( 21 ) 虫送りの事
八朔の晩、子供たち大勢で上地の中を松明つけて、太鼓をたたきつつ、あちこち大声でわめきつつ、川辺に下り來たり、松明を捨てて帰るなり。今は、「根虫羽虫送るぞ。ナンバの虫も送るぞ」くらい叫ぶを聞くのみであるが、稍昔は、「實盛殿の御通りや」が、先に附されてありたる由。川に昆虫の死体多数あり。
(以上28、4、10)
注- ・重複記事で、八朔の晩というは誤りで7月頃の丑の日が正しい。
( 22 ) 田戸部落地質調査年代資料
余、21歳の頃、冬の一日、銃を肩にして田戸部落の東瑞奥之谷を下る。陽は既に餔である。石を踏み返して轉びたり。ふと見ると、砂岩様の切取殘口の破片多くあり。其一つの表面に異様なものを發見せり。貝の化石らし。重きを忍びて持ち帰り、あまりの重きに堪へかねて、槌を借りて不要分を叩き割り漸くに家に帰り保存す。〔何十万年、何百万年前は河か〕
鉱山地質の学者に見せしに、或いは三角介と云ひ、又京大あたりではアンモナイトなりと云ふ。約700万年前と云ふ。いずれにしても、この地における化石の發見は、之を以て矯矢とし、参考になることを得たり。化石の採取は、余はじめてなり。
注- ・後に、「我採取せる當地初の化石」と題した重複記事がある。
・奥之谷-田戸の上ミ約百間で北山川に注ぐ支谷。
( 23 ) 蝮の桝形を組む話
昭和12年の頃、東秀清と云ふ配達夫、玉置山下松平の下において、これを發見、身の毛を立てたと云ふ。最初は一、二匹を發見、叩かんとせるに、よく注意すれば、そこかしこにビリビリ枯れ葉を鳴らす音聞こゆ。よく見れば、いずれもハビにして、その集まりたる大群落を見、ゾッとせり。色の違ひたる大いなるを中心にして、いずれもその廻りに集ひ、鎌首をたて居たりと云ふ。
注- ・東秀清 田戸の人
・「ビリビリ枯れ葉を鳴らす」-蝮は尻尾をたてて警戒音を出すという。
・ハビ-蝮のこと、ハンビともいう。
( 24 ) 大蛇の話とその事實性
余の子供時代、12,3の頃、片岡八郎墓の下に小屋を設け、日雇い達働きゐたり。その中に鉄砲好きの者ありて、人々の仕事に出でたる後、某を二人して鹿を狩るため、犬を山に入れたり。然るに犬は今日に限り稼がんとせず。何物かを恐るる風なり。止むなく小屋に帰りて一休みする事とせり。
然るに、暫しして何物かが上より滑り來るやうな音が聞こえ、屋根の上をガサガサと云ふより、メキメキさせて來たやうなるにぞ。何事かと出て見れば、大いなる蛇一匹屋根の上にのたり出で、鎌首をもたげゐたり。之を見て吃驚仰天、二人は逃げ出し、顧みて瞳をこらせば、その大きさ7,8寸の丸太の如く、半ばは山蔭に隠れてあり。銃に弾丸をこめ、これを撃つに何の反響もなし。狩人のたしなみとして持ちたる鍋の足を填めて撃ちしに、流石の大蛇も遂に死にたりと云ふ。余曰く、これは信を置き難い。
次に、昭和17年の頃、阿田和町の從兄弟、音無より聞きし話であるが、食料不足の折り、芋畑開墾の為、杉原を焼きゐたるに大なる(直径五,六寸)蛇の死体焼け殘りゐたりと云ふ。余、思ふ。これも信を置き難い。
前記の東秀清君配達の途次、玉置川ユリカケ附近の道をビルマにて戦死せる瀞六の犬と通行中、大きい蛇、山より道に出で來たり、鎌首を上げて逃げんともせず、犬に対して攻撃し來たり。如何にせんと考へ居りたりしが、遂に杖にて撲殺したりと云ふ。都合のよき場所に捨てる為、杖にてその中程を担ひしに地面を引きずりたり。六〆匁秤の分銅程ありたりと云ふ。
余曰く、これは大体において眞實に近きものなるべしと断ず。
次に、昭和18年頃、北又にて炭焼きの集団あり。その長を藤岡と云ひ、余の眼にては中学校教育を受けし、この業にては珍しき男なりき。ある日の事、北又より用ありて當田戸まで出向く途中、丁度この瀞山の第一番目の水の出る谷を離れ、少し登りたる岡の辺に來れる時、突如として山の上よりガサガサ音を立てて何物か下り來るにぞ。驚きて見れば、一匹の大蛇道を廻りて傍へのバベの木に巻きつき、首たてて、キッと藤岡を見る。その眼の大きさ、凡そ親指の爪程あり。仰天した彼は、踵を返して坂道を逃げて山へ帰れり。暫くは、心臓のあたり悪しかりしと云ふ。
中森曰く、この種の話は大方は錯覚や幻覚にして眞實を現はすもの少なし。この最後の場合にて、今以て不審に堪へざるは、何事も只仕事以外は予期せざりし、然も中学校教育を受けた藤岡が何故にこんな事に遭遇したかが疑問なり。まさかかかる嘘言を云ふ理由もなし。あったとしても、あまりに唐突過ぎるなり。又、観察眼も相當具へたる男なり。實に不可解と云ふべし。その後、余、現場(約一日後)に行きて見るに、シダの類細く両方に分かたれ、蛇の大なるもの通りたらん道つきゐたり。されど、これ果たして而りしか。また、大抵は青大将なるも、若しかかる大蛇實存するとせば、第一の条件として果たして食物を満足し得べきや。甚だしき難点に當らざるを得ず。先の食物さへ充分あれば、寿命の長き蛇の顆は、或いは大蛇として歳月を費やして生育するならんも、兎にしろその辺りには見當たること少なし。蝦蟆の類もその数知れたものなり。で、多くは耳にしたるも、この詰は殆ど眉唾物なり。
但し、一丈位の長き物はある。余の家にゐる所謂ネズミ捕りと云はるる奴も、5尺5、6寸位のものあり。余、20歳の頃、家向かふの瀞山を空氣銃持て通行中、道にありたる古わらじを何心なく道の前に杖にて撥ね飛ばせしに、俄然疾風の如く之を追ひ駆けたるヒバカリもかなり大きく、サイダー瓶位ありしかと思ふ。
(以上28、5、19)
注-
・北又-花折塚の南から出る北又川と松平の南から出る玉置川の合流点の北なる小部落。田戸の真西約2km。この話の後、5、6年して田舎廻りの易者が、玉置口からこの場所にさしかかり、同様な大蛇が道に横たわっているのを発見して、玉置口に遁げ帰ったという話がある。なお、18年のこの事件のあと、藤岡氏はどうしても田戸へ來ねばならぬ用事があってやって來たが、その時は中学へ行っている子供を連れて來た。余程怖かったに違いない。東氏も三日目位に行って見たが、羊歯叢の中は材木を引き摺ったような跡が残っていた。
・バベ-ウバメガシ-炭や薪によい。節分のとき豆を煎るのに、この木を焚きその菓はバチバチとはじけて大きな音がする。
・ネズミ捕り-アオダイショウ-古くから家に住み付いている大きな蛇は殺してはいかんと言う。
・ヒバカリ-クチナワの中では丈が短くて太い。鱗も粗く、怒れば頭も体もすぐ三角にし、体の三分の二住まで擡げる。クチナワの中でも気のハシカイ(荒い)奴である。有毒とは言わぬが、なかなか逃げず気味が悪い。
( 25 ) 毬つきの唄
余、小学校1、2年生の頃、聞ける。
かいかいでまり かひでまり
これを上手にかいたら 女の子
下手にかいたら 女(男)の子
さあ ここ一つで かいでまァしよ
遊戯の唄(女の子、之を為す)
かーさい かさい かさい 大津はてんま
いせのこいびしゃく まいとしゃく
かへりましょ
手をつないで円陣を作り、高らかに唱へ、手をふりふりし、「かへりましょ」で、くるりと全員が反るのである。
( 26 ) 狐のいなくなった事、その他
古老より聞いたところによると、往時は相當にゐたものである。余の考へるとき、これは日本狼が見えなくなった時と前後してゐるように思ふ。
何れにしても、これらは急激に姿を消してしまったと見るべきである。明治20年代頃は、盛んに出没して畑を荒らした夜の匪賊であった。今に殘ってゐる余の本家の芋苗を作る、地上に高く築かれた小さな畑は、その當時の被害を物語り全部落を恐慌に陥らせた唯一の名殘をとどむる遺跡である。
夕方など山や野の辺りでよく鳴いたと云ふ。その鳴き声を昔の人は次のように解したのである。
師走は去ってもオラへ(ヒ)はこんこん
余、昭和2年頃、大字竹筒で毒殺によって獲た狐皮を見たのが恐らく唯一の最後のものであらう。
而し、狐は稲荷明神の使者とされてゐるのは、反対の理由があるので面白い。然し大乗的に云へば、昆虫などの害ほどでなし、反って彼らに食はしめる時代の方、或る意味でよかったのでないか。今山野で一切の獣・鳥或いは虫類も減少したるあり。全滅ありの時代である。却って暮らし難い氣がし、且つ人々は落ち着き(終戦は別として)を失ってゐる。自然は調和してゐると思ふ。我々も生物である以上、全然無関係に過ぎざるる筈はない。一寸と見ては害獣に違ひあるまい。尚、人を誑かすとか憑くとか、大変神秘視され恐れられてゐたが、その人里近きに棲息したこと、及びその動作を見て、又その面の特殊な陰険らしく見ゆる点よりして、その昔宗教上に取り上げられ、方便として特に誇大喧傳せられたるによるなるベし。迷信の類は一朝一夕に拭ひ難く、原爆轟き、ジェット機飛び、テレビ躍る今日でさへ、當地では大部の者、驚くべきは戦後の若者さへ未だ信じてゐる。但し、形式は大分変化して來、余、幼時の如き、所謂狐憑きと云ふ者のブラブラ歩いたり、騒いだり、化かされると云った誠しやかな話は、狸も同様に少なくなって來たが、稍ヒッソリ信じられてゐる。
余の大伯父東藤二郎老人(80余歳にして終わる)は、云った。「わしが若いとき、狐奴が庭先迄入って來、盛んに雑穀を盗み喰った。或る日の事、狐を發見して、鉄砲にて撃ったところ片足を撃ち抜いた。殘念な事をした。祟るのではないかと心配してゐると、或る夜の事、草履の鼻緒が全部喰い切られてゐるのを發見した。」老人は、やはり狐は執念深い奴と云ふ。
余、13歳の頃、北村源吉老人に聞いた話であるが、我所有の向井山に「おつぎ」と云ふ女があったが、ある時、狐に連れてゆかれてしまった。田戸の部落中の人々が集まり、鉦太鼓で周囲の山を一日中、「おつぎのばばを返へせやー」と叫びつつ探しつづけたと云ふ。
注-
・本家-現中森孝雄家。屋号を「植田」と言い、現在の田戸で一番の旧家。瀞八郎氏の父忠吉氏は同家の三男として独立、分家した。
・地上に高く築かれた小さな畑-イモジトと言う。土を盛り上げ、更に巡りに垣までした。
・師走は去って一年経ったが(猪や猿や犬の日はあっても)オラへは來んの義。
・東氏20歳頃に入鹿方面でハサミで狐を捕ったという話を聞いた。 その後、東氏が新築なさった昭和39年に木津呂に不意に狐が何匹も寄って來て西瓜畑を荒らしたので、村の人が一日つぶして野を狩り総出で巻き狩りして一匹を撃ち留めたが、それからまたどこかへ移動したらしく姿を消した。
・東藤二郎-藤治郎が正しい。父忠吉氏の父、福重氏の弟。つまり瀞八郎氏の大叔父にあたる。下葛川へ入婿。屋号「竹之内」。「再び狸の事に就いて」では,、狐の仕業となってゐる。
・向井山-向山(ムカヤマ)が正しい。歌之助の生まれた家である。同家退転の後、忠吉氏が買い取った。
( 27 ) 天忠組の乱の餘披を受けて舟行を紀州藩より止められし事
北村源吉老人が余に言った。文久天忠組の乱、事志と反し勢振るはず、紀伊より塩の移入を停めらるるや、當地も又その措置がとられ、川下より塩の移入が停められた。塩は主であるが、その他も量又は質の如何により押さへられしとの事なり。玉置口に凡そ100名近くの武士達が出張來たり、通行の舟を一々吟味したりと云ふ。老人、或る時、その隙につけ込み通らんものと思ひ、張り渡しある綱を撥ね上げ撥ね上げ來る中、突然に見咎められ、大声で叱り飛ばされ、生命もなくなるかと心配して吟味を受けて帰ったと云ふ。當時は非常に困ったと云ふ。
( 28 ) 十津川由緒による刀の威張り方
殆どは帯刀を許されてゐた郷士としての十津川人にも、その生活にはピンからキリまである。仮令、炭焼きをしてゐても、他領で働いてゐる時など、祭日の折りなどは髪を大タブサとして、朱鞘の大小落とし差しと云った具合に装ひ、里に出でゆく。里の人も身分は百姓の分際であり、一、二の帯刀御免者あっても、平素の炭焼き殿に頭が上がらない。威張った者もあったと云ふ。いずれにしても、得意であったに違ひない。文久より下り明治より登る頃か。
(以上28、5、21)
( 29 ) 田戸番において斬髪の第一番なりし人
明和9年(1772)、京都において吉田神社より分祀を許されて之を祭る。昔時は吉田神道とて大いなる権威ありて、全國の総取締りであり、宗家であったと云ふ。同神社裏に至れば、今にても小祠ごとに各國の全社を祭りあるをみる。(註)祭神 訶遇突智命なり。同社は、明治年間一旦下葛川へ合祀され昭和20年頃、分散の為、神体帰座す。之より曩に各地に神社を祭ること要望されしも許さざりしかば、各地において仮祠を設け、遥拝所なるものを作る。昭和10年頃なりと思ふ。田戸も同じく荒廃せる跡を開き、一祠を設くるに付、余之源を正し京都へゆき吉田神社を取り調べ、幣帛をもちて之を納めたり。火防鎮護遠州秋葉社と同じなり。
注- ・葛川谷の各社は明治42年、下葛川の東雲神社に合祀されたが、今次戦争後再び分祀された。
( 30 ) 竹筒の某が蒸氣船を試みし話
2、3年前に身罷りし杉岡直吉老人(80余歳)が、余に語ったところによると、竹筒の蒸氣船を川向かふの岸迄走らせたと云ふ。多分模型であらう。
又、新宮で重力を利用して之を動力源として何か為さんとて試みたる者ありたりと云ふ。そして之には大きな吊り下げた石様の錐を動かすと、之につながる細部の機械が色々に動いてゐたと云ふ。
注- ・杉岡直吉-田戸の人 東氏の叔父にあたる