( 71 ) 川伏の事
これは、ススキ追ひの頃、行ひし神事なり。高さ一尺二、三寸の巾七、入寸の祠を作り、中には祈念札を入れ、上瀞から下瀞へかけて悪い難所に祭れり。之、仕事の上、又は人の水禍を拂ふ意味なり。
余(8歳位か)、川にて溺れ、今は是非なしと膝小僧を抱へて観念せり。午後の陽は水を透かして朧な我と川底に対しゐたり。突然、頭を掴まれ引き揚げられ危ふい生命を救けられた。感謝。これは、垣本と云ふ新宮あたりの船夫のよし。板を担いで下りありしに、溺れる余を發見、荷を打ち捨て、小舟に飛び移り、棹を一突きし、漸く間に合ったとの事なり。後年、平谷にて、父この人に會し、懇ろに謝儀を述べ尽くしたりと云ふ。
余は、この他、立合川製材所のトロッコに傾斜あるも顧みず、押し上げ、腰を下ろせしに、トロッコは快く轉がって行く。速度は段々加はり、ふと氣がつくと工場の端はレールが絶え、眼下は懸崖なり。死、直感する。父出で來りたるも僅か手を支えたるも何條堪へるべき。分刻を爭ふ一瞬の間、巾五尺あまりのオガクズの積めるあり。一髪の時、小児としての余の頭を過ぎしもの、オガクズに落ちると云ふことである。少しの批判の間もない。思ふや否や、矢の如きトロッコより轉がり落ち、何の傷もなく助かりたり。こんな心理は西洋の書にも見る。例へばSkin Reachに見る。
その他、九死一生を得たるもの、肋膜炎、肺浸潤(中学時代)、そして生兵法なる毒薬の失敗、今回の脊髄炎等なり。今まで、生きてゐたが不思議なり。只、瀞七よ、早く帰れ。
(31、2、23)
注-
・川伏とススキ追いを兼ねてやったこともある。
・膝小僧-十津川では膝小僧のことを、「ヘザカブ」と言う。
・立合川製材所-瀞八郎氏の父忠吉氏が立合川の谷口から20町余り奥で水車を用いて製材をやっていた。5、6年もやっていたか。
・瀞七-瀞八郎氏の次弟、終戦後久しくソビエトに抑留されていた。現在、東京に在住。
( 72 ) 下葛川東家祖先の事
今は零落、居を異にするも、昔、神下にては長者なり。或る祖の者、立合川山小屋より帰るさ、下肥(屎尿)を担いで來る。日暮れ、誤って顛倒せり。桶の内容放出す。手にて探り、桶に入れて持ち帰りしと云ふ。同家が大となりしは、不便なる交通のため、杉檜のみに頼るを得ざりし如く、輕くて高価なる椎茸を産集して、人肩にてはるばる堺、大阪、奈良あたりまで販賣に歩きしと云ふ。現在も推茸を捨て得ざるもここにあり。然し、山又山を越え、よくも行きたりしものなり。
( 73 ) 瀞の鯉とウグイの今昔
余が12歳頃、(鯉を)叔父(邦吉、杢平老)がよく獲って來たが、その大きさは今のとは全然違ふ。3尺に近いものもあり、担いで帰ったものだ。それに沢山ゐたらしい。料理をする時、尾鰭を壁に貼る風習あり。思ひ出しても今の鯉の倍もありしならんと思ふ。
これのみでなくウグイは、ウグイ花咲く頃、川底の瀬あたりへ産卵に群れ集まる。これを大きな鉛のついた鈎で引っ掛け、最後には網を打つなどして獲ったもの。(大小を)きちんと分けて帰り、高菜と一緒に炊いたり、又焙って(神棚に)供へたりしたものである。ところが、この魚にも大変化起こり、以前のような鯉の如き腹の赤き大きなものほとんどなく、僅かな小型白色小集団となってしまった。両者、(文明開化)により、いろいろな面より退歩していくのであらう。その上、ダイナマイトや鉱毒関係もあり、獲り方激しく、なかには無益の殺生のため、段々影が薄くなってゆく。寂しい事である。
注-
・魚の減った事については、後出参照のこと。
・邦吉-姓は音無、瀞八郎氏の母方の叔父。
・杢平老-田戸の人、東杢平氏、魚釣りの名人。
・ウグイ花-ウグイの産卵頃に咲くツツジのようなピンクの花。産卵期のウグイをツキウグイという。ウグイは一旦素焼きにして、高莱の葉で包んで、ワリナか藁で括って、辛目に煮るとおいしい。
・鉱毒-紀州鉱山の鉱毒が板屋川を通じて、北山川に入って來る。
( 74 ) ハレー彗星の事
余、7、8歳の頃か、家の入口近くの道に立ち、項上の天を仰ぎしに、このハレー彗星を見たり。ホウキ星とも云ふ如く、ホウキ形に頭は小さく、尾は太く、怪奇な姿を幾晩か位置を変へて出てゐたと思ふ。
注- ハレー彗星は、76・03年の周期で楕円軌道を公転。1910年(明治43年)には地球が尾の中を通過するほど接近し、社会的にも騒がれた。中森瀞八郎氏が生まれたのは1905年(明治38年)であるから、5歳の時に田戸の里から狭い空を仰ぎ見たのであろう。彼に付き添っていた家族は、恐怖感をもって眺めたことと思う。ハレー彗星は、最近では、1986年に地球に接近した。
( 75 ) 有蔵、島本文吉老人の事
ここに面白き習癖あり(と、云ふより精神科医の範に属するか)。彼の老人、茅を結ぶこと、非常の名手なり。手頃の集まりたる茅あれば早速右手一つにて、あっと云ふ間に怪我もせず引結ひにする。故に老人の通った道は時節さへあへばすぐハァあの老人が通ったと判ったのである。一寸痩せ型、邪気なく、何時も大きく、「はっはっはっー」と笑ひながら話し、よく我家へ訪れ來たりけり。その時、面白きは何時も箸二本を削り置いて行く。急ぐ時は、投げ込み置くを常とせり。
家庭では、おひつの底を抜き、胴を作り双方へ紙を貼り、柿渋を引き天日に干してポンポン叩いてゐたと云ふ。そして、雨の日は鳴らない。
あの地にて山稼ぎの者共、或る日遊びに行く。夜なり。最後に剣舞を見せようと云ふ。人々、之を見物するに、愈々最後、「流星光底逸長蛇」に至りて突如、見物人に斬りつけしに付、吃驚仰天逃げたりと云ふ。當人、赤松に聞く。後、如何なる故にや、縊死して失せり。かかる人もありき。
(31、2、25)
注-
・赤松-田辺方面からやって来て、自分一代は田戸に住み、その死後息子は余所へ移った。
・有蔵-地名でアンゾウと読む。
( 76 ) 川魚、特に鮎の捕り方移り変はり
まず、古い方から云へば、「ヤナ」を懸ける。網を打つ。この間に毒流しあり。爆薬使用も。その後、テングスやいろいろ知識の向上につれ、陸上または舟上から鮎をカケル方法、つまり、オトリを捕らへ眼の部分と尾の部分に釣鍼にて糸を通じ、尾の部に相反する釣鍼を仕事、糸を経て釣竿を動かし、水中を誘導せしむ。他の鮎は、良き仲間と早合点して之にザレて來るうちに,遂に尾部の釣鍼にかかると云ふ訳。釣り師は、元氣なきこの鮎と取り替へ又同断。これは大して捕れぬが、大きいのがかかり、趣味もある。
毒流し(巴豆、生石灰、山椒の皮、トコロ、クルミ、最近は農薬ゲラン、特に名高い青酸カリ)は、禁ぜられ、密漁の形となり、主としてCNが使用され、現今も絶えない。又、爆薬物、ダイナマイトを第一にし、いろいろあり。危険も多く、不具になったりする者少々あり。警察も全力を尽くすようでもない。余の考へるにCNやダイナマイトの如きは、甚だ不都合なりと思ふ。第一、拾へない無盡の殺生をする。緋鯉又は大鯉など一發で大量獲得され、段々少なく、余の幼時よりは形も半分になってしまった。簗は、古代より用ひられし方法なるも、季節と大がかりの装置、天候に関し、之は許可を要する。然し出水時にうまく合致せば、實にすばらしい捕獲あり。足元へ何百何千飛び上がり來る。塩・味噌・酒を用意して、舌つづみをたらふく打つ者あり。實に独特の気分で、鮎に氣の毒な位である。余も2回あまりこの経験あり。舟に3杯あまり、處置にも窮すると云ったところ。猫も見向きもしない。然るに万が一、材木の如き大きな害物が流れ入り、大怪我することあり。又、水都合その他にて1日僅か1、2尾にて終わることあり。賭に等しい。
然るに余の少年時代、正當な方法は上記友掛け、網打ち(これは然しなかなか技術を要す)が重なりしが(而して、その時分は魚も多かったのである)、余、9歳か10歳の頃より糸端に直接鍼を付して、直接引き掛けんと云ふ傾向が出て來たのである。乃ち釣り糸の端にスバル形の(稍大き目のものあり)ものを装着して、尚、鉛の玉を加へ錘として鮎が岩の珪藻を喰べんとして來るを傍らに沈ませをきし鍼もて引掛けるなり。
然て、この方も成績良からず、木箱(大きさ1尺もあれば大)の一端にガラスをはめ、平行光線として川底を眺め、瞭然たる魚の姿を視て、小さな細身の銛で突きとること始まるに至る。まもなく竹竿の先端の細い部分に釣鍼を取り付け(ゴム紐など用ふるあり、かかれば鍼はずれて糸に余裕を持たすなどの工夫し)直接、主として錨を入れし舟より群れを睨んで引っ掛ける事始まりぬ。最初は大した流行もなかりしに、愈々遂日盛んとなり、鵜より酷いと云はれ、昨今は9割9分まではこれなり。故に縣によりては、特に条例をもうけ、之を(水鏡と併用)禁止せるあり。然し表面のことにて、その盛んなること、今は只これによるのみなり。
右以前、フリカケと称し、暗夜、淵の辺りに淵網と云ふ大いなる網を以て取り巻き囲み、突然ムギワラなどに点火して振りまはす。驚きたる鮎は、忽ちにして網にかかってしまふ。多くは大量を得るなり。
又、最近、或る特定の場所にては、科学知識を利用し、これをとるものあり。特定の場所とは、發電所に多し。水車の中へ多量の空氣を交ぜて放出すると、水は乳白色となる。空氣の微粒子の多く含める水中にては魚も呼吸不全となり、遂には死するものなり。然し、かかることをすれば、水車は非常に酸化を受けてよろしからぬよしなり。
結局、チョンガケと云ふ水鏡を利用しての直接法は、鵜よりも或いは之に匹敵すべし。故に法律で取りしまられる。
天はよくしたもので、アメノウオの如く珍味なる魚は、ほとんど山の奥底まで住んでゐる。7、8寸位は一番佳なり。大は1尺2、3寸、又は以上もあり。恰も鯖の大きさの如し。鮎の如く下流へ下り産卵せず。己が住む淵の辺りに卵を産みつくるなり。歯は鋭にして、他の魚或いは虫の顆まで食する。青々せる奥山の黒き淵にユラユラするのを見ると氣味が悪くなって來る。
里人の傳へに木の柴より発生すると云ふムツと称する3、4寸位の魚も山奥の谷に見られる。ミソガラ、糠なりを入れし瓶又は一種の籠を水中に投じておけば多くとる事が出來る。焙って醤油をつけ喰ふにガサガサして、あまり珍ならず。されど奥山の事、余、一度喰ひしに、その時はうまかったのである。この魚は、割合に人を恐れず、例へば蓬の根に引き結びを作り、水の上から下して括ることも出來、子供の遊び相手なり。
約12、3年前より、鱒科のアメマスと云ふ味はやや劣るが大いなるアメノウオに似たる魚、北山あたりで放ちしや、大分増殖しあり。又、方言「ハイ」に似たるも薄青赤の4、5寸の魚も出で來る。
又、アメノウオなどは、洪水を予知するのか、その期、迫れば砂を喰ひて体重の増加を計るよしなり。丁度、これに限らず、他の魚にもあらん。
(30、2、28)
鮎は、ザレルよりも縄張りを爭ふものならんか。
注-
・簗については、この後にも出てくるので参照されたし。
・文中の柴(シバ)は、木の葉のこと。
・「ハイ」は、十津川村では「ハイジャコ」と呼ばれ、「アカバイ」(雄)、シロバイ(雌)に分類される。正式な名称は「オイカワ」である。
・アメノウオ・鮎には天候予知能力があると言われている。
( 77 ) 父が若き頃、猟を止めし原因
亡き父も、非常とまではゆかずとも、人並みに狩猟が好きであった。余、5、6歳の頃、連れて行ってもらった事も覚えてゐる。その時、余に弓矢を作ってくれしをも記憶にある。
ある時、瀞山中にて一匹の猿、樹上にあるを發見し、下より狙撃せるに命中せりと思ふに落ちない。(これは、猿の性として、生命あれば落ちず、然らざればヂットして木に縋りついてゐる。)再び發射すると、どんな具合か落ちて來た。その猿は瀕死ながら、突然、手で顔を被い悲しげに泣く。流石の父も哀れを覚え、早速、引導を渡した。生あるものの悲しみ、人と何の区別があらう。心地悪くする中に、他の村人やはり一匹の猿を無疵同様で捕らへ、網にて括り、もと菅家の前に曝したり。たまたま船夫等來たりて威嚇、殺す眞似をせしに、その猿、手を合わせ、泣き声悲し。之を見て以來、ふっつり狩りを止めてしまった。恐らく2、3年続けたのみならん。
注- 菅家-松平の素封家で、今の西旅館の所に移住して來て新築し、荷物問屋を始めた。瀞八郎氏の父忠吉氏は、丁稚に入って仕事を憶えた。即ち、忠吉氏の主人筋に当たる。菅家が事業に失敗して退轉した後、忠吉氏が、その向かいで独立して店を開いた。
( 78 ) 狸のこと
(狸は)昨今は、非常に少なく、部落の近傍には在るや無しやの状態となった。余20歳代の頃は、上地と店方の間なる山口家の柴山などにワナを作り、一夜に三匹も捕ったことがある。代金は、20円乃至40円位したもの也。尚、それより、亡父の若き頃はまだまだ多く住みて、菅屋の嫁入りの時など、肴の骨を捨てるのを拾はんとして、遂に家の裏山や庭まで來たりしと云ふ。
なお、狸の溜糞と云ふもの、一度余は確認したり。上記の山口家の柴山をば跋渉してゐた或る日の事、突然之に遭遇し、なるほど嘘に非りしと思へり。そはあまり大木のない小さな台地に一枚の畳以上の広さに排泄物が堆く広く(広くの方が當たる)散布されあり、感心せる事あり。何が故に一カ所へ來たりて排泄するか、或いは一匹か(多分同類あるベし)、暫く考へたる事あり。當地の傳説に之を見たる者、夜怖い夢を見るとの傳へあり。暗合して、その夜、凶夢を見るに及び母が、「ワリャーうなされとった」と、云ってくれた。
注- 狸に関する語は、後出も参照のこと。
( 79 ) 狸と猪の仔の話
狸の多い地には、猪の仔は育ち難いと東藤二郎大叔父が云はれた。理由は狸の奴、カルモの上に飛び乗り、猪の仔を驚かすためと云ふ。
注- カルモとは、猪の夏のネヤの事。
( 80 ) 見事、狸にだまされし實話
余、中学二年の頃の事である。
中田老人(上葛川、中文治)が、元菅尾に宿やその他を営み、約20年を暮らして孫を養ってゐた。貨物の中継所である故、上り下りの荷物を扱ってゐたのである。或る日の事、亡き母が我が店にて何事か為すあり。折りふし杉板を積みに木津呂の船夫達來たり。余は折りふし、納屋の板を頻りに床に積み居たるを茫然と見てゐたり。何と平和な事か。徐々に板の数が減りゆき、数束をあますのみとなりしに、突如大声に騒ぐあり。何事かと問へば、何だか変なものが居るとのことなり。或いは猪の仔ならんと云ふ者様々なり。そこで船夫達、皆集まりて棹その他の器を持つもの、無手の者、之を囲みて板を取り去りゆけば、一匹の狸公であった。哀れな狸は、もはや逃れる手はない。コツンと軽い一撃でコロリと斃れてしまった。案外なことに氣抜けしたやうな船夫達、首筋をつかまへ、「狸を捕ったわよ。」と中田老人に披露せしに、老人曰く、「早速俺が買う。賣ってくれ。皮をとるのだ。」と云った。元より異存なく、船夫は之を渡して、又積みにかかる。じっと之を見てゐると、独り言云ひつつ、煙草の入りありし大きな木箱を庭に据へ、「こりゃー、死んどる。」と言ひつつ、鉋丁を入れんとせるに、刃があまり切れそうにない。頻りに指の腹にて驗してゐたが、死んで身動きせぬ狸をそのまま置き、家の中に刃物を研ぐべく入ってゐった。
好奇の眼を以て余は之を見てゐた。結局は皮を剥がれてしまふだらうと氣の毒にさへ思ってゐた。
然るに、あっと云ふ間に異変がおきた。死んだと思った狸はムックリ起き上がるや、箱を矢の如く飛び越え、雲を霞と逃げ去ってしまった。余の知らせる声に老人、中研ぎの刃物を持ってあたふた駆け來りしも後の祭り。「弱った、あの狸の奴、死に眞似してゐくさったんじゃ。括って置けばよかった。」など、盛んに繰り返し、苦笑、殘念がってゐた。やはり狸は、かう云ふ意味で人を化かすと云ふ事がはっきり判った。捕らぬ狸の皮算用と云ふ言葉があるが。