( 111 ) 酒客の歌の昔 二節
キンタマヨー やぜんのところへ 行かふじゃないか
私は行くのは イトヤセヌが 穴に入る又ね身ではなし
浦門たたいて 待ってゐるわいな
私は 今晩來る道で からかさ見たよなボボ拾ろた
踊り子さんにも主やないか 主がなければ ヨーイソーリャー 私のもの
(コザコの島本長吉老がよく歌った。)
注- ・コザコ(小迫)-大渡から下手で東側の山の上にあった。元2、3軒あったが今は全部退転した。
( 112 ) 餅花の木
小生、幼少の頃、右の木を取り來たりて、アラレを四角に切りたるを木の枝の處々につけて保存し、子供達の慰とした。この木は葉が非常に少ないのである。褐色の灌木である。
( 113 ) 狼のこと
今から凡そ40年前のこと、余の大叔父(東藤二郎)が里の畑にて働きおりしに、一頭の狼、猪を追い出し來たり、二人の間を擦過ぎして通りゆけると云ふ。これ位に狼がゐたのである。
また、葛川西岡重馬老の報によると、或る年のこと、何故か狼の出没盛んに塀を乗り越え來たり、如何に猛き犬にても喰ひ殺せる。同人或る朝のこと、裏手に行きけるに犬の喰ひしナンバ(トウモロコシ)は何れも出しおきゐたりと云ふ。内蔵を好むにや。
注- ・里-部落のことをサトという。
( 114 ) 潮を呑みにゆく大友の吠声
我が父20歳時代、川向かふの山の峯にて時折狼の遠吠へ喧しく聞こえ、人々慄然とせしと云ふ。
大友とはこの地の方言にして、群れを為したる狼を云ふなり。果たして、孝へし如く、海辺まで潮を求めに行きたりしか不分明なり。但し、余の幼時、大人の話を聞くに、奥山の小屋にては時折(タガの)小便を嘗めに來しと云ふ。
注- ・タガ-文中にこの言葉はなかったが、分かり易くする為に入れた。
タガは、小便を溜める桶のことで、タガまたはタゴとなまった。
通称、コエタガ、コエタゴ(肥桶)と言った。桶は外に置いてあったので狼が塩分を求めてやって來たという。この類の話は多い。
( 115 ) 性器崇拝の習慣
大体山で働く昔の人は(今では少々狡くなり、ご馳走を講ふ)山の神を祭るに(コノハナサクヤヒメか)、そのご神体として、小さな小屋風の祠をしつらへ、大は長さ1間より1尺あまりの男根を作りて供御して礼物としたものなり。今も北山村で一度見たり。
最近は、これも多少移り変はりしにや、削り花てふ板形の木を作り、外皮を削り上げ、クルクル曲がるようになして祭る(項部は花の部小さし)。木花咲耶姫之命と山の神は関はりあるやう………。
注- 山の神に男根を供える風習は、葛川地区では大字下葛川の熊谷に今もある。
( 116 ) 火傷の時、女陰に触れんとすること
昔は、更なり、今にてもあり。火傷のとき、女陰に触れ、その分泌物をつけると大変好結果を得ると云ふ。なお、これは他人には為し難し。また、家族にても同じ感あり。故に、その時、腰巻を得て患部を包むと云ふ。然し、余、考へるところ、これには他に何かの原因が潜みあるべしと思ふ。
(31、8、6)
( 117 ) 一匹猿のこと
余、8歳位の頃、つい家の向かふの川岸に、暑くなれば大いなる(約4尺)猿ただ一匹、毎日の如く來たり。川近の岩棚に臥し転びゐたり。鉄砲など、こちらに在れば絶対來たらず。夕方になると悠々として山に入れり。
山元春挙画伯、瀞亭に泊まり画を描く。或る朝早く岩の下に至りたるに、一頭の猿、水を呑みに來たるあり。害意なしと見てか敢へて逃げんともせず。ここにおいて画伯は手にせる柿を投げ与へしに見事之を受けて去りしと云ふ。
かかることも今は夢の如く消え去りけり。
( 118 ) 狼を射った最後のひと
明治22年頃、東中の前阪淺太郎老人、今健在なれば95歳か、財あり。教員せしことあり。地方の有力者である。この人が東中の流れを渉りつつある狼を獲ったと云ふ。屍体は惜しいことをしたものである。
(31、8、8)
注- ・前阪淺太郎-職業は百姓。
( 119 ) 狼の牙、魔除として珍重携帯せしこと
余(昭和10年頃)、かねて聞く、これの牙あるに相違なしとて探索、遂に下葛川の東忠光方にあるのを實見した。それは殆ど犬と変はらず。上顎を適當に切り、漆にて顎骨に塗り、穴を通じ紐を通して所持するやうになってゐる。
また、余の遠戚、北山村七色、山口敏夫宅は19代続く旧家なり。ここへも問ひ訊ねしに、ありと云へり。
( 120 ) 十津川村字高瀧神社使狼のこと
高瀧神社は昔より狼を使狼となす傳へあり。明治に至るまで、所々の部落民、猪の害に困憊すれば、この宮に至り、神主に祈らせ、幣を入れた箱を白布に包み〔何人か人員を要す、途中大小便を忌む〕負はせてもらひ、帰村して之を祭る。忽ちにして、次の朝あたり、所々に猪の屍ありたるよし。中作市老に聞く。