( 141 ) 16mm映画のこと

 昭和23年頃、進駐軍の肝入りにて、役場の人軽便なる映寫機を持ち來たり、映寫したものである。ひとつはアメリカの宣伝でもあった。
 最近は、他を凌いで續々この種の有料にて公開さるるもの競爭の形となり、今頃(32、7、7)にては平常のこととなり、一家何百円も出して見に行くありさまなり。
 なお、天然色映画も昨今現はれたり。(拡大レンズ35mmも出づ)

( 142 ) 伊勢乞食

 入学前頃は、よく伊勢乞食と云ふもの來たり。その他の乞食に至りては、戦前までかなり來たものなり。行者風、坊主風など訪れては信者方にて寝るものあり。例へば中井。然し、戦ひ始まると共に漸次影を絶ちたり。之は同地方に貧困者多かりしか。美田豊富の、見た目の裏には、この類多し。例へば尾呂志の如し。中には罪を犯して來るもの、例へば向井山にて我が家の畑作りせし石田善右エ門の如し。山刈に來てありしに本來の百姓仕事に精出すに至れり。
 但し、この人は農事によく勵み、□も出生地柄前途を考へ、十数年して帰へれり。當地における最良疏菜の元阻とも云ふべく、春菊、ほうれん草、人工蕗、白菜各種など、我々に珍しき品作り、量もほどほどにして与へくれたり。みかん、ネーブル類も、その當時は驚くべき成育ぶりなりき。
 特に彼は松茸採りの名人にて、他の人の如くただ山に入るをせず、松山を窺ひ提灯をつけ、暗い内に瀞の山へ行く。まだまだ眞っ暗なり。然るに灌木の間、樹の間、下の柴より手探りにて見事なるを抽出したり。決して土地を荒らさず、菌糸を保存するが、小なるは採らず、熟して採る故(即ち抜く)人にも採取地を知られざるなり。カサの柔らかく広がらず、茎の太き驚くべきもの多数とりたり。余も一度同行(帰國の前)されたり。その中に日出でてカサの色も柴と見分け難きになれば、杖にて約2尺5寸の矩型を記し、この中に茸2本あり。柴をはねず掘ることを為さずに採れと。余どうしても得ざりき。彼の老人は忽ちとり出す。今は山の道徳もすっかり堕落し、山刈鎌、鍬などにて掘り返しするなれば、小指の先の程にても奪ひ、山は恰も畑の如くなり、菌糸も消え、甚だしく減産し、質も不良となれり。

( 143 ) 伊勢乞食のこと(石田老人のこと)

 三重県一志郡羽津□の老人もいよいよ帰省することになる。正月、盆の飾り付け、餅搗き、我等母子その他移動の場合は、實によく尽くしてくれ、家内同様なりき。昔話もしてくれた。勿論、母も出來るだけの心付けを忘れざりき。彼の老人、帰國の後に一種の寂蓼感さえ子ども心にあり。危険な日の我々の迎へ、老妻の足袋縫いなど限りなし。その時、彼曰く、
 余は、知らざりしが、エビス大黒を画し、笑ふ人には福來ると書して与へたるに、彼之を祭祀して今に至れりと云ひて取り出して見せる。これより家事は順調にて當時の2500円を得て帰れるのは、これによって助けられしと云ったことを、そして粗末な画と文字を見たるを覚えおれり。
 但し、伊勢乞食と云ふも、只、多かりしのみにして、他国にも少なからずありやと思ふ。
 石田老人は、レイシ、桃など、柿もすぐれたる□者なりき。

( 144 ) 荷持ちの人々、十津川・北山へ入り來る

 如何なるものか、木材の景氣によるか、事業も進むに連れて、交通の機関なき時だけに人力に頼るよりなし。主として藝州広島人最も多く、その他之に次ぎ、後土着せるものあり。

( 145 ) 山元春挙画伯と猿

 瀞の美しさ、今は昔に比してものの数でもない。動物のみならず、一種の川藻も失はれてしまって(モーター船の多來のため)、ただ形式的に、又不調和な景色を見るのみなるも、我の中学1年時代はまだ太古と云へる、その名殘を遺してゐた。そして瀞はモーター船の來る頃は逆光線となり、一番景色は悪い。尤もよいのは、朝、霧のある早朝である。そして、その霧の晴れる時は全く美しい繪の如き恍惚に浸れる。如何なる清楚な南画も及ばない。
 中学の1年時代(田辺中)のこと、山元春挙と云ふ画伯が此地瀞亭に泊まり、早朝和舟にて寫生に下瀞へ漕いで行った。余も乗ってゐた。丁度、滑り岩の下手にかかったとき、一匹の猿公断崖よりゆるゆると下りて來、河水の端に至り、しきりに水を呑んでゐる。
 春挙氏は、丁度手にせる柿を1ケ投げ与へしに、その猿うまく手に受け、見返りて崖を上がり山へ隠れてしまった。画伯は、「うまく受け取った、受け取った。かわいい奴」と、上機嫌にて笑ったのを覚えてゐる。
 こんな時代も我一生の内にはあった。今はこんなことは絶対になく、群れも上方へ上方へ去ってしまひ、仙境と説明するプロペラ船ガールの声よりは遠い夢となってしまった。
 緋鯉など大きなもの(ウグイも)が、青い水中を金鱗溌溂したものだが、捕へられてしまひ、いよいよ見られなくなった。

( 146 ) 動物の捕獲方法〔山〕

 山の動物と云はず、川や谷の動物と云はず、その捕り方の変遷を昔より考へると、なかなか興味がある。そして嫌な思ひさへ浮かぶ。人の悪智恵と云ふものは、常に科学なき人々も熱中のあまり、驚くべきことを考へる。況んや少し弁へある人においてをや。然るに正攻法でない智なき動物どもの本能もものかは、山の人は誰でも知ってゐると云ってよい。
 昔は投石、大勢して追い詰め、石や木で殴り殺し、主食にしたものらしい。次にワナの方法、弓矢と犬の利用である。犬の利用は大成績をあげたに違ひない。人は視力と智力にて遠くのもの、近くは元より見定まるものなるも、扨、茂りたる山に入れば足元のところに猪あるも気付かぬこと多し。犬は鼻を用ひ、極めて簡単に發見し、吠えて怒らせ、小なれば咬みてとる。
 上手く一致せば矢を用ひても、犬に任せても、棒切、ワナなどで樂々と捕ることが出來る。人は智あり。ワナ(例へば特に鉄)を用ゆるにしても、高価な毛皮を有し、容易に人の手に入らぬものに対しては、努めて体臭や金属臭、手の臭を殘さぬようにし、餌も色々工夫して去らせぬようにする。そして、人は動物の習性を利用して、自ら出來る彼らの道を考える。(ハシリとも言う)猟師は家にいて、あの山は何処から追へば何処へ獲物が來るのかを知ってゐる。そして待ち伏せしたりする。
 犬も雨や天候の都合、日時の関係、混合臭のあるときなど迷ふこともあり得る。人の智も完全とは云へない。右の資料を参考としてゐるのだから、まんまと失敗するあり。鉄砲と云ふ強力な武器が出で、犬の力を頼み、己の智を働かせ、脅威を動物に与へる。これで狩りの方法はぐんぐん進み、雷管を使用する銃、ブローニング二連銃、訓練された犬で猪や鹿、猿、山兎など大分狩り尽くされる運命が近くなった。
 いかに名犬と云へど大きな動物は人の力、つまり矢やワナか銃によらねば如何ともしがたい。銃には轟音と云ふ欠点があるが、有力な武器なり。20貫近くの猪の膽(イ)・肉など2万円も(今時)上ぐる場合あり。熊など推して知るべし。膽(イ)は猿、狸すべて珍重さるるなり。
 ワナにも色々あり。ハト、ツグミなどの小鳥を捕らへる方法にクグツがある。南部(ミナベ)ではコプチという。木の弾力を利用して枝の6、7寸のものを以て、両端に紐を通じ、押さへ木として地上にある木をくぐらせ、弾力木(ハチャギ)に取り付け、少し引き上げて、チリコと云ふ第三の糸(弾力木=ハネギとも云ふ)をハネギに取り付け、引き上げし押さへ木に取り付け、チリコにて止め、鳥の中に入らんとすれば、直ちに落ちて首を絞めるものなり。今も在りと云へ、ツグミ、ハトその他の小鳥も少なき為、盛んならず。
 時に、生きたまま捕らへることもあり。ハトはなかなか難し。様式を変へてやや大がかり、大人のする方法にてハネワラ(ハネワナか)と云ふものもありたり。これは主として動物の肢を括り、吊り上ぐるなり。ロシアの昔、之の大がかりなるものあり。係蹄、つまりワナは我の幼時には、ウサギ、ヤマドリの如きを捕りたり。その頃も少々ありしも、鹿、猪を捕る大がかりのワナは、今なお十津川奥地には行はれありと云ふ。
 トリモチは、我の幼時より今もなお、小鳥(メジロ、その他)を捕らふるに用ゆ。常緑樹のモチノ木から荒皮をとり田につけ、腐らせ、水洗ひして温湯に入れ、練りて作る。一種のゴム質なり。而してこの木は岩石の陰や谷間に多し。やさしき方法なり。
 なお、テン、イタチ、狸の如き高価なる動物をとるには、ビシャギ(方言)と云ふものあり。1メートル以下の長さ、幅少しく小なる頑丈の作りなしたる板の先端に合金その他の重力を担ずるものを取り付け、両側に石か何か地物を置きて、その板を中に挟み、地を平らにして片端の支へ針金に板の長さ相応のやや太き木をとりて、之に押し込み、板をやうやく動物の通れる位にはね上げ、板の後端の部にある間隙を通じ餌物と連絡し、ハネ木の後端に紐を付け、いわゆるチリコ通しで餌に通じる。もし、これを喰へば忽ち圧殺さるるなり。然し、之も動物の減少とともに少なくなった。
 「ハサミ」は前にはトラバサミと云った。之は、多分外來のものと思ふ。(動物が)踏んで挟むのと、餌を喰ひて首その他を挟むものあり。後者は主として日本にて作られしものなるべし。よくかかるが比較的技術を要し、これのみで狩する人は、甲種の免状を得なければ公然とできなかった。
 毛皮を目的に動物をとるに塩剥、燐、硫黄、鶏冠石、茶碗(ガラス)などの細粉を混合して乾燥させ、イカなどの皮に包み、餌の中に入れて目的の山に置く。之を咬めば爆發し、動物は死するなり。之は我が少年のはじめにありしも、今はほとんどなし。多分(猟師自身が)自分の危険を憂へたであろうし、人のみか犬にも被害出づればなり。
 毛皮を得るため狸、狐(狐は父の時代には相當いたしなり。本家の高く積み上げし芋苗床にも知る。師走には上の野でコンコン鳴いたと云ふ。そして鶏や芋なども荒らせしなるべし。然るに今は一つとして見たる話なし。我もたった一度竹筒にて捕りしと云ふを見しのみ。之は毒殺らし。)テンの如き(テンは極めてとりにくし)を捕るに硝酸ストリキニーネを使ったものであるが、狸には相當効ありしも、動物の減少とともに今はほとんど行はれないと思ふ。
 我の20歳頃迄はあったこと間違ひはないけれど、最も危険(人、犬にも)なるは箱鉄砲(方言なり)と云ふ据銃のことなり。主として猪を狙ひ、その通る道を物色し弾丸が丁度急所に當たる如く銃を傍らに隠して装填し、通り道には紐などを撚りカズラなどで延長し、もし動物が之に触るれば暴發的に弾丸出で、之をうち殺すなり。成否半々位なり。
 然し、この危険性は實に皮肉にも人間側の被害も大きく現れてくると云ふことだ。終戦直後は諸所で惨害を聞いたものである。法では厳禁さるれども奈如せん。之を何箇所も仕掛けられては、うっかり山も歩けない。我知りたる被害のみにても死亡した人、不具になりたる人、□□を拾い不具は免れたるも、足を、太腿を射ち抜かれしもの十指以上なり。少なくなりたるも、まだあるやも計られず。篠尾(ササビ)の人など自分の仕掛けたものにかかりて死亡せし例あり。之には普通の銃にても可なるも昔の雷管銃の如きものを改造又は新造して2尺余りの筒と管と通じる穴のみありて、その中に過大の火藥・弾丸を入れたり。(筒裂けてもよしの考へ)然るに最近の状を見るに、一つには動物の減少もあるが、とりわけ法も世相も陰謀危険なものを忌むようになり、犬による英国型の正攻法が徐々にとられるようになり、大した動きもなく淘汰されて來たようである。トリモチや子供のワナ位(道でない限り)は、これからも続くであらう。

注- ・篠尾(ササビ)は、和歌山県東牟婁郡敷屋村の奥にあり。

( 147 ) 動物捕獲の方法〔川〕

 釣針は、古代よりあり。骨から鉄となる。而して糸もて餌をつけ、水中に下し、之を釣る。後、人は産卵期のウグイなどとるに三ツ叉・四ツ叉になしたる大きい錨形のものを□□にたらして之を引っ掛ける。銛にて鰻用、鮎用と鯉用と区別して之を突きてとる。又、網は投げ網とフリカケ網ありて、前者は群れなど見て半円に投げてとり、後者は夜静かに(投網よりはるかに大規模なり)一定の所を物色して下ろし、麦藁などに急に点火し、火を振りて魚を威し網にかからしむ。大漁のことあり。
 錘を付したる釣針にて鮎の遊泳するを釣るもあり。大体之は短期である。現今の鵜よりも軽捷なる箱の一底片にガラスを付したる「水メガネ」を併用して、竹竿の先端なる鈎、つまりチョンガケ(方言)は、余7歳位のときより始まれるなり。簗は、之も昔より行われ、件の簀のゴミトリ様の三間もあるものを堰より誘導、水を魚とともに涸らしめるものにして、魚は排せらるる水の圧力により動きとれずに捕らるるなり。前には、今の川と違ひ、實に良きモリモリしたる鮎など多く捕りたるものなり。伝馬船三杯もとったこと、始末に困ったこともあり。猫も見向きもしない時を知ってゐる。
 なお、普は山椒、胡桃、トコロなど煮出し、或いは灰を加へ煮るなどして川に流し(特に旱天渓流にて)、中毒せる魚をとりし「流し」などあり。
 徳川時代、オランダ医薬と知識入るに從ひて巴豆(作るに大変なるもよく効く)、巴豆油(之も流すにはアルカリなどと混ず)、夕ンパン、石灰など用ひしものなり。我中学2年頃より、ちらほら青酸カリを用ゆる者あり。然し、僅かなり。
 その頃、新聞を見てゐた我、宇治川にて或る男、川の中にてウナギとりあり。その態度、器具に不審を抱き、検せしに、電氣を利用しあり。然し、法令上、取り締まることなき為、そのままとの記事を見、早速、利用して見んと夏休みの時を利し、色々實験のうえ、ウナギの如き潜みあるは他愛なく飛び出し來たり。しばしして甦るをみたり。その後、忽ちの内に、その器具が賣り出されるや、1日30〆もとった話ありて、忽ち禁止のこととなれり。蓄電池または乾電池3、4直列にして感應コイルを通して高圧とせし電流を用ゆ。今もあらん。
 子供の時は、小さな流れを堰き止めて魚をとらへし。平凡ながら簗と同じく南米あたりのインディアンらしく原始的な喜びを得たり。
 最近は殺虫剤ゲランを使ふものあり。青酸カリは一番使用されたらしく盛んに五條方面より藥屋持ち來たり。又は缶入りを農業藥として求め使用せるなり。ダイナマイトの爆發波によるものなど危険につき不具者または生命を落とした者もある。
 「ウナギ戻り」(竹製の一種のカゴ)と云ふ餌につられて無理に侵入すれば、出るが不能にして捕らへらる。之は第一の餌を鮎としてハイ、ミミズなど入れ、そのつけ方は甚だ技術的にして、上手くいけばギュウギュウ入る。
 スズキ捕りの大形の戻り、大人が子供がそれぞれ目的のためハイトリ瓶(最近は合成樹脂製も現はる)に味噌、糠、土など入れて、主としてハイを捕り、餌とせり。
 なお、子鮎の群れ上り來たり、幅1~2尺、長さ1町以上も來る。その時は内部へ何も入れず、その道に置けば捕れる。一升瓶を切り、利用するもあり。擬餌による毛針にて初鮎を釣る。
 また、川の汚れる秋の日、このところに群れありと直感し、百足の如く針を付け、盲目的に川底を撫でて掛けるナデバリあり。その場所良ければ沢山捕るなり。この最も盛んなるは新宮市の上の日杖あたりにて、上り來る新宮人の屋形船無数なり。然しこの鮎は産卵するので、捕れた鮎は案外痩せ、色も黒黄を呈してゐる。現在もいよいよ盛んなり。
 物理化学的に鮎を捕る尖端は發電所より起こるらしい。水圧管中に空氣を交ぜて放水する水車の中を通り出ると微細無数の氣泡水中に出づ。鮎の如きは忽ち窒息するなり。
 このほか、「置き網」と云ひ川に網を張り置き、朝之を検するなり。大したものでなくも捕れるあり。また、亀、鯉などの予想外のものも得ることあり。
 「置き釣り」は、主は強きやや太き糸の長きもの(一丁以上に及ぶあり)に枝糸を付け、釣針の先に色々の餌を付け、川底へ流し折りを見て上げ、之を得るなり。新宮方面より來りし者は非常に巧みにて1主枝糸1〆目以上も捕ることあり。
 価  ウナギ   百匁   120~130円
 「穴釣り」と云ふ、小川の上流の人々用ゆ。岩塊の多い、小流の岩の間隙に少しく長い針に餌を付し、細い竹の中を強い糸を以て一つ一つ岩穴に差し入るる。ウナギおれば(餌に喰ひつき)之にかかるなり。

注-
・ハイについて 一般にハイまたはハイジャコと呼称されている。食用にする人は少ない。冬季のハイは脂がのってうまいという。ハイは全国的にはオイカワと呼ばれている。十津川村ではシロバイ(雌)、アカバイ(雄)と呼ぶ人もいる。
・「置き釣り」について凧糸や紡績糸と言われる糸を使用する。夕刻餌を付けて石の錘を括り、淵や岩陰、緩い流れなどに置き、早朝引き上げに行くのである。「漬け針」と言う地区もある。餌にはムツ(力ワムツ)、チチカブ(ハゼの一種)、カンタロウミミズ(シーボルトミミズ)などを使う。

( 148 ) 動物の捕獲法〔山〕

 羚羊、十津川方言で云ふ「ニク」と云ふ偶蹄類の動物は非常に軽捷・敏感・安定度の高いものである。彼の行くところ、人も犬も容易に近づき難い危険な岩の場所に逃ぐ。尤も彼の住む處は凡そ岩の多い危険な山である。そして布切れなどを振れば好奇して見る。然るに皮肉にもこれが仇となり、捕獲さるることあり。一發の銃をも發っせず。つまり危険な位置に居り、人・犬の近づき得ぬを知るや、その場所(クド)を守り、動かんともせず。人は山をまわりて上方に至り、上より網を係蹄(ワナ)としてぶら下げ、首に掛ける間も不動、一端の網の部に手頃の丸木または石など括り付け人は投げ飛ばす。大抵は高所なる為に引き飛ばされて捕殺される。美しい毛皮はかくて捕らる。
 彼のツメの裏を検するに、外側は鋭利なる角質をなし、内部は柔らかな硬皮膚なり。これにて岩の少しの割れ目などに掛かり立ち、優れし平衡感覚と運動神経、敏感なる筋肉を利用して驚くべき身軽さを發揮するなるべし。俗人には弘法大師よりもらひしスイダマが足の裏にありと云はれし次第なり。
 ムササビは、夜間電灯などを照らし、その洞の出入り孔あたりに光至れば敵遠くあるや、然も不思議な明るさと思ふにや、首を出して入らんともせずある時、撃たるなり。ネズミにても此を見る。余,覚えあり。
 狸の穴くすべ、松葉いぶしなどは我あまり開かざりき。
 天箱=テンバコ 木の箱の一側の餌を引けば、背後にてコトンと戸が落つるもの。我等これにてイタチをよく捕りし。

( 149 ) 動物捕獲法〔川〕〔山〕

 エビなどは糠など煮て誘ひよせ、エビタモにてすくひ捕るなり。大したことなく、この地にて我生まれて1~2回のみ少し捕りし。但し、9歳位の時には、瀞の下手一隅に溝を作り、ザルを置きて遮断し、火光をザルの裏に置き、小エビを沢山捕りしことあり。これは邦吉と云ふ伯父と一緒であった。今は之も聞かず。
 メジロなどの小鳥を捕る時に馴れたるオトリの籠を樹間に置き、一部にトリモチを付したる小棒を添へ、寄り來る山のメジロは捕らへらるるなり。落とし穴は昔のことで、明治20年位のもの、井戸に似たるを見たるのみなり。それ以前はかなり良い方法なりしならん。但し、たまたまの樂しみなりしか。
 鹿笛と云ふもの、田戸中家にて見しことあり。昔は盛んに用ひられし如きも、今は殆ど用ひられず。之にて發情期の雌の声を装ひ、近寄り來るを撃ちて捕りしよし。これの皮の部分は、ガマの皮なりと云ふ。

( 150 ) タクラタと云ふ消失せし獣の話

 これは恐らく明治初年の頃、已に傳説となりしものなりと考へる。然し、我今存生せば110歳位の老人に度々耳にせしものなり。また地を変へて北山方面の老人にも聞きたり。
 「アホーのタクラタ」と云はれし動物のゐたと云ふ。この動物は、色々脚色されて話の中に出づ。冬、山小屋など雪の降る日、人々が薪にて暖をとってゐると突然入り來たり、人間に伍して温まると且つ熊の如し。剛毛の生へてハシカイものであるとも云ふ。
 余約25年前、田辺町、南方熊楠先生に尋ねしところ、やはり徳川時代の書物にありと云ふ。それは結局ジャコウネズミらしと云へり。