楠正勝墓所( くすのきまさかつはかどころ )
大字武蔵にある。
正四位楠正勝は南朝の忠臣楠木正成公の孫である。
伝えるところによると、正勝は金剛山千早城落城後、弟の正元と共に来郷、武蔵において再挙を計り10年余を過ごしたが、応永11年(1404)一説には応永18年(1411)正月15日病死、この地に葬られたという。
明治年間、郷人達の手によって境内が整備され、追悼祭が行なわれた。武蔵の人々は毎年4月3日に祭典を営み、その霊を弔っている。
正勝は又虚無僧[こむそう]の元祖ともいわれており、平成元年(1989)9月16日虚無僧研究会主催による、墓前供養尺八献奏大会が行なわれ、全国から会員約60人が集まり、尺八の献奏が行なわれた。村の有形文化財である。
佐久間信盛墓所( さくまのぶもりはかどころ )
大字武蔵、楠正勝の墓の後にある。
佐久間信盛は織田信長に30年余も仕え、信長よりは7才年長、柴田勝家と並ぶ重臣で宿老と呼ばれた。この信盛が何故にこの草深い武蔵で果てたか。
「信長公記」によれば、信長は石山本願寺攻めの無益な長期包囲を始めとする罪状19条をあげて、信盛を詰問したとされており、その結果、天正8年(1580)高野山に追放された。更に高野山金剛峯寺小坂坊に身を潜めた信盛に、信長から「高野山に住むこと叶うべからず」という厳命[げんめい]が下り、この為、やむなく吉野の奥、十津川山中武蔵の里に落ちたという。
天正10年(1582)湯泉地温泉で湯治中に歿し、武蔵に葬られた。村の有形文化財である。