松焚の台 舟櫃

(図27)石油使用までつかった松焚の台
正月すぎの行事として、年間を通して焚く明かり用の松拾いをした。コエマツと称して松の軸(芯の部分)の油ぎったところを、この台上で焚いた。消えかけると追加して焚かねばならぬし、鼻の穴が黒くなるし、困りものだった。

(28) 新宮通いの荷物舟は、途中で泊まる場合、舟番と云う、荷物の番を夜交替でするため布団の必要があり、それを大きな舟櫃に入れて持ち運んだ。舟櫃の上部(蓋)は雨漏れを防ぐため一枚板で丸味をもっている。

・注-舟櫃には、布団以外に着替え、草鞋なども入れた。

山林諸道具


(図29)山林諸道具〔×印は使用されなくなったもの〕

・注-昭和37年当時

垣野源吾先生頌徳碑文 似顔絵

〔恩師垣野源吾先生頌徳碑文〕
学んで厭はず、人を教へて倦まざる者、実に垣野源吾君となす。君重里の人、天資温厚、幼にして学を好み、もっとも書をよくす。明治15年、郷の文武館に入り尋ねて吉野師範学校に轉じ、17年7月卒業、寺垣内、善城、谷瀬、寺戸、上湯川、小井、高滝各尋常校及び葛川尋常高等校神下分教場訓導を歴任、諄々以て学童を導くを己の任となす。これを以て到る処父兄みな喜び、子弟益々勵む。大正5年11月13日授業中卆として遂にたをる。けだし脳溢血を撥して歿せる也。享年52鳴呼哀れなる哉。大杉墓地に葬る。君職にあること30余年、勵精一日の如し。神下の父兄子弟及び青年等、追慕しておかず、金をよせて碑を建て以て報恩をあらはすと云ふ。・注-碑面は漢文にて書かれている。撰文は大字込之上の人、漢学者岡豊若先生なり。
大正13年11月建碑、祭典。昭和28年4月18日、中森瀞八郎、中信重、榎本光隆及び自分の4人(同級生)の、先生に4ケ年指導を受けたる者主になり、教へ受けたもの全員の醵金により37年忌を□したり。

〔恩師垣野源吾先生似顔絵〕
今から48年前、自分が11歳当時の記憶を辿りてのことであり、似顔の難しさ到底描写でき得難いが、少々ちぢれ髪であり、下ぶくれの豊かな顔、細かい歯並み、童顔温厚な顔立ちが心の奥ではありありと浮かんでゐる。自分が5年生になって本校へ去った後、授業中脳溢血で倒れられた。死後、寝棺の御顔を見たとき、安らかに眠ってゐる様であった。

 

 

ゆるり


(図30)ゆるり-此の地方では、とくにこの撥音。四方に太いホタを置くこと定石。

・注-ゆるり-一般的には「いろり」といった。一種の訛った表現で、この他に鮎を「アイ」、蓬を「ヨゴミ」と発音する古老が多い。
つと-竹籠の中に麦藁を(縦に詰めて)入れてある。
・注-「つと」は、火に焙った川魚を保存するために用いたもの。
じんざい-鍋、てつびんなどをかける道具。
・注-図中では「じんざい」とあるが、「じざい」が普通の言い方だった。このように訛った言い方もあったのである。「じざい」は自由自在の自在で、「じざいかぎ」にかけた鍋やてつびんの高さを調節できたのである。

土クド 板囲いクド

(図31)土クドと板囲いクド

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