熊楠先生に協力、博物学、稗史、説話、傳説、習慣、風習に関して取り調べたることあり。
 狼の項は、下記追って著述することにする。

注-
・葛川谷では、狼のことをオオカメ、カメ、又はヤマタロウと称し、狼の食い残しのことをカメグイと言い習わしている。
・最後の狼-文中では吉野口とあるが、実際は吉野郡旧小川村鷲家口の誤りである。

( 98 ) 大蟆に弄ばれし話

 下葛川の某(時は明治5年頃)、玉置山からの帰途、里近くの小原谷まで來る時、恰も黄昏に近し。雨上がりの道、ふと見ると道の眞ん中に2尺以上の大蟆悠然と控へゐたり。仰天せしも、落ち着く心と共に悪戯を試みたり。氣を取り直して携ふるところの杖にて、いきなり蟆の背を殴りつけたり。然るにその蟆はピョイと一間余り上り道へ跳び、自然体のままなり。そこで同人は寄り道して、もう一つ殴ったのであるが、またまた前方へ跳ぶ。さて、それから氣が変になり、これを繰り返すこと頻り、遂には片岡八郎の碑の辺りまで追ひて行く。蟆はいつしか姿を消したるも半狂乱となり、山包丁を抜きブンブン振り廻して上り來る。丁度折節、大字竹筒の某、石垣に腰を下ろして休みゐたり。これを見、驚き、さては氣狂か、又は何かにより精神錯乱せしにやと思ひ、幸ひ面識あるため、「お前何と云ふ馬鹿な眞似をするのか。何も居らぬではないか。しっかりせい。」と、怒鳴り付けしに顔面蒼白の同人は耳を貸さばこそ。いきなり、「おのれこそ、俺の知る人に化けたるに相違なし。」と、その男に切り付けたり。迷惑千万の竹筒人は、右に左に身をかはし、大声にて怒鳴り、漸くにして鎮静するを得たり。
 後で、その男は云ふ。「ああ、俺は如何したことか、あの時に杖の一打せなんだら良かったのである。徐々に神氣朦朧となり、洵にすまぬことをした。」とて彼に平謝りせしと云ふ。
 現在(昭31、6、10)では、こんな話も形勢が変わり、殆ど話がない。やはり文化の進展は否み難い。
 但し、今もって狐憑きやへんてこなマジナイ、曲解された弘法大師等々、てっとり早いインチキ又はイカサマの以て非なる信心は、なほ殘る。外國に比べ小百年もこの面では遅れてゐるのではないか。教義や信仰を押しつけることもあまり感心出來ないが、人を非常不明にすることは間違ひないと思ふ。

(昭31、6、11)

注-
・小原谷は、粉原と記すのが正しい。粉原平の誤りだろう。
・片岡八郎の碑とは、花折塚とも言う。

( 99 ) 白谷山中の動物の骸骨

 上葛川西同重馬老人から聞きたることなり。同人、若き頃など白谷山の深山に入るに、道の両側、眞ん中と云はず、鹿、猪、兎などの骸骨うず高くありしと云ふ。おこぼれを戴く他の肉食類もありしも、主人公はやはり狼に相違なかりしと云ふ。

注- ・西岡重馬-農業、金鵄勲章を持っていた。

( 100 ) 下北山村池の峯池と三度平助のこと

 下北山村字池の峯の池は、まことに神秘的に見え、昔より恐れられたり。余の幼時などはこの神秘消えず、なかなかのことなりき。山高きところ、周廻一里半に及ぶ。深きこと底の知れざる山巓の池、付近は杉の大木亭々として天空を磨く。大きなる鯉など盛んに池畔を遊泳す。これを獲れば神罰たちどころに至ると云ふ口碑ある故なり。
 但し、乞食はこの限りに非ずと云ふ。
 晝なお暗き眞っ青の水の面、雨降ると雖も水増さず。降らざると云ふも増すことあり。
 日露戦争の頃、池の中央に長さ一間余りの緋鯉浮きたりとて、人々大騒ぎせり。氣のききたる者、杉の梢に登り、双眼鏡にて見るに、緋鯉のみ縦列に集まりありたりと云ふ。池中に(つまり眞ん中に)木の葉一枚も浮かべず。触るる者なきため、朽ち果てて落ち込みたる樹片に苔の生え、草の生じたるもの、不思議ともアチコチ遊動するを見る。水面より見るに古來よりの巨木倒れ、池に横たはるを見る。
 同村池原部落は、その下にあり。また、道路通ず。他の三方は広き台地をなすも、池原に対する部分は極めて狭く数間なり。
 昔(大阪陣の頃)、三度平助と云ふ者あり。彼、この池を掘り抜きて水を落とし、池原村に損害を与へんとせり。鍬もて掘りにかかりしに眠くなり、そのまま熟睡せり。ふと氣付き見るに、鍬の柄古びてクサビラ生じゐたり。人々より聞くに三年間眠りしと云ふ。
 池畔に池の峯神社あり。宮司も寂しく、務むる人少なし。拝殿のあたりを窺ふに、昔、所謂調伏の丑の刻参りをせしか、釘の跡点々として多く見る。平助氣付きたるに白髪生じ、3年の夢□□□□□□の体にて醒めしは神罰によるなりと云ふ。
 この池の傍らを屍体通過の節は、大雷雨ありと云ひしを覚ゆ。
(昭31、6、12)
〔注〕  三度平助は二人の兄弟にして、この辺の豪族なり。兄を三蔵、弟を平助と言う。姓は平谷と云ふ。大阪陣の時、大野心を起こせる智力非凡の津久に加担し、後この役後帰國せる新宮浅野右近太夫に討伐せられたり。所謂北山一揆、津久一揆これなり。
 或る日のこと、兄弟この池の畔にて密談する内、黄昏となる。帰らんとするに怪しげなる白衣の老人現はれ出でて、歌ひて曰く、「三蔵、乎助さしたる刀、コヂリ三寸切りゃよかろ。」と云ひて去る。兄弟、「なるほど」と思ひ、刀長を縮めしに、豈計らん、却って新宮攻めも失敗、こと志とたがひ、遂に哀れな最後をとげしと云ふ。
 その内、この兄弟は魔所荒らしとて、新宮辺りまで出没し、巧みな健脚にもの云はせ、前の速玉神社の宝物など略奪せりと云ふ。これは、大阪夏の陣の頃なり。
 これよりも前にも魔所荒らしをやりし由。されど新宮丹鶴城の城主に捕らへられたり。□て死刑にせんとせしも當時にては大阪方の庇ふあり。涙をのんで右近太夫も放免せりと云ふ。何れは箸にも棒にもかからぬ荒らくれ男なりしならんと思ふ。

注- ・クサビラ-食用にならぬ雑茸の総称