筏櫂

(図58)下図の恰好で櫂を使ふことを「引く」と云ふ。左下の姿勢が「漕ぐ」と云ふ。
「筏櫂」は、舟櫂に比して、狭く作ってある。下図二態は、いずれも筏の先を岩っ鼻から避けるための動作であり、左下方の「漕ぐ」姿勢は、流れの少ない淵などで、専ら下へ流すためである。櫂を固定させるために藤蔓の輪を筏わきに打ちつけたり、捻じ木の輪に差してゐる。

筏師百態


(図59)筏師百態
上図は、筏を少しでも早く下へ流すために、岩の割れ目や穴に棹を差して、筏の先から筏尻まで棹を押して歩く。送り棹と云ふ。この動作は、筏だけの動作で舟ではない。舟の送り棹は、ただ岩や川底に棹を突っ張って舳から艫まで歩くだけである。
筏の送り棹に利用する岩穴や狭間が宮井より下流の淵では、まるで作った様なのが沢山ある。これは何十年否何百年もの昔から利用する内に自然と磨けて出来たものだろう。
下手の荒瀬の状態によっては、水流に副はず敢えて逆流する処の磧辺を通すこともある。(左下図)
水流が急カーブのため、棹や櫂で曲がり得ないときは、綱で引き廻すこともある。(上段右図)

炭焼き


(図59.2)〔炭挽き〕
我自身は、製炭に從事せしことなくも、職人を雇ひて、この業を営むこと10年余なり。商賣の終わり頃は、「ダツ」萱にて作りし炭俵が、近所で作る人少なく、三里村山在三越辺まで買ひに行った。買ったものを川辺まで自分で卸してプロペラ船に頼み、新宮まで下ろして、阿田和廻り小川口へトラック運送し、小川口より貨物プロペラ船にて登し、杣立店倉庫に入れ置き、山に肩運びせり。ダツの札木に銘柄、量目、商標を書いた。

備長馬目 小丸上正十五キロ入り カ

昭和21年當時炭単価
馬目-大丸 中丸 小丸 細丸(以上42円) 半丸 割 込
樫-大丸 中丸 小丸 細丸 半丸 割 込
楢-大丸 中丸 小丸 細丸 半丸 割 込
浅〔雑〕-大丸 中丸 小丸 細丸 半丸 割 込 …25円40銭
椎-大丸 中丸 小丸 細丸 半丸 割 込
米一升37円24銭(昭和23年)
備長釜にて焼きたるものを白炭と云ひ、包装完了までの焼賃15k當り樫10円、雑7円50銭。

伝馬船

(図60)自分が30歳頃なりしか、予て依頼しあった伝馬船を筏に乗って行っての皈りに、一人で曳っ張って家まで来たことがある。當時は十津川も北山川も貨物はすべてダンベ船で運んでゐた。荷船の一團は、大抵四隻で三人(二隻)綱曳き、一人梶取りであった。その船團の内側を通り越す訳だが、一團六人の綱の上を自分の小舟を乗り越して早く先進せねばならず、自分は綱を引いてゐるだけで、綱による緩急加減で梶を取りつつ進むのだから迚も忙しい。
新宮を出てから下和氣まで幾船團もの追越しをして下和氣で帆を揚げた。その帆揚げ作業たるや一人では大騒ぎだ。帆は引き揚げねばならず、揚げれば風で舟は何処へ走るや判らない。やっとのことで竹筒まで来て一泊、翌日3時頃田戸に到着した。
この帆の扱ひ方や荷物船團の追越し方は、本職であった父に時々連れられて新宮へ行ったことがあったので、やれたものだ。(15歳から17歳までのことなり)然し、船團の綱曳き人にも綱を少々緩めて貰わねばならぬ。舟から横たえた棹の四尺位のところに綱をつけて引くこと。自分が川端(水際)に寄れば、舟も深い方に寄る。反対に自分が水際から離れて上ると舟は磧岸に寄って来る。この加減をなしつつ深浅を見分けて進行する。
近頃の様に壜類の破片など多くなれば、恐ろしくてこんな恰好では水に入る氣になれない。(昭和46年5月23目描く)

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