( 201 ) 物を失った時の話

 大切な物を失ひ、どうしても分からぬときは、庚神様の像を縄にて括り、物が出でし後は之を解きたり。

( 202 ) 耳石のこと、耳島様の話

 耳の病む者、またはその他の病でも、西方に聳える山の項上に耳島祠あり。古木あり。傳説あり。熊野灘も時には見えるべし。そこに自然石の球状の多数穴ある石は、信仰の対象となる。人は之になるべく自然に穴の通りたるを捧げて、疾の癒えんことを祈る。昔よりのこと(多分、役の小角と関係あるらしく-資料は遺憾ながら明治5年の改変で寺の一切をなくしたれば知るべきよしもない。)また方1尺にも足らぬ鳥居〔鉄製〕を献ず。永年のこととて、石の数も鳥居の数も堆高く積もる。70年ほど前、あまりに高しとて中腹に移せしに、ご利益なしと元の項上に返せしことあり。

( 203 ) 山の神の祭と樹の話

 大山積之神、木花咲耶姫命の信仰より自然の風習となり、12月頃山ではケズリ花または、男根を祭り、山主より贈られし飲食物を愉しみて過ごす。そして山の處々に山の神の樹と云ふものも我幼時には必ず在りしものなり。樹も生き物なるうへは、人の善意を現はしむるものであらう。然し、今はいよいよ廢れたり。

( 204 ) 高橋管二先生

 昔は山をもってゐても、田戸の人々は大変苦労したらしい。米をバケツに入れて山に行くなど、また麦飯の米の部分を仏に供したるを父兄弟は爭って喰ひし。たうもろこし、さつま芋など零細極まる農家が山腹を切り開き、栽培せしものなり。農地とは定義的な言葉ではない。然るに維新後の変革にて医者、儒者の乞食同然流れ來るもの多かりき。玉置川の玉置英隆医師の父長元などの如し。ただ感ずべきは、田戸の先人はその貧乏のなかで智識慾に燃え勉学の志ありしこと、なかなか今の不勉強、ミセカケとは違って、向上せんとする人間,意氣に燃えていたことを知る。
 我の本家の墓に、今一基の墓碑あり。表には高橋管二之墓とあり、真には武蔵の國の儒者とあり。我の伯父友吉、東辰二郎、中作市など合同で建てしものである。50歳の年頃で來りし高橋を聘して家を与へ、妻を娶りやるなどして若人ら習ひしものなりと云ふ。小学校も出來ぬ前のことなり。然し考へると之に習ひ、学ぶべきところ多し。

( 205 ) 簗のこと

 今年あたり鉱毒その他にて鮎甚だしく上り來ず。鮎を得る方法も幾多あるも、レクリェーションを兼ねて簗の法にて捕らへること、尤も壮大なり。大川を 状にせぎその狭部にママダケ(丸竹)の編んだる簀の子を川底より斜めに2~3枚、水面上に出づること3間あまり。洪水前が尤もよく捕らへられる。
 下り鮎は(またその他の魚も)勢いよく流れにのり來たり、この簀の上にのり上げる。青色を帯しみごとなる尺余りのものもあり。水は中途に抜けて吸引力生じ逃るること不能。かくて人に捕らるるなり。里人簗の上にて火を焚き、鮎に塩をつけて焙り腹放題に喰ふあり。記憶によると伝馬船2隻満々捕りしことあり。分けるにも無造作に桶にてくみ分け、最後は籤して各自得る。その後の始末は腹を割いて塩をする者、焙る者など色々あり。猫も満腹して長く寝そべり鳴きもせず。家中匂ひ、紛々飽くことあり。酒好きの者はハラワタを塩にして肴の尤物とするあり。雌はタマゴ、雄はシラコなどもとりどりに塩して喰ふベきも、我はあまり好まず。筋肉は雄に多し。故に正月の鮨に使ふためには雄を塩にし、雌は焙りとしたり。尤もこんなことは今は殆ど消えたり。
 簗は上下流域に様々見たるものなり。但し、水流悪ければ不漁にして順番に見廻り仕掛けを適當に配して次へ行く。時には鮎を盗まるるあり。喧嘩もありたり。然し、この後は大工事と云ふベきなり。

( 206 ) 堰(セギ)のこと

 秋の頃より鮎を捕らんとて形式的に竹の割りたる、また木の葉、竹の葉を用ゐ、川の淺きところをセグ。鮎はセギを越えられること可能なるに習性上恐れて下らず。群れをなして止まり、時に極淺瀬に來ることあり。之に網して一度に多く捕るなり。但し、順番あり。木津呂南竹松老人に聞きしに、一投げで260尾捕りしことありと云ふ。

( 207 ) これらの魚の姿少なくなりしこと

 開發ブームのため山林伐採、微粒子を含んだ濁水、プロペラ船の爆音、急な出水、急な減水、ダイナマイト投入、毒流し、鉱山の毒水、電氣捕魚など色々の悪條件あるためなり。黒部峡谷のライチョウ、羚羊(カモシカ)など消え去りゆくのと同じ理論なり。破壊、保存は両立し難い。

( 208 ) 盆踊りのこと

 今も行はれているが、傾向としては特定の「音頭とり」を好まなくなりそうだ。各自自由に酒を飲み、自由に踊る様になりゆくらし。そして酒、肴もニワカの類も段々影薄くなるらしい。
 然し、踊りは重大な意味あり。昔は追善踊りあり。ともかく1年1度の老若男女一装の風をして、歴史的なことも含ませるなどして踊りしなり。無礼講では、このときこそ羽目を外して唄ひ且つ踊り狂ふなり。ニワカは中入り後多く出で、人を笑はし、隠し芸出づるなど、朝まで踊り樂しむなり。主に青年が中心となり相企て相募りて、娘達も晴れ着にて舞扇にて踊る。老いも童心にかへり、若者は結婚の相手を見出す訳である。
    おどりよう 見に來て おどらぬ奴は〔ヨー〕
    夜食喰ひの ソーラエ 曲者か
    おどりは ヨイショコラ ヨイショコラ
    木津呂一番 玉置口二番 田戸三番 船どころ
    盆にやよう しょらしょら なんば(タウモロコシ)の中でヨー
    よいしょ コラコラ なんば動くな
    そうらエ 人が知る おどりはよいしょ コラコラ
鈴木主水の口説もあり。
    有田のさあーよ ドッコイコラ こうりゃ
    みかんのさよ 継木の都合なんじゃいの
    吉田通ればよう 二階から招くよう
    而も鹿の子の□を 振り袖で
 (盆踊りは)大分昔から、否、大昔より行はれてゐたらしい。ところにより皆違ふか、けだし唄も形式も全国的にはよく似たものと思ふ。
    シチリキシャンリキ シャンリキ シャッポンキー
              (これは何か意味ありそうなり。)
    あまり長いので 踊り子にゃーア 毒じゃよう
    ここで切り上げてエー 品かよらー
 昔は寄付のことなど水増しして貼り出し、夜食があって、その他もありて賑はったものである。

( 209 ) 以前の田戸通路と宿

 瀞が世に顕れない明治20年頃前後は、(瀞八丁も)寂しいもので、和船も時たまのこと、人の來りて木津呂方面へ往來あり。
 先づ、東野より奥の里から來る人は、現在の杉岡の下を通りて山に本通り、向井山より浦地を経て、川を渡りて行きけり。山口及び浦地は宿を営みたり。我幼時の頃、已に山口は旅館を止めたるも、浦地のみ川と平行に小さな玄関を具へたる二間余りの座敷ありたり。但し、今はなし。瀞へ來りし南画家と云ふに村田香谷氏あり。これに宿りて画きたるらしきも瀞の画は傳はらずして、今は我の手に猛虎に竹薮の図のみあり。
 (物資の)移出は今瀧(東野)を主とせしため、あまり現在の場は顧みられざりしなり。
 奥地より物資は山谷を経て人肩を労し、今瀧に出でしと聞く。つとめて椎茸、板、伊丹、炭にても上位のものを運べるよしなり。
 菅家は平石より分かれて出で來、玉置高良氏により旧車道を葛川より開通され、この家の地方的に経済上も文化的にて中枢となりしに加へ、之の瀞亭(旅舎名)たりしところ、上田の我祖父の進出その他漸々発展せしものなり。
 まことに菅家こそは植林に凝りて破産、まもなく地を去りしも、名士貴顕の宿ともなり、また文も書もよくし、店を開き、平石とタイアップし、金融一切、當地文化の魁となり、エポックメーカーなりしなり。上地に至る最近までの道も、この家によりて開かる。瀞山、下瀞山、二津野の奥、今にしてみれば莫大なり。徒らに忘るべからざる家なり。

注- ・二津野の奥-十津川本流筋の大字二津野の奥のこと。

( 210 ) 官又屋敷のこと

 この頃、五條より官又と云ふ人、東野へ來り、今に殘る(後、田となりしも、今は荒る)嶮しい場所の大屋敷を作りて茶を集め、男女製造せしめしと云ふ。なお、立合川奥に火力(?)の製造所を作りしと云ふ。何故こんな所に來りしや。昔人もなかなか活動、利殖の機微に通ぜるものなり。