( 261 ) 高瀧の宮の御使者を借りしこと

 今は昔、狐憑が流行(今の精神分裂症で一週間位で治る)したとき、玉置神社の三柱神の御使者狐100尾の内2尾、犬に害されて98匹とも云はれた。又、伏見の稲荷はその分派と云ふ。三柱神(ウガノミタマの命)は時折、字松平辺の作物も荒らすことあり。又、雪の日には足跡があったと云ひ、祭典のとき肴の御供なしと云はれ、又精神病者は凡てこの堂裏へ籠もりしものである。ムラに狐憑の病者あれば、神官をして箱に入れてもらひ清浄化し、やがて家に戻り屋根の上に小豆飯とアブラアゲを供へて狐狸の退散と病の平癒を祈ったものである。
 之と同じく大字高瀧神社の御使ひは、狼とのことにて猪、狐の害の酷いときは、白包みの箱に入れてもらひ、帰宅して後、之を祭祀して、猪などの害を除いたと古老は我に語ってゐた。そして、覿面、猪の屍体の殘りを發見したと云ってゐた。
 西牟婁郡田辺より、この奥地へ同様に御使者を猪退治に借りに來たものらしい。これは相當古い話であらう。然し我は田辺中学へ学んだ関係と、その後雑誌(動物文学)でみたことがある。轉た今昔の感に堪へない。

( 262 ) 子供の祝に具へて

 子供に関しては氏神詣りも昔かなりあったが、今はあまり盛大とは聞かない。桃の節句又は五月の節句に人形飾りして、女の子を祝福したり鯉幟を一般的にあげて、男の子を特に祝ふこともなく、ただ特定の人が鯉幟を上げた程度であった。

( 263 ) 神社御神体盗難のこと

 我々乳児の頃より已にあったらしく、神山の宮の狐の像が二木島あたりより戻ったと云はれ、昭和2年頃、東雲神社において盗難ありと云はれ、この時大杉の「玉だすき」と神山の「神鏡」、そして東中の美しき木像(何たるかは知らず)、その他槍の穂などなくなってゐたと云ふ。
 大杉の玉だすきも古いものであり、祭のたびごとに容器に神一枚づつをそのまま添へ置きしと云ふ。神山の神鏡も玉だすきと共に大塔の宮より下されしものを、土俗は大切に祀ってゐたらしい。歴史、傳説を無視し、神道も人道も弁へぬものは、(盗むことは)朝飯前のことである。然し、盗み出しても他所にては大した価値もなく、元の地にありてのみ意味あるものを、盗み去る心は何としても埒外の人間のすることと思ふ。

注- 前出の「玉だすきのこと」「大塔の宮より賜ひし鏡のこと」参照。

( 264 ) 官吏侮辱罪の悪法の頃

 明治の政体の閥族政治の面に官吏侮辱罪があったことを幽かに知ってゐる。凡そ官吏は物凄く威張りくさってゐたもので、逆に庶民はヘイヘイであった。例へば國家専賣となったと云ふだけで、何でもない煙草専賣員が店頭に來たり、大声あげて叱らねば損のやうに、少しでも不備なことがあると便不便の理非は無用に、父ら叱られてゐるのを見た。疲れると平常の役人となり、怒ると閻魔大王の如く手がつけられなかった。(西吉野の)宗檜村ではあまりに叱り過ぎ、店の親父が逆に怒って逆上して、鉈にて斬りつけしと云ふ話もあった。
 東直晴氏補足-昭和34~5年頃、上葛川では税務署員が猟銃を突きつけられ、色を失して逃げたことあり。

( 265 ) 山窩衰亡期最後の被害者

 我幼時の頃、川原乞食と云ふもの多かりき。最後に見しは下北山桑原にてこの村の医院に在る時、夫婦もの鰻などを賣りに來るを知る。我17歳位の時なり。この川原乞食は、我今考ふるに山窩の衰亡期で一般民へ隠れる移行期と知るなり。
 セブリ(瀬降)の在る川原を見たり。暫くではありしかど、今之を知る者僅かなり。島津、瀞では青石と云ふところで2~3群でセブリを張り、川魚を捕って生業としてゐたらしい。
 夏はかうして生活し、冬はクマシダで籠作りや箒作りをして賣る。今我家に食器用の籠あり。強くしてよく堪へ、何十年にもなるなり。我は、當時之を賣る老人の姿も知ってゐる。言語も少々変はってゐたるに殘念ながら、今覚えなし。之は然し眞面目な一族にして、冬は盗賊をなす乱暴組もありたり。
 日本の歴史は一般的に悲惨な生活に終始してをり、今でも九州南部、日本海沿岸には生活の故に人を害さねばならなかった歴史と風俗、言語が殘ってゐ、太平洋岸にても愛知、静岡、日本海側では青森、秋田、石川、福岡など幾多あり。信州あたりを中心として全国山村に山窩と云ふ特殊な異色あるグループ在りし。この地も斯のごとし。
 扨て、山窩衰亡の移行期とも云へる時期に最後の大被害を蒙りしは我家なり。決して普通の賊に非ざりしなり。茲に記す。
 我父菅尾より分かれて家を持った僅かの間のことなりき。我産まれて1歳の時と云ふ。母の實家は小川口に在り。我母と共にその實家に帰りしある日の出來事と云ふ。その頃、新宮通ひの和船を杉岡直吉令兄浦地が経営してをり、當時は家の事情で我家はそれに加はってゐなかった。ほかに東善二郎兄弟、平作市父子ありて運輸のことに當たり居れり。我家は折ふし家屋改造のため屋根職人、杣人夫(榎本清太郎氏外)、大工弟子ども、我父、店の番頭(入鹿の西増正介)、女中すべて家に在りたるよし。當時の金庫なれば粗末なるものなるべく、数ミリの鉄板と砂などに木を加工したる金庫あり。重量は25貫と云ふ。この中に當時(明治38年)としては、父の大金たる600円と證書類そして母の實家より預かれる(母の實家は元大なる酒屋にて在りしも當時は滅亡の淵に在り)五両、一両、二歩金、一朱金その他銀類など古金銀預かりありしと云へり。我家も隆盛に向かへるらしく見へしなるべし。上り下りの物を扱ひ日常の品を賣りしと云ふ。
 ある朝のこと、番頭第一に起き出でたり。職人の多くは前夜の集ひの酒に堪能して熟睡しゐたりと云ふ。番頭(今朝は寒く指凍へて充分書けず)ふと氣のつけるあり。店の正面戸二尺余り開かれてありたり。心に、直吉船夫本日下新の筈、朝早きの約束なれば注文その他立ち寄る打合せありしにつき、扨ては同人來たり、施錠忘れありしため開きしならんか?、と考へたりと云ふ。(この頃より船夫は2尺×1.5尺×1.7尺位の船櫃へ食料・帳簿・衣服一切を入れ居たり)然し念のため、その戸を検せしに豈計らんや錠(と云ってもサシコミのもの)の横を菱形に手の入るだけ見事切り取られあり。かくて大騒ぎとなれるよしなり。薄い杉板、鉋をかけしもの、営利なる刃物にて切れば容易なり。
 直ちに父の寝所に至り之を傳ふ。布団を敷き、平常は金庫に頭して寝るに、この日に限りて足位にて寝たり。机あり、その上に金庫、その上に煙草の入りたる杉箱(長さ3尺、高さ2尺余り)を載せてありたり。
 賊は、その箱をとり、父の布団の上、足の上あたりに載せありしと云ふ。丸太の4寸ものを持ち來たり、我にて求めし(偵察だったか)大き麻縄にて金庫を持ち出す荷造りしたるやう、布団その他に点々と附きたる足跡にて分かりしと云ふ。賊はかくて目的のものを奪ひ出し、さて川を下らんか、橋を渡って山越しして逃げんかを考へしよし。追手を憂へてのことなるべし。そこで先づ今の組合のあたりに小さな倉庫あり。ここには預かりし米、酒、味噌その他あり。この戸を破りて中に入り、酒4斗樽の横に穴を穿ち之に口をつけて互いに酒を吸ひ、傍らの味噌樽を破りて之を嘗めて肴とし、相談したるらし。
 初めは山を越えんとせしか。4斗俵をヒ首にて切り放ち、米2斗余りを奪ひ、袋に入れて去る。さて、人々大騒ぎの中にて、いよいよ賊の難と知るや、金庫が我家の盗難であり、次が菅屋の右倉庫内の難なり。
 いろいろ物色中、今の駐在所にありし古き納屋の戸前に積みありし杉皮の間に差し込みありし屋根屋の鋭い庖丁がなく、之により戸を切りしこと、かくてはよほど以前より偵察、事情を知りありしこと判明す。賊は米袋の一隅に破れありしを知らず持ち出しし故、彼らの通過せし路上に線を描くやう米粒落ちてあり。米を辿り行くと現ホテルの眞向かふあたりまであり。ここにて立ち止まりたる形跡あり。而て引き返したるやうなりき。
 實際引き返したり。金庫25貫もあり。山に隠るるも容易ならざるなり。返り來たりて川辺に降り、船を奪ひて逃亡せしなり。この頃、木津呂の人ら來り云ふ。この日の午後、瀞の野にて5人余りの男、ふざけ遊びゐたるを見しと云ひ、上方より見ると一隻の舟、岸に見たりと。さてはと驚きたるらし。田戸側の舟1隻不明なればそれに相違なしとなれり。父もその前日あたり店に居りしところ、一人の見知らぬ男來り、キョロキョロ内を見廻しての末、あれを欲しいとて例の麻縄を男ひて去りしと云へり。ここにて思ふは、もし父が声を出したるならば一刺しにて殺さるべく、又もし之を氣づきて知らぬ風して舟にて逃るる途をこちらより総員して追跡すれば、こちらに鉄砲もあり、何の造作なく捕らへ得たるにと殘念がりたるらし。ともかく瀞入口の川原へと急ぎ行き人々の調べしに、果たして山に寄りたる砂地にて金庫破壊したるなりき。例の屋根屋の有せし強鋼鋭利のものを用ひ、石を槌として之を破り、箱を取り出し、通貨、古金類は金のみ、銀は捨てあり、證書類はこの上にたたみて風に散らぬやう古銀にて押さへありしと云ふ。
 勿論、警察取り調べも杳として風の如く、手の施しやうなし。取り合へず新宮、木之本あたりの各署へ手配したりと云ふ。
 凡その見當も南方へ逃げたるは間違ひなしと断定せしなり。
 一乃至ニケ月の後、木之本署より當署へ連絡あり。鬼ケ城(そこに當時山窩の流れが多く屯し住みゐたる)の乞食の群は、この頃一円、五円などの大金を費消するものあり。乞食にしては不審多ければ、近日の内急襲して一網打尽とすべきよしとありたり。然るにこの計は未然に洩れて、手入れの時は首魁らの逃げ去りたる後なりしと云へり。
 次いで四ケ月過ぎし頃、新宮署より連絡あり。串本の先、袋港に乞食の群多し。その内に金不相応の所持者あり。近日手入れする旨なりき。
 新宮署は、刑事二名余りの劣勢なれば、拳銃を持たせたり。二人の刑事、急に入り逮捕せんとするや俄然抵抗する者あり。追へば後方の者迫り、後方へ向かへば先方の者迫り來るなどにて大苦戦したるよし。遂に一人の頑強なるを捕らふるより射殺を決して拳銃を撃つ。痛手のために賊は狂ふばかり逃げたり。他は恐れて遂に降る。後刻道を探し行けば、現場より4町余り離れしところ、道の傍らの雑草木に腹部を撃たれ朱に染みたるまま死せる一人を發見せしと云ふ。ここにて捕らへたる内二名が我家に入りし者にして、他はその疑ひなかりしと云ふ。いろいろ取り調べの結果、死したる者は首魁にして四國徳島県の者、あと一人は新宮権現山川原にありし者、もう一人は不明にして名も不明なりき。
 その後3年経し後、奈良市にて二名捕らへられ、殘り二名は天網を逃れしなり。

注-
・島津-和歌山県熊野川町、小川口対岸
・下新-新宮へ下ることをこのように言っていた。
・瀞の野-瀞入口左岸、木津呂領の草刈り場。

( 266 ) 川原乞食の産するとき

 凡て彼らは子の産まれるときタライ(盥)なし。何の洗浄の備へもなく、湯を湛へるものなくば、相應考へるなり。川原を少々掘りて壺溜まりを作りて、之に石を焼きて投入し、その中に合羽の如きものを敷きて之に浴すると専ら聞ける。

( 267 ) 天誅組の変に備へて十津川郷と隣村

 玉置口に在りし紀州の検問所のことは、既に述べたり。北山村小松あたりの備へとしては、通行を止め食料買ひの十津川人乃ち當地人は封鎖して入れなかったやうだ。木を切り倒し道を塞ぐ。その傍ら團体組織内部を掌握し守ってゐたらしい。十津川郷はこのやうに完全に戦略的に遮断、封鎖されてしまってゐたのである。
 南熊野の辺り、乃ち今の尾呂志あたりは成務天皇の頃まで、完全にそしてその後も不規則ながら十津川領となってゐたが、徳川期前後に至り紀州領となってゐたためにここにも天誅組を容れぬ軍備があった。この辺の穀倉地の尾呂志なれば無理もなかったらう。
 今でも殘ってゐるらしいが、當地の名代の風傳峠の險を厄して之に備へたるらしいが、堆く岩石の類を道上の山に集め上げ、戦のときは千早城戦法にてこれを投下し、攻撃せんとしたらしい。天誅組の方は終わりに降伏であったが、最初のうちは東野の上部に石火夫の台地を作り、例の木製の花火筒の如きを備へたと云ふ。一度恐る恐る弾丸(丸太の切りしもの)を入れ、尾部の穴に煙硝を置き、槍の先端に艾(モグサ)を取り付けて火を点じ發射したるに、立合川辺に飛んだのが見えたと云ふ。その真剣な顔色を思ふ。然し之を當時の人の生活より考へると少しも笑ふ要はなく、何百年の後には今の新兵器も笑はるる時がないとしない。現に16~7年前の大和など威を誇りし大艦巨砲も飛行機の威力の前にはスクラップ化してしまった如くである。又、木製砲も笑ふべきでなく、長州は外國軍艦の砲撃に敗北したが、明治建軍の祖と云ふ大村益二郎の軍艦は、艦が沈んで大砲が浮いたと云ふ話がある。これは木製であり疑似砲であったからである。然しその心の壮なる、知識慾の旺盛なるは賞すべしである。又日露戦争頃の旅順攻撃には優秀な大砲もあったが、不足し木製のものを以て威嚇したらしく、その数280砲と云った。又、我々の小学生の頃、日独戦膠州湾攻撃の際、独軍が砲も人も木製にて威したることあり。正義の戦術もなかなかにして、何と云っても當時の人の一事一長の努力が分かる。
 扨て、天誅組の変の當時、有蔵では鎖鎌を持ち緋縅の鎧着た東中の小平と云ふ人が通行人を取り締まってゐたと云ふ。(幕府軍の)本流は萩又は龍神筋に備へあり。(首領の中山忠光)一行は、初め南下して海に出るべく構へしも、(道が閉ざされたため)やむなく北山を経て脱出するほかなかったらしい。そして鷲家口の井伊勢突破となるのである。

( 268 ) 第二次大戦時のこの辺りの思ひ出

 物の欠乏は食に至るまで甚だしく欠乏し、窮乏し、財あるものにても曼珠沙華の球根を喰ふなど、衣料類はすべて配給係ありて物資を配給したり布(キレ)など切り分けたり。菓子も分け、缶詰も服(スフ製)も籤引き、不要物の交換あるいは貰ったり、要らぬもの、例へば水筒の紐でも不味いものでも強いて受け取ることとした。特に幅を効かしたものは米麦のほかに酒、砂糖、布類、服類であった。生理綿もミルクなども配給であった。
 一切、かくなりき。マッチ一本(戦後もしばし)、煙草も隣組を通じて配給。宿も制限を受け、初めは一定の容器持参、次には米持参となり全く困った。町も山も食料、甘味のもの、そして酒類は一切姿を消してしまった。(一部は別だが)
 紙も不足して雑誌、製本も寥々業務配給、カステラ類似のもの新宮などで出ると列をつくり、煙草も御多分にもれなかった。庶民は随分困ったのであるが、かうなるとただ強いのは自作田ある家または日鉱の如き大きな会社で、軍に上手く取り入って、資材も労力も手に入れ、人の嫌がる徴用免除すべて優先、幽霊は勝手、終には軍隊まで騙して石コロ同然のコバルト鉱を堺の部隊(輜重兵及び工兵)に馬で搬送させようと考え出し、地方の民を欺き、眼にあまる國賊的行為をした。或いは、品物を流して己のみ暖衣飽食、實に許しがたきもので、結局日本中斯くの如き、滅亡日本に拍車をかけて、兵に何かと不自由させて□□を早めた。(戦後は姿なきこの凶盗は、消へ失せた。)戦時中は日用品の配給は郵便局長経営の店一軒で行い、局員も軍隊式となり配達終了後は局長の前にて直立不動姿勢で報告と云ふ馬鹿げたことも國民はやっていたのである。
 ここでその當時をみると、小農は配給にて反って砂糖、酒など得るやうになった。入鹿の鉱山辺りから醋酸、鍋、カーバイドなど持ち來、芋、麦などと交換したものである。(戦後しばしの間も暦賣りに來るもの、目覚まし時計の中古を買ひに來るものものあり。また魚賣り、ラジオ賣りも來た。)北山からは上葛川辺りへ乾芋(カンピョウイモ)を買ひに來たと云ふ。また戦時中には衣料の古いものを求めて來るものもあり、我家では与へたことも多かった。思い出せば夢のやう。
 瀞ホテルには部隊が陣取り、新屋敷を部隊の馬の係留場所として貸した。部隊の動きもあったが、無用なものだった。道の悪い牛道を馬に引かせても知れたもので、よく採算あるものと思った。兵の食料、馬の食料、滞留費その他の費用、實に莫大なものであった。これに平然としていた國民、つまり陛下をいただいた命令。その呵責なき執行の下達に在った軍は、至上の天皇と連なり、身を鴻毛の軽きに比し、東亞新秩序確立のため米英など撃滅するための國家總動員であったのだ。警察などは威張り、何も來ぬと分かってゐる日に灯火管制とし巡査(特にMと云ふ巡査は、己は他人を脅迫して私腹を肥やし、遂に増長して、戦後酒の果て署長にピストルを向けて一瞬の罪にて官界を棒に振る)は喧しく怒り散らし、我々も怒られたものであった。どうも人間の種の特色か、國土の関係か、皆臆病でコセコセしてゐた。兵の長が盗み出す軍需品も大きかった。軍規も乱れてゐた。少佐殿は時には來たり、馬に乗って葛川道の奥行きは恐ろしかったであらう。馬もたびたび轉落、将校も一度負傷したことがあった。森林も軍事色が濃くなり新宮に地木社出現して、平石等の美林を賣り伐るを余儀なくされ前阪武正の如きは、我の小さな枯野谷の杉も伐りさうとかで、父と喧嘩したのを覚えてゐる。これは意地悪であり、思い上がってゐたらしい。理屈(理由でない)の中に、我の無免許医を云ってゐたが、その後同人の娘の医大入学の豪語も露と消へ、立場を異にした浦地君も組合にいた関係上、唯一の山をたった1万2000円で賣り代金も何ケ月か後であったと云ふ。
 都市の憲兵の在り方も分かる。同胞を苦しめて、一つの機関が(國を)喰ったと云ふ訳、何で世界相手のちっぽけな國が勝てるかと、今になってみて可笑しくもある。竹槍の百万本論、新宮辺りの防空濠、焼夷弾の排除訓練などハエ叩きの如きものにて、バケツリレーも何もならなかった。一度一發の爆弾が池田町に投下され、その油脂性は壮烈な燐弾、百發に分解し徐々に熱量多き火飛び散り、忽ち全焼してしまった。軍人会の戦車破壊攻撃も木の枝の多きなるを縄にて引きずるだけの、洵に馬鹿なエネルギーを消費したと云ふべきであった。
 人々は次々と引っ張り出されて、折立にて泊まり訓練、もっぱらの濠掘り、リヤカーの徴用、慣れぬおじさん達の棒のぼり、駆け足、眞に大変な騒ぎ。観閲点呼を文武館でやったが、石黒大佐執行官殿が宿で吾人の口に出來ぬカシワで酒を飲んでゐた。當日は整列して並ぶだけ。ろくでもない曹長殿に殴られる者、教練の時、あわてて池に飛び込む者、いやはや當時は脅へ切ってゐるから固くなってゐるものの、その見送りの様も米國・英國が見たら全く滑稽に見え、腹を抱へ笑ったに違ひない。もうこの時は(日本は)負けてゐ、大本営の發表は嘘であった。
 今でも覚えてるが、身体検査のとき役場吏員出張、臨時の軍医(平谷の□□医執行官)などの前で皆散々の藝當をしたものであった。軍人万能の世の中であって、最後は日本丸と云ふ國民を三流半國へ、一切を捨つる如く捨ててしまった元凶と云へやう。自覚も自信も、原子すら2000年前に云ふ思慮のない、彼我を知らぬ、ただ感情一点の独善的な戦ひであり、空も海も陸も盲滅法無茶苦茶の日本であった。内部の生活かくの如し。軍関係のみ料亭満員の予約済み、推して天日を仰ぐ如く知れる筈をし。東昭雄(竹筒の逓送人)と一緒、船なければ村の見へる岡に立ったある日、新宮方面遠雷の如き音あり。(川を)下るを躊躇せることあり。玉置永彦老の防空頭巾姿を見た。新宮の無理な防空壕、小さな壕、裏山を爆藥で掘る防空壕などまるで人々は尋常の想なく、助かる為にウロウロの如く見えた。グラマン艦載機の襲撃、潜水艦砲の射撃に加へ、B29の編隊、全国主要都市攻撃のひっきりなしの7-15機の爆撃隊、何日もその砲の届かぬ成層圏を飛行する様、恐ろしくも羨ましくも後になるにつれて眺めたものである。一度吉野屋と云ふに泊まりをりしとき警報あり。待避せよと九重の石垣と云ふ人と共に在り、刀の話をしてる折りであった。同氏の顔も尋常ならず。トラックにて皈ると云へるを思い出す。
 鵜殿に爆弾落ち、6ケ所あまり住宅地より外れし田に大穴を開けて池となってゐるのを見た。又、阿田和では汽車がやられ、且つロケットを用ひられ、大勢の人死せしを知る。又、井田海岸の元日に遊ぶ人の前に突如として魚雷來り、一發は爆發し一人を殺し、200m離れし学校の窓ガラスの一枚もなかりしこと。新宮大橋に爆弾落ちて、幸ひ少しのことで外れしも、その破片橋を突き破り、橋を狂はせしこと。中瀬古守章君、眼疾のため相筋に在り、この時の音は夙にハラワタも飛び出す程であったと云ったこと。日杖の上の山に焼夷弾落ちて山を焼きしこと。
 十津川にも在りしこと、一度妻の家に在るとき変な音して爆弾落ち、我色をなして防空壕に入りし。又、帰宅の途、新宮駅付近にてB29來襲、壕の極めて不完全なるものに入りしこと。實は、機の頭上にあるときは恐れる要なしと人の云へる。返って後方にあるときは恐るべしと人は云ひしことを覚えてゐる。
 艦砲射撃の弾は熊野地にも落ち、中森歌吉伯父の長女は田戸に逃げ來りしこと。歌吉伯父の疎開荷物來しこと。やがて他の人々も続々と疎開荷物とともに逃れ來りしこと。東安清一家は中井の倉に。瀞亭には中信重の伯父保市夫婦來りしこと。手前も中二階には堂ケ谷鉱山の阪本と云ふもの在りしこと、同人の故郷粉川では機銃掃射を受けて死人も大分ありたる話、又熊野地に落ちたるとき、一つは墓の中に落ち新仏を飛散させた話。もう一發は住宅地に落ち、死人も負傷者も多く出て、藥剤師山本君も救助に行きし話あり。ある人、病で寝てゐて布団もろとも吹き飛ばされしも助かりし話。(運の悪き人は飛んできた)剃刀の如き小破片で首を切られ死んでゐたと云ふ話。又樹木なども強力な弾丸にて伐られし話。あるいは壕より首を出してゐて爆風に殺られた人の話などを聞いた。この時、東中の入鹿と云ふ菓子屋の妻(葛川中文治の娘)と児の二人歩行中この厄に会ひ、児は土塀に隠れ、母の方は路に在りて小破片にて殺られた。玉置山の横手でたまたま機銃にて狙撃されしもの。十津川山中の炭焼きが殺られしこと。B29の予備タンクを拾ひしこと。また、勝浦へ一屯爆弾が落ちて大勢死傷したこともあった。その時に驛のコンクリート壁のベンチにかけありし5人が全部爆風のため死んだこと。丹鶴町の橋の一部に爆弾の穴あり。又、旧女学校もやられ、ある教師の頭は城山にあったこと、テンワヤンワの世の中であった。
 ある日、瀞の空に友軍の機と敵軍の機がわたり合ひ、殆ど垂直の猛速にて追撃したる友軍機、敵機は飛行機雲を長く引いて飛びし様を見る。この事を竹筒の笠と云ふ男、何かと云ひて流言、前田巡査に取り締まられしこと。夜、上空にて気味悪きB29の独特のプロペラ音を聞きしこと。敗戦近くなりて、愈々窮迫を告げ、堪へられぬ心になりたるを覚えてゐる。いよいよ鉱石(石膏同然分析不能)運搬部隊が去るとき、「もう少しでアメリカさんの旗が立ちますから御安心を」と云ったのが、今も耳の底に殘ってゐる。

注-
・竹筒(タケトウ)-十津川村の一部で最南端に位置し北山川沿岸に在る。
・九重(クジュウ)-現熊野川町九重-竹筒の隣。北山川沿岸に位置する。
・日杖(ヒヅエ)-現熊野川町日杖-熊野川沿岸に位置し新宮市に近い。
・相筋(アイスジ)-新宮市内の地名
・熊野地(クマノジ)-新宮市内の地名
・丹鶴町(タンカクチョウ)-新宮市内の地名
・鵜殿(ウドノ)、井田(イダ)-三重県。鵜殿村は熊野川を挟んだ新宮市の対岸、井田は鵜殿村に隣接する。

( 269 ) 昭和18年第一回大地震のこと

 昭和18年、戦争もいよいよ急迫、人も兵器も物資も欠乏し、見すぼらしいいじけた様なこの地方にも、60年ぶりの大地震が新宮市を中心として發生した。南部紀伊半島は大小この厄にかかる。思い出すたびにゾッとする。あの鳴動音と振れ方、家の揺れ、道・宅地の破損、家の損害等自然の力は如何なる時も人力を絶する。文明を謳歌する東京都に今一度大正12年の関東大震災の如きが起こったら如何だらう。官庁街、鉄道、水道、通信、電氣、道路、住宅等あらゆる一切の東京の客観的財物、そして組織も幾十万の人命も須臾にして滅ぼされしまう。(関東大震災のときは、)一種の蜚語による動乱(朝鮮人)、無力と化した警察、殘酷なる賊徒と化する日本人、瞬時のうちに暗愚の町、愁怨の町に変はってしまった。地震は全く予測すべからずの人生の大地獄と云ふべきだ。その時は紀南にさして被害なし。少し震へたのみであった。但し、第一波と第二の間、5分くらいか。
 我中学の1年の頃か、田辺の湊通りの下宿にて、折節午の食事のため学校より帰り、之を済ませて友と2~3人窓に出て町通る人を陽を受けてのんびり見下ろしてゐ、明日の試験のことを話しているとき、(正午12時に至らぬ前であったが)俄に激しくはないが家がゆっくりの周期でぐったりぐったりと大きく揺れた。第二波はそれほどでなく小さく短期間。第一波のユラユラは時間的にも永い様に思った。
 大したことはないと思ひ、授業終わり宿に帰ると号外の鈴の音。ニュースの掲示で初めて全滅的な関東大震災のことを知った。その明日は戒厳令發動のことも知り、一同驚き、講堂に会し物理の先生より(地震についての)話を聞いたものであった。地震に脅へてゐる先生も生徒も3日目のこと(漢文の授業のときであった)、俄にパリパリと小さい地震があった。その瞬間の騒ぎで、氣がつくと生徒は廊下より庭の仕切りの上に馬乗りになってゐ、先生も廊下に飛び出してゐた。出口にあった我の級長席こそいい面の皮であって、突きまくられ、インクもひっくり返され白服はインクだらけだったことを覚えてゐる。後、復興節と云ふ歌流行、「ノンキダネー、ノンキダネー」とやってゐた。
 後年、橋のことにて浦地君に誘はれ、我夫婦も共に上京した節、(東京は)復興してゐた。否、急造の町の感あったものである。それは、世界二大地震國の一つの証であった。
 余談は置き、當地方の大地震のことを述べると下記の如きものである。
 昭和18年12月、晴れた日であった。我と父と二人のみ家に在った。家の向かふに當時ゐたのが、いま新宮へ越した森一雄夫婦と娘達であった。長女の娘かづ子は我家の新屋敷と称するところに一段高く蔵屋敷と云ふところにあり。倉庫も在り。記念物になる如き檜の大板、柱、□、ワイヤーなど一杯入れてあり、それでもまだ余地を殘してゐた。そのかづ子、我家の張り板を借り、糊張りをしてゐた。午前のこととて之(かづ子)を呼んで森の妻午食せんものとしたらしい。我の方は父と食事を済まし、父は新聞を、我は店の間に出て腰掛けて何か書いてゐた。人通りもなく、森一家の聲のみ聞こへてゐたのであった。
 突如として地震は怒り振るった。甚だ急激に強く揺れて経験の外にあったので驚いた。氣味悪いギシギシゴトゴトの音とその震動、而も揺れ方は完全に人を心身呪縛してしまふ。(我考へると逃げ出す足もままならぬこと、地球の自轉にこの運動が干渉されし為なり)時計も止まった。家は揺れて、ユラユラ往復運動してゐる。山の鳴動音も聞いたが心地良いものではない。岩石の轉落して淵に飛び込む水の音、そして岩石の土塵浮き上がり、忽ち濁る淵の水、鳥も飛ばず鳴かず、犬猫も何か不安らしく神妙にしてゐる。
 茲においてこの小さな社会は確實に攪乱されて常軌を失ってしまった。我は庭に飛び出す。但し、裸足のまま。森方より森の妻・娘と出でくる。我家の倉庫のあたりを見ると、波の如く石垣は震へ、岩も少々、家も大分地鳴りして揺れてゐる。途端に我倉庫屋敷の上方の返り石垣、膨らんだと見るや山もろとも忽然と崩壊し來たり。忽ちの間に倉庫も屋敷も森の娘(かづ子)の板も布もアッと云ふ間に埋没してしまった。後から後から岩が崩れ落ちる。
 如何にも永いやうだが少しの時間の描写である。石垣崩るるを目撃した森の妻は、ワッと泣いて我の左の手にぶら下がり、右の手に娘がぶら下がって驚きの泣き聲をあげてゐた。我は落ち着いてる訳ではないが、このワッと泣かれて初めて自制心が起こった。森の妻は娘が危機、それこそ帰り着いたとたんのことで、まさに危機一髪の処で助かったこと、危なかりしことなど様々の心であっただらう。瀞ホテルや中瀬古も向井へ避難した。
 その後見ると、地震の震動脈はこの辺りより次第に上行して、杉岡、クラブ(集会所)、東、そして上田に至ったらしい。最も杉原より斜めに東一郎の辺りへ集中したらしく、上田の隣の中井、浦地も大したことないらしい。但し、石垣又は山石の轉落を恐るるもの、大したこともなかった。我家と瀞ホテルの間の小石の石垣も案に相違して、また義明の宅地に大なる亀裂ありしと云ふも、あの小さな石の石垣はよくぞ崩れざると思ふ。
 上に登ると、先づ我の屋敷の駐在所上の三角形の辺り、少々亀裂あり。道の崩れたるところ、肘の谷と杉岡の下に少々亀裂あり。次にクラブに行くと庭に大きな亀裂あり。杉岡の家も少々動いてゐるし、クラブの上の岡より見ると,上田のか東のか分からぬが、石垣石がいくつも畑へ飛び出してゐた。上田へ行ってみると東との間の石垣(ツイヂ)7分まで崩れあり。上田の門前より一面石垣も何もメチャメチャになってゐ、家も狂い、驚いたことには障子の紙もことごとく破れてゐた。その他、上にかけて石垣の崩れ、屋敷の半崩などがあった。そこで考へる。石垣とくにツイヂと云ふものや石垣では角の部分は如何に大石を使ってあっても弱いもので、それは新宮城跡の石垣でも水野侯の代々の巨大な墓碑の転倒でも分かった。
 次に堅固と云ふものは、ほとんどは概念的であってコンクリートを使っての建築も地震に絶対安全とはよほどの考へを要するもので、絶対と云ふのは津波の來ぬ、山崩れの心配のない土地にコンクリートの塊の如き家を造るより外なしと思ふ。普通の木造や何か、却って地震の周期に逆らひ、余計破壊されるらしい。このことは新宮の寺で分かった。ユラユラしても地震の周期に合ひ、タイミングよく動ひてゐる方がよい場合が多い。勿論、これも程度問題である。一瞬の間に大被害を与へる自然なれば、注意すべきである。東京都を主とし立ち並ぶ耐震耐火のビル、夢のロマンスカー、オートメの大工場はよいが、自然の怒りに会へばひとたまりもない。所詮人間であるから、火事と云ふ二次的の大害の王者のことも戒心すべきである。
 その頃、新宮では、妻ら奈良地方木材社に勤務してゐたらしく、この時この建物崩れ、一人の男落ちるレンガ瓦で脊髄断切で死んだそうだ。アスファルトの道路、波の如し。丁字屋潰れ、客2~3人圧死あり。倉庫など倒壊も多く、倉庫へ物を出しに戻って死んだ者、宿の潰れしものなど大騒ぎ。戦争中とは云へ、母と二人、弟は中学1年、全く疲れ果てて苦しんだと云ふことである。家は殆どひっくりかへりかけ、納屋は潰れ、階段は落ち、その跡の取り片付け、家の修理に、食料難の時とて全く困ったらしい。
 新宮は第二の余震の時は、地震よりも切目屋の出火による大火事の痛手の方が遥かに酷く、新宮人を苦渋のどん底に陥らしめたのであった。第二の余震の時は、妻の母は大したこともなくて良かったと云ったらしいが、何ぞ知らん、新宮市を殆ど焼き尽くす大火となった。火は変にウロウロと廻り焼いたものである。
 當地(田戸)では地震は恐ろしかったが、庭へ人が集まる程度で大したこともなく、山口の畑の崩壊、我家の倉庫屋敷の上方の再度の崩壊、中正明の前庭の崩壊くらいであったが、通信は途絶し、新宮あたりの被害の状況を知る由もなく不安であった。十津川入りする人をとらへ、尋ねるに妻の生家辺りは出火の何時間後焼けたりと云ふ人あり。心配したものだ。
 我、見舞いを兼ねて下新して驚いたものであった。以前の記憶にある新宮市はまるで姿なく一面の黒き焼野ガ原、大橋のところを成川より見ると、見渡す限り黒々とした哀れな原となってゐた。うずたかい缶詰の焼けた、瓶類の溶けた跡、又早川医院の大きな建物も、そして永い関係のあった三つ葉藥局も全て一切全て影を消してゐた。氣の早い者は焼け跡の整理、川原へ焼け瓦など壊れたもの一切を車で運んで捨てた。川原には、そんな物が山となってゐたし、仮小屋として戸板テント、タンスその他家財もろともの俄バラックや小屋ができてゐた。妻の一家は、城山に近い公會堂の瓦小屋を仮に住まいとしてゐた。兄も嫁も手傳ひの縁者もすべて異常の風体、異常の態度で元の生活を取り返すべく懸命であった。市内の人々も同様であった。
 歌吉伯父は大寺に避難してゐた。妻の中兄は住む家を焼かれて妻の家に。まるで新宮は戦争の様であった。城山の石垣に登り見下ろすと新宮は惨憺ものであった。寺の類は築地、石垣と広い庭又は山を背にしており焼けたものなど我は見なかった。以前の地震のときは全龍寺(新宮十郎の發生地)その他頑丈な建物は却って大狂ひを木組に生じ、専門の修理屋がワイヤー、ジャッキなど利用してゐたのを覚えてゐる。
 窮乏でなく時代が落ち着いてゐ、道徳もあったなら、たった一軒を火元とする火事、消防署と協力して、たとへ水道は不十分でも防火帯を作るなどして消火することができたと思ふ。人と云ふものは、かかるときに團体の精神、高き道義がわかるが、然しかうなると殘念ながら新宮では、よし一部に心ある人ありとするも、自制を失ひ瞬時には完全に野獣となる。火事の如きことにも心に関心をもたず、人間らしい計企もなさず、ただ自己の利、而も原始的を望み、労力も我に降りかからない火事などには之を捨てて為さず。話を聞くと、火事場泥棒横行、居酒屋など手傳ひに多く來たりて之を為さず、酒を酌み飲みしたる者多いと云ふ。
 自轉事、トランク、梱包物、手輕の財物などうっかりするとすぐ盗まれてしまったと云ふ。他所より入り込み狙ふ者も多かったらしい。昨年、伊勢湾台風の被害地へ百何十人の海賊出現の如く、昔を遡ると難船の荷を略奪、船夫殺戮を常としたる處ありし筈で、後に之を祀ったと云ふことも日本津々浦々にあった。尤も之は生活に窮したる果ての行為ならんも、これはこれ、数時間の内のあまりの豹変ぶりを示したものである。
 當地出身の明治の國学院出の中東瀞月の家は立派であったが、防火帯の故をもってダイナマイトにて破壊されてしまった。然し之を取り片づけて完全な防火帯としてしたものでなく、水に対しても恐らく全ていい加減で、大火事となってしまった。
 ここで思ふ。警察の悪かった面もあった。戦時中又戦後の世論で批判されてゐるが、もし世の中に警察なく軍刀のバックもなかったならば、丁度あり余る日光、水、空氣の如くただ物の有難さを人は忘れてるやうなものである。概して人は、指を傷つけて初めて指の機能(有難さ)を知るくらゐのオメデタさである。ある家の風呂は鋳鉄で水なくば熱で破壊を免れぬところ、(全焼したが)この風呂のみは水を湛へありしに完全に殘りしと云ふ。
 その後、火災保険などで大分非難の聲が起こったが、支払はれなかったらしい。破壊は建設の基と云ふ関東大震災の如く、新たに町の相貌も一変できたのである。新宮はこれで50~60年目の火災と云ふことである。それでも丹鶴町、馬町、相筋辺りは殘った。富豪の多い船町は全焼してしまったのである。この第一、第二の地震騒ぎのおり、一つは戦争、二つにはその混乱で、我としては煙草の運搬に手をやき、買入れにも全く困ったものであった。
 阿田和へ廻り、トラックそして舟と云ふ順序に全く困った。人々は受け取りに來る。ニコチン中毒で仕事も出來ず臥せる人あり。朝鮮人を頼み、煙草を与へて(光、みのりと云ふきざみ)持ちに行かせたことも何回かある。又、トラックで運送の途中、はこが破れて金鵄、光など一箱ないし三箱盗まれしこともあった。農業會も主食の輸送に紀州鉱山の索道を頼んだり、プロペラ船に頼むと座蒲団の下の盗んだ米も黙認せねばならず(プロペラ船も主として木炭ガス)、相対的に幾許与へるとしなければならないやうな、金の力の弱い時代で、非常に苦心したものである。小川口まで主食を受け取りに行き、我も計ったことがある。
 第二の火事のときの新宮では哀れな話も聞いた。家が潰れて下敷きとなった人、道行く人の足元を見て、出られぬまま助けを乞ひしに、通行人も何とも為す能はず、本人も力なく「助けてくれえー」と叫ぶのみにて、焼死せるものもあったと云ふ。鋸、斧など取り出して現場へ向かって救助しようと云ふ心の發生もなかったやうである。
 然し、区劃の整理もでき、市営の住宅も建ち、各々の家も建ち、妻の家も建って移り、新しい新宮は出來上がったのである。
 勿論、世の中には悪玉もあり、数々の毒牙にかかりし人もある。一例で云ふと市営住宅を申込みて、ドサクサの間に家の外にもう一軒分の敷地を占拠し、鉄条網を張り巡らし、李ラインの如く既成事実を作って平氣な人もいる。實はこの人は、他で立派な住居をもってる男である。だから、火事場泥棒の外にこんな人あり、世は難しい。

( 270 ) 此を書き殘す意義

 万象は流轉し今日よりは明日、10年前よりは今日と、敗戦日本も世界の國も人の世は等しく文化は進み發展し、過去の全ては古いとて流されてゆく。然し、拱腕して考へると先人の積み重ねの上の今日の文明であって、而も抽象具象、時を更へてみると我々祖先の行為には笑ひごとで済まされぬ。善いことも秀れたことも努力の様も幾多あり。今、我々は之を探り得て感謝尊重すべき点が實に多い。
 温故知新と云ふ言葉あり。昔からある言葉であるが、吟味すべきことである。先人の為した善い面を知って之を尊重し、現在の自分の發奮的立場を自覚し、明日の拠り所とするのである。新興中國でさへ世界一の發掘隊を組織し、周や殷の時代の土器や竃の跡を調査してゐるではないか。共産主義の國造りに余念のないこの國、前年遂に敦煌と云ふ塞北の砂漠の果てにて當時の中、西の要路たりしところの宝庫を發見して偉大なる千年前の藝術の粋を我國にももたらしたのである。日本でも頻りと發掘調査や復元、修理、改築、保存、指定と云ふやうに大がかりな委員會を組織して法律の下に文化財保存に尽力してゐる。個人の肉体はまもなく滅びる。敗戦の日本は今やかうした面で進んで行くより道はないやうに思ふ。
 考へると、田戸部落ほど遅く發生した里もない。瀞峡と云ふ地質学上貴重なるものを抱くが故に世に知らるることになり、急速に天下の注目を浴びるに至ったのである。
 然し、我々はそれだけで満足してはならない。寺の一寺も優れた設置物もないけれど、たとへ一つの傳説でも説話でも、道具の一つ、山の名一つでも、一基の墓石でも物語でも、自然物の一つでも、踊、祭、風俗の一つ一つでも、まりつき歌でも、全て之を取り上げ考証して、暗闇の彼方へ忘れ去られ消え去ることを惜しんで、何らかの形で保存し、そして今後に傳へしめねばならぬ。義務でもある。必ずや今後に良き結果として現れるであらうことを我は確信するのである。