( 31 ) 狸の腹鼓のこと

 古老の話を総合してみると、腹鼓と云ふ事があると云ふ。亡父が或る時、玉置山に泊まれる際、之を開いたとも云ふ。然し、ポンポンと云ふ明朗な鼓の音とは受け取れない。所謂、狸の腹鼓とは、狸の鳴き声でないかと云ふ話であった。或いは結局のところ、狸の鳴き声か、又は他の動物の声かもわからない。証拠を掴んだ話を聞かぬ。
注-はらつづみ-20年程前の山彦橋の対岸の上ミの森の中で毎日陽の暮れ方にポンポンという声が一週間程続き、はじめは何の鳴き声かしらと謂っていたが、田辺の方から來ていた炭焼きの人(60過ぎ)に東氏夫人が「何の声だろう」と聞いたら、直ぐに、「ありゃ、タヌキボシや」と請うた。そのためかどうか知らぬが、次の夕方からぴたりと鳴かなくなった。それで、「見破られたから止めたんだろう」と、笑ったものだった。なお、この田戸では狐・狸に限り、キツネボシ、タヌキボシという。

( 32 ) 古代文字又は神代伊呂波の事

 維新當時の十津川郷士上平主税は、伊豆大島に流刑になってゐたが、(つまり横井小楠暗殺に與りたる巨魁として)後に許されて郷里に帰り、玉置神社の宮司となってゐた。我の大叔父に対し(當時玉置神社に勤務)、「横文字とか云ふもの今流行してゐるが、日本にもかつて大昔は、古代文字と云はれるものがあったが今は行はれぬ。それは、このようなものである」と伊呂波を説明して、「なかもり」を書いてくれたと云ふ。(但し、後調査によると攘夷論者の作ったものと判明した。)

注- ・大叔父-上記東藤治郎氏

( 33 ) 玉置神社の神代杉なるもの

 京大小泉博士をして2500年を経たもの、三好博士をして世界一と嘆ぜしめた玉置山の杉の巨樹の内、普通本社裏の分を神代杉と称してゐるが、実際において第一等の巨樹は社務所の下方にあるものである。周廻三丈八尺と云はれる。

注-
・神代杉-雷火で折れて丈は短い。
・第一等の巨樹-「大杉」と称する。目通りで縄を張って測れば、四丈二尺、高さ約二百尺、すくすくと極めてよく伸びている。それが岩の上に立っているから不思議である。

( 34 ) 犬吠えの檜の傳説

 玉置神社の右側、山の尾を傳ふ道を下ると、犬吠えの檜と云ふのがある。碑が立ってゐる。元の巨大なる檜は、十数年前の暴風に倒れ、今は二代目である。その年輪の細かい事、驚くの外なし。太さは二丈を越える杉に比べて若く見ゆるも、この年輪をして云はしむれば、神代杉に勝るとも劣らぬ巨木であった。然も檜は杉に比して極めて成長の遅いものであるにおいてをや。
 傳説によれば大昔の事、熊野浦に大津波が發生した。こんなのを果たして津波と云ふべきか。野越え、山越え、この大津波はこの玉置山へも及んで來た。溺死する者、波に呑まれた村落など数知れずと云ふ有様であった。漸く山へ逃げ上った土地の者共は、刻一刻増水するを見て、狂氣の如く、果ては号哭するばかりであった。
 この時、何れより現はれたるか、一匹の白犬、吹き寄せるしぶきに目もくれず、颯爽として眼を怒らせつつ、この波に向かひ頻りに吠え立てた。恰も地異を呪ふが如し。声がかすれる迄、吠え立て吠え立てある程に、遂には神も感受し給ひけん。山をも呑まんとする波は不思議にもその進行を停止し、それなり徐々に後退をはじめ、遂に遠くまで元の如くに干上がってしまった。然し乍ら、その白犬はこれと共に息は絶え、空しき骸となって横たはってゐた。(一説には、かき消す如く姿は見えなくなってゐた。)人々は、感謝の涙を流して土を掘りて埋め、記念の為に一本の檜を植ゑ、厚く祀ったのであった。春風秋霜2千数百年の記念も僅かに二代となりて殘る。杖をひいて之を訪へば、大木の空しく壊れて雨露の朽つるに任せ、二代の檜も僅か直径六寸ばかり千載のかたみとなる。

(以上28、5、30)

( 35 ) 當地に存したるタブーの事

 現在にては漸次薄れゆく傾向あるも未だ大分殘ってゐるものがある。然し、これとても忘れられてしまふであらう。依って、思ひ出づるまま書き留めて置く。
 朝、猿(サル)と云ふ言葉を忌む。
 夜、新しく草履を下ろす時は、鍋墨を塗る。
 「八日戻り」と云ひ、或る家に外泊して八日目に家に帰る事を忌み、必ず之を避け、止むを得ずんば帰っても近隣に泊まる。(宗教的意義)
 青竹を杖にするのを忌む。(葬式、特に彿教よりから來るか)
 山には往々にして山の神の木と云ふて伐らざる木あり。常緑の大なる木にて赤き實なると覚ゆ。これは生物たる木を伐りて生活してゆく以上、人間としての良心を現はした善い習慣である。
 釣り竿を女が胯げるを忌む。不漁の源となるとて嫌ったもの。
 何の由因あって云ふか、男の子二郎が丑の歳てあると、太郎は家に居なくなる。つまり、兄を追い出し、二郎が家にすわると云ふ。人々の説明によると、この地方に色々例はあるやうに見受ける。そこで二郎を他へ里子としてやったりしたものである。
 その他に丙午の女、羊の女も他地方の如く嫌はれてゐる。
 鉄砲の銃身を洗ふのに水で洗ふと人を撃つ。湯で洗ふと可い。
 蛇を指さした時は腐ると云はれ、友人に噛んで貰うと難を避けると云ひ、余の幼時など、よくさうしてもらった。太さを指にて現はすと、同様の理で友人に指を切って貰う真似をしたものである。

(以上28、6、2)

 釣り竿を女が跨ぐと漁が少ないと云ひ、伊勢厄と云ひ、時を選ばねば死ぬとて参宮を重視し、納棺の際猫を避け、友引、三隣亡、その他数限りなくあったものであり、今でもまだまだ存してゐる。榎谷の木の端を切るも恐れ(但し、これや山の神の木を恐れるのは良い事)たりする等々。
 これ以外、多くのタブーあり。

注- 「後出の「山の神の祭りと樹の話」参照
・この地ではアオギともヤマノ力ミノキとも言う。特に年数の経った木は山の神さんが休まれるとして伐るのを忌む。肌の白い、榊に似た葉をつけ大木になる。赤い小さい小豆大ぐらいの実である。(ソヨゴのことかクロガネモチのことらしい。)
・砥石を跨ぐと割れる。オコその他山道具、特に土方はこれも女が跨ぐのを忌む。
・二郎は次男、太郎は長男のこと。
・指で作った輪の中に指を入れて指の合わせ目を切り離してもらう。
・男女を問わず伊勢へ参ってはいかぬ年齢がある。
・榎谷-田戸の在所の上にあり。

( 36 ) 大野・高瀧・小川など五部落の若水

 葛川、西賢明氏に聞くと、昔は小川、高瀧、大野の外計5部落の人々が、上葛川の上流シオガマと云ふところ迄、正月の若水を汲みに來たりしと云ふ。同氏の祖父の語ったところである。然し、後には餘りにも大儀なる為、末頃には葛川の里に在る水を汲みとるやうになり、遂には廢れたものであると云ふ。
 この話は簡なるものであるが、役行者やその當時の人々の信仰などが窺はれる。尚、シオガマの語は、一層この間の消息を傳へると思ふ。

注-
・西賢明 葛川の人 農業
・正月のシキタリについては、これより後の記事を参照のこと。

( 37 ) 仕事道具などを祭った正月

 我々の子供の頃、正月には神棚の事は勿論なるも、山働きの家では、斧や鋸、鉈などを清め、榊を供へて祭ったものである。封建的と云ひ去るべくあまりに正月らしかった。又、舟も水の源も注連縄、榊、小さな餅のキレなど供えて祭ったものであるが、段々廢れてしまった。
 浦地の祖母などから聞いたには、その若い頃(この祖母は天保9年生まれ)、正月、玄関に人が來たり、「モーモー」と声を掛けると、家の人が「ドーレ」と云ひ出で來て招じ入れたと云ふ。
 世の中は、すっかり変はってしまひ、氣分つまり昔あった正月の独特の氣分もすっかりなくなった。

注-
・昔の正月の様子については、後に重複がある。
・浦地の祖母-東直晴氏の祖母しな女、浦地は同家の屋号、大滝屋とも言う。

( 38 ) 火縄銃での名人の事

 中作市老人に聞いた話である。
 東野に同人若い時分の頃、正兵衛と云ふ鉄砲の名手あり。よく牛のコウジの背の上に、小さな蜜柑を載せて6間位より命中、飛ばせたと云ふ。
 或る時の事、作市老人と鹿狩りに行きしところ、一頭の鹿、下手のオカへ駆ける。次の小さなオカに作市老人あり。次の大きなオカに正兵衛あり。正兵衛には矢は遺し、作市之を見て自分が撃ってとらんとし、狙ひありしところ、いきなり轟然と弾丸は作市の頭の近くをかすめて飛びたり。驚いた作市は、「無茶をするな。貴様は俺を撃つ気か。」と怒鳴ると、正兵衛曰く、「いいや、俺が狙ってみると、どうやら撃てるらしい。それに、お前の頭から8寸すいたから撃ったのじゃ。」
 鹿は、勿論斃されてゐた。

注-
・中作市老人-磧で山草を売る中保一老人の父、田戸の人、農業、85歳で死去、今おれば110歳、なかなかの物知りで俳句なども嗜んだ。
・コウジ-犢のこと。牡牛はコッテ、牝牛はメンタ。
・オ力-オ力は支稜すなわちサコとサコとの間の稜線のこと。

( 39 ) 狐憑きの事

 我等16、7歳(大正10年頃)までは、里人の間において狐憑きと称する者が何處かでちょいちょいあった。若い人も老人もであるが。
 これの人は、ろくに着物を着ようともせず、埃まみれとなり、勿論意識は不完全で精神は滅裂であり、外を歩き廻る者、喋る者、独語する者、引っ込んで逃避性の者、暴れる者、唄ふ者、変な物を喰ふ者、又は人の児を喰ひたがる者など、人事は通用せず、精神分裂症と云ふものらしいのがよくあった。
 周囲が狐狸やたたりを云ふから、時には狐の眞似やよく似た行動を為す事もある。治療法は多くは祈祷や玉置山に籠もって部屋に(稲荷社の内部)檻置されて祈祷を受け、又は銃砲刀剱で威したり或いは玉置山より御使者と称するもの-神の使者即ち玉置山の神狐を木箱に入れて、白布で背負って借りて來て祀り、我家の屋根の上に御馳走を供へる。この時、飯の如き器の一切は新しき竃や器を求めて供へる-を部屋に祭ったりしたものである。
 然しその後、段々減少して來て、現今はほとんどなくなってしまった。現今でも勿論、この種のものがでるが、甚だ少なくなり、狐憑きとは云はなくなった、とは申せないが、あの頃のように云はなくなった。そして、主として玉置山籠りが多く、他の地方、田辺方し面から來ることが多い。
 ところが、狐憑きは上の如くであるが、キツネや祟りの迷信、つまり自分の運命に関するものとする迷信は依然として絶えぬ。嘆かわしい事である。正しい希望は正しい信仰にある事は全然考へられてゐない。明治5年以來の無宗教村の様相には一抹の問題が残されてゐる。

( 40 ) 當田戸における散髪のナンバーワン

 これは我が祖父中森陳平である。炭焼きばかりの中で、これは一寸異彩あり。山で働くにも、コッパタにケシズミにてローマ字を勉強してゐたと云ひ、また現在上田を調べてみても和歌や書物多く、當時としてはなかなか勉強したものである。
 驚尾侍従が高野山に義挙の企てあると聞くや、馳せつけこれに加はり、天誅組にも加はった。後、十津川郷の仕事に從事、先輩と奔走し遂には上市において客死したのである。33歳。
 この時、父は4歳であり、時折帰ったが、抱いてくれたのをかすかに覚えてゐるとの事であった。
 この祖父は三男の父を恃み、一寸ましな奴じゃと、喜んでゐたと云ふ。流石に父は財は為さずとも(殘さずとも云った方がよい)、小学4年丈けの学歴であれ丈文章をこなし、村議30年、助役、村長などを歴任し、頑固乍ら性格を最後まで通した事は實際であり、それ以後現在まで田戸にはまだない。

注-
・コッパタ-材木を斧(ヨキ)でへつった屑。コッパという人もある。
・上田-瀞八郎氏の本家の屋号。植田とも書く。
・父-瀞八郎氏の父忠吉氏、父福重氏の長兄は友吉氏(本家を嗣ぐ)次兄歌吉氏は新宮で分家。