( 241 ) ボタモチのこと

 幼少年時、12月に入り、山の神の祭りのとき、主側も寿ぎ、酒など与へるが、労務者からも盛んに子どもの頭ほどのボタモチを貰ひしものなり。炭焼きより、女手より。男の人の作りたるボタモチは、甘味少なくとも、よく出來あり。それを餅のやうに切りて焙り、食べしものなり。

( 242 ) 一種の香具師の來りしこと

 幼年時、よく町より地方の有力者と見ると來りたるものなり。一例にヤキツギと初めての懐中電灯なり。實験して後、里人を集めて實験して売り、また店に卸す。考へてみると、ニスのシケラックを熱して充填物として水に漬ける。子どもだましの如し。懐中電灯は珍しきまま、そして高いまま。父のみ男ひて、我引き出しの中にて、晝も夜もチョイチョイ点滅し、(そのうち何処かへ)失せり。

( 243 ) 天皇像、福神像など、又モグリ新聞社員、製本員のこと

 天皇の像を置きて最敬礼して買ひを勧め、余儀なく買はしめられし人、甚だ多かりき。証明書の怪しげなるを示し、モグリ新聞社員來りて、広告賛助金取りて去る。奈良県中、または全國の知名または土地功労者をまとめる本として、人間の弱点をつき、金をせしめる者もあった。そして、講談もどきの部厚の書を学校などに売りつける者など。今は、全然なしとは云へずも、風を断ったことの多きを覚えてゐる。遍路の札賣り、乞食画師、書の短冊賣りなどありしも、その書は大ならずと思ふ。

( 244 ) 現在の文明と木村氏チベット10年を読み

 我、今、大毎発行の木村氏の『チベット10年』を読み終へ、世界情勢をみると、この原子力ロケット時代の文明と、その根底においては野蛮極まるモンゴル青海あたり、また宗教へ堕落して國家観念のないチベット人も茫漠の砂漠、草原の彼らも、本質にては我々と大した違ひもないものと錯覚する。この中にみんなある。

(245) 大萩、小萩のこと

 昔、大萩、小萩と云ふ木地屋ありて、小萩は大萩により殺さると云ふ。考へてみると信州の木地屋(ウルシ業)にこの萩や荻(オギ)の姓多し。或いは然らんか?
  ————————————————————————————————————————————
 この紙、戦時中のものとて浸潤は甚だし。よりて不明(文字が判読できないの意味であろう)になり易く、以後大文字に記す。まことに書き難し。追はるる如くして記す。紙製造工程の欠陥、以て戦争の事情を知る。當時としては、これも上々のものなりき。

( 246 ) 昔の郷土を知ること

 瀞は、乃ち田戸はこの辺りで最も遅く開け、観光のブームにのり急激に世に出でた地である。昔は、少々(観光が)あっても炭焼きその他、勤勉に我等の祖は稼がねばならなかった。實に何にも留意してくれる地でなく、草木深い里であったことはわかる。東野の今瀧は、店2軒の問屋あり。山の細道を辿る最後の移出港とも云ふものであり、平石の分家菅家の下りて來る道(松本より)は、郡長玉置高良氏によりて初めての車道が葛川より田戸へ通るまでは、何人も訪れる賑やかな里ではなかった。(田戸は)寺もなし、里のことも全て下葛川、神山などに従属してゐた。寺は神山・下葛川にあり(然しよくぞ寺もあったものなり)、姓さへ戴きに下葛川あたりへ行ったものらしい。我の姓の中森は貰ったものであり、中盛と称したらしい。
 九州天草の乱後、幕末までは寺請証文とて仏教信者であることの証明は生活上欠くべからざる権威あり、從って寺の権威は大したものであり、一種の戸籍役場の如き機関であり、信仰のふたつを持って人民に君臨してゐた。その関係上、田戸には昔のことを知る資料は皆無で、何物もないと云っていい。
 明治5年癈仏令は寺を破壊し追放したが、これによって郷土の歴史を知る上の文書もその他もすっかりなくなり、玉置山も同様のことにはなったのだが、特に田戸には資料や之らを証明するものは何もないのである。
 温故知新と云ふ昔からの言葉がある。新興共産主義の國中國でさへ、17,000人と云ふ世界一の人数を擁して、(遺跡を)發掘したり。土器の破片や竃の跡など調査してゐる。そして敦煌文化を掘り出して、輝く過去の歴史を誇り、民族各々が、昔と比べ果たして今は如何にあるべきか、又なすべきか、それぞれ努力してゐる。世界各地も懸命な努力である。
 敗戦に続き、アメリカなど日本色を徹底的に打破し、解放の名の下にいきなり民主主義を否應なくこの東洋的の、否、もっと特殊な古い日本に導入し、骨なしのクラゲの様にして解放を叫ばしめ、男女の面、運動の面、一切はアメリカ式に、物質文明give and takeの世としてしまった。マッカーサー下のGHQを主としてG二及びGS、CICの跋扈、暗中活動、拳銃を政府の高官の前に置いて、鎧袖一触の如く全國の機関を通じて与し易いところの盾としてしまったのである。小笠原の豊かさも沖縄の地も事實上取り上げられてしまった。國の内では人民の内抗、皇室の形式は勿論である。ソ連など共産圏の國は、逆に平和らしく呼び掛けるも、(内實は)なかなか凄まじく、南千島のみか、国土の狭隘に、帰りたい人も還へさぬ。アメリカも同断である。アメリカも一時GHQを通して全國網を利して、日本の無力化を図り、日本色を払拭するため一時は共産党員を優遇したり(70名の國会議員一時登場)、彼ら我ごとなれりとしたるが如き、そして朝鮮人の優位を助け暴行百出、火炎ビン事件、また熊沢天皇の出現を助けて日本精神の追放、女性の各層を狙って様々の野性女族を輩出せしめ、面白く改めてしまった。國内一切のもの、悉皆変貌してしまった。アラブか黒人か、無政府主義者か、判りかねる。淺ましい情け無い日本にしてしまった。ただ闘ふ血と地の利をしめる対共産圏と自己の勢力を美しい小國を盾にするためである。平事件、松川事件、下山國鉄總裁の怪死、三鷹事件など、然しその頃になると、GHQは漠然のことよりも、次第にソ連を恐れる結果、左傾分子弾圧と変はり、組織の破壊分子の多くなったことに驚き世を驚かす事件を作ったとも云ふ。レッドパージもGHQがやった。官僚も又驚いたことに自國のものも軍の意に満たさぬ者は本國へ追放、そして追放、軍の意のままになる如く日本を操縦した。あわてて半回した軍は、右翼・旧軍将校・旧政治家など、財閥も(一時は追放または解除されたが)遂に厚意を与へて遇するに至るは、全くその豹変ぶりに呆れる。大がかりな組織網にて全國に光る目も、又その内部にG2、GSの激しい対立あり。從って、日本政府の上下も対立を生じるなど、云ふ言葉もない。日本の50倍の土地を有し、豊沃の地、人口は2倍なし。ソ連も同じである。声だけは日本ブーム、文化交流と云ふが、日本など眼中になく日本など東洋の何処かの一部、景色の美しい小さな國くらいに思ってゐるらしい。丸髷の昔風の女のある日本画があり、欧州でも今問題になってゐるらしいが、どんな考へをしてゐるか分かる。國内では、アメリカの日本ブームを云ってゐるが、いろいろの情報を知ると悪からう、安からうのオモチャ類位のものが彼の内部にあり、日本色のものに一般の記念品の如き家庭あり。簾の如き、庭に面する一隅にかけずらされ、日傘など展示同様らしく、囲碁の流行も一部ではっきりした観念もなく行はれてゐると云ふ。日本は経済復興を誇るが、その底は極めて今のところあいまい。第一貿易の帳尻の金であり、他に対して反故紙同然の金である。380社を数へる悪質外人の商社、ユダヤのサッスーン閥も今の日本にあり。キリスト宗教法人の提携と不快極まる話あり。ちようどアメリカと云ふ消費せねばならぬ國、同様の日本は確か正確な道を歩いてゐるか。大会社、大商社を誇る傍らには、弁當もない学童、職を失へる、晝食の代用食も得ない炭鉱地や東京にさへ貧乏人がゴロゴロしてゐる。その差、つまり貧富の差は、いよいよ険しく、今は昔、都市の有閑マダムの料理・趣味・育児を知るにつけて、蓋し今後は心配憂慮すベき日本と思ふ。
 日本は、益々増加する東京も、やがて千万人と云ふ。維新頃の詩に、『人は草木に似て春榮を競う』とある。『乏しきを憂へず。等しからざるを憂ふ』の古語、今朝のラジオであったが、全くのことであると思ふ。
 日本は三流國半になり下がり、この世界では膨張人口はアマゾンか何処かへ移るより致し方なく、将來容易のこと、または奇跡なくてはウダツが上がらぬ國に悲しいかな、なったのである。英國、フランス、ドイツも小さくなった。植民地の少ない國となった。権益のない國となった。しかし、日本よりはるかに良い。
 東洋の海の上の永かった一君子國も今では実力が問題である。表面は立ち直り、好景氣、高度文明と云ふも,持たざる國はいくら國連の役員國となっても、前途の樂観は許されない。運命と云ふものは、小運の開拓は可能だが宿命は逃れられない。日本人は今更アメリカ人になる訳にはゆかぬ。我々には、大いに悪い面もあったらう。然し、昔から優れた面、良い面もあったはずである。静かにこれを考へて、古よりの文化を大切に守り育てて國民のプライドを保ち、次いで、この昔よりの文化を大切に、外國にも劣らぬやう、今の日本の位置づけと發展を願ひ、世界の人に日本の文化や歴史を観て貰はねばならぬし、又観光の基として育成せなければならぬ。京都の観光憲章もかく云ふ。これより外ない日本であり、國内に誇れるものとして無上のものである。發掘、調査、改築、復元、指定の行はれる所以である。
 然るに、昔より條件のよい地方と違ひ、この田戸は前に述べた如く歴史的に全く貧困も貧困、文化否古文化の歴史も皆無の状態である。政治的に甚だしく置き去りの状態、立地條件が悪かった田戸は、今の観光ブームは別にして、誠に殘念無念の地である。勿論、今のやうに唯物思想が旺盛で貨幣奪取懸命の世となっては、直接経済価値のない土地は忘れがちになり、已に忘却の彼方にある風である。しかし、今まで述べてきた如く決してそんなものではない。
 そのまま忘却の彼方へやってしまうと将來はまた必ず之を欲する者、また必要も自他現れてくるに違ひない。道徳の上、利潤の上にも現れてくるに違ひないと我は思ふ。特に三重県領も和歌山県領もともに北山川流域の郷土史が必要であらう。
 どこも資料はいよいよ少ないとするもロケットの、又物理観察で宇宙を探究して次々と動かすべからざる發見と、現実の如くあらゆる面で可及的資料の有無にかかわらず、傳説・説話・傳承・稗史をとり調べをき、何か縁のあるものは古道具でもよいが、保存すべきである。今を措いて他にはない。重大な時期である。(大宇陀中では古い道具から今に至るまでを並べ教材とする。)
 我は獨りここで焦燥する。勿論、いくた同憂の人もあると思ふが、何しろこんなことは個人生活の上に金品出來るものはよくよくの特志のある富裕者か、又は公の力によるかより完全を期せらるるものでなく、個人の力は誠に微々、なし能はざるものなり。
 我は然し病床10年、医業も放棄の身の上、妻一人の十櫃十起の生活難ながら、やれるだけは田戸や他のために書き殘したいのである。よし、それは妄想と云はれても!
 大阪人が、60に近ひ死にかかった我に、700万年の昔のことを尋ね、一日がかりで応へやりしに大変喜んでくれた。これも我の厚意であながち妄想でない証である。自己宣傳でも自慢でもない。今日は、自慢も人への嫉視や悪感情を有して貴重な日を己を不明として無駄に送ると云ふ損な時代でない。實に悪い世論となってゐる。問題も何かのために落ち着いてよく考へ取捨することこそ大切である。(昭和34年12月16目)
注-「損な時代でない」は、文意から「損な時代である」が正しいと思われる。
 今から12~3年前、東京帝銀椎名支店の十何名の殺害事件、世界に類のない事件の犯人として平沢貞道(テンペラ画の権威)が挙げられ、死刑の判決を受けた。然るに10年を過ぎし今日、死刑なしと云ふ。68歳なれば死亡の自然を待つ當局とも沙汰されあり。無罪を云ふ者多く、第一被害者の一人の生き殘りが、「違ふ。」と云ふ。また、アメリカGHQの圧力で、實は旧日本軍の秘密部隊中野部隊員とも云ふ。毒藥を扱ふピペットは軍用のものと云ふ。全くGHQは日本をあまりにもメチャクチャにした。今は悔もあらう。軍備問題、対ソ問題で躍起になってゐる。月ロケットで完全にソ連に兜を脱ぐ。その遺物芳しからぬ死刑囚平沢、無實とすると重大なり。
 これを考へ世界へ、これが日本人ですと云へるやうにするには、昔に遡って優れた日本の發見に努めることが大切である。良も悪も総ざらいにして、より優れたものは殘さねばならぬ。里は里、村は村、國は國と云ふやうに。そして我々は目に見えぬ抽象のもの、そして政治にも世界の情勢にも無関心であってはならない。個人より将來は民族的に發展すべきであり、現在世界は挙げて黒人に至るまで然りである。如何に政治に不満、又は獨善的であっても責めたことでは絶対にない。歐米支配の虐げられ続けた歴史経過と彼らの政治的関心の高いこと、民族観念、宗教観念の旺盛なことを思ひ、その發展に頷くものである。たとへ大乱にならうとも反省自覚の生じた彼らは知ってゐるのであり、出來てゐる。
 先に、東京でアンケートをとりしに、安保條約で左右これほど國民の騒いでゐる中に無関心の者75%と云ふ。呆れた次第。何と云っても、人の優位即ち他の動物に誇れるのは智であり精神である。戦闘の心なくば、その軍は敗る。その心を培う形なき心の培養地は昔から流れている歴史である。大地即ち郷里であり、歴史を科学する心である。

注- ・「十櫃十起」の意味であるが、諸橋轍次の「大漢和辞典」にもなく、あるいは中森瀞八郎氏の造語かもしれない。

( 247 ) 再び日本人のこと

 明治の初め、福翁が『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず』と云った。如何程衣食住外すべて自由に不足なき生活も心せざると猫にも劣る。真理より外れる生活となる。人間性のない生活、事や物に直面し、より高く道をとって進むが高等動物、人間の願望なり。ただ官能のままの自由では眞のものでなく、眞の自由は土人や畜類と違ひ、抵抗力のある方、ある方へ、たとへ前途に何ありとも進む。ここに文明も生じてくる。
 腹一杯、これで良し。元より願ふところなるも、止まっては何の芸もないものになってしまう。之を戒める言葉は古來いくらもあるが、尚その生活の上に何か覆ひ被さるものがあってはならない。搾取され、常に何百年の間、人間扱ひも受けなかった植民地の昔を考へると観念的に生活や國を誇っても何の意味もないやうだ。他國に扱はれ、圧迫されると云ふことは、心ある国民には不愉快極まることであり、青天の白光を見ない常に曇った空の如き、否もっと不安な日々である。だから、今の日本人は、部分だけ見ることをしないで、一應は広く世界の動きも見るべきである。時間も素養もなくはない筈、心さへあれば、今アメリカまで9時間半で飛行機は行き、地球の周囲の約10倍、38万kの月の世界まで相互に動く天体を計算して、見事ロケットを打ち込み、計算・記憶・發音・文字・カラーテレビその他いろいろ進化の世の中である。プラスチックの分□器具、衣料の果々まで、石油、ガス・空気、水などで出來る。所謂、無より有を得る時代とも云へる。匙一杯で3000万の人を殺すストロンチュウムも上空にバケツ一杯以上あると云ふ。ニョッキリ立つ原子炉は必ず将來大電力を産んだり、また人の恐怖も十分だらう。昔の大和など、多くのバカデッカイ巨額の船もその他なくなり、八幡製鉄の軽量形鋼とプラスチックの不燃耐震耐風耐朽の家屋材料も出回る理もよく分かり、それだけそれは時間的に比類なく早く生活に入り込み、木と紙の家と笑ふアメリカ人を苦笑せしめ、我々も考へさせられる時代は來るであらう。へリコプーターの如き、観光・交通にも出るであらうし、木材の運送の如きは、地元よりひっつかみ、一直線に市場へゆく日が來るかも知れない。今はダム開發のブーム。この形式も如何なるか?

( 248 ) 続昔の郷土を知ること

 温故知新とも云ふ。いま、安保改定、砂川事件など意見の対立抗争、内外一切事喧々轟々の折り、米ソ何れ側をとる人々も一つの山林で日本國ぐらひの山や、後者にとっては茶碗くらひの湖(パイカル)に日本を投入して、やっとと云ふ大國の彼らには、今の日本は敵すべくもあらず。然し拱腕して卑屈する訳にもゆくまひ。何かで世界へ進出せねばならない。学術、技藝あげても國際場裡へ立ち向かはねばならない。
 それにつけても、その日本人を培ふ温床として、この胚胎を育つるために高い品性の日本人になるために、先づ第一にも必要欠くべからざるものは、自身の脚下照顧する要あるは論を待たないと考へる。新日本の建設は、この入門の一歩より始まると云って差し支へない。

(昭和34年12月16日)

( 249 ) 餅搗踊り

 めでたいことがあると、十津川村ではモチツキオドリをやったものである。
 今回の奈良・高田・新宮間國道開通祝賀式でもやったらしい。勿論、日本中祭祀と政(マツリゴト)関係よりは供御のもの、投餅とか又家庭にも食料を之に利用することは、珍しくない。(朝鮮、中國や歐米とは別に)が、十津川の餅搗き踊りは、特殊な意義があるやうだ。乃ち、「とんと十津川御赦免どころ、年貢いらずの作り採り」の俚謡の如し。けれども、これは山村で如何に米穀が少なく貴重であり、少々も採れなかったとも云へる。故に、たまさかの餅搗時には大喜びし、特にめでたい時の長者の祭りや祝ひのときなどに歌ひ踊るやうになったと思ふ。
 五條代官、大納言秀長以降の古文書、徳川期代々のものを見ると、山手銀を出したり、除いてもらったり、鹿皮を献上、鮎の焙り献上、蜂蜜献上、椎茸献上、奈良薪能の出工(デク)など、やはり代替の貢租があったことは分かってゐる。

( 250 ) 大正12年頃の瀞を偲ぶ

 天然の色艶やかに水も澄み、岸壁の緑も生き生きと麗しく、苔の装ひも光ってゐた。岩と山は天高く聳へ立ち、啄木の音も長閑に朝に木霊し、冬ともなれば無数の鴛鴦の群飛び、陽の季節となると五月雨、水に映える岩の間を点綴し、プロペラの暴音も全くなく、ただ筏や和船が時折上下するのみ。エンジン船の試みありしも、なかなかの不十分であった。水中には緋の鯉を見、甲羅乾す亀の様、高きところに悠然とかまえる鷹の婆、啼き声して時折通ふ小鳥たち。
 旱天ともなると川を上り來るスズキ。之を追ふ村人のレクリエーション。鮎も豊かであり、山の動物も川の獲物も今よりはるかに多く天然を誇ってゐた。
 目前の対岸の岩の上に群れを外れた大きな一匹猿が時々晝寝に來る。鉄砲あればなかなか出現せず。船夫の声に驚きて岩上り行くその姿。不便さは今の開發ブームの世と比べ、その点は惨めであったと云へ、しかし、今の時代より落ち着いた自己過信的かと云ひたいくらひ、はっきり自然の足元を見つめ、貧しいながら「日日是好日」の如く送ってゐたのであった。流轉は世の相(然し自然の法則は絶対不変)と云へ、又當然の現在であるが、空を舞ふ一羽の鳶を見ても、人の話を聞くことも、船の往來、客の質を考へても何と落ち着かない、変化の激しいガサガサの世になったものかな。その頃は、洪水も時には多く、規模も大だったとは云へ、今の様な油浮き微粒子の濁りのない、つまり慈味のない水では水でなく、増水、減水も川床の高低も決して今の如くではなかったと思ふ。奥地の伐採開發その他のブームによる一種の被害とも云へる。人の力では防げぬことは、人の運命でもあらう。人は絶対ではない。必ず相反することがつきまとう法則に洩れない。
 以前書いた東久世通禧伯(七卿落の一人、歴史にあり)の歌へる歌も又赤壁に似せたを賦す漢詩の如き、自然をたたへ唄ふ昔の面影はもはや見られない。眞の心ある文人貴顕墨客画伯の数も凡そ暁天の明星の如く、よし來遊さるるとも往年に比す何物もない。皇族は朝香宮殿下、和船をしつらへて白衣の船夫で初めて御來遊。その後多くの皇族も來遊せられしも、独り朝香宮のみ印象にあり。
 東久世伯の筆の跡は、新宮大社境内のナギの樹の傍らに鮮やかな筆の跡を碑に殘してゐる。明治20年代と云っても、今としては太古の如き変はりやうである。瀞で作られた漢詩を次に記すと、

          寒碧清澄不起漣
          昆嵩削出別坤乾
          恨蘇仙不遊此地
          赤壁慢令如賦傳

とあり、公卿貴人として當時として蓋し最初の人と我は考へる。
 多分大正12年頃、夏の朝と思ふ。山元春挙画伯この地に遊び、朝霧の中をついて下瀞へ小舟を走らす。水夫(カコ)は多分杉岡直吉老人か? 辷り岩の下手、屏風岩の対岸下手あたりまで行きしに、一匹の猿、岩の間を下りて水辺の岩に坐して水を飲み居たり。折りふし画伯の舟その側を通る。その間僅か。早速手にせる柿を投げ与へしに見事之を受けて遁れ、山に入りし如きは、到底今は叶ふべからざるものであらう。猿の群れも多く、浦地の前山あたり、雌猿の仔を負ひたるものを交へ、続々樹間を異動してゐたものを視たるもある。今の局の2~3丁の小川(葛川)にて小魚獲りの最中、我の頭上の樹に見張りの猿の叫ぶ声、樹を揺する音せしも昔のことなり。
 我等、その頃は珍しいと云ふより身一切のものも、大人も子供も新宮とは和船ルートよりなし。紀の川、五條あたりより反物も、先走りのゴムウラグツも、女の髪飾り、鋏、ナイフ、鏡の類まで人力の肩にて來る行商人によること、實に多かった。近くの静川(シツカワ)や篠尾(ササビ)からアルマイトに代わる赤漆、青漆のワッパの弁當人れ、後者は頑としてチョンマゲの牛のハナグリ賣り。おそくまで西山辺(西山村、現紀和町の一部)よりオカイジャクシと云ふ木製の杓子(その人の自慢によるとなかなか作り方の難しきものなり)など売り込みに來れるを知ってゐる。尤もそれ以前には黒砂糖一斤を買ふも九重(クジュウ)の盛岡店へ行ったと云ひ、酒は我が母の生まれた小川口(紀和町)大徳屋へ行ったと云ふ。我等の幼時もかくの如く不便なるため、今の入鹿(イルカ)、新宮を対象としては夢の如きであった。店を主として(今の思想より云ふと一の搾取形態であらうが、ここに又今にない當然運命的な小社会であった。)陸の孤島として是非もない。上るに2~3日を要し、時にはそれ以上を要する川船なれば是非もないが、運輸の重大機関のこれら船は、いろいろ注文するより致し方なかった。撰ぶことは不能であった。注文ものの來るを、子供は子供、大人は大人で之を待ったことは非常なものであった。
 瀞の釜石(カマジマ)あたり、(和船の)隊を整へて櫂の音もリズムをもって高らかに山彦となって岩の間を聞こえると嬉しかったものであり、着くや否や尋ねたり。後は渡さるる間の楽しみとしたものである。花火の如きも電氣花火(マグネシュム線のみ)、水雷艇など興味深く、此等の線香花火も一本一本喜んだものであった。
 新宮へは殆ど下りは船、帰りは徒歩にて相野谷、櫻茶屋(旧尾呂志村奥地の真北の391mの峠)とて、尾呂志村の頂上、海の見えるところで昼食を済ませ、矢ノ川を通り入鹿を経て帰りしもの。夏の日の暑さ、長い相野谷道中を憶へてゐる。我今足の自由を失ふも、そのとき4歳にして父に伴はれて帰りしことあるを知ってゐる。矢ノ川の宿と云ふに泊まりしをかすかに知ってゐる。
 製材の奥地、上葛川より更に山を越えて小川あたり、大なる起こり、小なる起こり、山の仕事も増加するに及んで船の数も増し、櫓擢の青も賑やかとなり、今瀧や、何れかと云ふと立合川のおく、森林の開發事業起こり、船もこれを主として上瀞、有蔵口まで行くやうになり、住宅や事務所、店、宿も立合川口にあった。
 立合川と云ふところ、奥に元禄の頃の木地屋の墓あり。五條のカンバヤシと云ふ人、火力の製材所を明治初め起こせしと云ひ、我父も製材所を設け、岐阜木材、日田木材、猿松木材など、又秋田木材など代々入り交じりて、会社投資、個人投資のことありて、不思議にあの嶮岨懸崖の場所ながら無理な道を設け、事業の対象となし興亡を続けたるところである。それだけ影響もあり、瀞を偲ぶものは上瀞のここにも思ひを馳せるべきである。有蔵の岩の上に火力エンジンの製材所もありしことを、而も我20歳頃か、夢の内にありありと覚える。