( 161 ) 一本だたら又は一つだたらのこと

 北は吉野近くの天ケ瀬、入の波(シオノハ)あたりより、南は那智あたりの峯々を通じて、一本だたら(イッポンダタラ)の話、昔よりあり。我の17,8歳の頃にも北山村(下北山)で語られてゐた。
 雪の降る日、山越えすると小児の如き足跡で足一本で歩いてゐると云ふ。また、大人以上の足跡とも云ふ。これは昔、平谷平助・三蔵が大々的な例の北山一揆を完遂すべく、また大野心を満足するため新宮・和歌山城の大阪出陣をねらって、新宮神倉神社(元の速玉神社)に魔所荒らしなどしたやうに怪奇に宣伝して、効をそれまでより高めたこともあらう。(一本だたらの)起源はずっと古く、上北山の岩本家(政務次官を出す)の傳説に、から傘を広げし如き怪物に、夜、人が対した時、(彼の)所持せし鉄砲が自ら飛び掛かったことがあったと云ふ。
 又、義経とからまして、師走(ハテ)の20日(ハツカ)、伯母峯を越すと背に竹の生えし義経の馬出で來ると人恐れし如く怪奇な傳説を生んだ。
 我の考へでは、足の不自由な超人間的な腕力と勢ひを有してゐた人、巨人型の盗賊かと思ふ。単に傳説に終わり、史實がない。色川の仮屋刑部左エ門が一本ダタラを討ち取ったと云ふ傳説もある。とにかく、しつこく過去へ尾を引いて取沙汰されしものである。仮屋刑部左エ門が討ち取ったと云ふのも、たった一人と定めてしまふと変なことになる。と言って、何人もあるはずなし。要は単なる傳説か否か、我は多分にこの怪物(怪盗)が過去に横行したものと思ふ。
 高田の権守(ゴンノカミ)の祖が那智参りの途、一本ダタラに出合ひ、狼に助けられ、その恩に報ひるため、「死んだら死体をやる」と約束し、そのため代々墓を暴かれて、遂に宅地内に墓地を設けしと云ふ傳説もある。仮屋刑部左エ門が一本ダタラを討つ前にも後にも、この怪物はいたらしいのである。

注-
・平谷平助(三度平助)のことは、別にある。
・色川-那智の奥
・高田の権守-高田は和歌山県熊野川支流沿いの村

( 162 ) 狸の溜糞を見る

 我21歳の頃、田戸の上部落と下の我等の店や宿・菅屋の店の間にある淺い雑木林(向井山道の辺り)、今の山口の下辺りで狸の溜糞を見た。當時はしきりに狸が出没してゐたもの。(溜糞は)山道の上7間あまりのところにありたり。広さ畳1枚位(長径やや小)、狸の大便が一面にしてあって驚いたものなり。狸は脱糞するに廻り來りて、ここにするものと見ゆ。テン・イタチはところ構わずの感じであるが、狸のそれは面白き習性なり。

( 163 ) 狸の食物のこと

 2~3匹の狸を解剖の末、胃の内容物を見る。山の動物はほとんど肉食か菜食か又は猪の如く雑食もあるが、狸の食餌は格外の相を呈す。草木の根あり、葉あり、鳥らしき生物を知るに足る骨、肉、腱、昆虫、ミミズ類、木の実あり、鳥の羽あり。なかにはゴム靴の片もありたり。その貪婪な食性は呆れるほどなり。

(昭和34年2月12日)

( 164 ) アナグマの嗅覚に関して

 我21歳の頃、新屋敷の石垣(カへリ)の根元に赤土を2尺余り掘り取り、この中に栗の實を何程か入れて土を加へて固めたり。かうすると甘くなると開きしためなり。コスモスの花ありて秋探し。
 ある日のこと、飼い犬の鼻の辺り、異様なり。よく見ると下顎に傷あり。かなり深し。変に思へどそのままにゐたり。次の日、犬は例の新屋敷へ走り何をかなす。我栗のことは未だ心せざるなり(日淺きため)。異様な臭ひがするため、コスモスのあたりを見るに、一匹の大なるアナグマ、上顎を鼻もろとも咬み取られ死してあり。これにて我は知る。第一、アナグマの嗅覚力の敏がその栗の實を取らんとして忍び來たりて掘りたるなるべし。良き犬に非ざるも犬猛然とかかり、互ひに顎を交差して闘ひしなるべし。遂に犬の力まされる。上顎を咬み取られ、死せるならん。もし、その様目撃せば、さぞ面白かるべし。悪臭強きため捨てたり。熊に似たり。顔はシシに似たり。爪は狸よりはるかに長じ、茶褐色にして肛門のあたり濃褐色に臭腺のために染まりたり。
こんなものがノコノコ當時は出たものなり。今は影もなし。

(昭和34年2月12日)

注-
・「新屋敷」とは、中森氏の新しい屋敷のこと。
・「カへリ」または「カへリ石垣」次の図参照のこと

( 165 ) 盆踊りのこと

 老若男女幼を問はず盛装して、一堂に会し踊る。全国的なものである。この日ばかりは政治的その他の圧迫も免れ、苦労も忘れ、樂天的に踊り狂ふ。良いことであり、また昔の人の心も偲ばれる。若い男女は結婚の相手をこの間に物色して、なまめかしき一節もあり。老若一切は愉快に遊び、歌ひ踊るなり。(楢山節考の逆である。)
 ある特定の人物の物語を踊り、歌にせる口説と云ふものあり。また、昔の叙情歌も踊りに現はる。
 中入(酒、握り飯出ず)後、我等幼時には専らニワカ出でしものなり。つまり、寸劇で滑稽味あるものなり。また、平素は山の中で炭焼き人として暮らし、人にもの云ふも恥ずかしと云ふ者、それが突然美声をあげて、三勝半七よろしく草履を紐にて引き、飛び入りしくるなどありき。多くは昔のままの踏襲なり。故にまだまだ地方に殘る筈なり。我は當を遂に失ひ、これを究め得ざりしは殘念なり。

注- ・ニワカ-簡単な即席芝居のこと

( 166 ) 更に狸のことについて

 亡父が我家の前の菅家に奉公中、嫁入りなどの場合、肴の不用分を捨てると、家の裏あたりまで狸ゴソゴソと之を喰ひに出でたりと云ふ。また、80年位前か、大伯父、東藤二郎云ふ。「狸、内庭まで來たり。穀物を喰ふため、餌のものを庭に置き、鉄砲を構え置き、夜にゴソゴソの音を聞いて射った」と、云ふ。然し、あまり射てなかったよし。狸の腹ツヅミや人の聲の眞似は巧みに啼き、声をたてるよし。(この狸の腹ツヅミは、亡父も玉置山にて聞きしよし。)北村源吉老云ふ(今より90年前か)、ある日のこと、山で薪を伐り居りしに、下の方にてホーイホーイ声がする。扨は狸と思ひ何の心なく一仕事終わりて堆積せる木の始末をせしに、一匹の狸、投げし木に當たりて死んでゐたりと云ふ。
 また、それより30年も後のこと、木津呂の中山文二郎と云ふ人もこんなことに会ひ、よく視ると狸の片足が出てきたと云ふ。これを見て間もなく肋膜炎にかかり、たうたう無麻酔で治療をやったと云ふが、熱の高い時など、「彼奴は、足を返せ」と再三口走ったと云ふ。以て、當時の人の狐狸への恐怖感を知る。
 我の所有の向井山と云へるに、オツギと云ふ老母ありしと北村源吉老は云へり。ある日、卒然として、その姿消え去りたり。田戸の人々、扨は狸のため誘ひ込まれしと思ひてか、全里の人を総動員して山や野辺を、「オツギのババを返へせよい」と探し廻ったよしなり。

( 167 ) 狸に化かされたと云ふ話

 今から27~8年前の頃のことである。木津呂の人、鮎を賣らんとして夜道を通行せしに、瀞山の深きあたり(入り口より2km位らし)にさしかかると、俄に怪しげなもの樹間より飛び出し、同人の顔に當たる。温かいような毛むくじゃらのもの。吃驚して之を跳ね飛ばさんとする瞬間、提灯の火は消え、いよいよ狼狽して鮎の入りし籠も一所懸命のため振りまくりたり。
 後、之を云ふ。「狸に顔をなでられ、提灯の火を消され、鮎は全部とられし」と。かくて狸談はいろいろ取沙汰されて既成事實となる。而し、冷静に考へても分かることなり。これはムササビの生態、つまりコウモリの如くに飛べない空中滑走の身の情けなさ。暗号的につき當たったのであらう。ムササビも迷惑、絶対の草食性で吃驚、困ったことであらう。

( 168 ) 狸や狐の迷信も考へやうで

 全然不要、不合理な迷信として片付けることは、時事的に問題なり。いや現在ですらあり。怪力乱神を語らずと孔子云ひ、釈迦も正法に奇跡なしと云ふ。然し、それは相対性で、特定の智識ある人々での話である。証拠は小乗仏教、神道でもあとを引いてゐる。つまり昔は昔、今は今。結局は弱い人間である。五官の知だけでは頼りない。眼にも見えぬ神とか神秘とか、妖怪めいたもの、シャーマニズムの如く現象の世界の精霊崇拝が必要になったのであらう。マイナスの面もあるが、半面とどまりなき人の悪い欲を押さへてゐる。ゐたとも云へる。例へば山で山の神の木を神聖なものとして殘した如き、動物・昆虫より針供養もその一端に触れると思ふ。具象化し、形式化したと云ひながら、蚕の蛹の祭りなどである。

( 169 ) 火の玉の話

 我聞く、この種の火の玉(エキセントモルの火、球電の話など外国でも云はれてゐるもの。はっきりしないものがあるが)、當地で聞いたところ、便所で火の玉が浮かび消えたと云ふこと。また、部落の天空を通って家の門をくぐり飛んだと云ふ話(14歳の頃、小森で聞く)。山から出た、人の死と結び屋根から出たなどいろいろある。然し、ほとんどは幻覚的(視覚ではあり得るなり)、作為によるもの少なくはない。たった一度、我18歳の頃、大渡より帰る途中、大杉の下あたり、午後4時頃、北東より西南に一直線に尾を引き、白光を放ちつつ飛ぶゆく火の玉を見た覚えがある。大きさはフットボール位か、ぼんやりして見えなかった。客観的に考へてみると、どうも隕石ではないかと思ふ。視る者の角度によりいろいろの線を引いてゐるらしい。近所に燃えないで落ちたら、必ず音がするか何かあるであらう。

( 170 ) 瀞河原の白石のこと

 これにつき亡父云ふ。こんな眞っ白い石は珍しいことなり。これは前鬼山より來るものかと云ふ。なるほど、長石のみと云ってよいものもある。

(昭和34年2月15日)