( 121 ) 最後の日本狼のこと

 英人某が、奈良県吉野口にて猟師の射ちたるものを買ひとりて去りしが、最終の狼なるよしなり。これは、明治36年頃か?(我生まる少し前)
 然し、余、場所ははっきり覚えずとも17、8の頃、見せ物としてこの狼を見たること、疑いなし(34年前)。痩せ型の、犬より稍々大きく、毛は茶褐色で尾は犬の如く体表一面同一の毛に非ざりき。普通の毛の中に綿毛あり、而も全体でなく、耳のあたり、胸部に著しくありたりと思ふ。故に、最後の狼は、これならんと思惟する。

(31、8、8)

注- 最後の日本狼が文中では「奈良県吉野口」となっているが、これは、旧小川村驚家口(現東吉野村驚家ロ)の誤りである。

( 122 ) 狼の糞を拾ひし (?)話

 余、田辺中学一年生の頃、その頃、道悪き中辺路を苦心して自転車携へ帰宅せしことあり。近露の里を眼下に見下す十丈峠を疾走中、ふと異様なものを發見せり。動物の糞にあれど、よく見れば移しき毛混じりあり。豪毛あり、軟毛あり。考へし末、紙に包みて帰り來たり。田辺の博物学者南方先生に送り、意見を伺ふに、確か狼の糞ならんとのことなりき。

注- 南方-南方熊楠のこと。上記の糞について、瀞八郎が田辺中1年の時に南方宅に送ったものか、後のことであるのかは、今のところ不明である。現在刊行されている南方熊楠の日記は、大正2年(1914)までで、中森瀞八郎が田辺中学1年生の頃は、多分大正7、8年頃と思われる。なお、南方熊楠は、明治41年(1908)11月初めに中辺路~川湯~請川~小川口~玉置口~田戸~玉置川~玉置山~切畑のコースで十津川村を訪れており、多くの収穫を得たようである。南方の來村はこれ以後にもあったかどうかは、日記の刊行を待たねばならない。

( 123 ) 節分のこと

 余の30歳頃までは、節分ともなれば山に行きてヒイラギと云ふ針のある小枝を取り來たり。割り箸の如きに挟み、鰯の頭などさし、火にくすべて入口に挿したり。今は殆ど行はれず。但し、豆撒きのみはまだまだ行はれあるが如し。

(31、8、9)

( 124 ) 蜂の巣と猿の話

 東直晴氏の父辰二郎老人より聞くに、或る日のこと、山中に分け入りしところふと妙なものを發見したり。一匹の猿が、赤蜂の巣を取らんとして、之に前肢をふる。ガサッという云ふ音と共に怒った蜂が飛び出して來、猿を刺さんとする。然るに猿は逃げんともせずに、不動の構えして前肢にて静かに自己が目を覆ひ、去れば又触ると云ふ動作を暫くやってゐたが、同人に氣付き逃げ去りしと云ふ。
 之を思ふに一種のヒューマニズムが看取される。

( 125 ) 跡見花蹊女史と松の木

 瀞ホテルの前方、三重県領の山林中に枝葉上部にのみ繁り、8、9部あまり、その幹を露出したる大いなる松あり。同女史之を見、いたく喜び、之を写生せりと云ふ。(母の話、明治37年頃か)
 但し、今は枯れ木して果て、その影尋ねるよしもなし。

( 126 ) 北村源吉老人より聞きし昔噺

 易者と医者と山伏が死後道連れになり、西方極樂へ往かんものと或る二股道に差し掛かる。二人は易者に極樂道を占へと云ふ。算木筮竹取り出し、早速易者之を占ふ。閻魔の庁は避けねばならぬ。「ではこちらへ」と、三人は極樂道へ進んで行った。或る所で、突然、赤青の鬼に見つかった。「オーイ、オーイ、その方たち、何処へ参る。」三人「西は西方極樂へ参る」と言ったが、悪運尽き、「こちらへ参れ」と閻魔大王の前に引き出された。
 閻魔大王、怒りの形相物凄く、釼の刃渡り、針の山に登れと云ふ。そこで山伏は秘術を使ひ、「イヤオッテレテノサ、イヤドッコイサノサ」など、冗談交じりにへっちゃらでやってのけた。
 閻魔大王は非常に怒って、三人を口の中へ投げ込み、飲み込んでしまった。ところで、医者は考慮の上、閻魔を痛い目にあはして逃れんものとして、閻魔の内蔵を掴み、引っ張る。「これはリーのヒーじゃ」「これはヒーのリーじゃ」と引っ掴む。閻魔大王は痛みに苦しみ、死生の苦しみなり。次に医者は、大黄末を臓腑へペタペタ塗り付ける。たうたう閻魔大王、下痢を起こし三人は排泄されたのである。

( 127 ) 「祭文」の來たりしこと(浪曲の卵)

 余、尋常小学校1、2年頃か、幽かに覚えてゐる。長さ1尺4、5寸の錫杖をジャラン、ジャラン振り鳴らし、一寸山伏風をなした男、突如入り來たりて、祭文なるもの語る。口でデロリンデロリンとはやし、ほら貝を吹くなどしたり、その後遂に見ず。

( 128 ) 猿廻しの來しこと

 一見、藥賣風のバッチをはき、草鞋の出で立ち。肩車に赤いチャンチャンコを着せた猿を載せ、一寸した種目や網の類をも載せ、いきなり家に入り來たり。念の入ったのは主人のセリフにて忠臣蔵のまねごとをなす。何がしかの金銭をやれば、「ありがとう」の一語を殘して去ってしまふものである。これも消えてしまった。

注- (東直晴氏談)-猿廻しは、芸の他に牛のオリヤ(牛舎)の口へ行って、キド(横木)の上へ上らせて踊らせたりし、牛の背中に烏帽子をかむった猿が乗った絵を刷ったお札を置いて行った。それをオリヤの柱に貼った。東氏10歳までの話である。又、猿を捕れば手首を切り落として牛のオリヤの柱に打ち付けておいた。父がやっていたから、東氏も猟師に貰って打ちつけたのが、昭和27年頃まであった。

( 129 ) 漫才のこと

 今から24、5年前の頃、よく漫才(昔流の)が來たもので、娯樂としては相当の贔屓を受けた。
 ポンポンと鼓、三味線、胡弓、装いも派手に、中には歯のない老人も括りつけの歯で、白粉で誤魔化し………忠臣蔵は三段目………枯れ木も山の賑ひか、トンボ、テフテフも鳥の内………など節おもしろく、又、鎧らしきを着て武士を装い剣舞(傍らに詩吟と拍子木)するなど、又は手品を混ぜるものあり。井田の幸之助漫才の名、最後に賣れ、そして消滅してしまった。

(32、5、3)

注-
・井田-旧井田は現在の和歌山県紀宝町井田
・幸之助漫才-なかなか上手な漫才であった

( 130 ) 「夜這ひ」のこと

 現在は殆ど見難い(多少はあらん)が、約20年位前は若い衆の間に娘のゐる家へ夜踏み入り、密會する風が當地にても當然のこととしてあったらしい。但し川上の村、大沼など卑猥極まる程でもなかったらしい。
 話がまとまり結婚にまで進む者、拒否される者、中には性行為だけの者,重なって婿に至る者、男に捨てられヤマメゴと云ふ當時としては一方的に辛い立場に立たされ、堕胎を禁ぜられゐる時代、人の指弾を受けつつヤマメゴを産んだものがあった。
 娯樂も何もない、封建的の生活の半面に醸し出した夜這ひである。嘗て警察署長之を家宅侵入として取り締まらんと云へるに我が父反対するを聞いたり。

(32、5、3)