( 231 ) 肝とりの話

 尋常小学校3年の頃か、明治より大正に入りて間もなく、地方のみならず、全國的にキモトリの流言飛語が起こった。特に「子どものキモを取る」と云ふので、生徒は恐慌した。馬鹿のようなことであるが、然し當時としては何しろ狐憑きの流行、狸化けで騒いでいた頃で、子どもには無理もなかった。
 まことしやかに脅へているおり、朝登校の途、ツバキザコ(椿ざこ-田戸寄り東野までにある地名)と称する箇所の手前の登り坂の辺りに至ったとき、後ろの杉山の中より、「コラッ、ちょっと待て」と云ふものあり。てっきり肝とりと早合点し、我等眞っ青となり、大混乱になり、一目散に上に逃げ上る。女の子など道より轉げ落ちる者もあった。暫くして、一青年の悪戯と分かり、ほっとせるを覚えてゐる。今の生徒と比べ、その環境も智の程度も分かるのである。

(昭和34、12、13)

〔この記述に校正の要あり。重複あり、三復あり、文字も文も誠に多様、また極めて冗を省き、飾りを避けしため、且つ誤りを恐れて、なるべく主観の入らざる客観性の維持に努めたるも、何といっても一番新しく開け、天下の瀞となりし處。寺も神社の記録なく、また古い家とても古文書も何もなく、極めて資料なきため、どうしても主観が入りあるを免れない。故に文体も一新し、校正の要あるは必ず也。〕

( 232 ) 氏神様、鎮守神のこと

 日本は、全國的に各村も町も部落も、平坦な地も山もすベて、氏神とか鎮守ネ申をもち、各地それぞれの神樂、獅子舞、踊り、投餅、神輿、神与のものの奪ひ合ひ、果ては喧嘩祭りなど様々ある。山車の豪華を誇るもの、連日の行列や歌、挙げて数ふべからず。
 尚、戦後不滅にして、却って盛んとなる。米軍の妨害にもかかわらず、儀式的な神事に熱中するさまに異様なくらいである。ここには原水爆の極端の科学もない。期日を決めて年々歳々行はる。大なる神社などは、第二次大戦後、皇室中心・軍國主義の温床として厳しく弾圧され、収入減にて衰弱せしも、またまた再燃し來る。如何にクリスマス、ジングルベルの時代と云へ、之を忘れない日本だ。
 小さくなった日本は、發掘・調査・改築・復元・指定等いよいよ盛んであるが、當然である。日本人の宿命は絶対に不変であること、運命は多少は改めることが可能でも、これは致し方もないし、日本人であることの誇りは、悪かった面もあったらうが、これより外なく、その傳統を保ち、よい面を守り立てて行くことが、これからの日本にとり、實に大重要事であり、それには發掘・復元なども同類のものである。
 明治20年頃、神道は宗教にあらず、祭典の行事なりと云った人がある。人の生活や社會にまで入りこむことの少ない、ただ崇敬し奉るとのみで救済なく、宗教でないと云ひ、単なる祭典の行事と云ふ意味であらう。そして、神官は形式的で僧侶に劣り、内容はカラ(空)と云ふ。然し、頭はカラッポでもよい。一蹴してしまう理由にはならない。外人が証明してゐるし、第一最古の文・記・紀以上の祝詞をよく読み、怪しみつつ日本とギリシャ神話とは世界の双璧と云はれしを熟読すると分かり、ここに日本永遠の生命がある。
 我在田辺市中学の頃、秋ともなれば豊穰を謝し祈り、且つ樂しく集ひする村の青年たち、毎夜の稽古の笛の音、獅子舞を知って、あの景氣のよい脈々たる祭りの前夜に心ひかれ、感心したることあり。また豪華な山車の子どもに大人の群れの美しき風体、武者行列など見て、感に堪へたることを思ふ。
 他地方のことはともかくとして、この山中の村には笛の音も神樂の音も聞こへぬが、投餅・祭儀に老若男女集まりて、仮令形式なりと云はれるとも行はれる。そして寺ありとも神社はあるはずで、祭りは行はれてゐる。
 祝詞をみると簡単であるが、その當時より喜怒哀樂、また虐げらるるもの、乃ち悪神により實に苛酷な取扱ひを受けたり。非道なことに嘆く人もありたるは眞意にては、個人的に今より以上虐遇されし者ありたりと見ゆ。即ち悪神、荒神なり。善神は之を嘆じ哀れみ、これに一の法(ノリ)を与へ、人の常道正道を示し、悪の追放を示したり。
 個人修身制家には、『宮柱底つ磐根に太しく立ち、高天ケ原に千本たかしり』の如く、天津神つまり今の憲法の如き全体を云ふ。『生剥、逆剥、糞戸、畦放、串刺、虫の災い』まで強く戒めたり。生きながら皮を剥がれることは、最近のモンゴル、東チベットにもあるらしい。之を早くも串刺し、溝の妨害、糞尿の汚れをここに取り上げたるは感心する。
 また、一般法律に準ずるものとして、『生肌断ち、死肌断ち』のことから、母と子、子と母犯せる罪を戒告し、人倫の大事を唱へたる、また悪の追放の方法など、なかなか少ない語の中に、よくよく出し現れてゐる。これでこそ日本は成り立って來、傳統も日本精神も之を温床として培ひ育ったものであらう。日本國家、皇室の関係から下一般まで、ここに生まれたといっても過言でない。揺籠の民族、初めよりかくなってゐたのである。そして、その眞の温床は神社であり、その庭である。昔の苛政に苦しんだ者も支配者も、この日の解放に相集ひて、この日を樂しみ、喜々として晴衣して、この山地にても甘酒を飲み、餅拾ひを樂しみに親睦を図り、若きも老も幼少もおのがじし団欒の日となり、黒酒に醉ふもあり。餅拾ひに合戦の憂鬱を飛ばしたる若者の意氣溌刺として新鮮なるは、集まりし人々に自ずと傳はる。
 前後するが、これより先に対象の神祇は、第一の行事として神官の祝詞、祭祀に、祓ひに始まり厳かにとり行はれる。
 次に、つひつひ人まことに人の世の神秘さと眼に見えぬもの、乃ち神の偉大さを頂礼崇める。如何なる君主指導の権者も結局は晴々として絶対の信を得べからずと云ふ訳ならん。執り行ふ人も皆大輪(ダイワ)の一塊と化し、和光同塵の内に大なり小なり日本人的好影響を与へるオオマドヒの場と云へやう。ラフカディオハーン(英人、昭和3、4年頃没。東大教授。日本を特に愛し、神社の祭りを世界に傳へくれし帰化人、英文学者。日本名小泉八雲。松江市に遺家保存さる)が、尤も賞嘆し、これを詩に物語に創作し広く紹介し讃へられしは、日本人としても非常に嬉しく肩身も広いわけである。氏の文章には、常に神社の祭りとマドヒ、団欒、日本の發生を美しく採り上げている。むしろ明治以後の最首唱者と云へやうか。
 世は千紫万紅、立派な宮居あるのは祈りする者を支へるもの。然し、それはそれとして、田戸の秋葉神社の我幽かに覚えある祭りのことをくるめ記してみる。神社合祀令ありて、それ以前のことを幽かに知るが、一度三大字の氏神を下葛川に集め東雲神社としたり。その後各地とも遥拝所の議起こり、改めて祠を始むることとなる。折ふし、東直晴、中建二郎、東秀清、我、東一郎その他、石及び植樹・敷地のことなど奉仕せり。写真もあり。また、東藤二郎老人玉置山に在り。本社造營の折とて、欅にて祠を作り、力グツチノミコトと記せる鏡を下さる。後、我京都の元の秋葉神社發祥の歴史を尋ねて吉田神社に至りて幣(ミテグラ)を納めたり。
 終戦と倶に東雲神社分霊還り、いろいろ修理建設、設置のもの集まりなして今に至る。我が幽かに殘る元の神社は、太き杉薄暗く茂り石段も石垣もすべて苔むしてゐたり。幟立て本殿の横に拝殿ありて、當番の作る白酒ありて、御供の餅、投餅の外に之を一般に飲まし呉れたり。よほど幼少なかりしか、我迷ひ寂しかりしことを覚えてゐる。
 杉岡直吉老かつて日清の役に出征せる時のこと、その妻この宮にお百度を踏み、武運長久を祈りしに石段の辺りにて火の玉を見たりしと云へり。

注- ・「オオマドヒ」あるいは「マドヒ」について
「円居・団居」のことで「マドヒ」は「マトヒ」の転である。「マトヒ」は、人々が円く居並ぶこと、人々が親しく集まり合うことで、車座、団欒、会合の意味と解してよい。

( 233 ) 我採取せる當地初の化石のこと

 この夏のこと、一大阪人あり。玉置口校へ、瀞で遊ぶための予備知識として極めて一般的でない、最も地味にみえる瀞の地質につき問い合はせあり。我に回して來しため、門外漢ながらに知れるだけのことをと考へ、地図を一日がかりで作り、送る。単なる遊び族の多い中に、写真など見てのみの小谷と云ふ大阪人の頭脳の明晰さに我一驚す。
 そのうちに我22歳の頃、奥の谷にて銃猟の帰り遺、石に躓き轉ぶ。日暮れたるも怪しき石と認めたるため、全力を尽くして之を運び、中森勇吉氏方にて餘を割り取り持ち帰る。貝の化石と見ゆ。戦中より最近まで学者諸氏之を検し、アムモナイトの化石と云ふ。後、フナムシの如きのみ得し以外、再度この類を聞かず。結局、700万年前は海底なりしことを知る。
 瀞の水面上200m以上の砂岩の中に之あるとは、人間の歴史も地質的には、ほんの電瞬の間と云ふこと、蒼桑の変と支那に云ふも、また玉置山犬吠への檜の傳説もかかわりなしと無碍には云へざるなり。また、かつては(この付近一帯が)一大平原なりしことも、前の京大調査にて分明、更に葛川鉱山より出でし人間發生以前のトクサ・ケゴ(南洋の大シダ、幹は人の腕の如し、トクサも巨大なるもの)の如き、今は全く見ざるものを思ひて感深い。今は原子逆算法にて僅かの差で、ある年代を確實に知る世となり、音川(和歌山県、宮井大橋下流の里)あたりの石炭の炭化も分明と云ふべし。この大トクサの頃は、大爬虫類の横行せる時代なるべし。瀬戸内海より101ケのマンモスの巨大な化石を發見せしと傳へらるる折りなればこそ、洵に人の智も明も愈々桁違ひの暗々に向かって進み、この尽くるなき自然の開明に世をあげて大童の様も肯るところなり。人は現在を重大事とする。然し、大自然中の変化は全知全能の造化、神のみ知るところ、無力なること此の如し。

( 234 ) 火事のこと

 秋葉神社に訶遇突命を祀り、田戸に火事はないとしてゐた。然るに我少年の頃、蚕繭の乾燥場より火を出して、クラブ(公会堂)全焼せり、。水なく、ありとも奈何せん。次に中建二郎の家より出火し、全焼したり。當人は、皆同一人による。頼る心にこそこの厄伏在しあるか。人より先に
〔234話は、ここで切れている。『當人は、』以下も意味が不明である。〕

( 235 ) 参謀本部測量の頃の話

 我小学校の頃、下葛川山項に赤き旗見え、この測量のこと聞きけり。今は測量機具も人知も進み難事でないとするも、全國よくも為しつるものなりと感心する。最近の電源開發の技術員に聞くと、やはり測量の体験、根氣よき實地が大切と云ふ。
 當時の話。1ケ月も上葛川山項に籠もっても測量出來ず、またその頃、何万円と云ふ舶來のものなるが、土地の人、仕事に出でて之を肩にて恐る恐る運ぶ。ある時、運搬中、道悪きため落とせしに、いたく叱りまくられ慄きたりと云ふ。當時の軍國と今の日本の民主主義を、人間を比すると面白い。

( 236 ) 警察電話のこと

 初めて単線の電話が駐在所に架せられしとき、その工夫ら横柄で威張り散らし、他人を強く不平せしめしものなり。
 官僚の天下の頃は工夫でも、かくの如しか。向井山にてありし伊勢の人石田の如きは、目を光らせて、その横暴を怒ってゐた。工夫は、線を用ひ、図をあしらひ我家に手拭い架けをくれたり。差別も甚だしかった。

( 237 ) 松茸採りの名人のこと

 向井山に昔、伊勢一志郡羽津村より流れ(當時、伊勢・広島などから山仕事、荷持ち-単純にモチと云ふ-として多く入り來る。伊勢からの人々を、土地の人ら伊勢乞食と云へり)來りし。農作に巧みで、よく動き、作物にもその頃先明あり。ホウレンソウ、シュンギクなどよく作り、ネーブル、夏蜜柑などあの向井山にて驚くべきものを作りたり。後、相當の金を得て帰りしが。
 ある日、帰村の日も近ければ、秘密の松茸山を傳授すべしとて、朝早く暗き内に提灯をともして、瀞山へ案内せり。同人は、全くこの道神業にて、特に提灯持ちて暗き内に行き、夜明ける程に帰る。杉葉を遠見して(松茸の)發生の場所を知るなど云へるも、また松茸ある土の上の方には露あり、など云ひしが、同人唱へる程、自信ありしなるべし。
 私を暗き山に連行して、その場所を教へたり。然し、考へてみると、今侵入皆無の独占場は少なかりき。人の通行する何でもない樹蔭の場所とかに手を探り入れ、土を荒らすことなく、小は採らず、人に見らるることなく、程良き見事大なるを抜き出したり。
 ある場所にて、杖にて1m四方を画して我に云ふ。「この間にて土を掘らず葉も起こさず、じっと目で見て採りてみよ。」と、云ふ。我少年時、しきりに考へしも得ることを得ざりき。後、人をこの独占場に入れ、遂には万人の場となれるも、熱心さと共に、忘れ難い老人なりき。なお、食用の茸を何かと知りおり、弁舌にも長じゐたり。

注- ・重複記事であるが、一人の人物を別の角度から描いているとみてよい。

( 238 ) 大自然の法則と生々流轉の人生

 全知全能の神と云ふ宇宙空間はひとつの生命ある一体物であり、大自然の法則こそ森羅万象を現して偉大なり。
 人の世、人は各人種、貧富、賢愚、優劣を作り、昔より永劫に進む。幸福あり、貧苦あり、惨虐などあり。喜怒哀樂、そして次々敵現れ、世の様変はりて欲望、願望も生命も大盤石らしく未來へ驀進する。結局は共倒れか。文明と云ふも分刻の未來も分からずして進む。一度自然の事至ると天災も生命の安危も絶対に防ぎ得ない。動物の世代交代を云ふ学者、不滅と云ふ学者いろいろあり。満足の境地は已に欠くる危を後に控へ、善意を唱へる裏には数限りの悲惨あり。電子化学、核エネルギーなど驚くべき發達も、ロケット宇宙飛行も必ず裏に膨大の消費あり。危機も國と人に存す。
 然し人は、そして文明人はこの矛盾を克服して行かねばならない。喰ふもの自然にあり。衣も住も要らうとせぬ土人の抵抗力のない方、弱い方へ進むものは四季との不立に苦しむ。文明人にはるか置き忘れられ、利用される。今アフリカ、インドネシアなど、または南米、アラブなど目覚めて立ち上がってゐるが、昔を遡ってみると何百年の間搾取されし、または残酷は形を変へて文明國内にもありたり。
 宗教と云ひ哲学と云ひ倫理と云ふも、限りなき中に矛盾を□し、限りの事を説くのみ。人の世、生々流轉の世は何時の日になっても同じこと。人と対しても、自然の物に対しても同じであらう。智あり、慾あるためと云ふ。而しその慾の世界にこそ人類の發展と生甲斐ありと云ふ。これ然らん。
 馴れるありて文明も文化も進歩も次に移る。太陽の如く出で示す絶対の法は人にない。如何なる大政治家も思想家も□□□時代の変はり目に歴史上の人となる。人は人には絶対の信はおかない。故に信仰を求め第一のものとするも、これも絶対のものでなく、淫祠邪教が正宗教の変化無力に目をつけて、戦争の混乱にはびこる。古來よりキリスト、ソクラテス、釈迦、マホメットなど出でしも容易ならず。
 容易ならずのところ、如何に法の力を以てしても、揺るぎなき世界は形成しない。古來また絶対の探究者として達磨(ダルマ)以來、いくばくの僧出でて、この絶対を究め人とせしか。然し「世は人の世界はこれにて良いのだ」と考ふ。万象は流轉する。然し大自然の大理法は、少しも過去も現在も未來も変はらない。その本質は何時も同じと考へる。
 自然を畏敬するものは報はるるのである。驚くべき手近の例。これほどの石油時代、石油産業の革命時代に一部の識者を除き、果たして一台のトラックに乗る運轉手のうち、そも何人が何百万年前の太陽のエネルギーを戴いて走ってをることを知るか。
 自然だけを見ると大調和である。植物も動物も分を厳守し、他を凌ぐことなし。よく殘虐陰謀ありとするも當然の輪廻として万象の中で行はれ、永劫に過ぎ行き、陽光はさんさんとして降り注ぎ、殺されても壊されても他を生かす意義にて満ちたりた生活。とにかく生きて行く黄金の山は、この世界には不要。且つ権力も不要。蓄積も不要。爭ひ、生死のことも有用に巧妙に大調和してゐる。人の世のみにいよいよ厳しく汚れたものになっていくのを、じっと大自然は視てゐるのである。
 ああ、人の世、矛盾と愚劣、あの尖端の文明、核エネルギーをみるが良い。ああ、大自然!、不生不増の大自然!

( 239 ) 物または犬猫の失せしとき

 物の失せしとき、中信重君(中作市の孫)の畑にある庚申石像をよく括りて、物の戻るを願ひしもの、戻れば之を解く。
 また、我の家では、犬猫が帰らざるときには、その食器(ゴキ)に、「立ち別れ、いなばの山の峰にをる」と書きたる紙片を伏せて念じ、戻れば、「まつとしきかば今帰り來ん」と百人一首をものせり。
注-中納言行平の歌、正しくは次のとおりである
「立ち別れ因幡の山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰りこむ」

( 240 ) 山の神の木のこと

 幼時、よく祟りありとて、山の神の木と云ふものあり。また、祭るあり。あまり利用せざる木なるもかくせり。
 伐り尽くす樹木に対し、少しでも殘さん心と一種のシャーマニズムの現れで、かくせしものと思ふ。山の人の祭るケズリバナや大山神、男根の崇拝〔コノハナサクヤヒメより來り、女の神なれば男性を喜ぶ〕。南方その他土人の秩序にも、ひたすら原始的なるものあり。また、男女のことは悛烈、そしてタブーあり。そのタブーに比するものならん。蓋し、この辺にありても法も道徳も罰も人の造りしもの、地により陰により不完全を免れざるために、かかることを戒めて作りなし、信仰的、否もっと原始的にバチと云ふことにて、体を拘束して、之を補ひ來りしなるべし。通用するときは良い法なり。

注- ・後半の文章は、やや要領を得ないところがある。「バチ」は罰であろうか。