( 1 ) 鶏と四ツの徳

昭和4年の頃、葛川鉱山を営む福島縣生まれの(會津の人)東京人にして、瀧口啓太郎と云ふ80餘歳の老人が我が家に止宿してゐた。この人の所持品の中に會津城攻略と云へば維新のことであるが、その時同人の家に宿泊した桐野利秋(薩軍)がくれたと云ふ『博物筌』と言う書物があった。前書の中にあった事をノートして置いたのが今ないので殘念であるが、その内に左(下記)のことがあった。
鶏に四ツの徳あり。それは、鶏冠を存するは文なり、食を別つは仁なり、時を告げて違へざるは義なり、足にケズメを有するは勇なり、以上の四ツである。

注-・葛川鉱山 北又谷の奥、五万分の一図「北」の字の一軒家の符号のあるところ。10年ばかり銅を掘っていた。

( 2 ) 開けずの長持

昔と云っても、天保の頃を少し登った頃と思ふ。小松の下にある、現在の下瀧に大きな問屋があった。これが現在の西山村の山本と云ふ財産家と田戸浦地へ分かれたと云ふ。ここに開けずの長持と云ふ大長持があって、平常は絶対見るを許さず。家の重大事に際して開けよ、との傳へがあった。あるとき家運も傾き、いよいよ重大事に際したるため、子孫等寄り集まり協議の末、開けて見た。すると松の一重オコが出てきた。何か大判小判でもザクザク出てくるのかと思ふと、担い棒がたった一本出てきたのである。人々は茫然とした。しかし、考へてみると祖先なる人の意味はこうである。謎を解くと、祖先は裸一貫で天秤棒を担ひ、塩売りをして儲け出した人である。即ち、この心地で巻き直しで働け、とのことである。面白い話である。

注-
・山本-小松の下流、対岸の和田にあり。
・下瀧-有蔵の東、国境の少し上、小森ダムの放水路工事まで家が二・三軒あった。
・松の木の一重オコ-松の木の梢に近く、クルマ(枝の岐れ目)とクルマとの間の部分で作ったオコ(天秤棒)のことで、これだけの松はなかなかないものだ。爪がなく刈草などを刺して運ぶ棒はサソと言う。
(この紙、戦争中のものとて不良故にこの如し。XよりXへの如く、次ページを飛び、第三ページへ移るものもあり、又順序よく記すものもあり。)
注-上記のとおりノートの紙質が悪いため、たびたび一ページとばしてXなどで連絡しているが、飛ばしたページへ、その後鉛筆などで別の話を記しており、記述年代不明のものが多い。

( 3 ) ネズミの宿替

 十日ほど前、中原清君に聞いた話である。去年、同人の宅は新築された。さて、納屋から新屋へ荷物を移さうとすると、ネズミが一匹二匹と盛んに子を咬へて、宿替へするさまに、しばし見とれたと云ふ。

( 4 ) ネズミと罠

 ネズミとりをかけて置いたが、なかなか入らない。店の方にカリントと云ふ好きな菓子があるからである。危険なもの、あるいは不気味なものがあると云ふことを知ってゐるに相違ない。それには通り際に好きなカリントが入れてある。しかるに今朝見ると、一匹見事に入っている。何故か。比較的重大事と思ふ。極めて自然法則通り彼らにも浮かれ男、気まぐれ又はオッチョコチョイがあるらしい。

注-・中原清 田戸の人

( 5 ) 天忠組と柚の實

 我幼時、北村源吉老人に聞きたる話なり。その節、彼は20にもならぬ若人なりき。天忠組は逃れ來たりて、下葛川の寺に入りて泊まる。彼は風呂番にて焚きいたり。折ふし夕食時にて、一人の侍來たり。柚はなきかと尋ぬ。「柚は彼処にあり」と教ゆれど、庭よりは程遠し。「木に登りてとりて來ん」と云へば、その侍、「待て、その要なし」とて引き返し、長柄の槍持ちて來て、「ヤッ」と一声。電火の如き槍先は、見事實を貫く。斯くて、幾つか採りて居間へ帰れりと云ふ。
 さるにても針か釘の如く細からんには、いと易けんも、如何に鋭しとて槍先にて小さな柚の實を突きたるは、非凡の事と申すベしとていたく賞めゐたり。

注-・北村源吉 田戸の人

( 6 ) 爺ちゃんの寫眞のこと

 昨冬の或る日の事、祖父の寫眞を見てゐた則夫7歳が、ふいに「爺ちゃんの寫眞見よると涙出て來る」とて、頻りに目をこすってゐた。大脳心理上、注意すべき事である。何の之を刺激し、かくなる条件もないに関わらず、である。

注- ・祖父 中森忠吉氏のこと
   ・則夫 瀞八郎氏の長男

( 7 ) 雷に撃たれ親子三代死す(新宮発行の新聞に見えた)

 新宮藩侍医某は、親子三代に渉り雷に撃たれて死んだと云ふ話を聞いた。第一は登城の際、登阪の辺にて、第二は自宅某所、第三は鍛冶町でやられた由。第二の場合は便所から出て縁側梅の木のある手水鉢で手洗い中。第三は浴衣で蛇の目傘をさして、よもや俺だけは偶然には参らぬと云ひつつ雷の鳴る最中に通行中。

注-・登阪 トザ力と読む

( 8 ) 小人歌の助と云ふ人の話

 明治初年と云っても或いは20年迄のことか。田戸に歌之助と云ふ人あり。伊丹を結ふに台を置き、槌にて打ち均らせし由なり。之には妻子ありたりと云ふ。クレチニスムスにて非ざりし由、手も足も小さい乍ら均整がとれてゐて、後者のやうに不均整にてはなかりし。

注-・歌之助 田戸の向山家の人、同家は退転して今はない。
  ・伊丹 一尺八寸の酒樽用のクレ
  ・Cretinismus 屈列陳病、アルプス地方の風土病で畸形を伴う痴呆症

( 9 ) 瀞に遊びし最初の貴人であり文人

これは傳説によると大塔之宮であるけれども、その他では名高い七卿落ちの一人であり、妙國寺切腹の検死官である東久世伯である。
 明治20?年、來遊した。新宮から和舟にて牽かれて來たので一日では來られない。予定より晩いので田戸の人々が舟を以て瀞の入口あたり迄迎へに行ったとの話である。松明の火が夜の岸壁と之が水に映ずるのを見て、頗る悦に入り作った一首が我が家にある。
松の火の光に見れば岩垣の
みどりも水にうつり希る可奈
 かくて瀞の姿もいよいよ世々広まりゆく。

(10) 赤蜂の巣の話

 赤蜂が巣を作るとき、高い木や岩のあたりにかけると台風が少ない。土中にかけると、この危険が多いと云ふ。

注-・アカバチともシシバチともいう。蜂の中でも三番位に大きい蜂で、丸い大きな巣をかける。