( 171 ) 再び瀞和歌山側の大蛇のこと

 以前に北又のインテリ炭焼き藤岡と云ふ者、水源地辺りで大蛇下り來るに出会ひ肝を潰したと云ひ、また三年程前に(この観光ブームの時に)、易者が再度大蛇に出会ひ玉置口ヘ逃げ、顔色なかりしと云ふ人ありと云ふ。第一、存在するとせば、肉食の彼は食餌に困るはずなり。どう考へても幻覚よりは考へられぬ。
注-(以下は東直晴氏の考え)
 2人(藤岡と易者)の見た「ぐちなわ」は、何れも胴の周り一升瓶位ありと。殊に藤岡の見た際は、(ぐちなわは、)初め道を横切り川の方へ下り行かんとしてゐたるが、人の氣配せるため、藤岡の方に首を向けし時は、両眼は親指の爪位あり、キラキラ光る。舌べろは、5~6寸ペロペロ出し入れしてゐて、思はずゾッとしたりと。暫く対時の後、大蛇は元來た山へ引き返しため、藤岡は峠まで無我夢中に駆け上り、山の自宅に皈りしと。
 翌日、再び田戸へ昨日の用を果たすべく來るのに、一人にては恐ろしく、長男12~3歳を連れて來る。この話を聞き、現場案内により行ってみると、なるほど生ひ茂る羊歯が両方に倒伏してゐた。丁度、材木でも引き出したるやうに……。
 藤岡と後の人(易者だったと云ふ)との時間的な差は、約13~4年位か。大蛇の出現場所は同じ道で間隔約50間(100メートル)。中森氏の言ふ如く、幻覚とするには、大胆な山人(炭焼き)藤岡が見て、また羊歯の倒伏せる状態より判断すれば、いささか物足りぬ判定の如し。現在日本の□□蛇の大なるものの限度を動物学者に聞きたいものだ。

注- ・この話は第24話にある。

( 172 ) 蜜蜂をつけると云ふこと

 今、飼育さるる蜜蜂は分蜂のとき、飛び去ることあり。任意の巨木の洞穴などに巣をなして、時には8升も蜜を得たと云ふ人もあり。
 この山蜜を身近より追究して山深く至り、之を發見する人ありき。まず近辺の□□□の辺りにしきりに蜂の來るとき、蜂蜜を小皿に入れて側に置くと忽ち之に蜂集まる。次にその來り通ふ方向を定めて、徐々に之をすすめる。何処の山へゆくか分からないが、巣の近くなれば蜂多くなり、通ふことも煩雑となる。遂に近づき巣に至るなり。
 (蜜蜂の巣を探すのは)大体暇人に多く、近頃は偶然見附たり。木洞に予め石をつめたり(小穴を残し)する人あり。
 蜜は隠花植物の栂、樅の花は一番良いと云ふことである。

( 173 ) 再度、木地屋のことに就きて

 立合川(タチアゴ)の嶮岨は誰も知る。之を谷に沿ひて2~3里も行くと、平地に出る。(之はこの辺りの地形で、掘れて出來た地質は下流ほど嶮しい。上流ほど平坦か、移動し易きところとなる)(ここに)立派な木地屋の墓ありと云ふ。いくつも大小まじへて存在するらしい。木立に苔むして、元禄15年の年号もあるらしい。その頃、既に例の轆轤(ロクロ)と云ふ器(道具)をもち、独特の木地のままの椀など作り、長袖(喬長親王の裔として)と称して奥山に入りつ。
 里人に超然として、山窩とはっきり区別して、相當の間、立合川にも、いや奥の奥、葛川東中あたりの近いところに永年住んでゐたことは確實である。
 何と云っても不便嶮岨なるため、我々若いうちに行って見なかったことは殘念である。人に聞いたとて、その人の考へだけで何としやう。もはや行けない。噬臍の悔と云ふもの。

注-
・喬長親王は惟喬親王の誤り。
・立合川については、第三巻の上葛川の項に木地屋との交流があったことが記述されている。なお、木地屋の集団は、その起源を惟喬親王としており、貴種伝承で誇りをもち、同時に一般民に対しては超然とした態度をとっていたようだ。
・噬臍の悔(ゼイセイノカイ)=ほぞをかむこと。後悔しても及ばないこと。〔左伝荘公6年〕

( 174 ) 田舎へやって來た我の覚えの芸能師

 まず、祭文語り、漫才(三河)、浮かれ節。浪花節は吉田奈良丸が忠臣蔵を出してより全國を風靡したるものなり。我入学の頃(7歳)、最も盛んで義士の浪曲はザラ本または書物となる。小学生の間でも之を眞似てやったものである。女児にも少し流行った。カルタも菓子類も「義士ピエール」ありたり。巴の紋、夜討の装束と輪郭(ギザギザ)など。
 猿廻し、肩に猿を担いで突然やらせる簡易な芸。
 デコまわし(これは最近まであった)、エビスの2~3尺の大きさの人形(汚れたいいかげんなものを持って來て)を戸口で舞はす。
 「西宮のエビス三郎左エ門殿が、善なる人には福を与へ、ひっくりまっくり雷とエビス様、浮いて來たタイを釣って引っ込んだ」
の如きを唄ふ。後にはあまり來ず。主として漁場の漁夫達が(デコを)担ぐのを利用して、文句も曖昧となり、金色夜叉を唄ったり、ろくでもないことを云って魚をもらったさうである。終戦後もこの歌はよく聞いた。
 次に剣舞や手品、三河流を取り入れし旧風の漫才。之は宿に泊まりて行ひ、前記の者は戸口で5分か10分して去ってしまふ。
 活動寫眞(エーテル酸素、トリュウムの光源による)もちょいちょい來る。之は然し比較的古い歴史あり。我等5~6歳で、前口上の長い外國物を見たことあり。
 この間、亜流の又亜流の自称浪曲師も入り込んで來た。漫才も時折。そして戦時となるや、講談師と云ふ(板橋明善の如く最近までのもの)ものが來るやうになった。競爭もあり、全て時局を取り入れて手振り、顔、聾、□の扮装や器具を加へて人を緊張させたり笑はせたりした。
 また、戦時中は、役場あたりの紹介を持って浪曲師も來た。鉱石運搬(何にも役にたたず、國を喰ふ)の兵隊を慰安するとて新宮より芸者、□奴、コトブキの手品も來た。またコマ師も來り、その他いろいろの芸師も(手先の)やって來た。(コマなどは兵士と無関係)終戦後は漫才、浪曲師などいかがわしいものも來た。食糧事情の良くなるにつれ、又生活の波に揺すられて芝居も顔見世廻りをするなど、山に或いは道場に泊まったりして興行したもの。最近もあった。大勢を抱へてやって來るものもある。
 映画に変はってから、24年頃より16mm宣伝用のものは役場より來るやうになり、その後新宮の伊藤その他35mmの広角映写など次々に入り込み、時には縄張り爭ひして現時に至る。個人でするものもあり。部落で(上の部落)技師を呼んで映す時もあり、学校も呼びて映すあり。

注-
・ザラ本-粗悪な紙質の本
・上の部落-田戸在所部落のこと

( 175 ) 労働者賃金のこと

 我の15~6歳の頃、「ここより新宮までの船賃は5~9円」の送り状を書いたことを覚えてゐる。上り船はこれより倍位なりしか。但し、一隻(人夫2人)である。今日、東房松老人に聞く(45年前か)。山稼ぎして1日35銭の賃、そして米1升21銭なりしと云ふ。米の割にしては安いやうだが、消費の面でも今と異なりて、とびきりだったと云ふ。
 軍手、地下足袋なく、させてもくれず、(それでも)大いに働いたのであらう。
 船の方も結構遊び、泊まり船しつつ財をなした者もかなり木津呂あたりにある。生活の水準が上がった現在は、7~800円も取る。然し、なかなか財を作る者は少ない。服装やカメラ、旅行と出費に嵩む。そして、かうなると職は失はれる方向に不安は進み(機械文明らしきものも山へ侵入し、開發ブーム、人口増加、□□学校、その他)ゆく。かうなると教員とか郵便局員とかが却って生活が良くなる。(保健の面、購買の面、恩給、ボーナスの如く)小を積んで大に至らんとする人の方が、却って安全、安定である。失業には組合あり。能動的でない場合もあり。人により獅子舞の後肢として嫌ふものありとするも、人は相対的、それで良いと思ふ。
 明治18~19年頃、新宮に集まる木材の金額を屏風の新聞に見たることあり。それによると1カ年70万円とあり。今と比して甚だ感深い。

注-
・東房松-セセナゲ水を嫁にかけた弁治の子、現戸主の父。
・泊まり船-新宮から遡るとき、荷物の番人旁船で寝ること。
・とびっきり-他より抜きん出ている意味である。

( 176 ) 鹿寄せ笛

 昔人は、少なくとも昭和20年頃までは、鹿を狩るのに鹿寄せ笛を使ったらしい。 の如く、杓子状のものに蟆(ガマ)の皮を張り、吹き鳴らした。我も一度見たことがある。
 實際の雄鹿の近くで雌を呼ぶ声を聞くと、大分遠くで聞くのと違ふらしい。イガミ声が強く、あんないななきは聞こえないと云ふことである。

( 177 ) 鉄砲の変遷

 火縄銃、管銃、つまり先込めなるも手許の凸起せる火藥口に雷管をかぶせ、引き金によりスプリングにて之を打ち、發火させる。マーストン銃、元込めなるも銃身を捻るとケースの穴の開くもの。
 次に村田銃、槓稈遊底ありて銃尾を開きてケースを入れて戻し發射するもの。西洋にもあったらうが、西南の役後、村田少将の發明になるもの。これは、我等の子供の頃よりずっと続き、頬當(ホホアテ)と云ひ、火縄時代の台尻の如く頬に當てて射つもの。肩に當てる床尾のものもあった。そろそろ元折と云ふ。二つに折りて發條を上げて射つもの。之にスプリングの撃鉄の見えぬ無鷄頭と有鷄頭があった。
 二連銃とて引き金の二つある絞り筒と平行筒で、鳥又は小動物を射つもの。空氣銃も我の幼時は重い鉄筒のキルク玉の如く中折式となり、散彈を打つようになり、愈々□□れいに性能優れ、遠距離も射てるやうになり、現在に至る。
 次に發射の途次、自動的にケース飛び出し装填もなるブローニング五連發が現れた。我20歳住までにこの地に入る。ベルギーのものなりき。この辺の人は、大動物用と鳥類、小動物用を混用する。二連もブローニングも散彈銃なるに、アイデアル弾など云ふ筒形(内部にプロペラあり)の實彈を用ゆ。然し、単なる銃(単發)は、ただ鉛の彈丸を用ひる傍ら有煙火藥であるに反し、之は無煙であり、特に紙ケースを用ゆ。

(昭和34年2月20日)

( 178 ) 當地鳥類の移り変はり

 耳島山の尾の嶮しき緑の中の枯れ木などに羽端5尺を越えるかと思ふツマブサまで綺麗な毛の生えた鷹がデンと止まってゐたもの。猫も鶏も時々さらはれた。オシドリの群も何百と淵に遊び、その羽音に驚いたもの。雉は鳴き、山鳥の尾を見、ゴイと方言する白い鳥が土穴を掘って巣としてゐたのを知ってゐる。
 又、ミズヒョロ(親に不幸した傳説あり)と云ふピンクの鳥もゐた。今は殆ど知れなくなったが啄木鳥(キツツキ)の朝コーラス、そして大小さまざまのツグミ類、シジュウガラ、ツバメに似た鳥の、海の荒れるときに來た。天柱岩の前あたりの断崖にウノス(鵜の巣)と云ふところがある。昔、鵜が來たところと云ふ。
 我家の上方40mくらいの高き裏山に「ミズキ」の大なるあり(木理なく下駄などに利用)。小さな赤い實がなると青鳩(アオバト)が多く、それを啄みに來て、平和の声、「アーオー」と鳴きつつ、たくさん來たもの。それを空氣銃などで射ったとしても、なかなか捕れなかった。小学生の頃、クグツと云ふワナを作り、樫の實など入れても捕りにくく、時たま捕ると得意になってゐたもの。20歳の頃、夜道を通ってゐて、捕まへたこともある。(夜盲の例)
 犬と猫の脳を見ると、犬が多少脳溝あるに、猫は甚だしく少なく、その馬鹿さ加減と人の云ふことを肯かないこと(つまり無知)が分かる。然るに、あの小さい頭をした脳溝のない「ヤマガラ」が、人の金を受け取ったり、台上にて裏返してたたいたり、これを器に入れ、万国旗を上げたり、祠の戸を開けたりするとは實に自然の法則はうまく神秘なり。
 隼は一度見たことあり。片岡八郎の碑の向かふ側であった。矢の如く飛び去ってそれが高速で驚いたもの。啄木鳥(キツツキ)が大胸筋に大なる爪痕を受けて、我家に逃げ込んだことあり。隼は殆ど今は見ぬ。
 阿呆どりは、家の近くなどに來り、一ケ所の柴を片付け、土を出しモチを仕掛けると忽ちかかる、最も捕りよい鳥であった。ヒイカツと云ひ、ピョコンとふり鳴く小鳥。モズ。そして川や山辺の反りなどに來た千鳥と云ふもの。ツバクラ、雀(瓦の中に巣をした)も少なくなったやうである。フクロウ、カッコウも減る一方である。メジロは大して変はりないらしい。ウグイスもまだゐるらしい。
 ルリ、コマドリの如きは山中深きところに住むが、やはりこれも皆伐が奥へ進むにつれて少なくなるだらう。
 ツバメ(ヅバクラ)も少なくなったやうだが、まだちょいちょい來る。
 小鳥中の小鳥、ミソサザイも少なくなってゆくやうである。
 新宮の河原にあれほど、黒くなるほどゐて入咫ガラスを以て1000年以上も表示され、神威を誇り、誓紙にまで印せられたカラスも今は新宮の河原にも見られなくなった。(まぁー、河原が黒くなるくらいゐたのに)
 鳶には二種あったと思ふ。この辺にもヒョービタカと云ふものと鳶(啼き方、前者は啼くが、後者はあまり啼かず)とあり。これも4~5年前は増加して観光客の余しものを喰ってゐたが、昨今は少なくなり、鷹1~2羽と鳶1~2羽の類がいる。
 カケスも少なくなった。他の鳥の口眞似をするただ一種の鳥で、鳩より少し小さく、なお細身である。新屋敷のある(子供の頃は山)辺りで、ワナでヒヨドリやツグミも捕らへしこともあったが、今は昔の夢となる。
 カワガラス(川烏)と云ふ、苔で岩の間に巣を作る水鳥もあり。巣も捕ったことがある。モズのことを云ふと、4年生の頃、我が友より鷹の落とし子にさも似たよいモズを貰ひ、大きなツグミを与へしに、忽ちのうちに殺して了ひ、小さいくせに之を鋭い爪と嘴で料理して喰ひ、殘ったものを一生懸命になって止まり木の枝の端に突き刺し、ハヤニエを作ってゐるのを見たこともある。女中がタキツケ(焚き付け)として採り來る柴の小枝にトカゲ、カへルのハヤニエがあったのを覚えてゐる。

(昭和34年2月20日)

( 179 ) 弓と我等の幼少時の飛道具遊びのこと

 弓と云ふものは大昔より洋の東西を問はず、土人も發明し、習ひ、使用せしものなり。腕力を弦の力に変へて、矢に總エネルギーを与へて飛ばし、遠隔のものを斃し、傷つける。昔より存する合理的な武具である。
 然して、その力、案外の力あり。鎧なくば、到底防ぐ能はず。傷も重く(ヤジリ毒矢の如し)、致死のこと甚だ大なり。今にして土人の音のせぬ有力な武器、狩りの道具となる。鎌倉時代の流鏑馬、段々、安土と言った風にスポーツ的な面も現れ精神的に統一され、弓道として和佐大八郎と星野勘左エ門の京の三十三間堂の通し矢三千何百本と云ふやうな競争も美談も起こり、今に至って文明の中にもある。
 昔は支那では養由と云ひ、那須与一、來間孫三郎(足利反抗の時の南朝系の人)など数多くの名手を出した。面白いことにアイヌ、南米の土人、熱帯印度、ブータン、チベット、そして中國(松島の瑞巖寺で我これを見た)、アフリカ土人、ビルマ、タイの土人には殺す目的でなら毒矢(特にクラーレ)を各自秘密で作り、特にアフリカのピグミー族の如き、態度の低い、高さも4尺たらずの土人も弓勢弱いながら猛烈な毒矢を知ってゐる。然るに日本ではその話を聞かず。毒矢を使ったことはないらしい。毒の原料のこともあらうが、少し武士道を誇るべきである。然し、また土人の如きを主として生活とも大関係ある狩猟の点も考へねばならない。目下の矢は日本を於いて弓道をやるものと「宝くじ」の何十万、何百万円のグジビキ用として、やはり行はれてゐるのも興あり。
 大人の社会には用なくなったと云へ、我等子供の時分は何かすると本能的で竹や木(アヅサ)で弓を作り、細い竹を直ぐくして葉書の片をに切り、手前の方へ割れ目を入れて二翼式(昔のものは鷹の尾羽、北海道エトロフなどのことに出るのは、否義経記でも北陸辺りかなりの高價で之を得たらしい。「ワシの羽十尻、米二十俵」とあるなど、もちろんこれは俵二斗入り、然し高價であった。きれいにみがいた茶色の矢にウルシや金を貼ったりした物もあった。それに、Yのごとく三翼型の矢羽根であった。我家にも3~5本あった。弓は5~6尺もあって、我のは竹か木か、又は混合か不明。ウルシ塗り、尺あまり離れて藤で巻いてあり。凹んだ側に子供が登ったもの。強弓と小さい半弓でもないものと二張りあり。凹んだ方でも弦をかけると大変だらうに、逆に弦を張るとハッと驚いたものであった)で、的を射たり、木を射ったり、壁を射ったりして遊びしものなり。また、カヤホなどの先に穴のあいたクワンボクの1~2寸位のをとりつけ、矢羽根なしで射ったものである。誤って弟の眼を射て、カンチ目にした人もあった。ネズミは別として、鳥類などはなかなか命中しなかった。今でもちょいちょいやってはゐる。ほんのオモチャ、竹の手頃なるを工作して竹の弾力を利し、小さな石コロを飛ばしたこともあった。また、細い甘竹を切り、これに少し短めの挿入子の竹の子を入れ、紙の噛んだのを(又はスケ玉と云ふ植物の弾力ある種子)突っ込み、先端に在らしめ、更に第二の紙ツブテを強引に押すと軽い爆發音して飛び出すなど、流行したものであった。また、我は向井山に在った伊勢人の石田と云ふ老人より3尺余りの吹矢を作ってもらったこともある。後、自分で小型の針などで危ないものを作った。
 矢は前者、7~8寸の竹のヒゴにて一端を尖らし、一端に円錐型に風袋を作る。南米や南方の土人は、今も毒を塗りて使用とのこと。そして、時々は我等の幼時ほどでなくても、現在も作ってみる子供もあらう。次にゴムの侵入と共に細きゴム管をY型の木の叉などに括り、手前は皮などで鉛弾、石ころを保つために作りなして、つまりパチンコ大流行となった。案外小型で便利であったが、また案外ただのオモチャで鳥など容易に捕れなかった。實に、このゴム管が欲しかったことを覚えてゐる。三里村の親類で3尺余りの赤いゴム管、我にくれず、辛かったこと、今も知る。
 アメ色と変はり、段々戦争となり、子供の間にも薄れ、今は思ひ出したように針金などを用ひた。むしろ弱いものが出る。そして、空氣銃となる。最近進歩の末、危険となり特殊のものは許可制となり、子供には縁遠くなってしまった。危険のこともあり、また保護鳥も乱射するからと云ふことなり。

注- ・スケダマ-十津川方言でスケ玉、又はシゲン玉と言う。庭園の端などに植える細い葉の草になる濃青の実(ジャノヒゲ、リュウノヒゲ)

( 180 ) 浄瑠璃のこと

 我の本家に浄瑠璃三味線あり。台本もあったことを知ってゐる。盆などの行事外に雨の日、雪の日など集まりて若人はしきりに唸ったと云ふことを聞いた。不便極まる何一つ娯樂のない、然も貧乏、日も定まらぬに、こんな余裕を見出し、心豊かに過ごしたと云ふ昔の人の心根。貧乏すれど心に余裕をもって、ここに団欒の時を作ったとは感に堪へない。今の生活を豊かにする意慾が窺はれる。そして盆のなかでも、武蔵より來たりし儒者高橋管二を師として学んだ学究の態度、なお墓までたて、その終わりまで看取った弟子の先人の態度は確かに感銘する。負けてはならぬ現在人。