( 211 ) 人の眼や耳とその心の相の移り

 この記述を見るとき、年々歳々、年月経るごと、アップツーデートの人の常識、智識、感受性は万象流轉の法則に從ひ、変轉するこそをかし。狸の件の如き、眞面目に取沙汰さるる。他はをして知るべきなり。

( 212 ) 大力なりし浦地の祖のこと

 大力の人ありて、天誅の騒動のとき、十津川退去の中山侍從の駕籠、笠捨越えのとき、一端に石を括り、一人にて担ぎ行きしと云ふこと、北村源吉老人に聞く。そのとき、駕籠の隙より見ると、人の汗して上り行くに引き代へて、中にてナシを喰ひをりしと云ふ。以て、當時の様を窺ふに足る。天誅組の権威殘りて、天誅組の醸す後の難を。

注- ・この項はこれで終わっている。

( 213 ) 飯のこと、その他の食

 幼時の我、天保10年生まれと云ふ浦地の老母に聞きたり。下記の通り、昔は國のブロック別あり。交通も便ならず。まして経済に不利なこの地は、平素にても芋、たふもろこし、アワ、唐きびを喰ひ、山のものも川のものも喰ひ得るものは食したり。いろいろ永き年のうちに、その渋味または毒素を去る方法を考へ出してあり。栃木証文とて栃の木を大切にしたることも、今となりては消え去り、栃木も少なく、見返る人もなしとするも、大事のことなりしなり。唯今はトチモチのみ名をとどむ。その渋の抜き方もコツあるらし。また、我少年時代、北山あたりにては(波抜きした栃の實の)出來たるを粉にして食し易き様にしてありたり。
 稗は、十津川重里奥などの外は當地にてはあまりなかりし如し。何としても米少なきの地、山のことなれば、平素は米をほんの少し雑穀に加へるか、暮らしの良いものは夫々、なかなか盆正月くらいしか一般は白米も白餅も得ベ得ざりし如し。
 さて、浦地の老母の云ふ(米を得たるときの思想か、尊重の観念よりか)、「一合雑炊、二合お粥、三合あらば飯に炊け」と、通則の如きなりし由なり。
 一旦、戦争とか飢饉になると曼珠沙華(オイモチ)の球根を食べしなり。これは、第2次大戦の終わり頃、窮乏せし當時にても(曼珠沙華を)喰べしものなり。我も一度喰べてみたるも、紙を喰ふ如く何の味もなく不味きこと甚だし。味噌などつけて、また焙りなどして食せし如し。樫の實も渋抜きして、いろいろ工夫し、つまり他のものと炊いたり、餅にしたりして食せる如し。
 蜜、山芋などは、今にしてみると断然トソプの上々品か上品のものであるだらう。獣肉、鳥類、川魚の如きも珍として、川はトコロ流し、山椒流しで山里の人の今で云ふレクリェーション(但し食生活につながるが)の如くなしたり。獣・鳥の類も、落とし穴、罠、銃猟など全て試み用ひられたり。ススキ(スズキ)追ひのこともレクリェーションと宗教的なこと以外、この間の消息を語る。
 米は洵に貴重なるもの。生存の上に希望の火を点ずるものなりしなり。(米は)ただ少ない、ないために食糧上大事絶対のものなりしか分かる。亡父の子供の頃は、麦、ナンバ(たうもろこし)に加へし飯をすくひとりて、仏前に供したるものなり。而して後、これを兄弟して奪ひ合ひせしと云ふ。仏供の、ほんの一口そこそこのものでも此の如し。今の人の生活上よりしては夢の如し。大人はまだしも分かるも、児たちは分かるまひ。折、白米飯、とりどりの山海の珍味、包装の美、たちどころに至る現況では。山の小屋に在るものもポリの袋入りの佃煮、梅干、奈良漬、豆類、肴類、化学的に便なる拒細菌の袋によるハム・ソーセーヂ・バター・ウイスキー、加工せる肴類もなるべく面倒なきものへ發展の今では、その差、夢の如く、驚くべし。(食の豊かさが)普通のこととなり、過去の生活懐古や食の不足、倹約の精神などが忘れられてゐる。然し、考へると人は全智全能でもない。常に制約を鉄の如く確實に受け、大自然の前には足元へも寄り得ぬ。刻々の未來に対して正否の断は不可能、ただ先人の智を頼りて正、良となすのみ。故に機械や文化の發展も一面にては利を生み、反面にては害も甚だあり。眉唾ものなり。人の文化は破滅を招く結果となりはしないか。または他の動物に代はらるるか。昨日の是は今日の非となり、凡てに変はるテンポの速さ。
 歯の悪い者多し。脳、心臓、血管、癌、胃腸の病、ヴィタミン欠乏症。病院の治療を法的に受けながら相反する変化の多きこと。理想らしく云ふも、一般は速い高嶺の花なり。敗戦直後とは違ひ、都市は却って得易く多角的なるに、山村では高価、而も医学的に完備せぬ食物は全て横行、都市の商人メーカーの具となるか? 我の考へでは、若し食餌を完璧にせば、恐らくは病も半分に減ると考へる。藥治療、何をおいても基盤の材料となる食餌こそ重大なり。
 近時、贅になれて、新宮あたりへ小麦を送り、醤油を作らせる者あり。馬鹿のことなり。『考へる葦なり』と人間につきパスカルは云った。考へると出來る筈である。味噌でもなるベく良い様に醸ることを心掛ければ出來る筈である。事實我も作ったことも過去にある。昔の働く人の話を聞き、その人々の経済や行動、そして肉体を比較すると、今の食物は(黄粉の漬物の果てまで、また先年我の摘発せる天理市の毒菓子の如き)ロにて美味とするも何か不足し、欠くるありて、人体にも影響あるべしと思はれてならない。却って、昔のものにも良きありて、洵に一考を要す。重要の項に属す。問題なり。主食の米にしても、低級はまだしも防虫剤も必要ながら、何かしら炭水化物と化合の状にあるやに思ふなり。
 脱線的に記述してしまったが、書留めざるを得ぬ故なり。未來を希望するのみ。絶対と云ふことは、人の世では、なかなか求め得ない。上も下も押しなべて不能。東京の奈良漬、ソーセーヂ、九州の干物を山の人が喰ふ時代であり、土地の人が新宮より野菜を取り(我家も)、百姓の者が南瓜、沢庵を買ふと云ふ時、心すべきことなりと思ふ。
 さて、下葛川の福平の祖先(亡父の伯父)、亡父に云ふには、「山造り、子沢山の俺は、菜でも喰ふて、働かねばならぬ。」實際、山を造ったのである。ここでも分かる。次に我の若い頃、玉置川へ往診の帰るさ、徳田の老人と來る途、大きな石塊による積の広い石垣と田の成りしまでの困難を我嘆ぜしに、老人云ふ「中森さん、米の飯喰ふてはこの田は出來なんだよ」と、云ひしことあり。米作る田、この老人の言は、未だ痛く心に残れり。

(34、11、20)

注- ・徳田の老人-玉置正平老のこと、現当主、中森瀞八郎氏の祖父。

( 214 ) 世相流轉の激しき

 昭和34年の今日、つくづく思ふ、月ロケット、核エネルギーのアトミック・エラの時代の科学文明による進歩は恐ろしく進み、とどまることを知らず。大会社の小野田セメント社長は云ふ。領分の凡てを理解してはとても出來ない。つまり社長は不能と云ふ。云ひ過ぎかも知れぬが、人格の高い、誠意に満ちた卓越せる専門家を信仰すると云ふ。まこと、これを書く間にどうなるか。玉置川の如き、ハイヤーもトラックも横付け、全國通OKとなる。喉元と云ひし田戸より葛川の方、先に逆行して便利となるか分からない。大昔は奥の方よかりし。次いで田戸、次はと云ふところなり。時代の移りも桑滄の変と支那の言葉もまんざら無ではないのである。

( 215 ) 獣・川魚の去り行きしこと

 バンドリ、リス、テン、タヌキ(キツネは早くより)、イタチ、アナグマなどいよいよ少なくなり、鹿、羚羊、猿も漸々山中に山奥に退去してしまった。
 川魚もアメノウオ、大きな鯉、スズキ(亀も)、ヒゴイ、ウグイ、すべて少なくなり、スズキの如きは久しい前より姿を消したり。少量、小型となりゆく。特にウグイの、又は鯉の小になれる、万般ながら驚く。鮎の如きも昨今甚だしく不漁なり。
 これ工業、開發工事、森林伐採、観光ブームの喧しさ(□捕獲も)などの為なり。代わりに人を刺す魚や養殖放流のヒメマス、アメノウオなど少々入り來るを見る。人の進歩は一面にて善なるも、反面自然を破壊し、人を粗とし、落ち着きなく、その変化は種々相を通して人に悪をも与へるなり。
 我の幼時のウグイ(烏鯉)は、今時よりはるか大きく、鯉を思はす赤ハラのものなりき。郵便局の下で捕らへしアメノウオは実に1尺5~6寸あり、海の鯖のようなものであった。鮎は捕れても、今の量は値段のみ高く、洵に哀れの姿なり。
 銀鱗と云ひ、溌刺と云ふその背の美術的青緑の一刷、そして体躯の円熟、今、全く夢となる。かくて量も質も人の望むよりははるかに落ちてゐる。山は實のなる雑木はなくなりゆく。塒も巣も安定せぬのでは弱いものから、特殊なものから消えてゆくは當然ならん。川の汚濁の中に藥物,微粒のいろいろ交じり、油流れ、プロペラの音かく喧しく繁くなりては堪へられるものではなからう。こんなことが人にも影響してくるは心得るべきであらう。

( 216 ) 狼の話を聞く

 我聞く、古老の言によると、次のことありし如し。(四國の鍛冶屋カカの碑傳は藩政後の仏教文化により脚色されたり。かかること當地も同じ環境にあれば、必ずや名ある傳説も成立ありしなるべく、惜しきものなりき)
 肘の谷、我家を離る僅かの上地道のかたほとり、狼、墓を暴き屍を喰ひしか、人の片腕咬へ來りありしと云ふ。また、田戸の新葬ありし時など、廣野(ヒロノ)の墓地の下を通りしに、狼の群れ來たり、逆さまになりて土を放ち墓を掘る様、日暮れて通る老人を驚かせしと云ふ。その狼は、都合よき墓のみを暴きたるごとし。
 中作市老人より特に聞く。作市老人若き頃、上瀞にて炭焼きを営みたりしに、ある夜のこと、小屋の周りに光る眼のもの点々と数を増して來る。つまり狼の大群(大ドモと云ふ)なり。その唸る声物凄く、生きた心地なし。一人堪へゐたり。戸を閉ざせど小屋のことなれば心もとなく、銃もなし。而も相手は多し。火をどんどん焚き、斧を用意したりする。唸る声は貼りたる紙にびびるよし。このことに、我秩父宮顧問なりし狼の権威、平石東吉氏の傳に云ふ、狼の声は、障子など紙に案外共鳴するよしなり。夜明けて狼立退せし後、調べると小屋の下に何の原因か、一頭の猪死せしを食はんため集ひしものと分かりしと云ふ。
 川原の上道に喰ひ殘せし猪の遺骸ありしと。また、上葛川方面の人に聞くに、白谷山中に猪・鹿など殘骸まことに多かりしよし。
 日本武尊の大昔より神獣現されしこの奇怪の狼は、この辺にても土俗の神秘視されるあり。格付され応用する人も先賢にあり。誇大なる傳説、神秘感は人を畏怖せしめたり。功罪多様、然し、物心とも當時の人には大乗的に良い面多かりしと思ふ。
 ある財産家の祖は、刻苦して植林せしに、その夕暮れ、一頭の狼が常に草履の片方を咬へて送り來りしと云ふ如し。架空のことならんと考へるべきは、當時に在りても優れたる人は斯く既成化して家格の優秀を企てしなるべし。況んや神社、豪家において思ひ半ばに過ぐる。
 新宮上流より入りし高田村の権之頭(ゴンノカミ)の家に傳へる傳説は、要約すると次の如し。昔々、同家の祖、那智詣りに赴く。寂しき大雲取を通りつつありしに、狼に突如出会へり。然るに恐怖に震へる同人の側に至るや、恰も飼犬の如く、害意なく見ゆ。衣の裾を咬へて山に引き入る。岩の洞窟の安全なるに連れ置き、狼出口に番す。然るに昔より、古より最も注目すベき奇怪なる伝説の、山人の最も恐れる一本ダタラ(またはヒトツダタラ)が、下道を通りたり。過ぎて安全と見るや、狼も穴を出で、安心の面持ちたり。この人初めて狼の我をヒトツダタラより助けてくれしを感謝す。而れども何等与ふるものなし。よって云ふ。我より後の屍はすべて汝等に与へる旨、約したり。その後、約の如く、同家の葬式の都度、狼來り墓を暴きて屍を喰ふ。後に同家の人恐れて墓を内庭に移せしも、狼來りて約の如くせしと云ふ。
 この話をみると傳説を為して家の格付と云ふこと判然。然して、一本ダタラは一本足の怪物にして、昔より吉野あたり、北山、那智、色川、熊野三千六百峯に傳はりし傳説にして、我の幼時、少年時も話あり。
 矛盾するは永い間傳はる一本ダタラ、そして何百年を通じての恐怖、さらに高田村里(サトと云ふところらし)の傳説。その辺のここかしこ、猪と狼との闘争、死の戦ひはいくつも聞く。
 我、幼時の頃、立合川に製材所を設けありしに、人々云ふ、狼が小便を呑みに來しと。塩分を求むるなりと。蜜蜂の如くか。前に述べた如く、父の幼時は狼の群、海へ潮を呑みに行くとて、夜など山の向かふに狼の群の声聞きたりと云ふ。
 また土俗はかくも云ふ。狼は、萱穂一本でも身を隠すとか、人の頭を飛び越えるなど、かように神秘化されたものであらうと思ふなり。それでゐて實に沢山の狼の見聞記、声を聞きし話聞くも、大方は善意のまたは稚戯の創作のこと多し。射ったと云ふは大抵犬なり。まして声の如きは。終戦直後のこと十津川村山天の中南金重氏は、NHKに狼の声を録音せしめんと云ひしも失敗なりしよし。自然の環境の変化、ヂステンバー病の故など、何れにしても自然の勢、絶滅して今は見る影もなしとするも、我に最も眞として迫った報告は、三重県津市の高等農林学校の前教授の手記なり。同人ある日、一人して北山の伯母峯の寂しき谷を上りしに、2頭あまりの犬形のもの、後へ從ひ來り。灯なく、暗かりしため分明ならざりしも、その容貌を記す。握り飯を与へしも喰はざりしと云ふ。
 ある人、玉置山よりの帰るさ、横手道(玉置神社と片岡八郎碑の間)にて、便意を催し、山に入りたるに狼の塒(ネグラ)に会す。二匹の仔あり。運良く親は不在。一つもらひて來たり。これを飼育,猟に使用せんとす。この人東中の人なり。その頃、名うての猟犬を、その狼の仔を飼育している内に入れ戸を閉めしに、猟犬狼の仔を一度嗅ぐや、このうえなく恐れ、戸を破りて逃げ去りしと、東藤二郎老に聞く。

注-
・肘之谷-郵便局前の谷の名で、人間の肘の骨があったため、この名がついたという。
・廣野-田戸の共同墓地の地名。
・東中-葛川上流

( 217 ) 一本ダタラまた一つダタラの話

 この怪物については、我は往昔裏面政治、庶民生活に重要なる意義をもつものと思ってゐる。然し、あくまでも雲を掴むやうな傳説的存在である。そして何処までも怪物である。我の知ったところでは、これは相當古く源義経の逃避行のとき、北山、十津川まで彷徨せる時代より継承されしものと考へる。
 義経、十津川郷に入りて土民の家に泊まる。人あまたあり。年の老いたるもの、子供に対して、「伯父よ」と呼ぶ。囲炉裏の傍らにありし義経、之を聞きて云ふ。「怪しからぬものなり。」と。辯慶首をふりて考ふ。即ち、これは當時生活上、宅婚、里婚のありしを諷ずものなり。之につき物故せし西川の千葉政清君の書に見ゆ。大台ケ原教会の開祖小森行者も義経のまぐさ刈の鎌を得たりとして始まる。
 伯母峯を師走の果ての20日に通るべからず。背に笹生へし義経の馬現る。扨は大台山中に主從して相撲とりたるところありて、今も草も生ぜずなど云ふ。
 一本ダタラもかく織りなせしものにして、先づ天ケ瀬(上北山)よりの傳説をあげん。
 昔、天ケ瀬に名筒あり。名筒と云ふからに、遥かに年も下りて天文以後のことならん。人ありて山に猟に出る。一本ダタラに出会ひしに、その筒、カラカサを拡げたる如き一本足の怪物に飛びかかりて之を追ひ払へりと云ふ。カラカサは堺市の全盛のとき、つまり松永三好党の跋扈せし室町・戦國末期に入りしものならんため考ふべきなり。
 古老に聞く(北山にて)、大きな足跡雪の日に見え、一列に続きたると云ふもの。また、小児の如く小さき跡を唱へるものあり。何れは炉辺の創り話なるべし。然れども色川(那智の裏付近)あたりまでの傳へを総合すると膂力偉大、恐ろしき怪物、一本足にて連峰を前後すると云ふ。而して從者を伴ひたる話なし。我は、ここに疑問あり。(一本ダタラは)必ずこれ政治的に奔馳せし有力なる豪族、山伏なりしに非ずやと考へる。それに狼の項に述べし如く、また地方の豪家を称へるものも之を應用せしなるべし。
 中央貴顕、特に皇室發祥の地故に、(熊野)信仰厚く、後鳥羽院の何十度の熊野三山詣の如く、あらゆる月卿雲客も皇室一族、まして一般のものも盛んに三山信仰に來り。藤原秀衡も來たり、和泉式部も來る(その傳説、秀衡桜、式部の逆修の塔と『晴れやらぬ身に浮雲のたなびきて月の障りになるぞ悲しき』の歌あり)。所謂、「蟻の熊野詣で」を現出。権者の保護を受け、いよいよ勢力強大となりし別當まであり(私兵を蓄ふ)。後には政治にも重要なる一役を担ひ、また反するなどしあり(辨慶の父は熊野別當湛海)。徳川時代中期以後も熊野別當は何かの役を幕府より担っていたものと思ふ。なれど文献資料もあまりなし。
 只ひとつ、東牟婁郡、今の色川村に住める武士(徳川以前と思ふ)、仮屋刑部左エ門の働きによりて、遂に仕留められ、殺されたりと云ふ。
 が、然し、一向限定出來ず。歴史を無視して前後に現れ出でて傳説になってゐる。土俗の傳が洵に不思議にして怪なるはこれなり。實は案外(土俗共)世を律し居たかも知れず、いずれにせよ温存の形とはなり來れるらしい。
 一度、昭和5年頃、紀州が生んだ世界的の大天才で努力家の博物学者南方熊楠先生も、我に來りしことありしも、右の如く極めて簡単な答えするより外なかりしなり。
 我一度十津川村小原にある宝庫(タカラグラ)の古文書を見るうち「仮屋家証文」を見たり。つまり仮屋家は、十津川村の某所に子孫住むこと間違ひなし。曲事あるべからずのものであった故に、一本ダタラを殺せし仮屋氏は當時有力声望のある家と見えたり。

(34、11、25記)

( 218 ) 昔の娯樂と狐狗狸さんのこと

 明治初年の頃か、當地の我伯父友吉ら同輩集ひて、陰鬱なる陸の孤島であった田戸部落、この地の青年らは盆正月の外に為し得べきいろいろの娯樂を催して遊びしものである。その内で狐狗狸(コクリさん)遊びは奇妙である。確かにできたと云ふ。
 この遊びは、長さ一尺余りの細竹の三本を採り、筒中へ女の毛髪一本ずつ通し、三本を束ねて中央を紐で括り、机の上に置き、足を開かせ の如くし、上にお盆の如きを載せて人と対し、盆の上に軽く手を載せて、更に布をフンワリ掛けて無念無想、誰か一人唄を唱へて、「コクリさん、コクリさん、どうぞ出て下さい」と云ふ。下手をすると何もないが、良くゆくらすと物事の占ひもしたと云ふ。我の幼児の頃、雑誌にもあったように思ふ。また浄瑠璃台本などにもあったことを思ふと面白い。
 明治時代にすら東京に娘義太夫ありて、佐藤春夫の学生時代に盛んなりしと云ふ。

注- ・文中の『良くゆくらすと………』の意味は、はっきりしない。

( 219 ) 『田戸の廣野に』のこと

 『田戸の廣野にゲテモノ拾た 足でけりやげて 手にとって見たら 岩野喜代治と書いてある』を聞いた。然して、よく考へてみると、これはかなり古い恋歌の一片を語るか。

( 220 ) 栃木証文のこと

 飢饉に具へ、又補食のため、栃の木を大切にしたものである。既に昔語りとなり、あるにはある栃ながら、証文は消へて過去となり失せた。特に栃の木に対しての証文なり。