( 181 ) 椎茸のこと

 椎茸は、昔の如く小道を登ったり下ったりした時代から、今も有力な財源に変はりない。山林の杉檜は徒らに地を求め、人手を煩はして何十年後の収入になる。昔のことを考へると之に精進した人々財を作り、山林をまとめ悠然としてをったもの、そして以下の人々も之を□ってゐたに違ひなく、利を得たに違ひない。
 (椎茸は)軽く肩にのり、山脈を縦走して大阪、堺に持ち出して賣る。価はよく、結構採算とれしものなり。栽培法も10年前辺りより改良され、菌を樫状の木に移して打ち込むもの、液状にして注入するもの、自然の関係と榾(ホタ)の堆み方など、大分進歩してゐる。全國でもなかなか盛んであり、静岡県、群馬県、宮崎県、和歌山県その他、大量生産されるに至った。
 

( 182 ) 持ちのこと、つまり荷持ちのこと

 明治42年頃より漸次薄れ行きしも、負子(オイコ)を背にして何物によらず人力にて荷を運ぶを云ふ。當時、當地にて木材を業とする人にとりて重宝の人を云ふ。力も強く体力あり。之を今考へると如何なる訳か、或いは社會的理由か、今の広島や作州辺より多く入り來たれるものなり。土地の女と婚して土着したものもあり。下北山村あたりもたくさんありしを覚えてゐる。幼時~少年頃最も記憶に残る最後の人は「作州」と云ふ老ひし人なりき、以後はほとんどなくなって了った。

( 183 ) 殿井隆興

 少なくとも北越戦爭と云ふ維新の頃の内乱を顧みるとき、その歴史の一片にこの殿井氏の名は永久に現はるるであらう。然も尚我は之を感激すべき訳は此の人、我の有する地、あの向井山に生まれた人であることである。知る人今は数もないであらう。
 向井山は、あんな草深い當時としては猪の道の如き通路しかなく、それが木津呂辺まで通じ、船の便も悪く、里人も貧人、見捨てられしやうな九州の果ての孤島くらいに寂しい場所であったに違ひない。また、そこは穀物もあまり穫れず、水さへ不足し碌なことは有り得ず、わづかに四季のうつろひの慰めあるばかりであったらう。
 また、殿井氏は宗軒(ソウケン)と云ふ医師の児であるが、よくも生活できたものである。然し、ここで考へられるのは宗軒もただの人でなかったこと、学問のあった人と考へることが出來る。殿井氏が後年、東京で死没するまでのこの人の歴史を知ると自づから分かる。我々は、あの頃あの状態の生活の中からこんな先輩を出してゐたのである。
 然らば、果たして今は意志も身体も行動も同人と比して如何。負けてはならない。丁度、軍人の彼でなく、何人でもなり。
 北越戦爭嚮導官として、よく戦ひ、功により當時600円を給ひしと記録さる。十津川人は、その頃100入内外戦死してゐる。台湾征伐、西南の役、日清、日露に從軍し、陸軍大佐となり、長寿を得て東京に物故したと云ふ。詳しくは村史にもあり。
 今でも向井山に殿井の名の墓あり。戦時中、孫になる人、□隊長が一度訪れしことあり。
 大字東中(葛川上流)へ殿井家または家人の中で移轉したることあるか、この地に殿井屋敷あり。肉桂の大木あるところを考へると、医師を業とせるもの、その地に在りしなるべし。

(34、2、28)

注- ・「詳しくは村史に……」とあるが、本村に通史ともいうべきものは存在しない。ここで言うのは、西田正俊著「十津川郷」(昭和7年刊)のことであろう。尚、この著書の中で父宗軒の名は、桑軒となっている。

( 184 ) 長袖の屋敷のこと

 今、我の所有となってゐる田中屋敷は、傳へによると「長袖の屋敷」との云傳へあり。玉置氏あたり來しものか、木地屋か、何れにしてもこの種の人が昔來たり、土地を得て土着したものらしい。
 之を田戸に結び付けて考へると、いろいろなことが云へる。大塔の宮の昔に遡り、ほんの小家屋の半農半林の者で、長袖らしく振る舞ってゐたものがあったか。またはもっと以前、源平隆亡の頃よりありしか。大体田戸ムラの中央に位置してゐる。

( 185 ) 田戸の地名につきて

 奈良県の地名研究所も恐らくこれは判り難いから、我久しく之を考へ案じたり。周囲の地名は、何れも維新時のとき、頭と尾をついだり、地形上より、地位上より、また権力者の影響、文化的になど、それぞれ合点させられる。然るに遅く開けた田戸、この名称は誠に解釈に苦しむなり。田も、ずっと後に小さなもの二枚だけのところ。奥(上葛川方面)にも格別の米の産地なきに、田戸と云ふ地名である。
 三重県側に十津川村と同名の地名がある。例へば平谷、小森、大野、片川、七色などあるは多分政治的で、大塔宮時代より始まるか。西牟婁郡近露村の野長瀬(太平記に出づ)家の末の300年以後の関連を見ても分かる。
 木津呂は狐野、玉置口は玉置より、有蔵すら玉置山と関はりあり。九重は「ここのへ」、竹筒は「竹の花筒」、また百夜月の傳説、花井は「はなの井戸」等、誠に雅な名あり。清盛の父、平家全盛の頃、三十三間堂棟木の奉行として來たり。宮井、九重、楊枝のあたり、川向ふの貝持ちのあたり、いろいろ傳説のゆかしさを殘す。なお三十三間堂棟木の傳説の由來で、お柳と云ふ柳の精と兵太郎の哀しい恋は唄ひや芝居に、昔より現はれてゐる。
 文も武も知る名高い薩摩守忠度は九重の豪族との間の生まれと云ふ。戦場に出で立つとき引き返して來たり。知人の公卿に、「この歌の中より是非一首、良き歌あらば新古今集に加へてよ」と、去った。鎌倉武士の粗野ぶりを笑はしめたと云ふ。
   ささなみや志賀の都は阿れにしを
          むかし乍らの山櫻かな          が、今に残る。
 田戸は、いっこう浮かび上らぬ。元々、寺の一つもない寂しいままで通し、瀞の清流、急崖世に出るまでは草深いところ、何の由か、地名の來し方は不明である。ドロと云ふものあり。ドロ(トロ=淵)の多いところ、多淵、(タトロ)かとこじつけてみたりした。全國に三ケ所あると云ふドロ、瀞は日本文字。(しかもこの瀞の字はいつからつけられしか、それまではトロ、ドロ、とろ八丁、また土呂などと書かれしらしいが、之は我の研究の証拠により天保四年、眞のどろ見物として草鞋がけで來た新宮藩の鳥井塾生により初めて瀞の字が用ひられた)
 偶然と云ふか、昨夏のこと、突然神奈川県の田戸宗内と云ふ人來り。私は平家であり、近所はみな源氏、田戸と云ふ奇妙な地名を聞き、懐かしく聞きに上ったとのこと後で手紙で返事する旨して、我の考へを書き送った。
 之によって案外分かり掛けてきた。維盛系の一族子孫は、那智沖で維盛入水と見せかけて眞は色川衆と云ふ一団の者に助けられ、色川藤棚の嶮によりしばし憩ひて、本宮より十津川筋に進出、社家として地方権力ヘ移動したこと、また維盛は高野十津川に入り、今の護摩壇山にて護摩の占いで源氏に負けることを観念し、附近に土着したり。血筋から云ふと今の三里の清水家と云ふ。我一族も相當の名家(平氏)として、昔誇ったらしい。
 然るに、一方平資盛(織田の祖)も東方より來たらしい。玉置山はかなり重要な大信仰の中心であったらしく、我一度それらの古文書に見たことがある。非常に厚遇受けし如く、「玉置山へは足を向けて寝るな、大恩あり。」後、十津川の神納川に至りて勢力を作る。現に小松の姓、政所(マンドコロ)に鹿切丸の刀、傳へ殘る。(この刀は川向かふの鹿の首を此の方まで斬り落とした傳説あり。)足利時代、信州より永池信濃守が玉置の荘司として來たことを、その末裔なる尾呂志の陣屋の裔より、我聞く。また三山の記もありしに、惜しくも83歳のその人没後之を失ふ。寛文年中の古書にも(我が家の)社領1500石とあり。秀吉の検地棹入れ石高調査の時、小掘数馬十津川を1000石とし、由來に免じて返されしと聞く。されば十津川村玉置神領は非常に大きかりし。少なくとも風傳峠(尾呂志)よりこちら田長の地で發見されし碑に、「從之以北十津川領」とあると云ふ。今の如く土地が減ったのは北山一揆の後であらう。
 資料はなけれど、田戸と云ふは前記の如く田戸の姓(子孫も今ある)を有したる平氏の一党の栄えしことあるらし。政治的な関係、その田戸姓の現存、そして又亡父が古老より聞き伝へし「田戸は平家らしい」の一言も仇にはすまじ。史を按ずるに源氏は征夷大将軍の専賣であるが、源平交替の歴史であることを思ふ。

注-
・風傳峠、田長はいずれも現在三重県にある地名である。
・北山一揆については、別項の記事を参照されたい。

( 186 ) 絶滅の日本狼より先に滅亡したタクラタ

 狼の遺体は明治38年吉野鷲家口にて英人の手に入りしを最後として消えてしまった。それより15~6年前まで相當神獣視され、恐れられし色々の傳説まで殘し(政治に利用されし)、食糧の関係か、流行病によるか、急に少なく、遂には滅亡の域に達した。然し、余、南方先生の指示により秩父宮出入の日本狼の研究家『動物文学』の主幹に寄せし多くの例を古今を問はず投稿せしあり。旧きことは正しく、新しきことは多分嘘多かりしなり。判断に迷ふあり。また狼の存在そのものが神秘化され、政治化され、個々の秘密とせるあり。その内、一番眞實感あり新しくありしは、津の高等農林教授の報告にて、伯母峯付近の二家に伝わるものだが、悪魔払ひとして用ひし漆塗りの狼の牙(下顎)と称するものを今に持つと云ふ。二家には、狼の骨格や剥製はないやうだ。また、教授の夜の伯母峯越えの経験談は、狼の存在を感じさせるものならん。
 然るに狼より一世紀も前に姿を消したタクラタと云ふものあり。大きさ熊の如く、山小屋の冬、焚き火の辺りへ人のゐるも意とせず入り來る。温まってのち山に帰る。人々之を害さずと。タクラタは誇張されて伝承されておるが、存在せしは確實なるもジャコウネズミの一種にして、徳川時代の書に見ると云ふ。これは南方先生の言なりし。アホーのタクラタと云はれ、愛嬌ある小動物なりしならん。3回あまり他地方の古老より傳へを聞きしことあり。万象は流轉す。今にそれぞれ姿を消すものあらん。

( 187 ) 猫叉の話

 折立よりこの葛川への途、折立の大谷に猫叉と云ふ處あり。徒然草の中にも怪物猫叉と云ふ条あり。また、現に工事中の富山の黒部峡谷にも、猫叉と云ふところあるらし。何の故にか昔は恐れられしものなり。

( 188 ) 北山川上流Y家の勢力

 140年も前のことならん。現在の三重県側に非常に勢力ある人あり。(今も財産家)。ある夜のこと、「俺はシビ喰い度うなった」と云へば、傍らの若人は「ヨシ」と二つ返事で徒歩して木之本に至りて一番ドリ(鶏)の鳴くころ帰りしと云ふ。また妾など具して川遊びせしも、山林の植え込みにも努力家で、彼の穿ちし草履を狼が咬へて送って來たと云ふ。但し、これも宣傳と思ふが、とにかく勢力ありしと云ふ。
 また絶対の権力をふるい、ある時12~3歳の三郎が、正月の鏡餅を盗んだとて怒り、簀巻にして川へ投じ殺せしと云ふ。溺死の多いことを之の祟りとなす。土俗に云へり。一方では節約の経済観を有して下民を睥睨したものであらう。

注- ・重複記事である。

( 189 ) 狼、獲物を襲ひ喰ふ様を聞く

 猫はネズミを喰ふ際、胃のみ殘して他をすべて喰ふ。狼は、獲物の筋肉よりも先づ内蔵を喰ひ胃の内容は不喰し放置してありよし、と聞く。

( 190 ) クサギ(臭木)の虫

 今もあるか、我等幼時、クサギの木に穴を穿ちてあるカミキリの幼虫の小指住もあるのを焙りて、疳の薬として喰はせられし。この木の新芽を摘み煮て干し、大豆などと炊きて食す。
注-クサギは独特の臭いがあるため「臭木」と呼ばれるが、クマツヅラ科で8~9月頃、がくの赤色と対照的な白い花が咲き、香りも良い。果実は秋に青い実をつけるが、これも赤色のがくに対照的で美しい。春の若葉は山菜として茹でて保存される。文中のカミキリの幼虫は、一般に「クサギの虫」とよばれ、疳の虫に効くと言われた。香ばしい味のするものである。私たちの祖先が、蛋白源の一つとして虫類も食していた証が、このような形で伝承されたものと思われる。