( 41 ) なすびと胡瓜の事

(1) 我等10歳位、明治45年頃迄は、夏が來ると或る人々(全部ではない)は、これに(胡瓜)川太郎様何歳の男と書き、川へ流したものである。水難を除く川太郎への願である。そして胡瓜は欠く事が出來ない(つまり胡瓜は河童への供物なり)。
(2) この上流の部落であるが、今以てレプラが比較的多い。昔、何かの事情の為、村人が寺の僧を大変に虐待した事がある。すると僧は、堪へる事が出來なくなり、茄子の木を焼いて村人を、レプラになれと調伏した。その時、たった一人の善良な男があって、親切にその僧をいたはったのである。すると僧は曰く、一応祷ったにつき、お前もレプラになるに違ひないが、お前の親切に感じ、たとへレプラになっても直ちに治る藥を教へてやらうと、一つの処方を示したのである。そして、これは又お前の商賣ともなれば、この村の人でも誰でもよい、治してくれと云ふのがあれば治してやれと云ひ、立ち去ってしまった。後、果たしてこの部落は全部癩病となり現在にも及んでいる。
 この藥の教へを受けた男は、後、入鹿村矢之川へ來り、幸福に世を過ごし、現在も子孫あり。藥も一説にあると云ふ。

注- ・胡瓜は、初なりの胡瓜に限る。

( 42 ) 無間の鐘とレプラ

 宮井から遡ると□□□ムラがある。昔、無間の鐘を撞いた為、ムラ人レプラになると云ふ。實際、レプラ発生の多い部落であると云はれる。

( 43 ) ヒマ小屋と云ふものが存してゐた

 大杉の松井家の下のあたり、山中に所謂ヒマ小屋がある。昔、月経の女子は、ここにて、その終了まで過ごしたものである。

注- ・松井氏-大杉に現存。但し、何回も代が変わっている。大杉は一番多かった時でも戸数5軒くらい。今も2戸あるが、1戸は廃墟に近い。ヒマ小屋は共有だったらしい。

( 44 ) 玉だすきの事

 大杉の宮には、昔、大塔宮より賜った「玉ダスキ」があり、祀られてゐた。余の幼時、下葛川へ合祀されたが、その後、(玉ダスキが)あるという云ふ話は開かぬ。
 何でも祭礼のある度、その包み紙をそのまま置き、上へ重ね重ねして非常な厚みとなってゐたと云ふ。

注- ・上へ重ね重ね-納めた箱ヘトウヤが毎年1枚ずつ白紙を載せて置いたこと。

( 45 ) 大塔宮より賜ひし鏡の事

 神山の宮は、大塔宮より賜はりし凹形の古鏡が五面ありて祀りありしと云ふ。これも今は如何なりしか知らない。
 笹内朝重方に一面あったので、厳重保存するよう話をす。直径10cm、緑は約1cm、内部に曲げ雨ざらし。今に至るも大したる腐蝕なし。合金である。 30、2、16 初見する

注-
・凹形の古鏡- 断面
・笹内朝重-字神山の旧家
・直径10cm(の古鏡)-古い墓から掘り出したと言う。

( 46 ) 蛭の減少せる事

 我々の幼時(明治44年頃)は、ヒルは大分生息してゐた。第一、雨の降る日、山道を歩いてゐると、必ず何尾かのコウガイヒルの赤黄色の長い体を發見した。
 次に、人の話を総合しても、又それより10数年を経てからも吸血ヒルが水溜まりなどに棲息してゐ、害を与へたと云ふ事も開いた。
 或る人の曰く、白谷山中の渓谷を通った時、足元の水溜まりの辺りにおった無数のヒルが一個の触手を動かす如く、ザァーと音を立てるかと思ふばかり、その人目がけて動いて來たと云ふ。音が出れば、それほどでもなからうが、無音であるから気味悪いに違ひない。
 但し、今でも白谷には存在するらし。

注-
・ヒルのことを(田戸では)ビルと言う人が多い。
・白谷-白谷は芦廼瀬川の源流で、その左側一体は上葛川領に属する。

( 47 ) 炭焼きと紀州侯

 昔は、炭焼きの事を呼ぶに、この言葉の上に「御」の字を付けて「御炭タキ」と云った。紀州侯の産業政策の現はれであり、保護したものである。
 事實、他の仕事、この非文明の地においてもすっかり変はってしまったが、炭の事だけは仮令改良ガマとか何とかが發明されても、採算の上から技術の上からやはり昔の方式である。
 窯の上、後方の排氣孔は、普、弘法大師に教へられたと云ふ。尚、余の小学生時代には、その分類法は全く細密を極め、10何程もあったと記憶している。
 昔は、ワイヤーを使ふ事を知らず、投げ下し、持ち運びを主としたるに付、可驚懸崖の上に遠くから土を運び、窯を築き、己の住居とするは一疊にも足らざるところあり。岩穴を利用したりしてゐる。そして相當広面積を有する仕事場、大地と接するは僅か三尺にも足るか足らざるか。他は貮參間の広さに「ユカドコ」と称して、崖下の立木の叉などを利用して木を横たへなどして並べたる木の上に土を盛りて作ったりした。これは今でも栃谷山で見る事が出來る。恰も南洋のボルネオなどでやるダイヤ族の屋に等しい。
 然し今では昔より窯は大分大きくなり、木炭も昔の倍以上、即ち100俵位出せるよう作ってある。小屋も良くなってゐる。昔は、こんなのを時々移轉しては築造したものである。よくも生活に堪へたものである。考ふるに、これらの人々は土人や蕃人とあまり違はぬ。却って不自由な生活をして、文化と云ふものよりよほど遠かったにちがひない。
 日清戦争の歌に『四千万の国民は』と云ふ文句があるが、徳川時代以前から十津川はあったのである。何故他に土地を求めて開墾しなかったものか、疑問であるが、理由もある。結局のところ、落武者が理由あって、不自由の生活に甘んじたのであらう。無年貢なれば年貢のいらない事、領主より苛歛なる貢求を受けなかった事など原因であろう。
 然し、極めて安い製品を肩に汗してよくも持ち出し、羊腸の道路、それも険しきを運んで勘定に合ったものであると感ずる次第である。
 自分も小学校の頃、約一里離れた五平谷より炭を持った事(「持って見よ」、と父より云はれ)を覚えてゐる。

注-
・ユカドコ-傾斜地で土地のない所では、庭は勿論、小屋の床まで全部タナにして小屋を作っている所があった。このタナをユカド又はユカドコとも言うが、炭焼きの場合はハイドコと称し、窯から焼けた炭をを掻き出してサバク。
・栃谷山-上瀞の対岸、三重県領にある山。
・五平谷-和歌山県玉置口領に属し、葛川へ注ぐ谷、実は田戸から9町位の所にある。
・「炭を持つ」-炭を運ぶの意である。

( 48 ) 猿の甚だしく減った事

 余の少年時代は、猿の生息は實に夥しきものであった。先づ、現在の大川の辺り、山彦橋の向かふの山あたり、小川の局の前の山あたり、見張りの猿を王として、大群小群がバラバラしてゐた。人が川で魚を採ってゐると、怒って木をガサガサし、鳴き声たてて揺すったりしたものである。銃を持ってをるとよく知ってをり、なかなか現はれない。そして逃げ足も早い。追ひたててみる。大声で。すると木から木へ飛んで逃げるのであるが、子猿を母猿が背負ひて飛ぶ様を見、大いに感心させられたものである。又、一匹猿と称して、我幼時、舟着き場前の岩へ出て來て、船夫が板など荷積してゐるにもかかはらず、平氣で寝てゐたりしたもので、終いにのそのそと5歳の子供位の奴が岩を登って山へ帰ったものである。又、有名な某画伯が來たときに、下瀞の辷り岩下手の所で猿が水を呑んでゐるのを見附け、手にしてゐた柿を投げ与へたところ、上手に手で受けとめたと云ふ。

注-
・小川の局-現在の瀞郵便局のことで、北山川を大川(オオカワ)と称するに対し、葛川を小川(コカワ)と呼んだ。
なお、猿は山彦橋の向かいあたりに今でも、ちょいちょい出て來る。猿のことをエンコ、エテコ、時には「山のワカイシ」と呼ぶ人もある。

( 49 ) アメノウオが化けると信ぜられた事

 余の幼時、アメノウオが大きくなると化けると云ふ事が盛んに云はれ、信ぜられてゐたのだ。南和で最も有名なのは、小サメ小二郎の話である。(これは、山賊である)この魚は、大川へ出ると眼球が腐ると云ふ。なるほど眼の悪いのを余も時々見た。眼が潰れてゐ、何か生えてゐるのもある。冷水の枝川と云ふべき支流の實に小さな山奥迄も居る魚である。
 味はなかなか佳良で、人によると鮎を凌ぐとさえ云はれる。6、7寸のもの、最もよく、1尺以上となると何かと臭ひがして味が下がる。
 實に大きいのがゐた。恰もサバのような平たく見える。余も少年時代1尺5分と云ふのを採った事がある。
 岸壁迫り高き山嶺の眞っ青い淵に悠々と遊んでゐるのを見ると、一寸氣味が悪い感がする。なるほど、化けると云ふ筈である。一例を挙げてみると、或る時、寂しい山奥の渓谷で木挽が仕事をしてゐた。晝時になったので飯を食べにかかった。すると丁度その時の事、下手から一人の坊主らしい粗末な風をした男がやって來た。いろいろ話をしてゐる内にアメノウオの話になり、この上流の黒淵には大きなアメノウオが居るが、これは主であるから絶対に獲ってはならない、と坊主は云ふ。そして別れて、坊主は何処かへ行ってしまった。
 次の日のこと、その木挽が慰みにアメノウオ釣りを始めた。下流から段々とその黒淵へ行き、途方もない大きなアメノウオを釣り上げた。腹を割いて料理すると、昨日坊主に与へた弁當の栗飯が出てきたと云ふ。
 かかる話は枚挙に暇もない位多かったものであるが、現今は殆ど云はれなくなってしまった。

注-
・小サメ小二郎の伝説は、迫西川にもある。アメノウオの小さいものをコサメと言う。
・黒淵-5万分の1地図のオトノリの急湍の末端
かかる話は枚挙に暇もない。同様の伝説が滝川上流のソーハン淵にもある。

( 50 ) 明治44年頃に殘ってゐた毬突き唄

ひいふうの三吉や  馬にのりとて  馬から落ちて
竹のそぐひで  手の平ついて  医者にかかろか
眼医者に  かかろか  医者も眼医者も
御免で御座る  あのウネ越そうか  このウネ越そうか
このウネ越したら  イカイ子供が  碁石をひろて
砂で磨いて  箱屋へもてて  箱屋のちょぼさん
金かと思ふて  金じゃ御座らん  碁石で御座る
碁石買ふよりゃ  帯男ふてたもれー  帯にゃ短し夕スキに長し
御伊勢参りの  笠のひも  笠のひも
スッテントン

注-
・毬突きについては後出
・イカイ-たくさん
・そぐひ(ソグイ)-とげ
・ウネ-峰