母の水汲み姿
(図43)母の水汲み姿
母が14歳で我家に嫁して来てから40年余り、飲料、風呂水を北山川から汲みあげた。途中一回休むのに「おこ」を(肩から)外さず、図のような姿勢で休んでゐたのが、今まだ瞼にありありとあって、栓ひとつ捻れば内かめ、風呂、撒水に、ジャアジャア出る当今の有様に感無量なり。その時の母の服装は、手拭い被り、袖なし、はんちゃじばん、前垂れ、腰巻き。山稼ぎに出るときは、手甲と脚絆をつける。
ランプ
(図44)ランプ(7ミリ=二分芯)
ホヤ(ガラス製)が被せてあるので煤煙のないのが良い。我家8歳頃より養蚕を始めたれど芯15ミリを使ふ家点々と現れたり。
カンテラ
主に炊事場で使ふ。芯の巾7ミリ。煤煙強く白い物の汚れがひどい。
小間物売り
(図45)小間物売り
桐の箱で輕くしてある。何段も重ねてガサは非常に大きく、狭い道は難儀してゐた。中の商品は、針・糸櫛・かんざし・たけなが・爪切り・びんつけ等々、比較的輕いものなり。是を担いで五條から天辻の険を越して十津川に入り、ここら辺までやって来た。ある一老商人は(猪の皮だと云ふたが牛皮かもしれん)、四方をつかみ上げて皮紐で括った靴?を履いてゐた。勿論右左自由。この荷ン棒は(方言ではオコ)ムクロジの木が最上なりと云ふ。
下葛川校
(図46)西紀1911年(大正8年)、俺が小学校に入った頃の下葛川校(尋常5、6年と高等科1、2年がゐた。)には、校庭の眞ん中に老木で幹の曲がった、花が良く咲く桜があった。この学校創建当時作ったらしい前側の塀が腐朽して、その代はりに杉の小苗が植えてあった。教室の傍らにも山桜が二本あった。
うしろ側の先生住宅の左端が裁縫室で、生徒のほかに卒業した娘さん達も習ひに来てゐた。
生徒は、朝登校すると、まづ第一に玄関前に不動の姿勢をとって最敬礼した。それは玄関上り付きの教員室正面に天皇陛下の御寫眞(御眞影と云ふ)があったからだ。左側校合の前側が教室(一室で5、6年と高等科1、2年収容)、眞ン中教員室と標本室。うしろ側(山の手右側)雨天体操場。
杣師の角はつり
(図47)杣師の角はつり
「立派な杉檜材でも四角に削り取ってしまった。」との話を父に聞いたが、俺等の子供の頃は、そんな事はなかった。
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