( 151 ) 「籠の鳥」の田戸盆踊りにつき

 我ら若きとき、満州事変前頃か、世は不景氣の最中、思想的にも動揺の頃、この唄流行したり。
 我ふと思ひ付き、提唱してこれを歌詞として人々の協力を得て踊りをなす。今氣付きしに、やはり毎度の盆に踊られてると云ふ。ラフカディオハーンのみでなく、民衆の喜怒哀樂や権者の行動なりは、祭りや踊りに殘されていく。人は如何とも盆踊りは、そのまま受け継がれて殘ってゆく。大小こそあれ一つの文化であり、確かに喜ぶべき人の習性である。起源もまるでないものか。かくて今あるとは洵に考へるべきで、心の遺産として、その歌詞と何時まで続くだらう。

( 152 ) 士族の株

 明治の末期頃、まだまだ封建的郷愁あり。また、執着ありしか。分家すると大抵士族であっても平民となる。よって同姓の者へ養子の形式にて、その家に戸籍上入る。その家は金を得て終わる。東中の福井清重(大分県下の郡長をした人)老人も同様にして士族となりし由。また、我父に対して同様の話を持ち掛し人ありしも父は断りたり。

注- ・福井清重-千葉貞幹が大分県令になり、その引き立てで同県の郡長になった。

( 153 ) 強力の人-木津呂の岩吉のこと

 明治30年、40年頃のことか、木津呂に向井岩吉と云ふ男あり。宮井の瀬を強力を發揮して十津川舟を助けた話。當地でも、その頃九重で米2俵(32〆)を買ひ、オコにて担ぎ來たり。玉置口の渡し舟の中で休みもせず話し、帰宅せしと云ひ、また筏乗り専門の彼が先床に乗ると沈んだと云ふ。筏を淺瀬にかけし時は一人で樂々と離し、2~3名の同様労務者を易々として救へりと云ふ。年の内、暖かければ褌一つ裸にて常に櫂を担じて我が店の前を通り、酒好きなれば立ち寄り、全部の金を出して払へりと云ふ。そして、常に曰く、「櫂をもった乞食はないが筆を持った乞食がある」と云ひしよし、父より聞く。

注-
・「櫂を持った乞食は來んけど、書物をせったろうたこじきがござる」(せったろう=背負うの意)
・地名の読み方 木津呂(キズロ) 宮井(ミヤイ) 九重(クジュウ) 玉置口(タマイグチ)
・オコ(体の前後に荷物を担ぐときに使用する棒のこと。)

( 154 ) 田戸の歌之助と云ふ小人のこと

 その頃、伊丹(イタミ)とて、良質の杉の部分を酒樽とし、それを丸又は樽丸と云ひ、四斗樽位の太さに竹の輪をはめ、「赤」「内赤」「蓋」などを作り、移出したり。田戸に歌之助と云ふ小人あり。但し、クレチニスムスに非で均整ありしと云ふが、僅かの四斗樽の高さを作るにも、常に台を置いて上り、槌で叩いてゐたと云ふ。今は酒樽も移出なく、ガラス瓶となりゆき、昔の面影は見ること能はず。生々流転の様はここにも見らるるなり。その人、妻ありと聞きしも今何処へ失せしや。暗黒の過去へと消えてしまった。

(34年2月6日)

( 155 ) 幻燈をはじめて見たこと

 我等子供の頃、学校も随分今と違ふ。三大字で先生3人、本校の君島先生のみ歌もオルガンそして大体理科の実験もやった。分校の我等の組も上葛川の組も前段階の先生で、校長不在の時など音痴で不器用な先生(老人)は、鍵盤上に朱を用ひて「君が代」などの音譜を書き、歌ひ出せばチンプンカンプン、そして終わりのみ歌らしくしたものであった。通知簿の配布は教育勅語に始まり、まるで軍人の勅諭の如く、起立して読まされしもの。式日には御眞影を拝し、(それから)読み方、書き方、綴り方、算術、理科、5~6年にて地理、歴史、図画であった。初年は教材の赤、青、黄、緑の玉を用ひ、又は桃などの札を針金にかけて教はりしものなり。而し、老人のこと故住室に冬の如きは籠もりて、(授業が)終わる頃出て來りしものなり。然し、確かに家庭的で、よく病氣などの時は保護してくれ、家庭へもよく來てくれしものであった。薪も大渡の我が製材所へ先生も生徒も取りにいったものである。また、アメノウオ釣りの先生を見たり。耳漏(ミミダレ)の子は、よくこの魚の脂を耳に入れてもらってゐた。垣野先生は、釣りの帰りに蝮(マムシ)に咬まれてから良くなく、高血圧の為、卒中を起こして死去された。放課後、よく連れられて家へ帰ったことを覚えてゐる。
 ある時のこと、神下の父兄を交へて我々も幻燈を見に大杉へ夜をかけて行ったことがある。君島先生はオルガンを弾き、スライドとは全く異にするガラス板(約3寸)に色で画いたものをランプの光で寫し、喜んだものなり。その内容は何であるか、ほぼ分かると云ふ次第であった。

( 156 ) 煙草と當地熊野地方の喫み方

 巻き煙草、刻みと云ふものがあるにはあったが、ここ20年頃は専ら(主として男)煙管(金属管と作製があった)で喫む傍ら、椿の葉を第一として樫の葉など用ひたり。火に焙りたるを良しとして、円錐状に丸めて漏斗の部へ刻めるを詰めて火を点じ、反対側より之を喫む。歯黒くなり、唇同じくなるも、一種の味ありて、母は専ら用ひたり。
 熊野地やキセルなくとも須磨の浦
 若葉くわええて口は敦盛
との歌あり。

注- ・『熊野地や……』を『十津川や……』と言う人もあったそうだ。

( 157 ) 燈火の移り変はり

 昔は、燈台と云ひ、鉄の台を中空に支へ、予め松を割って置き、漸次投入して灯としたり。石油入り來たるも、明治20年まではカンテラと芯となるものを、ブリキ作りのツボに入れ、火を点じて生の火を得るなど混合したり。
 ランプ入り來たりし時(つまりその後)珍しく、我は三里村にて、弁當持ちにて見物に行きし話聞く。
 行灯(アンドン)、つまり細き木を組みて、高さ2~3尺に作り上部は紙を周りに貼り、油を入れし皿を紙洞の中央に置き、燈芯(植物の芯を取り出したる)を2~3条油の皿に端三分ばかり出して火を点ずるものなり。時々、芯を出す要あり。之は、我幼児まで使はれしもので、よく知ってゐる。江州商人の手本、勤倹力行のこと、修身書内容にありしも燈芯のことなり。
 ランプを脱し電灯にてんやわんやなりし昭和24年頃までは、松明と提灯、和蝋を用ひしなるべし。
 明治28、9年頃、パラピンロウのものの蝋燭が入り、少し明るく、芯も切る必要なくなれり。定紋入り弓張提灯、ブラブラ提灯、畳み提灯とて薄く畳み、蝋燭を入れたる筒と連なりて、夜道を案配して出來たるものあり。之は徳川時代よりありしものなり。
 次ぎに誤魔化しに似たるものと云ふか、オモチャ的な提灯入り來たり、一進一退現今のものに至る。この間、電池に変はり、提灯に替はりて、懐中電灯が家庭、工事、夜の旅、漁用として使用されるようになったけれども、提灯は戦中も今も重宝されて使はれている。夜の会合にも提灯は便利なものである。
 極めて少なかりしも故福井大尉は、昭和11年頃よりマントルによるガソリン燈、次いで小生大戦始まるや、ガソリンより石油のマントルによる燈火を用ひたり。
 我小学校の4~5年頃、新宮・那智・勝浦あたり旅行す。老先生の説明にて初めて電灯を見る。効率の悪い熱いばかりの電灯でも随分珍しかりき。大エジソンの澄明になる炭素線なりし。よくもこの失ふエネルギーを無視して採算も得たりやと思ふ。
 旧態の松明は特殊な意を持つものであらう。(松明は人の行動を夜に律する)ランプまで、アセチレンまでは竹の筒に石油を入れ松明の代はりとせり。また、我の製材工場にてもブリキにて作る二本の灯先を具へしものを、夜使用せるを覚えてゐる。

( 158 ) 日本刀のこと

 十津川村は、由緒を以て昔は大抵士族であり、我等の時代も分家は別として本家のみ士族と云ひ、平民の分家を区別してゐた。そして分家もその氣位を奉じて、本家は勿論、大抵は日本刀を(魂としてはともかく)蔵してゐた。然るに昭和20年敗戦となり、マッカーサーが最高司令官として來るや、先づ天皇を神秘の座より下ろし、寫眞を撮り、天皇より一切の権力を取り上げ、主権在民とし、天皇も一人の人間として了ひ、財閥は解体、警察は國と地方自治体の二本立てとし、学校も政治も全て変革されて了ひ、日本無力化に精進したものである。故に皇室と関係ありとする國教神道も政治と完全に断たれて了ひ、哀れな虫の息の状態にして了った。熊沢天皇など(昨年まで28人)キャノン機関等取り上げて、現皇室を疑はしめ、用なくなれば折角正統として京都へ出た熊沢を捨てて顧みない。
 そして日本を徹底的に潰さうと、骨董的な刀剱を取り上げて所持することを非合法化して了った。各家を捜索する日本の警察官より飛行機から刀剱の隠し場所を探知することができるなどと脅迫して、取り上げた日本刀は莫大であった。いいかげんなものもあったであらうが、中には指定・保存の価値あるものもあったことと思ふ。見事な戦利品として、記念品として本国に持ちかへったアメリカ兵達は、恐らく壁掛けなどにして錆びさせしまってゐることだらう。
 アメリカは、つまらぬことをしたものである。自動小銃の威力で軍國主義を根こそぎにしてしまふつもりであったに違ひない。然るに今は如何か。ソ連に対する防波堤として日本に軍備を盛んに押しつけてゐる。馬鹿げたものだ。
 葛川中田家の葵下坂(アオイシモサカ)は新刀なるも見事な美術品。浦地の正宗の父製作の刀、我の分を云ふと備前景光。母の実家が新宮藩からもらったものと云ふ康光の鎧通し、義弘の作と云ふ松皮肌の刀、肥前の忠吉を思はす見事な、誤魔化しのきかぬ眞っ直ぐの糸焼刃。今の金にしてざっと120万もするものも、すっかりなくなり雲散鳥没して了った。
 今の状態を見ると、骨董屋が麗々しく美術商と銘打って数少ない刀剱のなかを泳ぎ廻って儲けてゐる。皮肉なものなり。

注-
・中田家-上葛川、中作市家の分家の屋号。
・母の実家-紀州三里村一本松の音無家。

( 159 ) 我等小学校時代の風俗-明治44年~大正2~5年頃

 涼しき折りはアヤのボタン、時にはガラスボタンを用ひたるシャツー衣のシマや絣の著物に布相當の帯、雨は大抵から傘。サルマタはなし。冬は袷り下にシャツ、メリヤスもありし。何れも筒袖のハンチャと云ふものをかけ、タオルなど頬かむり。教科書は風呂敷にて巻き、斜めに肩に負ふ。一枚手袋、木綿の軍手、しかし、これはあまり甲ひず、懐手。女の児も同様なるも、やや女の児らしく色を添ふ。そして(女の児は)オコシもしたり。弁當は、もう一つの風呂敷にて負ふか、本と一緒に持つ。鞄など稀なり。紅葉の如き手を凍らせて雪と遊んだり、何か話をしたり、度々谷の水を堰き止めたり、春にはフキトウの茎を切り、水車の如く水にかけて遊んだり。
 悪戯して柿を採ってみたり、叱られたり、時には魚賣りをからかひて叱られたり、炭焼き小屋に石を投げて(大して意味なし)叱られたり。絶対に女の児とは離れ、それは学校の登校路も然り。女の児をいぢめたり、互いに喧嘩したり、中には障子紙に穴を開けて先生一家を覗いて叱られたりした。
 履物は、草履がほとんど。冬、専賣と称する黒、紺のメリケンもの、つま先につきたるを穿ちてはく。雪の日など、特に雪溶けの時は、ベタベタジトジトして冷たくなりしを、そのまま教室にゐるあり。大火鉢にて焙るあり。(父に聞く、後年財をなした東中の島本正男氏は足袋を焼いて泣いてゐたと云ふ)オルガンをさわりたかったものである。
 夏は下駄又は下駄の上に草履を打って、冬も履き、雪の日も履き、雨の日も然り。
 アケビ、寄生植物のカラスの継ぎ木の實など秋には喰ひしものなり。桜の實の甘いものは勿論、サセンボーの實を喰ったりしてゐた。今でも覚えている「キモトリ」の恐怖心、身近く迫る。根拠なくも人の悪戯声にも驚き、眞顔になって坂道を逃げ、山の中へまくれ込みし女児もありし。学校では体操の外、遊戯は二組に分かれ、グラウンドの相対位置のなるべく離れしところに半円の筋をつけて城として、出でしは互ひに体をたたく。たたかれしは負け、多く殘るは勝ち。そして木材とかを用ひ、ゴリラのやうなる竹の交じる杉林の中に城を作って、遊んだりしたものである。これらは大体男の児の遊びであった。
 女の児の遊びにマリツキ(眞綿に糸をかがった毬かゴム毬)。また、手をつないで輪となり、輪の中に目隠しした鬼一人を置き、唱歌を歌ひてグルグル廻り、歌ひ終わりて静止すると、鬼が自分の眞後ろの輪の中の人の名を當てる。名を當てられると鬼に代はると云ふ遊びでオニトリと云った。そのマリツキ歌の中には、かなり昔の文化と云ふか、民俗と云ふもののあることと今思ふ。
〔歌〕
 時計が鳴った 起きよ子供よ もう夜が明けた 包み抱へて をくれぬように~ 歌の出發は、主として(田戸の)下より始まる。浦地、そして我。それから(田戸の)上へ、道場(クラブ)の辺りで上へ大声で呼ぶ。出て來る。來ない時は道場に寄って屋根裏で待って(学校へ)行く。忠臣蔵の流行の時、北村信市の提唱で紙に書いた大石親子はじめ義士の名を襟につけて道中討ち入りの眞似をしたものである。
 その時分、日露戦争から尾を引きし廢兵院が組織的となり、全國的に紺色の詰襟服とオーバーを着し、帽子もきちんと被った制服姿で藥の入った鞄を肩より下げ、手風琴を鳴らして、「オイッチニの藥を買ひ給へ」など、特に冬の日など、そのエキゾチックな(我々にはそう見えた)歌を長く引いて行くのは風情もあった。
 浦地の令兄から送り來たりしとて、我浦地にて初めて森永キャラメルを口にせり。そして直晴氏が兄から送られし『少年世界』と云ふ雑誌あり。珍しく見たものなり。飛行機の初めて登場した頃で、第一次世界大戦のこと多く載り、双六もあり。我も欲しく、遂に『日本少年』を注文しもらひしを覚えてゐる。
 弁當の内容は、主として麦飯または米飯。菜は梅干し、タカナ、小魚、。卵や蒲鉾は少なかった。驚くべきは犬コロの頭ほどの握り飯を梅干し(日の丸)で喰ひたり。(焼きたるのもありき。これは飯の質を失せじと親が考へたるか)ナンバや芋の人、又はお粥を絞りとり、粥の米の部分のみをこして詰めたるあり。容器は大抵檜の薄片を曲げて、漆に赤、青を混ぜて塗りたるを用ひ、行李など少なかりき。
 昼のお茶の準備は、大抵女児の役目。湯飲を出して最初ついでもらってゐた。
 書きたくも、限りなき思ひ出なり。

注- ・カラスの継ぎ木-主に松に付くヤドリギをこう言った。
・サセンボ-汁の出る甘酸っぱい実のなるもの
・キモトリ-小さい頃に、「早く帰らんとキモトリが來るぞ」と言って脅された。人間、特に子供のキモを取りに來ると言われた。
・北村信市氏-田戸北村源吉老の孫で餓鬼大将だった。後、石垣積み専門の石屋(石工)になった。
・浦地の令兄-東直晴氏の兄重治氏、昭和40年死去。

( 160 ) 再びカンテラと石油の椿事

 我7歳の頃は原油の分離は十分ならざりしか。上葛川の山奥にてカンテラの油爆發して、一人火傷して死せりと云ひし。その様哀れなるも又おかしく(文化度を知れ)、青年がこれを芝居としたりと。西岡重馬老人云へるを覚えてゐる。

(昭和34年2月10日)