( 251 ) ミズヒョロロと云ふ鳥のこと

 ミズヒョロロと云ふ赤い鳥の來た話あり。ただ一羽の鳥にて赤き色ありて、名の如く鳴くと云ふ。「親の死に際して、水を与へなかったから天罰を受けて鳥となった」と云ふ傳説を度々耳にしたが、今はなく忘却の彼方へ消えた。

( 252 ) 堰出しのこと

 道路が荷車道、木馬道、そして今のトラック道になるまで、この葛川谷奥地よりの木材の搬出方式は、昔より小川を主なるルートとしてゐた。然し水量も少ない、岩の凹凸が多く場所の悪い小川は、特に當時は(材木の)太さの好みありて、そのままでは流下しない。資本を持つものは誰でも出來たが、多くは山も出材の資本も他所の大物に限られる場合が多い。出材は多くは請負業であったらうが、後處、此處より大勢の人夫の群れを集め、請負の主は絹物を看て旦那風、(組織は)総裁とかヨコ庄屋、横、飛切とかの階級を能技により定めて、川の瀬の處々を材を利して堰止め、岩を割り水を湛へて、大量の木材を投じて、木遣り掛け声面白く、鳶を打ちて流送する。第一線のヒヨウ(日傭)の風は、手甲、きゃはん、信州袴と云ふ野武士のタッツケ(裁っ着け)に似た膝より上はダブダブのものを履き、足袋、草鞋で手拭鉢巻で元気よく唸りながら仕事をしてゐた。腰には鉈と云ふやや厚味の包丁を中途で切ったやうなものを(腰に)帯びて、獣の毛皮(毛のつきたる)1フィート四方の尻革(シリカワ)と云ふものを色を交へたる紐にて尻にぶら下げてゐた。このシリカワは川辺なら、又野道でも山の中でも尻をつけて坐るには安全であり、よいクッションとなる。大勢が鳶一本で丸太にかかるにしても、その掛け声すべて指揮者の意の如く、囃子も之を背負ふ如く統制がとれてゐた。飯場、事務所もあり、大がかりなものもあった。上葛川、下葛川も日を重ねて、この瀞の地まで下り來たったもので、今では珍しいより世の移り変はりを考へて懐かしくもある。
 當時としては、より良いものの外は価値もなくて、又結局、賣る方も買ふ方も量において□しく、今にしてみれば贅沢とも云へやう。(川を堰ぎ)青々と(水を)湛へた淵をつくり、角(カク)とて樅、栂の大なるを大斧のハツリヨキと云ふものにて削りとる。(材木の上にのり、四角にソギ落とすなり)人夫(ヒヨウ)は、よく浮く角の上にのり一辺より他辺へと足速く角を廻したり、決して水に落ちないことを自慢したりしたものである。長閑な谷川のショウであった。瀧の上にかかる材木に鳶をかけて瀧壺に背を向けて引っ張り、木の動く瞬間に鳶を抜き、安全の地に戻ると云ふ危険な芸當をやり、肝を冷やせしもの。(十津川あたりでは、萩から一本の木材にのり、鳶にて平衡をとり新宮まで下った者もいくらもゐる。)また、立木の下にゐて鳶を打ち込み、桿を傳って上り、外して落ちぬ前に又上方へ打ちて上ると云ふ千番一番の曲芸家もあった。確かに當時の人は運動神経も筋力も三半規管の機能も優れてゐたかも知れぬ。僅か45年間に、その個々の能動性は確かに変はった。
 村の人は、徑尺位の「苔の丸」と云ふを作り、(親方に)買ってもらったものである。これは、堰(セギ)の場合のパッキングによいからである。
 (人夫は)信州あたり、又中辺路方面より大勢來りしものであると覚えてゐる。大体、この地方の人は、昔から団結行動を自家経済の上で示し、十津川あたりは意味が変はり、政治的に団結してゐたやうであることが、この面にも現れて來る。一方は田を有する、又は良い地であるが大名の苛政あり、一方は山國で人並みの生活をするには、やはり時の権力ある政治家と結び、由緒とか例とか故實とか格式とか、歴史的により多く強く働きかけて稼業のみならず中央へも近づくべく努力したものである。面白いことなり。

注- ①搬出組織 ②堰(セギ)横断面と ③苔の丸


文中の「一辺より他辺へと足速く角を廻したり」とあるのは、一本の角材に乗って水上でクルクル廻したり、向こう岸へ渡る動作を述べている。

( 253 ) 赤木の城より朝鮮へ

 赤木城のことはどうしても他人事としておいておく訳にはゆかない。津久一揆(北山一揆)の時も、十津川は必ずしも無関係でなく、又當時の十津川領土の下流、入鹿あたりへの関係もあるからである。
 赤木城主藤堂佐渡守の頃、秀吉の朝鮮征伐あり。出陣の命にて出征したと云ふことである。一、槍 三本・一、鉄砲 二丁・一、大提灯 三・一、小者 三とある。今からみると噴飯物の大出征であるが、よく考へると天下様秀吉の一顰一笑がよく行き届いて、あの赤木の小城にまで及んでゐたことが分かる。尾呂志の長徳寺でも我は當時の尾呂志陣屋の出征したこと、並びに分捕品と云ふ朝鮮茶碗、軍旗を見た。

注- 赤木城跡-三重県南牟婁郡紀和町赤木
 天正13年(1585年)頃、藤堂高虎によって築城された。赤木は熊野北山郷十津川郷などに通じる要衝で、城は本丸、二の丸、三の丸、馬場、堀などを残し特に整然とした石垣が目につく。城跡から西方700mの地に田平子(たびらこ)というところがあるが、ここに藤堂氏が罪人を晒し首にした獄門場跡があり、「いったらもどらぬ赤木の城へ、身捨処(みすてどころ)は田平子じゃ」という古謡が刻まれた供養碑が建っている。
藤堂高虎は、幼い時熊野新宮に来住し、成長後、土豪色川氏と共に那智山衆徒を助けて戦功をたて、豊臣秀長に仕えた。天正13年、豊臣氏の熊野征伐に際しては、一方の大将となり、ついで秀長の命により羽田(はだ)出羽守と共に奥熊野の北山郷・西山郷・入鹿庄などを支配する代官として検地を励行、いわゆる北山一揆を勃発させたが、これを手際よく鎮圧した。文禄の役、朝鮮出兵には鵜殿村で軍船100艘を建造し、熊野水軍を配下におさめ、その先陣となった。
関ケ原の合戦後、一時奥熊野を統治したが、庚長19年(1614年)北山一揆が再発すると赤木城を補修し、その鎮圧にあたった。この時の処刑者は300余名という…………

山川出版社「三重県の歴史散歩」による

( 254 ) 葛川谷の昔の階級、その他

 昔も今も同じ部落は部落、字は字、地方は地方、村は村と云ふ風に、対立ではないが、勢力を伸ばし自己の發展の基礎とせる如し。
 米一升のこと、鹿皮一枚にもなかなか今思ふ以外の當局(権力者、代官、江戸の老中、京都など)に届け出て、自己の存在を明らかにし、ことあるにおいては働きのことを、由緒を大切に訴へ、又は處を得し如し。
 階級も十津川は、文武天皇以來「南山忠義の里」として、事大主義ながら大阪の陣の時も出兵したり。但し、関ケ原の時は地を削らる。これは十津川の誤りによるなく、北山一揆の収拾の時に楊枝の常樂寺長訓のため恩賞として、その上(カミ)より削られしため槍300本分を失へり。然し、天誅組の騒乱の時は、皇軍御先鋒の組に加担後惨敗、紀州などより手酷く報復されたり。この辺は幸ひなかりしも、権力(地方)者住する地方(地理的にも近い)は、家を焼かれたり侮辱されたりしたものなり。然し、後には中川宮などにより幕府の衰へる折柄とて□□、第一天誅組と分離し、水郡一行を火藥の計にて追い出し(之は単なる誤りにて水郡一行は實に立派な人々であり、十津川人の一部と比べ同日の論でなかった。)、天誅組と分離して退散を乞ひ、板挟みとなった野崎主計、深瀬繁理の死となった。當時の郷内、各戸よりの非難の声は、實に塩であった。その塩200俵を紀州より送りくれし詫のこともありし。
 十津川郷は、他と違ひ領主を特別の故にもたず、特長として郷内に大なる権力者(出たことも少なくなく、昔に至るほど多いか)を認めず。立派な姓を有し、名もいかめしい侍名もって人々に尊敬される家柄も多くあったが(系図も含む)、合議制で長や職を撰んだものらしい。姓のない、例へば百姓茂八も万一のときは動員されもし、士族の分家(この時の士族の意は、後の明治の士族・平民の戸籍呼称とは違ふ)、一級下層も準士族なりし如し。
 然し、勢力のありしものは主として十津川本流、西川に多くあり。この辺にては上葛川(例へば中善藤太の如し)グループより下葛川(東弥兵衛)の如く、田戸なんかは上田戸・下田戸と細かく分かれゐたりし時もあり。凡ては下葛川あたりに從ひし如し。
 御親兵、日本の観兵式は東京代々木にて明治天皇初めて行ひ給ひ、その兵は十津川兵なりしこと、我昭和10年頃ラジオにて聞く。且は、大正・昭和の天皇即位の時も十津川郷士の席を賜ひ、その後の侍從派遣のことありし。
 右の如く勢力は主として本流筋に握られてあり、むしろ玉置川の方、笹・徳田の昔を考へても勢力名門とも云ふべし。結局、考へてみる。凡て昔の田戸は人外の里であり、殿井氏も出したが、全く草深い里であったらしい。同じ大字神下にしても、有蔵、神山などよりは埒外にして寺もなく、大昔大塔宮潜行の際に王森山を有しつつも、あまり注目されなかったらしい。主として土地では上方に居られ、瀞などは見下ろすと云った方がよろしからんか。彼の名ある太平記の「見上ぐれば万仞の青壁剣を削り、見下せば千丈碧潭藍をたたへり」は、その形容瀞に近い氣がする。森すなわち王森の頂上はかすか住まひし跡を知るが、資料なく、草深き家も當時は極めて少なかったに違ひない。
 1000年以上の昔、役の小角の眼も玉置口より玉置山は映ったであらうが、田戸・瀞は顧みられなかったことであらう。星霜が移り、急に注目され出した瀞、この谷筋にとって重要な地となり脚光を浴びてきたのである。
 我の20歳頃發見の菊の紋ある御綸旨の箱、大沼の塵捨場で發見のもの、ただ一介の箱のみなるも、之にて以前竹原八郎を谷瀬、大塔、北山で白熱の出身地奪ひ合ひがあったがこれで何なく科学的に証し、何れも無理なく円満解決可能なりし。(手凍り執筆中止)
 維新前後、あるいは昔に遡るに從ひ、由緒を大切に扱ひたり。拱腕して思ふ。どうしても本流沿が重となりし如く、毎年の届・達しに対する「乍恐言上」も庄屋(以前は庄司、目代など)筋の顔触れは、高津村など高田文左ヱ門などの名見える如く、勢力は彼の地にあったらしい。山造り、山仕事、良き材の加工物(板・巨木・伊丹)などを主とし、また貴重で多価なる椎茸は担いて都市に出した。これは大いに注目すべく全國的ではあるが、財をなせし者もあり、一般人も益を得し重要産物と考ふ。(毛皮のことも昔の文書にみえるが、重要にあらず)夫々生活には、勤勉に励んだらしい。
 かかる仕事に一般は専念する傍ら、炭焼きも多くありし如し。江戸奉行よりの示達も質・量・価の面であり、且つ秀吉桃山に聚樂第を営みて豪奢を誇りし時、大地震ありて建物の損失多きうちに、獨り北山村より寄せし材もて造る櫻の間は変化なかりき。秀吉大いに嘉し、前年十津川を無年貢とし(檢地の改役、小堀数馬北山に至り有年貴地とせしに騒ぎたることありし。)北山に対し以後年貢米の代わりに木材を納めよと云ひしかば、年々北山より新宮を経て木材を移出せり。
 然るに延ベ10000人を超える流送の筏人夫は、十津川より出づることとなりたり。米のないところ、乗賃として米を下さるため、多分76石7斗8升の毎年の下され米は、貴重であったらしく、政治的にも重要であり、毎年正確に請求せしものらしく古文書にあり。
 主たる郷士は財も学問も有り、文を書き識見も相應にあった。中央へも(大阪・京都・新宮・五條・上市)出でぬ。又郷内では役職有り。報酬も有りし如し。官よりの命令も當時としては、なかなか考へて、十のものは六乃至七に留めるために努力したらしく見ゆ。特に貢物は徳川時代将軍家日光御社参の節は、郷よりして特別の籠様のものを作り、ホシダイいくつ、酒樽入り何升の如し。形式ながら台の置き場所も品ごとに変はり、担うものの外を括る縄も蕨縄とし、御用の札を立てて、代表が参賀奉祝に東海道を下ったものである。さぞや煩労なりしなるべく、京都におけるこれら品物の受け取りも控へに見ゆ。(例えば、銀何匁の如く記されてゐる)
 酒屋小規模ならんも東中(入鹿)に在りし如し。旧幕の頃と思ふ。夜、提灯を点けて酒の槽を見回り中、發火(アルコール点火)、大火傷して失せしと云ふ。乏しき米のうち、やはり之を商賣とする家も在りしや。大体、西川・平谷・折立なども造り酒屋の在りしこと、明治・大正の頃まで尾を引きてありたり。當田戸など黒砂糖は九重の盛岡店、酒は小川口の大黒屋の如く、口の樂しみもなかなかのことなりし。
 折立平石、前國会議員玉置良直氏の母、我に云ひしことあり。「ムギグワシン2錢買うて喰ふて良直はセチガレタ。」財閥の當主尚然り。況んや衣食住一般においてをや。平石の良直氏の厳父は前郡長であり、この谷に初めて荷車道を開きし後、災害にて死亡不明となるは「ニマメ」は袖すれるとて喧しかりしと云ふ。下葛川の東と云ふ我ら関わりあひのある家(浦地・我・前久保・竹の内・上田など凡て関係あり。考ふるによほど財ありしか。)は、文久の変に加はり、鬼の如き働き者であったが、弟姉妹に山を呉てやるとて父と口論し、遂に切腹せし。火の如き蓄積と労務力の大慾の権化となる人なり。また、同家の人が立合川より山を越えて人糞を肥料とすベく肩に担ひて下葛川へ持ち帰る途、道の悪きため倒れしに、手づから糞をつかみて桶に入れしと云ふ。その眞摯、今より考へて夢の如く、恐るべき働き魂なり。田戸にも大正の時代、成金出でしとき大渡より我工場の同様のものを運びし人もあり。蓋し、上田の我の曽祖父の如き、14歳で一人ぽっちとなり、麦畑を打ちしに、最初の方麦蒔きし處青くなりゐたりと云ふ。狡げず、怠けず、人を欺くことなく、眞剣に働き尽くせしものの如し。

注-
・「以前竹原八郎を谷瀬、大塔、北山で白熱の出身地奪い合いがあった」とあるのは、竹原八郎の出身地について、それぞれのムラが正統を主張し、白熱した論争があったことを指している。
・「板、巨木、伊丹」の巨木について
 東直晴氏は、「キョポク」と読みたいと言う。昔は巨木でなければ市場へ出さなかったから。
・上記のことであるが、文中では「板、巨木、伊丹」の上に加工物とあるところから巨木は経木の誤記であろうと推察する。
・ムギグワシンは麦菓子のこと。・文武天皇とあるが、伝承では天武天皇である。
・セチガレタは、「叱られた」の十津川方言。

( 255 ) 乘本妙権太夫、コサメコジロウのこと

 参考として昔も昔、十津川郷西川奥に如何なる者がゐたか。之を以て見ても地の利は前近代に近かったか分かる。
 どの時代か分からぬが、鎌倉時代のことかと思ふ。乘本妙権太夫と云ふ権威ある長者がいたらしい。時折高野山へ駕籠にて山間を縫って参詣したらしい。十文タワと云ふ休み場が、その途中にあったらしい。恐らく十文で担がせたものであらう。
 ここに又コサメコジロウ(小? 小二郎)と云ふ山窩の豪の者ありて村人を苦しめ、人々大いに難儀せるよし。討伐する力もなく泣き寝入りしてゐたと云ふ。この者は「ミタルのナギナタ」を用ひ、「七サコ七オカ」の山を払ひ、粟を蒔きて一族の食料とせしと云ふ話なり。乘本(あるいは則本)、巧言を用ひ企てるに7升7合の酒を7合7勺に煮詰めて訪れたところ、小二郎大いに喜び、共に喰ひ飲み泥醉したところを妙権太夫の手により殺されてしまった。以後は、村人も枕を高くして寝られるようになったと云ふ。
 以上、童話じみて簡単な話であるが、又夢の如き傳説に過ぎないが、思ひを巡らすといろいろ分かることがある。當時の統一力なき政治、その人間権勢と慾の發揮方、こんな山中にも地の利を得たこと、然し正義漢の乘本の出現、そしてその信仰心、手をつけられぬ者、悪玉はかくて終わりぬなど、また粟を山の焼き跡に蒔くビルマのカチン族、朝鮮の火田民、信州あたりの山窩の粟蒔など食料形式も似ることを知る。
 煮詰める酒は、意識として逆であるが、これは實に又その逆で、ランビキであり、今の言葉では蒸留であり、大昔より使はれ改良されて強い酒を造ったことは、蒙古、青海あたりを見ると今でもあることが分かるのである。
 さて、山を越えて和歌山へ入り龍神あたりへ行くと、小二郎がアメノウオの化け物となってゐる。(南方先生の本に詳し。)
 山路村と十津川郷は仲がよくなかったらしい。奥西川では山を越えてよく喧嘩したり、戦のやうなことをやったらしい。我の見た古文書に小野惣左衛門と云ふ者、奉行となりて戦ひ生首70級を得たとある。

注- ・ランビキについて
 ポルトガル語。alambiqueの転。江戸時代の酒類などを蒸留する器具。

( 256 ) 天誅組に加担したため十津川封鎖のこと

 これは田戸のみのことであるが、我北村源吉老人に聞く。玉置口村に紀州の役人兵隊出張して網を張り、封印を施して十津川領に入り來る川舟を厳しく取り絡まり、特に米・塩を酷く取り締まったと云ふ。同人一度引っ掛かり、手酷くやられ命からがら帰ったと云ふことを聞く。長い期間ではなかったらうが、之が勘定に入れなかったため天誅組の分裂を早めたらしい。

( 257 ) 天誅組に徴用されし田戸の人々

 (徴用されて)1年以上も帰らなかった人、帰るには帰ったが牢瘡(ロウガサ・湿疹)が出來て治らず困った人、代はりに行ってもらって生きて帰ってみたら、当人が川流れに遭い溺死していたこと、(徴用されたまま)行方不明の人などいろいろである。
 中森与平治(我曽祖父)と一子陳平と征く途中、東野の尾根(ウネとも言う)道で与平治云ふ。「二人共死んでしもふたら種切れしてしまう。お前帰れ」とて陳平を帰宅せしめしと云ふ。かかる次第。
 高取城攻撃の時、照準が下手だったためアームストロング砲の新式破裂弾が後方に落ちた際、狙撃を受けたりと早合点し大混乱となり、敵の陣の前に立つこともなく、偏に恐ろしき氣持ちの者のみなれば、敵の下手打ちも幸ひして深田の中に落ち込む者、泥んこ池の中に飛び込み、亀のやうに首だけ出して隠るる者、槍を初めて持ち壁を突き抜き得ざる一部の浪士の如く、心身の訓練なき無自覚の烏合の衆の十津川兵が殆どであったらし。高取方の間髪の急追、そして伏兵には肝を消したらしい。
 勿論、十津川兵、この神下でも西嶋隆義君の曽祖父の如き名を留む雄々しい武者もあったが、(高取城攻撃の)敗北は決して恥ではない。むしろ當然である。強いて云ふと、リーダー達の十津川観が誤ってゐて、十津川こそ如何なる者も士魂と腕を有するとした粗野極まる徴兵方法をとったのである。綿密に思画を巡らさなかったからである。山仕事、肥担ぎ、日々の生活に追はれてゐる者に何が出來やう。中山侍従と浪士は笠捨山を越える際、露営した。(徴用された者は)風の音を利してスズタケ山に一人二人と逃げ去り、朝見ると人夫は大いに減じてゐたと云ふことでも分かる。大体天誅組の幹部にも初めから無理があり、天皇の行幸取り止めと伝はっても、乗り出した船なれば、取り止める訳にはゆかなかったのであらう。

( 258 ) 民間で使はれている自然物(藥用、食用、子供用)のこと

 今は大分形勢が変はったが、一部にはまだまだ自然物を昔からの経験で使はれてゐることを一通り記しておこう。
 藥用より始めると、熊、猪、猿、狸などの胆嚢、つまり「イ」である。少ないが鹿茸(ロクジョウ)もある。これらを最重要物として、他に金品的価値も賣買もないが牛の角がある。
 クサギの虫、臭木の幹に潜むカミキリ虫の幼虫で、太いもので指位ある。虫は日光を受けないが日光の作りたる繊維を喰ひ、丸々と太りたるをとり焙りて子供の疳の藥として与へたものである。之は然しビタミン源の補給としても栄養としても、信州のやうにヘビ、蜂の仔を喰べない當地としては良いことと思う。動物の「イ」の如きは藥理学的にも意味があり、その應用に當りては病症を考へて適するやうに与へなければならぬ。なお「イ」は病ならずとも与へるのは良いことだと子供に飲ますことにも意味がある。永年の経験からの知恵であって一驚するところなり。
 ハンビ(マムシ)を焼酎に漬けて之の液を飲んだり、またハンビの皮をはぎ焙りて喰ふ。病人や体の弱い者には、効ありとする。なお、之は都会でも行ってゐる。
 「三間トビ」と云ふ蛙をとりて子に与へたり。時には山椒魚と云ふハンザキの一種の5~6寸のトカゲ様にして、谷間に匍ふものをとらへ、ハンビと同じく焙って食したもの。(三間トビも同様。)
 今は全くなしとするも、父ら幼時の頃は百足(ムカヂ=ムカデのこと)を食する者もゐたりと云ふ。尤も昭和初期(或いは今もあるか)に百足を瓶に漬けて油をとり、切り傷にそれを貼ったものである。また、アメノウオの油を耳漏(ミミゴ)の耳孔に入れたりした。良いことと思う。
 我々には、少し合点の参らぬものもある。ハンビの皮を腫物(フルンケル・カルブンケルなど)に貼りつける。ヘビの卵を飲んだりハンビの胎仔を飲んだり、或いはこれらの黒焼きを作り、粉にして食したり、病人の強壮剤とした。啄木鳥の黒焼は、肋膜炎に良いとて用いられ、ウグイスの卵黄を日本紙に付着せしめて保存し、眼を傷つけし際、之を用ひたり。又、乳の出る藥として鯉を食べた。
 ヘビの抜け殻(脱殻)を疣(イボ)の藥としたり。茄子の漬物二分して疣をこすりそして(その茄子を)二つ合わせてワラにて括り、人の知らぬ処へ捨てる。歯の生へ代はりの時は、牛の檻(オリ)に至りて、良い歯が生へるやう(古い歯を)投げたりした。かうなると完全に咒詛と重なってくるが、その願望の發展が面白い。
 動物も(藥として)限りなくあるとして、植物の方では刺さりたる「トゲ」を抜くにホウセンカの實を黒焼として飯で練りて貼る(キジ=雉の足も用ひられた)。化膿を促進して欠潰せしめるには、ゴバウ(牛蒡)の實を飲んだりしたものである。
 シュウサイまたは重藥と云ひ、解毒の意味であらゆる病は煎じて用ひられた。ゲンノショウコがウメズルと云はれ、乾して蓄へ、腸の病に用ひられた。
 今はあまり耳にせぬが、猿の頭(首より上)全部を赤土にて外部を塗り固めてボール状として、焚火にて焼き黒くなりしを取り出して脳の藥として、その粉末を用ひたものである。これらは、例の信仰のやうに扱はれたものと思ふ。然し、黒焼粉末は吸着剤としては効あり。
 ミミズは漢方藥に示さるるも、あまり用ひられしを知らず。熊の如き皮は装用とするほか、肉も内蔵も脂も藥とし應用されしは山の王者の故か。貴重であったらしい。(例えば)熊の腸は乾燥して保存しておき、病のとき飲んだものである。
 猿の塩ベシの如く羚羊(カモシカ=ニク)の胎児などを塩蔵し、味噌汁に入れて用ひたことも多い。我田辺の中学生の頃、下宿の藥屋へ客あり。心臓病であるが医者の藥が効かぬと云ふ。猿の心臓筋肉の塩ベシを賣ってくれと、云ふ。我主人に代はりて壺の中を物色するも見当たらない。然るに主人來りて猿の肉の一片を客に賣りしを覚えてゐる。皇漢藥を賣る店はかくて儲かったと云ふもの。
 蜜もそのまま、又は酒と配し或いは湯を加へたり、他のものと混ぜて練藥として用ひられた。最近もローヤルゼリーの説の如く貴きものである。
 鶏の卵酒と云ふものをよくやったものである。卵は栄養の高い食料であるが、風邪のときなど酒を?燗して卵に加へ、掻き混ぜて飲みしものである。或いはツケ木(点け木)などに火を点け、之を卵に注ぐ酒の中間に置きて燃へ上らせ(アルコール)て混ぜるものもあった。淡竹(ハチク)の中に卵の中身を入れ、火にて加熱して之を弱い子に喰はせたりした。
 ニラを強壮剤として食べ、古い所ではシソの實を催経剤としたこともある。最近はニンニクが多くなった。ニワトコをリューマチなどに用ひたが、茯苓(ブクリョウ)の元なるマツフドは一般的でなく、何かの知識があったやうだ。バベ(ウバメガシ)の皮、栗柴、茶、樫、椎の皮など、そのタンニンの収斂性を利して皮なめし以外の民間藥として湿疹その他の罨法(アンポウ)剤として用ひた。
 センブリ(千振り)の苦味は胃病の人に用ひられ、ハモゴレ(馬酔木=アセビ)の葉の煎汁は、牛のシラミ取り。山椒の皮、トコロなどは旱天の一種のレクリエーションとしての川流し、つまり毒を小川に放流して小魚、ウナギなどを得るに不可欠のものであった。少し古いが天南星(ヤマコンニャク)は、便所の虫殺しとして用ひられ、商陸の一種ヤマゴボウは、盗汗(ネアセ)の藥として用ひられたが、これは極めて難しい。中毒を恐れたものらしい。
 葛根、ワラビ、百合根も食用の意味と藥用の意味で用ひられたが、吉野方面では商品となるのに、(當地では)あまり大したことはなかった。
 ウロネと云ふカラスウリの根の澱粉は、主として賣り渡された。然し最近30年は全くなくなってしまった。山の芋も同様藥食に用ひられたが、今は珍物としてのみ食用となる。一つ葉の黒焼を油で練り、瘡に外用された。大字高瀧の火傷の妙藥とて、昔は重要視されてゐたが、これは我の考へるところ、松の薹、杏または桃の仁、キツネの小便壺を粉末として、麦飯の痂皮にて練りたるものなり。第一度の火傷には確か効あるも、それ以上は効なきやうであった。かえって不良の果を招きしものもある。
 食用としては、山の芋、虎杖(ゴンパチ)の芽、ワラビ、ゼンマイ(之は商品価値もあり)、茸類は申すも及ばず。臭木の芽(之は煮て陽にて乾かし、大豆などと炊くと美味なもの、如何にも山の味あり)、タラの芽、ウド、樫の實、曼珠沙華(オイモチ)、この内樫の實、曼珠沙華は食料欠乏の時代に多く現れる。そして技術を要する栃の實、これは昔は重大なるものにて、食料として保存も効くし、栃木証文と云ふものある位であった。その渋を抜く、そして食料にするまでが大変である。今でもやはり下葛川あたりでは餅として用ひる。尾鷲には戦前よりトチノアジと云ふ名物を駅で賣ってゐた。
 とにかく、あぐればまだまだあるが、いろいろ工夫して喰べられるやう(毒まで抜いて)に我々の祖先は食料に充て、又は具へてゐたと云ふことは立派な郷土文化の一つであり、昔からの如くならば我等の明日への目標を与へてくれ、自分の位置を格付けてくれると云ふものである。
 五穀の中、稗はこの地方ではあまりなく、昔西川あたりにては万一に具へて保存して置いたらしい。一度試食したこともある。美味しいとも普通の方法では思はない。拵へるのも稗の粒が細かいので大変であらう。然し、栄養上は米以上と云ふことである。
 茸類の中、椎茸は今も昔も輕くて高価で珍重されるものであり重要な財源である。経営的で恒久的である。
 子供のものとして喰べられしものは、松の寄生木のカラスノツギキの實、サセンボの實、桜の實、桑の實、皐月の花瓣、皐月の葉の膨隆せる(實は虫の巣)もの、虎杖(ゴンパチ)、山栗及び椎の實、アケビ、山柿の熟れしもの、稀にスイバ(カ夕バミ)などであった。口を黒くしてサセンボの實、櫻の實、まるで猿の如く木に上ったことを覚えてゐるが、懐かしい。子供の喜ぶ山の喰物としてしまへば何ともないけれど仔細にみると益もあらうが害もあったらう。山野で採れたこれらのものは、都市から入ってくる必要素の何か欠けた、歯を不良にする菓子よりずっと良かったと思ふ。

注-
・クサギ 葉が独特の臭いをもっているから臭木と言うらしい。新芽を湯がいて乾操させ、野菜不足を補うものとして使用した。文中にあるように大豆と炊くのが最も合っていたが、ジャガイモとも相性がよい。クサギは良い匂いのする食品である。(現在、クサギを食する人は稀である)
・耳漏 ミミダレとも言ったが、田戸ではミミゴと通常言った。耳から膿が出る病である。
・猿の頭の黒焼き 特に猿のコウベと呼んで珍重した。
・猿の肉の塩ベシ 猿の肉を薄く切って塩を多くつけて壺に詰めて保存した。
・栗柴 柴とあるが、十津川では柴といえば葉を指す場合がある。タンニン剤として使用したのであるから、当然、葉のことである。
・ハモゴレ アシビ又はアセビ(馬酔木)を田戸付近ではハモゴレと言うが春に白い小さな花が沢山咲き、新芽が真紅で美しい。灌木である。(アセビのことをハモゴレとあるが、少し上流の下葛川ではハモロと呼称している。この植物にはダニが多いといって花を花瓶にさすことはない)
・キツネの小便壺 キツネノショウベンタガと言う。正式の名称はわからないが、地中から突き出てくる白い茎と花をこう呼んでいる。(十津川ではウラシマソウをタヌキノショウベンタガと呼んでいる。)
・天南星(ヤマコンニャク) テンナンショウとも言う。有毒。地下茎は食用または漢方薬用とする。
・収斂性(シュウレンセイ) ひきしめる、ちぢめる性質の意。
・罨法(アンポウ) 体の瞳れや痛むところを、水または湯で絞った布を当てて炎症を除く療法。湿布。

( 259 ) 葬式の片々

 人が死亡せしときは、その永眠せる布団の上に刀などの刃物を置きたり。而して猫の近寄るを禁ず。悪霊を払ふ意味と猫は魔性なるためなり。墓地に葬るとき、棺の上に石を置く。又、それより前、墓穴に鉄砲を射込むなどしたり、墓の傍らに□□の如き風もありたり。今でもこの内の一つ又は二つを行ふもあり。

( 260 ) 仏教の遺風と信仰に関すること

 維新頃まで寺あり。後大社教となるも、この地の人から(仏教について)話を一つも聞かず。凡て神事祭祀、神官の祝詞に始まり祝詞に終わる。從って日常の生活にこの混交多分にあり。特に信仰面にては然り。墓あり、神社ありとても、その祭儀は仏式に比せば極めて単純なり。而て祈祷師、占師などあれば、その流行なるにおいては利益を早く授からんとして、その地へも走るなり。大阪あたりまで参詣するあり。仏教の遺風の一つを挙げんに、今の旅行と違ひ、四國行脚するもの、昔は多くありき。この点は今と変はり信仰の心篤かりしか! 今もて大阪あたりまで祈祷師の許へ行く。
 扨て、このことまだまだ多くみるところなるも、我幼少時の四國行脚の信仰心と比べて比重の奈何、その差をみる。昔の仏教信心は、維新以來抜けきらざる念の存するところ。その後の出詣では情的にあり、祈念と感情又は悠々の利益と迅速の利益を受けんとする相違か。
 因に記す。今でも失せ物の時、庚申像を縄にて括り祈る。昔の地蔵(石像)に願かけして病苦を免れんとする。天然の奇石に参詣するが如きもこの遺風なるべし。然しこれは東洋人としてはキリスト教に見る如く偶像礼拝と一概にも云へざるべし。病苦も恵も(祟りの如く)除かんとする願いの現れであり、小乗的なもので役立ってきたものなればなり。祟りとして、地の一ケ所を清め、供物して祈ることも、特定の高い山に耳の癒を祈ることには気圧と云ふ因子もあり、人の心理は複雑なるものなり。第一、都市でさへ800以上の如何はしい新興の宗教があり、中には理論的なものもあるらし。戦の敗れし後は形の存する如何なる人(大政治家、大学者)も頼り得ず。故に、無形に見ゆる神仏に頼るものなり。安坐してゐた仏教の本山も呆然たり得ず、再考慮を余儀なくされるに至る。敗戦後、賭博行為と共に顕著なり。ニワトリ科学会社のインチキ宗教現れしを知れば判然たり。
 なかなかの問題として、今後にも殘さるることなり。宗教類似のものは今も昔も大差なく、その個々の感受性と素養による。哲学的な論理に立つあり、またインチキもあり。複雑なり。好悪いろいろと云ふところ、我少年時大流行を極め弘法大師をかかぐる祈祷師は流行せざるに至り、已に幽霊となり寂しき橋のたもとに夜々出で、物せん思ひしに青年の□□隊に看破されしあり。而も吾子に捕らへられし例もあり。批判的ながら自分も熱烈に信心するものあり。然しかかるものは眞の宗教の如く永続きせぬものにして、特に物慾を出して破るるものも多し。