( 81 ) 熊野と云ふこと

 「御伊勢七度、熊野へ三度び」云々、古より唄はれ、平安朝前後より格別朝廷堂上の信仰厚かりし。この熊野と云ふは、果たして何処の区域を指して云ふのだろう。書物にもあらうが、あまりピンと來ぬ。余、確証もないが大体において、次の部分を云ふのではないかと思ふ。先ず、東方は尾鷲近傍から西は田辺あたり、北は玉置山の辺りではないかと思ふ。

( 82 ) 當地、高壓電流にての鰻とりの初め

 之は断然、余である。今でも寫眞あり。新聞を見てゐると宇治川にて某が何か利用して川魚を捕ってゐる。巡査が之を見、検分せしに毒にはあらで、電氣を利しての事であった。處罰する訳には参らぬ。空しく帰ったと云ふ。
 そこで余も苦心の末、感應コイルにて之を作り、凹凸のない平凡な川中の一石に之を通じたるに、大いなる鰻二匹飛び出し、思ひがけないことに驚いたものであった。中学二年の夏休みも終わり、田辺に帰ったが(電流利用の鰻とりは)、間もなく世の中に現れ、北山方面にては1日30〆も捕ったと云ふ。然しこれは間もなく使用禁止となってしまった。

( 83 ) むささびの事

 昭和5年頃、ビルマにて死せる弟瀞六、瀞切目屋山にて木を倒せしに、バンドリの巣あり。親は逃げ去りしに、たった一尾の仔は動く能はず。彼、手袋に入れて持ちて帰る。まだ眼も充分見えぬらしい。
 巣を作ってやり、お粥、煎餅、樫の葉その他、餌に非常に苦心して、やっと育てたり。バンドリに貮種ありと云ふ。頬のあたり八字型に白毛あるものと、然らざるものとあり。余の飼育したるはこの白線ある小柄なもの、又はモモンガと云はれる方である。
 2年余飼育して、その生態、習性、解剖的な面より色々と發見せり。詳細は、東京目黒白日荘の動物文学なる雑誌に子細に掲載しあるにつき、ここにはその大要を止め置く。
 この當時、否現在にても大分誤解されてゐるに違ひない。凡そ書物などに見える図は全然嘘であること。あの短冊型の翅膜では果たして飛べそうもない。空中滑走であり、身軽と云へど適應変形したる獣に違ひない。
 ああ云ふ状態ではとても滑走出來さうにない。死体を机上に置いて膜を広げて見る丈ではなかなかのことで、なかなか本性を現すものでない。高速度シネマに生きた奴を寫すか、これも一寸できぬ。バンドリ自身の意志によりて開帳せねばならぬ。結局は嘘の繪と云ふことで甘んじてゐる。
 然し真理は真理である。眞實を知らねばならぬ。絵で見ると腕関節より後肢へ膜が張ってゐるのである。
 もう少し探究せねばならぬ。苦心惨憺の末に、私はたうたう次の發見をした。
 (1)バンドリの尾をつかみ、ぶら下げる。すると、本能的に膜を広げる。短冊型でなく、ほとんど座蒲団の如し。正四角に近い開き方で實に緊張、見事に開き、形を崩さない。
 (2)尻尾はほとんど体長ほどあるが、雨の日には、これを頭上にまでかざすと云ふ。これはともかくとして余の實験では一寸洒落たことをする。つまり、お粥などで口辺を汚した場合は止まり木に静止せるのち、尾を腹部を通して取り上げ、ハンカチ代わりに口を拭く。
 (3)尚、後肢の指は5本あるも、前肢の分は4本なり。残りの1本は如何にしたるか調べて見る。膜の前肢端は腕関節にはあらで小指に相当する。稍々長く変形せる(小指以上に変形せる)ものに附着し居れり。後肢は足関節である。故に彼自身、膜を開けば(指を開けば)、各指を越えて小指が突き出し、緊張したる翅膜を張ることが出來る。飛ばない時は膜は弛み、変形せる小指は腕関節の方へ膜の部分と逆に折れ返ってしまふ。なかなか人の力で彼の心に反しては、膜は開かぬ。
 (4)絶対に間食はせないらしい。樫の葉、杉の若芽など大好物である。お粥、煎餅の如きものは食べる。若し余計な食物を与へると下痢を起こす。面白いことには、こんな時、庭に放り出して置くと必ずタンニン等を含む渋柿の葉などを喰ふ。
 (5)この類は噛み切る恐るべき歯を有する。然し家内はよく知ってゐ、絶対に噛まない。巣の中にゐると雖も他人はよく知り、変な唸り声を出す。さはるといきなり噛みつく。
 (6)名前を聞き分ける。例へば、「バンよ」と呼ぶと鼻を鳴らし、巣を出してやると私のとこへ飛んで來、懐に入ったなど大騒ぎである。
 (7)布団の中に入れ、その上より押さへる。なかなか押さへることが出來ない。
 (8)困ったことは、高いところに登りたがる癖あり。色々なものを落とす。次に爪が猫の如く隠れないこと。
 (9)手に掴み、中天高く放り上げる。忽ち安定して降りて來る。そして暗い所を目掛けて走り込む。
 (10)険阻な地の大抵は生木の木洞に杉の柔らかい皮を入れて巣を作っている。
 (11)夜、ライト(その前まずコツンと木を叩く。何べんもやればよろしからず)を照らせば、穴から顔を出してじっと見てゐるらしい故、捕られ易いのである。
 (12)小便はかなり出す。大便は山羊糞の如く、丸薬の如し。(1)(2)(3)は、絶対に余の發見せるものなり。これを紙上に発表後、まず文部省の画家はじめ、見知らぬ人々より文通あり。大いに開明を謝し、動物の見方も今後は是非貴下の如く致したい、又その他色々質問あり。喜んで戴いたのである。
 (13)小学校四年生と云ふ雑誌にもバンドリの繪があるが、これも嘘である。

注- 切目屋山 田戸の対岸、山彦橋にさしかかる坂の上

( 84 ) 維新當時の落人

 この頃の特徴は、落人と云ふも、大体学者(世に容れられざる)又は、医師(学者と通ず)の落人多く來たりて、中には尾羽打枯した乞食同然のものもあり。例えば、葛川島本盛吉老医の父(義理の父)たる石川玄龍の如き、又玉置川の正式なる医師玉置英隆氏の父の如き。然しこれは天職であるが故に、鄙びた當地にては要望されて土着せしなり。
 単なる学者のみでは生活にも窮し、寺子屋式の仕事よりなし。然るに感心すべきは武蔵より來れる高橋管次と云ふ学者、本家の与平治老の肝入りにて後妻も貰ひやり、弟子として東辰二郎、友吉外杉岡直吉、東藤二郎など教へを受けたり。有ったとて貧乏暇なしの折り、我が祖父はその頃已に山にてコッパタにケシズミにてローマ字を稽古、米入れる袋なく、バッチの端を括り之に代ゆなどの折、又与平治も頑固一遍の老人なりて一番広い麦畑、14歳で唯一人打ち、振り返へれば、初め蒔きたる麦青々してゐたりと云ふ。その他貧にまつはる話、数々。仏の御供(麦飯の内より僅かにとる)の飯を父ら子供のころ取り合ひしたりと云ふ所において、此の学者(哀れむべき)を世話し、苦にゐても教育の事を考へし如き、昔の人と雖も単に片付け難き一種不滅の哲理さへ窺ひ知ることが出來る。現に上田の墓には弟子どもの建てし一基の墓碑あり。又、苦しき生活の内にも昔の人は努めて余裕ある人生、落ち着いた人情を考へしものか。今に上田には浄瑠璃三味線ありたり。そして台本もありたり。人集ひて之を樂しみ、人生樂しみ得たに違ひなし。尚、納屋の屑箱を調ベるに、我の祖父、曾祖父、大叔父などの歌、文字、繪の事、作文など實に多く見る。特に明治20何年に死せし勘三郎は、よほどリーダー一巻欲しかりと見え、やっと望み叶ふや、「我この書物を得んとすること久し。今漸くにして入手するを得たり。この嬉しさ、何にたとふべき。手の舞ひ、足の踏む所をしらず」と、あり。現在の賣り喰ひと不勉強と小さな個人的なコスイ考へよりない、能のないくせに私利のみ窺ふだけの人間、文明の利器を求むるにも祖先の山にて購ふて恬然たり。人には誠意なく口先のみ、見下げ又は乞ふと云ふ、むしろ退嬰的である。
 何故に現代人たらんとせば、之に時流の波にのり、ついて行かぬか。勿論、本質の質、好悪により進歩的に事業家で巨富を目指してもよし、又縁の下の力持ちたる貧乏学者でもよろしい。意義あれかしと思ふ。

注-
・(84)話は、「維新當時の落人」となっているが、別の話が加わっていると考えられる。話の筋が途中から変わってしまっている。
・上田-中森本家
・勘三郎-瀞八郎の祖父福重(陳平)氏の次々弟

( 85 ) 木地屋の事 ①

 當地、立合川のうんと上流、八丁川原と称するあたり、土地もかなり良しと云ふ。そして注目すべきは、元禄年間の墓石の立派なるものありと云ふ。あの昔、何故不便な地へ入りしや。之長袖と老人より聞く。木地屋の居たる事、眞なり。時折、玄米を得て有蔵辺の人手傳ひ搗きて幾分の礼や馳走に預かりたるごとし。西の峯の中腹に糠塚と云ふ所あり。これ、その名殘にして、自ら孤独の内にも長袖を誇り、ロクロの妙技あり。お椀の如き、その他の円形物を(主として下地を作り)、人口の多い方へ搬出、利を博したるに違ひない。また、アメリカのアライグマでさへ、仔の為に木の玩具を作ると云ふ。原始的な玩具も作りしなるベし。
 山窩のやうに移動するとも悪をなさず、体面を守りし如し。結局、こけし人形と云ふものも、維新後土地の所有は國民又は國家となるにつれ、全國に散逸せる木地屋仲間も大勢には勝てず、旧式のロクロも電化等となり、いよいよ野に下りて農を始める者、職人となる者、都会に入りて器物や漆屋、こけし物などやってゐる内に轉業するあり。又、本來の木地屋でなきも出でたりして、たうたう人の間に溶け込んでしまったものと云ふよし。ここに至るまで、自称南朝の正統など座頭、檢校などのこと介在し、極めて複雑となってゐる。川原で賣るこけしの源は元禄頃の木地屋と関係あることは奇妙ではないか。
 これに関して國学院大学教授瀧川政二郎先生(昭和32年、第6号)発表の「自称天皇はどうして生まれるか」に説明して貰ふ。
 余、古老に聞く。木地屋は長袖なり。あまり人とつきあわず。ひとつに超然として他を侵すことなしと云へり。
 當地では、川原乞食とてテント(セブリ)を一家族にて作り、夏は川魚捕り、冬はクマシダにて民芸的籠、箒の類を賣り、質の悪い集団は盗賊となる。つまり山窩の類とは全く違ひ、直接の有無は別として、その業は之に出でしためか。喬良親王(古く一千年以上)より出でしため、菊の紋を誇りとしたり。独高して業に適したる山から山へ移りしなるべし。
 余、幼時に木地屋のものせる椀の荒削り数十ケ家にありしを思ふ。失ひて殘念に思ふ。右の如く孤高を誇りしは親王の後裔又は一族又は之を開祖といただく木地屋の絶対の信仰であり誇りとせるらし。人と交わらざるも此処にあり。之の故にか、昭和30年の今日まで(終戦より)熊澤天皇より29人の南朝の正続が出でたりと云ふ。最後は安徳天皇、熊澤の又寛道もこの木地屋の轍をふみ、ちゃんと墓も菊の紋を散らしたるものなりと云ふ。

注-
・「浦地」にも直晴氏の少年時代に木地屋の作ったロクロの跡のはっきりある、一皮だけ漆をかけた椀が沢山あったが、今は見当たらぬ。
・立合川-田戸の人は普通タチャンゴと呼んでいる。蛇崩山の奥に発し紀州北山村との墳をなして東野の上ミで本流に入る。
・墓石-元禄十三年の刻文あり。囲いをずっとめぐらして、へりに樒を植えてあり、女人の墓だという。なお、上葛川ではここを奥八丁と称しかつてマッチの軸木が大量に生産され、葛川谷の女達が多数荷持ちに出掛けた。(上葛川 西岡虎蔵談)ここには墓が二十基近くもあるという。(東直晴氏)
・西の峯-立合川の東に平行する屏風のような山稜の主峯。三角点ぁり。(1132,5m・紀州北山領。)
・糠塚-後出の「糠塚のこと」を参照のこと。
・川原-川原とはいうまでもなく田戸の下、プロペラ船発着所の土産店のあるところ。
・熊シダ-コマシダと呼んでいる。軸が細長く分枝する。この軸をとって籠などを作る。
・喬良親王-文徳天皇第一皇子惟喬親王の誤り

( 86 ) 山蛭の減った事

 昔の人の話(余幼時の頃)、この近傍の山々には山蛭が居て、相當人を悩ましたものである。然るに最近(昭和32年7月15目)ほとんど見えなくなり、或る特定の田の水溜まりか、白谷の如き深山に時折發見されることありと云ふ。人が側を通ると、いきなり一斉に頭をもたげると云ふ。赤外線を感ずるか。又、昔利用した水蛭は、この山奥のものと違ふ種類と考へらる。田の水溜まりにある方が医療の意義があるのではないか。
 蛭の気味悪い話は、例の観念小説の大御所である泉鏡花の『高野聖』にある。

( 87 ) 木地屋の事 ②

 あんな険岨な、今も行く人稀なる立合川の奥の奥に、土地は案外良きところなるあたり(この地、奥に至れば侵蝕谷の関係上、土地に平なること多し)、元禄15年と年号付したる石碑いくつか、それを(年を)前後に在りしと云ふ。危ないので、余は行けなく、調査出來ないのが残念であった。確か木地屋は、一つ時代、相當永くこの文化の遠い、人も近づけないところで、特殊な生活と存在を続けて來たものらしい。徐々に山のある全国に拡がり、時勢の移り変はりは流石の根強かりし彼らの生活も変改を余儀なくされ、一般の人の中に溶け入りて霧消せしものと思ふ。木地屋と云ふも、所により器地屋などいろいろ書かれしものと云ふ。ここで考ふ。人の生き方を見ると、盛んな昔時、窮境の時、いよいよにして解き放され、文明の煩雑な人々の仲間入りして消えてしまふ。有為転変の充分入らざる明治初年頃は、まだまだ貴く、漸次20年代よりなくなりしなるべし。

( 88 ) 糠塚の事

 余の若かりし頃(20代)、有蔵の笹内正清の父云へるに、西の峯に糠塚と云ふ處あり。これは、木地屋の人々、或る時玄米を多く入れ來り、村人にも搗かせ与へ、馳走せるところなり。その名の所以は、白米にせんため搗きし糠、堆き積もりたる為なりと云ふ。事実、我父等子供時代は米は甚だ貴く、よく不自由をかこてり、これ運輸統制の面よろしからざりし為か。故に更に徳川時代に逆行しては、その施政のよからず、且つ悪役人の横行、小さな西山方面の百姓すら年貢の件で水牢入りさせられしもあると云ふ。
 まして山ばかりの、田一枚なかりしにおいては、當時なかなか得難く、藥位の使用、それも三拝九拝して得しこともあるべし。我父等は、仏に掬い取りし飯を兄弟が取り合へり。また、折立平石の80余歳にして没りし老母の□く施し粥を飢饉の時、杓一杯を行へるに、今村に長たる折立の人々は、ドンブリを手に門前市をなしたりと云ふ。
 昭和初年頃に新宮に米騒動□□あり。又、近くは太平洋戦争中、以後においてマンジュシャゲの根球を食べしもの、樫の實、芋つる等を喰べしを思へば、さもありなんと思ふ。
 ロクロは、殊に格別なる技能器械なり。うまく品物が賣れ、また副業の筥類、蒔絵の漆細工が良く、いかば里人も□し、又、彼らも一片の人情もあるべし。仕事の上にも交流あるべし。故に糠塚の如くなりしは尤もと思ふ。折々の魚,ボタモチ、即席の山の肴、トロロ汁等里の味にて彼らの入手した酒にて大騒ぎして憂世の難を互いに忘れ興じたことと思ふ。大判も埋めてない塚ではあらう。而し、それが山の中に在りて山となるもの乍ら、我々に意味深く「人」を考へるのみ。

注-
・笹内正清-山稼・木材業-他へ転居
・西山-大沼の対岸南方、三重県南牟婁郡西山村
・平石(ヒライシ)-折立の大山林地主(現玉置春雄氏)、曾祖父の玉置高良が葛川沿いの道を開いた。

( 89 ) 柴巻きタバコの事

 つい数年前まで、いや今でも奥の人にはあるかも知られぬ。柴巻き夕バコの事、これは熊野一帯とも云ふベき習慣であった。樫の葉、第一よいのは椿の広い葉、何れもあまり堅くない葉を用ゆ。新宮などで束として賣ってゐた。店先の老母等よく吸ってゐたものである。若い人、紙巻、煙管の人はあまり用ゐぬが、老人や中年など一度これを用ふると、その味佳なるか、盛んに用ゐられた。葉を焙り、少し色の変はる程度。その時、表面より脂質様のウマニホイするものが出てくると、葉を円錐状に巻き、これにキザミタバコを詰めて、漏斗状のものを作り、点火して細い部分より吸うなり。少し風味あるものにして一服ごとに新たに作るため、大抵の人は持ってゐた。徐々に燃えてくると下手に吸ふと口が熱くなる。そして、歯が汚れやすい。
 歌に云ふ。
 熊野地や 煙管なくとも須磨之浦 青葉くはへて 口は敦盛

( 90 ) 一匹猿の事

 今から33年程前、我の幼時から少年期の頃の事、つい家の向かふの山から、友のない一頭の猿の大きい奴が、何日も折々、のこのこ下りて來、河端の岩の平な部分にゆっくり落ち着いて寝てゐたのを覚えてゐる。こちらから何と云ふとも決して恐れない。且つ、利口な事には、若し鉄砲を持つ者が出ると、早速に山の方へ一慌て氣味で帰っていった。