( 51 ) 王森山の事(大森山)

 田戸部落背後の山を王守山又は王森山と云ふ。大塔の宮が落ち給ひし時、しばしここにて御暮らしなされし所と云ふ。
 王杉(玉だすき)、神山(神鏡)、王渡及び王休場から玉置山、又、北山川の大沼村の祭神、花知の祭神、館跡、竹原の古跡などを考へる、或いは何か関係あるかも知れぬ。
 佐五郎右衛門と云ふ者ありて山芋を奉りしに、宮は、「これは何か」と問はれられしに、「トキヨ(時世)」なりと答へたりと古老に承っている。王守山では今でも茶碗の割れなど現れ、石で築いた風除も見出される。ただ水に不便なので汲む者は大分因った事であらう。

注-
・王森山は大森山、王杉は大杉、王渡は大渡である。
・花知はハナジと読む。・花知はハナジと読む。

( 52 ) 下瀧の長者の事

 北山村大沼へ去るにのぞみ、千両箱参ケを持ちて移りたる由に傅ふ。その頃、少なくも二百数十年前であらうが、よくもあんな辺境で、この大を成したものである。現在、南牟婁郡で5指に入る山本家へ金拾両、當地浦地へ千両持って分家したと云ふ。

注-
・重複記事である。
・浦地は田戸の東直晴家の屋号。もと下瀧屋と称した。下滝の長者は西山の山本家と田戸浦地家の他に大沼へも分かれたとも伝える。

( 53 ) 慾の熊鷹股裂かす

 余、10歳位の事である。大沼より筏夫の或る者、筏を駆りて川を下りける。有蔵の辺りまで來し時、ふと岸を見ると一羽の鷹が猪の子に爪を打ち立てたり。逃げようとする子猫を我が物にせんとする鷹、爪を離さない。然るに猪の子は、この鷹には少し大き過ぎた。一生懸命の猪の子は、岩窟それも狭い穴へ入り込んでしまった。見てゐると狭い岩の所で猪の子は、背中の鷹をはらふ為に力一杯擦り上げたから堪らない。鷹は、股から腹を押し潰されたらしく、猪の子の勝利になったと云ふ。

注- ・「慾の熊鷹股裂かす」 当地の諺である。

( 54 ) 玉置神社に存する神代文字に就いて

 上平主税翁が残したと云はるる神代文字に関して東藤治郎大伯父に語りたる。「横文字横文字と外國の眞似をせいでも、日本にもこんな文字があったんじゃ」と云ったとの事。攘夷論者の錚たる人物及び奈良近辺にて古墳発掘の際、土器などに古代の文字のない事から、いろいろ疑惑をもっていたが、去る2月初旬、あらゆる苦心(研究者がいない為)の末、やっと東京教育大学中田教授と通じるを得、その返信に接した。これによると「日本には古代文字はない」と云ふ事を理論的に説明して下さった。つまり攘夷論者、故意にこれを偽作し(シッタン、諺文など考慮して)漢文や外語に反撥し、攘夷の氣勢をあほったものである。

(29、3、5)

注- ・重複記事である。シッタンは契丹の誤りか。

( 55 ) 瀞八町の「瀞」と云ふ文字は何時から使用されたか。そして誰によって始められたか

 先日、約10日程前の事である。かねてから瀞の文字に付き、非常に関心をもってゐたが、判らなかった。偶然、或る調べ物をする為、蔵の中にて文書を整理中、記録を發見した。實は以前に資料を余が保存したまま忘れてゐたものと見える。これによると、新宮市の漢学者伊藤東涯先生の弟子に當たる宇井豈翁は欝翠園と云ふ塾を新宮に設け、子弟を教育した。或る時、その門弟達と共に熊野川を遡り、瀞に來たり、その風光を賞し一文を草す。この際初めて「即ち此瀞也」の句がある。之を以て始めとする。蓋し天保4年の事である。
 瀞の文字、その前後において澱に作りたるものもあり。又、玉井洞と名づけしものあり。いずれにしろ明治19年乃至24年頃迄は、折角の瀞の文字もあまり人に知られず使用されなかったらしい。
 それ以前は、八丁どろ又は八丁とろ、或いは、とろ八丁とも僅かに云ったらしい。大体八丁どろが長く使われたやうである。書体に八丁泥、単に泥又は泥八丁などとも記され、最も古いのは平仮名の八丁とろでないかと思はるる。又、土呂とも記されし事もあるらし。
 どろの語源は、「とろ」らしい。「あのとろのとこ」など川水の淀めるを表す言葉があったのであるから。そして十津川、北山川上流では「ど」と濁る。とろり、どろりとしたどろのようなと云ふところからきたものであらう。結局、こんな都合あれこれと変遷を経て來たものである。

注- ・十津川村には現在、長瀞(小井)、大畑土呂(永井)と称する地名がある。登呂遺跡も同様で、瀞も土呂も深い淀みを意味する。

( 56 ) 正月元旦

 掃除、餅、鮨、その他門松、注連縄一切の準備をして元旦を迎へた。墓は勿論、神棚、神社、廟屋、台所の神、門前の注連縄一切を終へて、入浴して元旦を迎へた。その内、注目すべきは船玉を、そして水源地、山林の働き手は道具すら祭ったものである。元旦は、一家揃って豆腐や雑煮で初春を祝ひ、この新年を迎へてそれから神社や祖先の墓に元旦を迎へさせて戴いた事、将來の事を感謝、御祈りしたものである。我家はその後、年賀状來るを見る。500枚近くある。そして親子連れ立ちて新年の拝賀式に上下を問わず学校へ行ったものである。その當時は仮令如何に生活程度の差こそあれ朝日へアキラケクこよなき新年を皆が和氣藹々の内にさながら正月氣分で行ったものだ。落ち着いて今からみると、まるで夢のような平和な元旦であった。陽の光さへまるで現在と変はってゐたのである。父が帰って、余と家内の者は御飯の支度もあまりない。大きな折り箱には、各種出來合いの御馳走がある。今日1日は母達も炊事に心を労する事がない。父は年賀状の返信を端然として書き、我も又少々書いた。1日は近隣、2日あたりから年賀の人々、木津呂その他の職人(約延ベ200人位)手拭いなど持って挨拶に來る。その都度酒肴を出してもてなす。大組が來ると、酒の4斗樽も残り少なに大騒ぎしたことであった。今は只飲み食ひ出來れば上の部である。雰囲氣たるやその當時に及ぶべくもない。本家の主人とは平素は多少喧嘩してゐても、元旦は一線をひき、仲良く年始の祝いをしたものだった。噫々、我の幼時には秋葉神社へ参詣し、鬱蒼とした杉の茂みの中で、ドブロク又は甘酒を戴いたものである。
 子供は、田舎の事とて遊ぶ方は知れてゐるが、連れ立って喰を楽しみ、男児は男児の遊び、野鳥をとらへたり話したりして遊び疲れた。呑氣な正月らしい日であった。女児は女児で毬突き歌を唄ひ、それ相當の遊びにふけり、樂しかったのである。作家獅子文六氏の云ふ通り、よい正月であった。もはやあんな時代は來さうにない。都會でもクリスマスと共に傳統を忘れてドンチャン騒ぎ。賠償金も払はない内に、噫々、思ひ半ばに過ぎる。変はれば変はるものである。

注-
・船玉-明神と称して、家にも船にも特別の祠や神体はなく船のナカフナバリ(  )の中央に、榊、椎、注連縄、餅、蜜柑を供えるだけ。
・秋葉神社-昔は早朝に下葛川の東雲神社へ参ったが、分離後はジゲの秋葉さんへ参る人もある。

( 57 ) 取次の言葉

 浦地の老母(天保年間生を得る)の話を聞くと、その當時、人、或る家を訪れると「モノモ」と大声に呼ばはる。すると家の人は「ドーレ」と出で來たり応対せしよし。

注- ・浦地は田戸、東直晴家。重複記事である。

( 58 ) 虫送りの唄 昭和31,2,18

 中作市老人、今生存すれば90何歳ならん。私に語ったところ、毎年7月頃、丑の日に行はれる虫送りとも云ふ行事、子供のみにて、夜太鼓をたたき大声で唄ひつつ、部落を一周し、最後、煌々とかかげて巡り來った松明を川の辺りに捨てる行事なり。昨今も行はれてゐるが、歌声は段々薄れてゆくようだ。これは老人の云ふ。
實盛殿の御通りや  根虫  葉虫  オークルゾー

注- 虫送りの唄の歌詞は、逆のように思われる。(21)話参照

( 59 )玉置山門のわらじの堆積

 むしろ不思議と思ふ。あの高山、玉置神社の神威は明治復古までは相當なものであったらしい。西は和歌浦、東は名古屋あたりまで、特に漁夫たちの信仰(稲荷社あり)篤く、講を為して祭日には來たらしい。その時、山門の傍らで草履を新たに換へるを慣しとせり。故に、その門の辺りは草鞋うず高く堆積したりと云ふ。

( 60 ) 玉置神社の神札(但し祈祷の文言)

 その昔は、『熊野なる玉置の宮の弓神楽、弦音すれば悪魔退く』と、唱へたよし。驚くベきは奥羽地方よりこの札發見されしよし。現在のは、横井小楠を斬った十津川人、宮中に出入りして信任の篤かりし上平主税が、『熊野なる』を『矢的なる』に変へたものと云はれる。この外、同人の示した神代文字又は古代いろは有り。されど、これは信を置き難し。何となれば同人は極端なる国粋論者で外夷を忌みしを思へば。

注-
・上平主税については、(32)(54)を参照のこと
・文中の『矢的なる』は、『やまとなる』と読む。