( 271 ) 狩人、犬、獲物の関係

 人の眼は遠方のものを見て考へ、凡そのことを知ることができる。犬は近くを見るけれど遠くのものはわからない。ここに狩人があって山へ銃を持ち犬を連れて行く。羊歯の中に猪が隠れてゐても人間には分からない。動くか音がするまでは。然し犬は臭いの分子を恰も反物を布ける如く猪の匂ひを嗅ぎ、その居所を見分けて發見し人に知らせる。
 人の眼は、テレビ、望遠鏡など、耳は瞬間世界のことも聞くが、今以て鼻の能力は依然として昔のままか、むしろ劣って少しも機能増進の様はない。そして神経も最も疲労し易く、忽ち馴れてしまひ、香水も自身には大したものでなくなる。犬でも猫でも、全ては鼻が第一で他は從となる。この方彼らの世界では誤りがなく、万事が叶へられるのである。
 人間の悪知恵にて毒や罠や危険物に斃るることはあり得るも、之は論外で自然界ではあり得ないのである。人間は人為的な色彩や美醜にとらはれる。そして、ある程度の被害を受けるものである。猫などは、いきなり喰い付かない。嗅いだ後喰ふ。犬は口で受け留めてパックリやる。人に近いものほどこの様なものか。

( 272 ) 學者の動物調査と山村入り

 都市より學者が山の動物調査に來る。然し、先生の想像どおり山には動物はいないだらう。逃げ去ること、隠るること、機によること、狩人に話を聞く。決して期待の答へは十分でないだらう。無理もない。村人にとっては経済的に動物は、肉、皮、膽嚢など第一であり、之を如何にして斃すかが重点である。勿論、勇壮な犬と友の狩猟談、猪のカルモのこと、習性の一部、耐力などは聞くであらう。然し、上手に聞くのでなければ大して聞き出せないだらう。
 村人からは先生に聞きたいことはあまりないのである。氣をつけて聞くと、村人は「あの鹿は何處何處へおちる」,と云ひ、「鹿のハシリ」など彼らが猟をする道を驚く程の廣範囲の山の領域を知ってゐる。山の動物さへ道を生ず。
 動物にも勢力争ひはあるらしい。然し蓄積と云ふことはあまりせぬ。食物を隠すものがいても大なる意味はない。他の動物に貪られるし、隠した方も忘れてしまふ。イタチの如きは、一所に食物を集めて置き、他の動物に奪はれないやうに悪臭あるガスを發射しておくものもある。それでもイタチ仲間からは完全保存はできない。

( 273 ) タクラタ補遺

 この怪獣のことは、昔は全國で云はれてゐたと思ふ。必ずしも當地方のみでなく、古くから云はれてゐたらしい。その様阿呆らしいと云ふので、「アホウのタクラタ」と云ふ。

( 274 ) 大工と立膝のこと

 今はどうか、徐々になくなりつつあると思ふが、我等の少年時代、大工職の人は、食事の際に片膝を立てて食事をしたものである。左官も新宮辺りでは、その様にしたと云ふ妻の話である。何か因あるや。

( 275 ) 猫とマタタビのこと

 今まで飼育していた我家の猫は、マタタビを喰はうとしなかった。体の調子の悪いときでもさうであった。昔から猫にマタタビ、女郎に小判と云ひ、又いろいろの本でもさう書いてあり、猫がマタタビを喰ふ様を述べて、隣の猫まで群がり來たりてよだれを流し、目を細めて喰ったなどと記されてゐる。
 さて、今の家の猫は1年半程前に東中の小西より連れて來た猫である。雄の赤トラ猫であるが、これが何とマタタビが好きで、我が藥種として保存してあった枯れたマタタビに跳びつき喰ひ、生のものを与へると好んでポリポリと喰ふ。猫にとり木天□は何か有益なものかも知れぬ。

( 276 ) 津久(ツグ) 騒動又は北山一揆のこと

 余22歳の頃、こんなことを耳にした。「“津久鬼”と云ふもの白谷に居たこと、そして津久は白谷(十津川奥)で行き失せになった。白谷には今も津久の淵なるものが在る。」と云ふ話であった。竹之内大伯父より、昔、北山津久と云ふ豪族があったことを聞いている。氣にしてゐるうちに、又西山の知人やその他の人達から、西山の赤木には城跡あり、『行ったら戻らぬ赤木の城の命の捨場は田平子じゃ』と云ふ口ずさみを聞き、その由を人毎に聞きしけれど、少しも要領を得なかった。時の移り変はりは、かくも忘却の彼方へ(歴史の事実を)流さるるものか。然し、城跡と云っても小さいものながら、田平子(タビラコ)と云っても、今の入鹿へ出る普通の高さにある峠下にある小台地、今は杉の林となってゐる。城は、村の低いところに在り、田や畑や家に囲まれてゐる。小さな平和らしき山村のたたずまいである。この由來の奥を探れば必ず悲喜交々の歴史があるに相違ないと思った。北山一揆のことは既にこのとき大略であるが知ってゐた。而し、その記録の細部が紀州續風土記やその他にまとめられてあることを知らなかった。しかし、それらが官庁などには存するものと漠然とは知ってゐた。然し自分としては年も若かったのでロマンチックに自分の力で探究してみたい心にかられてゐたのである。
 ある日のこと、友人と二人で赤木の城の検分に西山村赤木へ出掛けた。そして草を分けて調べたところ城は確かにあった。形式は城として備へられしものだったらしいが、方1町にも足らぬ本丸らしきものの基石は殘り、草は春栄を競って、石の苔は昔を語り顔に村を見下し、且つ見上げてゐる。城は在りし昔の歴史を秘めて語らん術もない。人に尋ねてもまた老人に尋ねても赤木城のことはあまり分からない。世界に名ある「荒城の月」の曲を偲び、又松尾芭蕉の「奥の細道」の名だたる句、
    夏草や兵どもが夢のあと
を思って感慨時を久しゅうしたものである。(城跡は)春の白き光にまるで何事もなかったやうである。
 筆を改め、もう一度ここに書くのは、この件は主として対新宮城のことであるが、今回は特に十津川との関連を書くためである。何故かと云ふと、後に分かってくるが、主魁の津久(源維次)が十津川へ逃げ込み、敗亡の身を保護され、遂に白谷で死ぬまでのことや、次に最も大事なことは、この事件は案外大きく日高辺りまで拡大して、2年余り續いた騒動であって、その時今の日足のあたり(タナゴに碑ありと云ふ)まであった十津川領(槍1300本分、本宮社領を除き當時の十津川領は今と比べ広大なものであった)が、事件終了後は楊枝の長訓と云ふ豪僧に300本分の地を奪はれてしまったこと、次に十津川勢が小野総左エ門を首とする討伐軍を作り、津久の殘党を狩りたてたことである。(津久もこの勢に討たる)それ故、私はこの痛快な野心男の行動を記すのである。
 この事件の顛末は委しく今發行の『日本残酷物語』(平凡社)に出てゐる。實に委しく記述されてあり、昔、大衆と云ふものが如何に惨めであったかが分かるが、古記録の例にかなり異なる点もあるので、記しておきたいのである。
 大筋では一致するのであるが、例へば「山室(上北山)討ち取り」「佐平と作兵衛の功名爭ひ」「津久の性格」「磔の時と首の處置」及び「葛川へ逃げ入りし津久」「大野へ移りし津久」「天狗嵒に隠れし津久」「いよいよ殺さるる時の津久」など、この著書にはないので、今は私の調べしままを記しておきたいと思ふ。
 この事件は一揆敗れて後の一党に組みせし者は、雑兵屑民と雖も全く悲惨、苛酷、血の雨に鬼哭啾々、徹底的にむしろ虐殺に近い死の刑に処せられたこと、何百人単位で殺されしことが判明し、當時の為政者が如何に之を取扱ひ考へしかがはっきり分かる。天下の制度も改まり、世は静穏となるにつれて、下剋上への厳しい戒め、一大粛清の大掃除としたことも自ら納得できる。
 さて、ある日のこと、當時のこととてある病人が私の診察を乞ふた。そのとき、「行ったら戻らぬ赤木の城」の話が出ると、その男は云ふ。「自分の本家に津久のことを書いた古い綴じ本がある。紙魚(シミ)のためと雨漏りのために分かりにくいが、あるにはある。これも赤木の城と関係があるのではないか。」と云ふ。そこで自分は、次の日來るとき貸してもらふやう頼みしところ、折り返し持って來てくれた。何分虫に喰はれ、綴じ本の上下は特にそれが酷く、且つ寺の僧でも書いたか見事な筆にして、分かりにくい筆法である。表題には『熊野川働寄改帳』としてあった。折節、外語大に学ぶ弟の瀞七と必死になって読んでみたのであった。十分には分かりかねるが、西山校に奉職しある中瀬君に、一揆についての役場保存の記事も知らせてもらひ、大体は判明してきたのである。私の親戚に當たる七色の旧家の山口家に尋ねしところ、同家には北山一揆に関する完全な資料があったらしいが、和歌山県庁の官吏が貸せと云って持って行ったまま返らないとのこと。
 官公署の力は大きく、私は小さい。先述した如く、この北山一揆については『日本残酷物語』には詳細に述べられてある。この書物によって一揆のことは判然分かるから、私としては概略を記すことにする。補遺の意味、又喰ひ違ったこと、人名、處などもあらう。とかく人の記憶は三日前も否一時間前も人により甚だしく異なるが故に、まして昔のことで異なるのは當然である。心してみると『日本残酷物語』は他の地にゐて題名にとらはれて一般化してみてゐる点と、私の如く土地に関わりあって、関心ある歴史事象であれば、受け止め方も大分違ふと思ふ。
 扨て、かの行者乃ち役小角とも云ひ、修験遺の開祖神変大菩薩は、吉野大峰山より熊野那智に至る熊野三千六百峯を山伏姿となって後の世の七五靡を開拓した。それは奈良朝のことであり、随分苦闘されしものと思ふ。その時、五人の鬼、つまり五人の忠實なる弟子であった五鬼(ゴキ)は、今の下北山村の池原より入ること3~4里の前鬼(ゼンキ)に住みつき、その子孫は連綿として今もある。五鬼はこの地で天台の修法を行じ、俗を離れ、加持祈祷もとり行ひ、信仰の聖域として崇められ永く維持されてきたのである。
 前鬼は、田もあり畑もあって自給できる。牛は道険しく山奥のため仔のとき担ぎ入れたらしい詰も殘ってゐる。その傍ら法燈を守り、世俗より超然として暮らしたものらしいのである。元は5軒ありしも今は2軒と聞く。姓は五鬼継(ゴキツグ)と云ふ。昔の前鬼五鬼から減ったことがわかる。彼らは今でもさうだが、広大な山を有し、昔は豊かであったゆえ尊敬されてゐたのである。
 慶長18年、大阪夏の陣が起こったとき、各大名はそれぞれ味方して城は留守番の老兵にまかせ、大阪へ向けて馳せつける。天下分け目の終止符がうたれる。ノルカ、ソルカ、普通の男わけて侍たちは時こそ來たれ、あわよくば一國一城を考へるもの、迷ふものもある。山奥に閉じ込められて苦しい、乏しい。豊かな華やかさを代々知らずに過ごしてきた素朴そのものの賊民も何かしら心が動揺してくるはずである。當時とは云へ、人の動きは氣になって電波のやうに傳はるらしい。
 森本坊は、五鬼継の一院であるが、この家の三男に源維次(ミナモトノコレツグ)と云ふものがあった。折から夏はやって來る。兄と百姓仕事をやってゐても、呟しく照りつける太陽と萌へたつ草木を見るにつけ、暫しの休みに尻を草に下ろしても、兄が何と云はうとも黙り込んで考へてゐたと云ふ。また香や古臭い仏像の前で経を読むことも津久(継)にはいよいよ興も失せて、考へ空に飛んでゐた。
 男に生まれ、このまま百年の生を得たとしても、ただ森本坊三男維次で終わるのみである。男であるからは、そして三郎である自分では、いっそこの際生死をかけても良い、思い切った大仕事をしたいものと考へた。仕事と云ふからには時こそよけれ、自力にも適ふこと、つまり風雲に乗じて一戦を策し、あわよくば一國一城の主となるのも、あながち無謀ではない。
 豊家には恩もある。然して衰へたりと云へ、大阪城の實力と天下の味方を考へると徳川家は必ずしも恐るるに足らない。よし大義名分が立つ。然しこれには軍勢と云ふ多数の人も要る。金も要る。物も要る。計画も要る。役職も定めねばならないと考へた。難いが然し之は見込みのないことでなく、津久には案外易く思ひさへした。この山には人もない。然し、池原に出ると有力な知己もあり、人も多く、まして信仰の縁をたぐって上北山辺りから豪族も土民も集め加担させるには訳のないことだった。古文書によると津久は「膂力も衆に優れ、知能弁才また異色あり。まことに逞しき男なり。」としてある。そして彼の弁舌つまり説得力は、「昼なほ暗ひ茂みに入り、斧を持ちて樹木を倒して青天を望むが如く」に人を説得して明快、自分に加担せしめたとしてあるから、よほどの傑出した人物であったらうか。
 兄の許を去って(累を及ぼさぬ処置をして出たが、實はこの家の権威を利用して兄も味方し、内密ながら刀剣などの武器も集めたらしい。余、子供の頃、山の働き人に『長持ち一杯刀があった』と聞かされてゐる)まず、池原の知己の豪族である豊臣恩顧の平谷平助、弟三蔵を尋ねたらしい。この平助、三蔵は度々神倉神社(當時の神倉山に熊野大社あり)を魔所荒らしとて、夜侵入して宝物金銀を奪ったらしい。當地の堀内、淺野などの大名に反感があったかと思ふ。然し當時の土豪と云ふものの行動は大方そんなもので、“利”のため“義”のためが重なって正當らしく、このやうなことをしてゐたものと思ふ。ある時、この一味を新宮側が捕らへ殺そうと、事前に大阪へ伺ひをたてしところ、豊臣の知るものだとの故に殺さず放免してやれとのことにて、遂に之を許し放ちたりとのことを、我は聞く。罪は罪である。昔は随分気まぐれなことをしたものである。然し當時はこれでよかったのであらう。
 津久は、かくして平谷平助兄弟を説き落とし、その絶大な権力を掌握することになった。元よりこの兄弟は徳川に不服の輩であるから訳もなく、一議にも及ばず承知したらしい。次いで津久は、これらよりして上北山の豪族山室を説得して加担せしむるに成功した。その他の有力者この上易々たるものである。山で働く杣人、出し人、炭焼き、百姓の果てまで、自分の手の中にある有力者をして味方するやうに説かせたのである。古文書には、「その弁智才能の優れるにまかせ五鬼継の三男なることを首としてひとびとを説けり。」『今こそ男として立ち上がる時が來た。天下の形勢は混沌として定まらず。衰へたりと云へ大阪城へ味方申し上げ、その力を扶けて全國の太閤恩顧の将士雲の如く集まりて戦ひなば、必ず大阪へ來る関東勢も如何で破れざらん。特に北山の地は桃山衆樂第以來豊公の北山材の愛用あり、この恩淺からず。我第一に大阪方へ味方するわけなり。苦労のみして水呑み百姓で山で果てんよりは、我に加担すべし。山林にてもあれ、田畑にてもあれ、士分ともあれ、一城の主ともあれ、各々の働き次第にて思ふままなり。』などと煽り立てしものとみえる。訳もなく皆々加担するもの現れ、ぞくぞくと勢は八方より増し馳せつけて來る。主に二~三男だったやうだ。
 ここにおいて武器、物資、役割等の計画をたてた。然して津久は總大将となり、以下は津久に從ひ討って出ることになった。ところが、一揆の準備、特に計略、計画は眞に疎漏極まるものであったらしく、密なる計も敏なる報もなかったらしい。つまりハッタリであり、ただ大阪表の夏の陣だけが彼らの心底にあったらしい。
 目標は、當時関東に味方する淺野幸良(和歌山城主)で、彼は靡下の一族郎党を引き連れて大阪表へ進軍する。そして縁辺の新宮城主淺野右近太夫も之に從って出陣することになった。右近太夫は老病の留守居役やわずかの卒を殘して征途にのぼったのである。そこで津久は、かねてよりの考へを実行すべく、弱兵のみの新宮城をまず討ち破り、日頃通じありし湯淺の豪族某を頼み、新宮より勢に乗じて和歌山城をも奪ひ取らんとする大野心をもっていたのである。
 多分に感情的で血氣にはやり、深謀遠慮がなかったと云って彼を笑ってはならない。當時に思ひ至ると多分こんなことがあったのである。敗るることも多いが室町、戦国、安土の時代、あるいは光秀の如き博学深謀の男にも似てゐる。つまり田夫野人を寄せ集めた烏合の衆を率ひて討って山より出る。由緒はあるにしても、計画や兵を考へると、津久は男一匹生死を賭しての大野心家であったことは誤りなく、痛快な男であった。後の人は、彼を称してあるいはドンキホーテと云ふ人もあるかもしれないが、私は津久に同情する。
 津久の隊は不動峠を越えて北山川を渡り、永井辺りより西山に入る。ここの城は新宮の管掌なるも不在同然で、3000人の前では敵ではない。鉄砲も少なく、武器も不揃ひ、風體も不揃ひであるが、なかなかその勢いあなどり難く、堂々と誇らしく通ったらしい。北山はとくに食料不足極まるので、進軍途中でかなり徴發したらしい。長尾を通り、田平子峠を越へて指呼にある入鹿へ出たらしい。實に威張って進軍したらしく、古文書に「入鹿村庄屋文兵衛なるもの、一同威儀を正して出迎ふ。」とあり、また、「庄屋は道の傍らに筵を布き、金銀は三宝にのせ、米穀は山の如く積み重ねてうやうやしく御大将津久にすすむ。」とある。余程恐ろしかったものであらう。この辺に來ると尾呂志、市木、片川、柿原、阿田和、入鹿、そして玉置口、木津呂、小川口、板屋、小栗栖、矢ノ川等の村々から抜け出して加担するもの大いに増えたと云ふ。勿論、七色、大沼、永井、小森、赤木、長尾、平谷、小川、丸山などよりも味方するもの續々と現れたと云ふ。津久はここにおいて部隊を割いて、別行動つまり川を船にて下る隊を作ったらしい。船の数に限りがあるが、この行動隊は流石に津久としては意味あるのである。津久の心の底では、楊枝の豪僧常樂寺長訓を心に頼みたるものと思はれる。三十三間堂の棟木以來、平家の昔より、又三山の朝廷貴顕の信仰を唯一のものとして僧兵を貯へ、僧のくせに政治・軍事の権をとって、長訓は楊枝に坐してゐたのである。人を一方で信仰で握り、兵馬の権を具へる長訓こそ不敵なれとしてある。
 扨て、津久の勢、つまり本隊は今の尾呂志境の峠、風傳峠に着いた。小休止して茶屋の老人に道を尋ねて片川峠へ越えて道を相生谷にとって進んで行った。之には地の利として軍勢を動かすに都合がいいけれども、ひとつ津久には狙ふところがあったらしい。乃ち、その辺の穀倉地は相生谷である。沃田満ちる相生、これこそ糧道の尤なるものである。ここで食料を徴して戦はんと決意したらしい。
 しかしながら、ここに來て津久は意外な予期せぬことにぶつかったのである。來てみると、そこには人影も見えず、家の中はカラ、倉の中も食料はなにもなく廢墟のように寂しい姿であった。今更恨んでも地団太踏んでも遅い。
 一方、新宮城の方は、北山の噂はやはり穏やかならぬものを度々耳にするし、往來の人も之を高く又は低く、何としても風聞はただならぬこととなってきた。そうであらう。あれだけの軍を動かすには相當の日時がかかり、如何に昔と云へ領土内小川筋のことである。洩れ傳はるは當然である。
 新宮城の留守役の頭青木権兵衛と云ふ老人は、いろいろ手を廻して探ったところ、いよいよ眞實なること、津久勢が新宮を攻撃してくること歴然となった。びっくり仰天と云ふところ、ともかく手をこまねいて居る訳にもならぬ。城主は不在でもたとへ留守役でもあくまで防戦し、主の帰るまでもちこたへねば、留守の面目相立たぬと云ふ訳で軍議を練った。
 結局、兵法通り少ない兵の中より強い者を選抜し、敵の機先を制する事、つまり先制攻撃を考へたのである。百名を選抜して北山勢は鉄砲の少なきことを察して、之に全部鉄砲をもたせて先行し、途中において攻撃するやう計画した。然しこれでは北山勢の勢を挫くのみ、完勝は望まれないから奇襲の後はすぐ引き返して、池田の渡しを渡って帰城して皆と力を合わせる。次に相生谷の百姓その他には令を放って、米穀など食べ物は一切家に置かず山へ隠すこと、そして全ての村人は之とともに山へ隠れること、若い者は竹槍を作りて党を組んで具へることを申し渡したのである。
 次に新宮対岸の今の成川、鮒田、鵜殿、日杖などでは船、筏、木材の類は全て處分するか新宮側へ廻すこととし、且つ成川あたり渡河の材にならぬやう全ての家を焼き払ってしまった。
 更に令を下し、新宮周辺の猟師は全部集め、且つ鉄砲のある者、弓のある者は出さしめ、鉄砲組などの隊伍を組ませた。町家の女たちも炊き出しに具へ、僧侶まで精神的安寧その他に當らしめたのである。
 次いで新宮川原に陣を作り、士をして督励させたのであった。
 新宮側は、謀略の徹底、組織的にもはるかに北山勢を凌いでいたのである。
 扨て、先制組の一隊は新宮を離れて柿原方面より尾呂志に進んだらしい。天下泰平に慣れていたので新宮側もオッカナビックリの様子であったらしい。
 ところで、北山勢の途を衝かんとした新宮勢が漸く風傳峠まで來、さて茶屋の親父に聞いたところ、豈計らんや北山勢と道をたがへしために完全に行き違ひとなってしまった。このとき北山勢は已に相生谷へ近づいてゐたのである。之を聞き新宮勢は雷の如く驚いたらしい。古文書に、「亭主の語るを聞けば、津久勢は已に相生谷へ發向して久しく、その軍勢の多いことと動く様は蟻の宿替へにもさも似たり。」としてある。親父はここで北山勢を蟻にたとへ新宮勢をびっくりさせてゐる。
 新宮勢はびっくり仰天して、「この大軍に向かひては」と思ひ恐れて、北山勢の行路と思慮される片川方面より相生谷を避けて道を柿原、井田の方向にとって急ぎ退却したのである。これで完全に北山勢とは行き違ひになってしまひ、途中道草をしてゐる北山勢より早く池田の渡しを越えて新宮城へ帰ったのであった。
 そして先述の如く鉄砲のある者や村人、農漁町民を闘わず全てを招集して川原に陣を構へて北山勢を待ってゐたのである。(この爭ひも結局は虐げられた生活をする人々が最も多い山民の不平、怒りの現れとも考へられる。津久の野心に利用されたとしても。)古文書では、川を挟んで射ち合ひの戦ひを「熊野川を挟んで合戦」としてゐる。津久勢は穀倉のつもりで相生谷を下ったのであるが、食料は隠され、人も見えないことに業を煮やしつつ成川へ進軍して來た。見れば一隻の船もなく筏にする一本の木材もない。家も焼かれてしまひ、川を渡るにその材の何物もない。対岸を見ると楯の如き、陣地の如きが川原に在りて、旗印あがり人の数も多く見られ、更に権現山の木の間がくれにも人影がチラチラ見へる。
 津久勢は、軍勢を成川岸に布き、鉄砲組に命じて新宮側を射った。これより早く新宮側から弾丸が飛んで來た。たうたう射ち合いとなった。鉄砲の数は新宮側の方が遥かに多い。又、尾鷲の杉某が船で鉄砲百挺を運び加勢することになってゐた。津久勢からときたま元氣の良い若者が材を集めて小筏を造り、弓を射かけ切り込まうとしても激しく射すくめられたり。団結心の強い新宮側には鉄砲、弓、刀、槍、右ツブテなど多数あり。また佐野の勇者服部の如き者があって、結局北山勢は死地に入るのみであった。
 新宮側と比べて訓練のない所謂烏合の衆のみの津久勢は、早くも乱れを見せ動揺、臆病風出て崩れ出した。勢ひにのる新宮勢は船を出して射ちかける。敵を恐れてたちまちのうちに津久勢は敗北軍となり各自が勝手に退路を求めて逃足にかかったのである。津久のあるいは幹部の声を聞かばこそである。兵の崩れ去るや指揮する大将たちも元より個にかえって何の力もない戦さ場である。津久のみならず平助、山室らも落ちのびねばならない。そのコースは明らかでない。各様に落ちたらしい。
 扨て、またここで川を入鹿より下った別動隊について記すと、案の定楊枝の常樂寺長訓のために捕らへられてしまひ、後悉く処刑せられてしまった。天下治まって後、長訓はこの功により徳川方より茶を賜り、且つは十津川領の内より槍三百本分の領地を恩賞として与へられた。(これは重大なことで、我が十津川史上忘れてならぬ政治文化の変革である。十津川領の南域は、東方は西山村近く尾呂志の風傳峠、南は飛地であったらうが日足のタナゴまであったと云ひ、「從是十津川領」の碑があったと聞く。十津川は槍千三百本あったと傳へられ、この槍に食禄が定められてあったに違ひなく、そして現在も見らるる如く、これらの地方は面積は狭いながら田地多く米穀多く且つ人集まりたる所なり。同様に玉置直虎の足利時代に玉置山の庄司が山深い十津川で千五百石とっていたことも判ってゐる。)故に十津川領は千本槍と減少してしまったのである。我中学生の頃、田辺の元藩士なりし老人がよく「お前は十津川の千本槍か」と云はれたのを覚えてゐる。ともかくいろいろと領土の変化はあったらしく、入鹿などは太平記に出てくる野長瀬兄弟〔現野中村近露の野長瀬は後裔〕の領土となったり離れたり、更に300年下って野長瀬が北山川で戦死したり、新宮本宮の神領社家、萩の鬼ケ城、淺川の東ノ城、司喜屋氏(敷屋)、さては中辺路の湯川丹波古家、鮎川の山本主膳の□、切原の城氏、大居の清水家〔平氏の末名家〕など遠き昔より江戸時代まで栄枯盛衰、興亡衰退、結合分散とこのような小さな所で互ひに相剋爭ひ續けた。新宮城も堀内安房守の前が新宮十郎、その後が水野家と云ふやうに歴史がある。
 扨て、津久はその後逃れて、どのコースをとったか明らかでないが、どうやらこの葛川谷へ逃れたやうだ。この一揆に詳しい『日本残酷物語』にもこのことは書かれてない。あっさり凍死したと記されてゐるにすぎない。
 推理すると韋駄天走りに相生谷を抜け、片川峠を越えて矢の川に入り入鹿を経て、この葛川谷へ入り東中を経て、當時最も開けて有力なる武家のゐる上葛川〔當時は田戸などおそらく草木深い里とも云へぬ土地だったと思ふ〕へ潜入したらしい。そして人心の動きを警戒し様子を窺ふに、自分に対して今は大事なきを確かめて、路傍の家、現在の上葛川の下手富之内のあるあたりの下田家(?)に事情を明かして匿ってもらったのである。然し三ケ月経たぬうち、ひとまずこの一揆も落ち着き新宮城主淺野右近太夫も帰城したが、この一揆に烈火の如く怒ってゐた右近太夫は、その威力が下北山の池原まで達してゐたのであるから、十津川も影響を受け、加勢して殘党とくに首謀者の津久等を捕らへる行動をとるやうになっては、葛川の色めきも不安であり、居たたまれなくなったのも無理はない。ある日のこと、津久はたうたう葛川を脱出してしまった。
 山を越えて小川(芦廼瀬川上流の地名)を通り、落ち葉の音、風にもヒヤリとしながら大野〔芦廼瀬川の支流、大野川に沿う地名〕の奥の片川〔カタコウ〕に辿り着いた。今でも五軒もないほどの山の山の集落である。が然し田があり食料もあったらしい証がある。松葉と云ふ家に辿り着いた津久は事情を明かして頼み込んだ。主も之に感ずるものがあり、要害の地でもあるので喜んで匿ふことを承知したのである。尾羽打ち枯らした落人、はかない身の上の津久、而も前鬼山の御三男と云ふこと、松葉にも徳川に反感もあったらう。匿はれて津久はやっと安心したのである。
 山奥の小家の納屋に隠れていても為政者、権力者の捜査の眼が徐々に厳しく光ってくる。十津川全体としても西川の小野と云ふのが頭となり、およそ七十人を以て十津川へ逃げ入りし殘党を探り出し始めたのである。虱潰しに來られると困るので、松葉家では津久と談じて、白谷川〔芦廼瀬川上流〕のいよいよ嶮阻な天狗嵒の窟に匿ったのである。食事は窟で炊くと目立つので,時折同家より運んだらしい。今でもその洞窟より茶碗や硯の破片などが出るらしい。
 そこは全く人煙の絶えたる嶮阻な山奥で眼下は千仭の谷である。が然し、人の身は法の如し、何時迄も同じことは望めない。遂にここも發見されるときが來たのである。何者の密告か、松葉一統の功名か。小野勢の窺ふところとなってしまった。ある日、嶮しい山を傳って捕手の勢が攻めかかっそ來た。
 津久も今は逃れぬところと観念したものの逃るるだけは逃れんものと、刀をとって窟を飛び出して死にもの狂ひ、川を目がけて駆けおりて行った。迫って來る捕手、津久はもはやと、白谷の淵(今に云ふツグプチ)へ刀を咬へてザンブとおどり込んだ。そして対岸へ泳ぎ着かうとした時であった。捕手は鉄砲で津久を射たうとする。津久は云ふ。
 「しばらく待て。待ってくれ。もう逃げはせぬ。向かふの岩の上で切腹するから武士の情けで、それまで待ってくれ。」と云ったと云ふ。洵に津久ほどの豪の者、その最期は考へていたらうに、その末路は哀れであったと云へる。北山を出る時の勢と比べて。然し、よく考へてみると、人とは大なり小なりこんなものであり、現在も愚かしい五慾に幻惑されて先が見えない。日本と云ふ國もまして他の國々でも、否生物は一切末路は哀れで、こんなものである。人の哀れを笑ふまひ。笑ふ人は馬鹿である。笑ったり哀れんだりした人も同断の運命に必ず陥るのだからである。むしろ反省してこそ然るべしで、處を得ることが出來るものと云へる。
 捕手たちは、この時の津久の言を聞かうともせず、もう少しで岩に上るところを銃丸で射ち殺してしまった。私の見た古文では、この葛川、大野片川、天狗嵒、淵、射殺の件は出ておらない。ただ『津久は十津川白谷と云ふところへ逃げ入り、雪のため凍へ死申し候由』とあるのみである。津久の逃亡後から死亡迄は、土地の古老に聞いたこと、又他の古文書(つまり津久一揆以外)の片々から得たるものである。然し、あくまでも眞實性を尊重した。
 さて、淺野氏は帰城後、實に虐殺に近い処分の態度をとり、殘酷そのものの殘党狩りをやったらしい。上阪の途、泉州で北山一揆を聞き、己より先に黒澤兵庫を帰らせて、一揆に當たらしめた。と云ふのは、この一揆はかなり広がったものらしく、次の冬の陣の時ほども広範囲でなくとも、首魁と目さるるものに豊臣恩顧のA級人物がいたからであらう。
 淺野氏は、大和領である下北山池原にも陣屋(屯所?)を置き、武士を駐在せしめ西山の赤木へは出張所を置き、赤木城を中心として深謀し徹底的に狩ったことも山地の故に余計に分かるのである。淺野氏が烈火の如く怒ったのも周辺への政治的配慮やお家の事情もあったらしい。
 赤木城でも凡そ四百五十人あまり死刑にされてい、他と合はせて八百人余り極刑又は討首にせられてゐるから、實際はもっと大した数であったらう。『日本残酷物語』に現れる-案外土地の人に知られぬと云ふ書物-史実は古記録に基づいてよく調べてある。又それ故、我としては多く書く必要もないと思ふが、幹部の上北山の山室について記しておかう。
 黒澤が探索に來たとき、怪しき人を見咎めて名を問ふと、「木の室」と云ふ。怪しいとにらみ飛び掛かったところ、黒澤兵庫は甲冑を着けているし相手は身軽だしで、おまけに意外に強く、やられそうになったので供の侍に力を借りてやっと殺した。それが山室であると記されてゐるが、私の判断ではそうではない。〔當時はよほど厳しかったらしく、首の受け取り状や覚えがある。一、生首三ケ、下屋村。一、生首七ツ、大沼村など。又一家一族四十人死刑とされたり、不明の主人の代わりに妻子七人が殺されたと記してゐる。大騒ぎだったに違ひない。〕
 我の見た古文書によると次の通りだ。北山の大沼捜索中の黒澤兵庫の組が或る家で山室を發見した。A級の山室を見出したため捕吏の連中、俄然功名心を生じたから我先に山室に取り掛かりしところ、流石山室は豪の者であった。迫る捕手に猛然と手向かひ、忽ちのうちに数名をなぎ倒し、戸を蹴散らして道を七色へとって遁走した。そこで之を追ふことになったが、佐野住人服部佐平と長田作兵衛とが競争して韋駄天の如く、群を抜いて追っ掛けた。そして、たうたう走りも走って敵も我もヘトヘトに疲れるに至りて、漸く七色の入口で山室に近づいたとは云へ、いずれも流汗淋漓で疲労困憊の極に達した。それでも暫く睨み合ひ、一方は逃れて見せる。一方はかくなる上は逃さぬぞと息を入れたらしい。それも長くはない。途端、急に山室は最後の勇を奮って脱兎の如く再び逃げ出したので、二人も負けじ逃さじと之を追ふ。然しながら長田の方、豪とは云へ十歳ばかり年上である。やはり若人の服部佐平には叶わない。長田の足の遅きを尻目に、佐平はグングンと山室を追ひ詰め、迫って行った。
 狩るもの、狩らるる落人の身を考える。第一に心が已に山室の方は弱い。佐平の方は反対である。七色の里に入り、たうたう山室に組みついた。山室も窮鼠の勢、死にものぐるいであるから、最期の道連れにと全力を尽くして佐平に組み合はした。二人は、上になり下になり組んでほぐれつ、全力で勝負をつけんとする。両人ともに膂力は強い。そのうちに如何にしたるや、山室の力優りたるものか、佐平を組み伏せてしまひ、馬乗りとなって小刀にて首を掻くべく、時も時、折りよく駆けつけたのが長田作兵衛であった。見ると佐平は、山室の手を邪魔して最後の勇を奮ってゐるではないか。作兵衛しばし之を見てゐるうち、佐平一人では如何にも危ふく見えたので、「助槍をしよう。」と佐平に云ふと、佐平の云ふには、「助槍無用、必ず自分で討つ、自分のことは捨てて見よ。後日のためなり。」となかなか承知しない。當時は武士の功名、作法又は面目があるので、長田も手を出しかねたのである。然し、見てゐると如何にも佐平が危ないので捨ておけず、「助槍するぞ。」と槍にて山室の太腿を突いたものである。傷の痛みにひるむ山室をはね返して押さへ、佐平は何なく首級をあげたのである。
 古文には、この後日談がある。
 論功行賞のとき、山室の首は既に届けられていた。主君の前にて佐平と長田は互ひに言ひ爭った。この二人の心理は實に面白い。
 佐平の言は、「長田に助けてもらはなくとも、自分の捕らへしものなれば、たとへ如何にあらうとも、自分で討ち取るのが當り前である。我が必ず討ち取ったはづであって、長田氏へ『助っ人するな。』と云ったのを聞かうとしないで槍で突いたのである。功名は、はじめ組み伏せた拙者のものである。」と言上した。
 長田も、「我も懸命にて追ひかけ、佐平にやや遅れたりとは云へ、見るところ山室が強く、そのままでは佐平は討たるるに相違なければ、佐平を救ふ心と山室を早く討つために助槍をしたまでである。我は佐平の命の恩人であり、山室を斃すに功もあったから、二人の働きのうち、實際の功は拙者のものである。」と互ひに譲らず、頑張ったらしい。そこで、主君の裁きとなって、結局「二人の働きで山室を討ったことは感状ものであり、喜ばしいことである。然し功を互ひに爭ふのは却って良くない。二人は五分五分とせよ。」との言葉でたうたう収まったらしい。當時の功名爭ひは天下の戦にも喧しく云はれたが當然である。作戦の大なる場合も「抜けがけの功名」が禍して敗戦の糸口となることもあったからである。然し、人の慾望のうち、武士と云へば名とともに重大な功名が、この生首にかかってゐたのは是非もない。
 一揆は夏の陣に留まらず、冬の陣まで大義は不明確ながら続き、日高、和歌山近傍、この辺では南牟婁、東牟婁、西牟婁あたりまで広汎に及び、淺野家は各地に陣屋(屯所)を設け、討伐、鎮圧に苦心努力したものらしい。淺野家は、前記の如く秋霜烈日苛酷殘虐な徹底的見せしめの處置をとったらしい。高野近く紀の川筋辺りでも、討ち首はびしびし行はれた。このことは『日本残酷物語』にあるので、そちらに譲るとして、我は西山赤木城を中心として書くことにする。
 天狗嵒、ツグブチ(津久淵)、行き失せのツグ、そして白谷の伝承、又以前には「イタラモドラヌ赤木ノ城ノ、命ノステバハ、タビラコジャ」と云ふ古謡を紹介したが、全然別々なバラバラのことが探るに從ひ、當地、新宮、和歌山近くまでを昔震撼させた大事件に結びつき、而も十津川領減少のこと、淺野家の強勢、十津川捕吏に加はるなどのことが付随して出てきた。武士の情けを施した大野片川の松葉一統は古文書や口傳なくも悲惨な最期をとげしに違いなく、また上葛川潜匿など、我地にもかかはりあることなどが判って、興味深く、又感に堪へぬものである。歴史の底を流れる一つの眞實を窺ふものには、それが与へられ、そして人間の限界を凡そ察することができる。歴史は生き物であるとも云へる。人は常に歴史を作るものであると共に、分刻の未來も分からない盲である。
 扨て、淺野右近太夫は、赤木城を中心として、先づ周囲の落人の討伐、処刑を實行したのである。赤木に屯した大将は黒澤兵庫は分かっているが、他の者の名は分かっていない。

35、3、26記

注-
・中瀬卓司氏-紀和町木津呂の人。
・津久(継)については、大野の伝承として現在も語り継がれている。また、下北山村では、津久は十津川に逃げ込んだことが伝承されており、白谷とは別の津久の窟と称する場所があるらしい。
平凡社の『日本残酷物語』には第2巻「忘れられた土地」の中に「山の騒動-北山一揆」として、かなり詳細に述べられている。昭和35年刊行である。

( 277 ) キリストは云った

 人は、パンを喰ふために産まれたのではない。
 人とは、責任を果たすためパンを喰ふなり。
蓋し箴言である。人は一人で生きられぬ以上、財に安逸したり謀略的に人を凌ぐことは正しい道ではない。それでと云ふのではないが、私は何をかを記し、夢の如きをも書き殘すのである。

注- 中森瀞八郎氏の「瀞洞夜話」はここまで縦書きである。以下は巻の二「瀞洞夜話」として横書きとなっている。氏が書式を変えて気分を新たにして、更に記述を進めようとした思いがあったのだろう。

( 278 ) 赤木城悲史

 さて、淺野右近太夫は、津久の一味や徒党となった者どもを部下などが捕まへてきて赤木城を中心にして処刑した。厳重な取り調べの上、田平子で磔としたのである。
 田平子は現在の入鹿に向かふ途中に在り、我が見た時は、村は杉林となってゐた。田平子は、里の少し上方にあり、低い小山の中腹と云ふべく、登りつめるは直ちに入鹿村に入る。古文書によるとかう記されてゐる。右近太夫の命として下記のとおりである。
 「尤も、一揆に加担いたし候者は、耳を削ぎ、眼の球を抉り、磔となし、首は塩漬けとし新宮淺野右近太夫表にさし送るべきものなり。」とあるのを見ても如何にその刑が残虐であったかが分かる。冬の陣後の処刑も主としてこの處で行はれた。
 この処刑の計略は、一年前の台風によって城が破損したので大修理を行ひ、この工事の終了を利用したのであって、白く仕上がった城へ村人は鉦をつきながら祝儀言上に出掛けたのである。一揆からかなりの日時も経ち、處刑もこのところなく、人々は安心してゐた。然るに城中では、かねてより一揆一味の氏名を調べあげてをり、嶮しい山奥に炭焼きとなってゐるものも、この祝日には必ず出て來るものと期して待ってゐたのである。何心なく祝儀言上の者が玄関に訪れると、巧みに使者の間へ案内し、忽ち引括って捕らへ、唄に殘る命の捨場田平子へ永劫に連れ去った。唄には、一人の若い大工が愛人の女に櫛を贈り、逃れ得ない運命と観念して逝ったと云ふことが歌ひこまれてゐると云ふ。そして一片の哀歌のやうに殘り傳へられたと聞いた。
 前記のやうに妻子が身代わりとなり、或ひは一族40人も殺された如きは、天誅組の乱より桁違ひの人が殺されたことは間違ひないのである。今はハイヤー、トラックが走り、テレビあり、人の風貌も家のたたずまひも、山も川も田畑も変はり、昔の歌もなく、吹く風も歌声も月の光もすっかり変はってしまったが、かつて大量の血が流されてゐたのである。

( 279 ) 湯之口出身、宇城文六氏の發奮のこと

 この人の身上をこの『瀞洞夜話』に加へ記すのは異端らしく何の関わりもないことのやうにみえ、又趣旨の上からも変に思はれるかもしれない。然し、私が取り上げたのは、40年前の昔、氏が筏乗り人夫として、常にこの川に働いてをられ、普段横目で田戸を睨んで退屈な瀞を流してゐる内に、人の性を悟り、目前の利に堕してしまはず、環境のあらゆる苦に超然として發奮の志を立てて、赤手空拳、大なる自力を、その強健なる体躯を信頼して運命開振に勇躍して進まれ、遂に目的を完遂されたと云ふ稀なる人であり、衆に範とする人であり、現在の脛齧り族の比でなく、社会的にも優れた人であるから、私としても氏には劣るとも同じ系類の先輩と思ひ述べとどむる訳である。そして、田戸初めての医師法に依る医師と云ふ私、國家試験のたびに一喜一憂を何度も繰り返した私、而も病の私を励ましてくれた人であるからである。老境の我を鞭打ってくれたのは先生であり、共感する大先輩である。凡てにおいて優れた人である。筏夫と云ふ労働者から身を起こし、樺太、北海道、湯の口と医師として立派に人間街道を大手をふって通った、私としては羨ましい大先輩をそのままに埋もれさせたくないのである。もとより学問も技術も現今の医師と比較すれば雲泥の差があることは承知してゐる。然し、その資格取得をみると私より宇城先生の方がずっとドラマチックであり、さまざまの難を一人乗り越え、ともかくも開業してをられるのである。学術よりも、その精神面、実行面を我々は考へて心の糧にすべしである。
 私を、田戸の産の私を鞭打ってくれたこの八十近い老医のことを、ここに記すのは、先生の難事を一枚の紙にまとめておけば、閻魔様の庁を通るとき職業のあいまひを咎めらるることがあっても之を示せば堂々と通れると思ってゐる。先生は、粒々辛苦の上、その努力が報はれ、敗戦の時にはソ連の暴手より敢然と老躯を危険に挺して脱出、故山の湯の口に開業されたと云ふことは、實社会の活動力と成育せる自己力は自分とは雲泥の差あり。羨ましくさへある。そして毎年村人を連れて瀞を訪れてくれた。懐かしいのであらう。あの頑健な体躯を見ると私としては、万感交々の感に至る。先生の履歴を記すと下記の通りである。

 -宇城文六氏-
 明治16年8月10目、父由藏六男に生まる。幼にして母を失ひ、小学校卒業後17歳のとき大阪に出て、西長堀宇和島橋活版印刷業、沖野三郎氏方に小僧として奉公、大阪在住三カ年にして一旦帰省、農業手傳ひ、山林労務に從事することとなる。
 この後、上北山村河合にて筏夫の仕事に從事す。この時、明治38年なり。大正6年、夏目兼太郎校長二女岩子と結婚、一児をあげしも、大正2年8月妻子と死別す。心機一轉、東京に出で苦学、身を立てんと大正3年4月上京す。下谷區医学士(今の博士以上の価値)中村謹吾氏に師事して医学を学び、毎日午後上野図書館に通ひつつ勉強する。
 昭和3年まで15年間東京市内20数カ所の大小病院に医局助手として勤務し、医学及び技術を修得す。昭和3年父歿す。昭和4年4月、時の法制局長官樋貝詮三氏の紹介により樺太真岡支庁長堀安二郎氏、及び豊原市庁長河合智茂氏を頼りて渡島、真岡岩崎病院岩崎源吉氏方に奉職し、樺太庁令医師試験合格。昭和5年にて樺太開業、昭和20年大東亜戦争終戦を迎ふ。11月25日まで医業を続け、主としてソ連軍人の治療に當りたるも、感ずる處あり、脱出を決意す。一旦西海岸に脱出。12月28日、漁船に便乗し脱出成功。九死に一生を得て、翌31日北海道稚内港に上陸、故國の土を踏む。途中見知らぬ人々の心温まる好意に感謝しつつ郷里湯の口に引き揚ぐ。
 昭和23年11月海外引き揚げ医師國家試験に合格。昭和24年6月、北海道岩内郡小沢村々医として小沢診療所を開設、昭和34年老齢と病弱のため小沢診療所を閉鎖し、余生を郷里で送りつつ療養生活を送る予定のところ、医療に恵まれぬ僻地の住民のため犠牲の出費も顧みず投資、診療所を作り命の続く限り使命を捧げんと決意實行中なり。以上。
 宇城先生の生涯を見ると幾つかの我々が学ぶべき点がある。人として一つ一つの現状や依頼にとらはるることなく、自立的に創意して國造りの大望を持って前進すべきである。先生の生き方に負けない努力を我々はせねばならない。
 人の前途はすべて辛労である。享楽と云ふのも、よく考へると苦の始まりで、享楽は次に扣へてゐるほんの少時と佐藤春夫も云ってゐる。信鸞は猶如火宅と人の一生を云ひ、釈迦は生も苦界と云ってゐるほどである。

( 280 ) 私のこと

 私の経験を述べると、中学4年で退学し、進学の資格なく、而し私としては医学の道をたとへ植民地にても達成すべく信念に燃えてゐたのである。他の学問と違って、どうしても患者が要であり、之には無免許と云ふハンデキャップがあり、愛してくれる医師、愛してくれない医師、衆人も同様であり、すべて利用されるうちに学んだものであった。この三大字のうちで下葛川の東慶二郎大先輩(済生学舎出身)は資格としても資金の面でも、その環境よろしく私は到底及ばない。朝鮮半島へ渡ってからの荊の受験の明け暮れ、そも何年ぞ。戦争はこの中で發生して、これが長年のブランクとなり、更に病は酷い打撃を私に与へたのである。今に思へば殘念な悔しい目に医師や警察、人を侮る下司の者に幾度あったことか。〔後年、縣庁に至り医師免許状を受けた際、微笑した係官は私について記録した一冊の綴じた書を見せてくれた。思ふ。若し、私がモグリの医師であったら許可されなかったであらう。〕
 私が二十歳の頃、父も伯父も私の前途を憂へ、体を休めて何か商売をせよと云った。然し私は肯じなかった。田辺に住む世界的な学者南方熊楠先生からも「來い。」と云ってきた。然し、宿命の長男には許されなかった。
 微力とは云へ清潔な心で患者のために尽くしたと思ってゐる。第一に金銭上のことに社会的に疎い私である。悪党でなかったと今でも思ってゐる。慾や酔狂で50歳近くで國家試験に明け暮れする馬鹿はないのである。人30人の寿命を20年延長し得たとする私は、之で600年の寿を得たと思ってゐる。
 私の生活は極めて地味で、私自身は何の取り柄もないことを断言しておく。鳶一本の労務者にも劣ると思ふ。医学以外に私は、周辺の様々な動植物の習性、謎の動物、風俗や習慣、古事、祭祀などについて南方先生、秩父宮顧問平松氏から依頼されて採取したものである。これらについては大正末期から昭和15年頃まで心掛け、京都、東京等の雑誌に郷土紹介の形で発表した。その他に医学上の受賞(昭和18年技術院より受賞、奈良縣では私一人)もあった。48歳で医師國家試験受験と云ふことは馬鹿らしい荊の道であるが、慾や酔狂で出來るものではない。やはり馬鹿に見える。私でない限りはと思ふ。軈て自然の中へ周りの人より早く逝く私である。全てのものはどうなるかは私なりに考へてゐるし、人に押しつける鼻もちならぬ我流の慢を云ふべきはずもない。私は月並みの学徒で確か馬鹿だったと思ふ。

注- (279)話と(280)話は『瀞洞夜話』では一つにまとめられて記述されているのであるが、内容がかなり入り組んでいるため宇城氏のこと及びご本人のことの二つに分けて転載した。