( 61 ) 松の木の一重挺のこと

 前記下瀧の長者の家に傳へあり。「万一、家運傾き、重大の時至らんには、奥に祭れる長持ちを縁者會して開けて見るベし」との事なり。或る日のこと、話の如く重大事出で來たりぬ。よりて皆々會合、長持ちを開き見る事になりぬ。あまりに軽しと云ひ、千両箱出で來と云ふ者、さまざまなり。家長が開き見れば、松の木の一重挺〔(天秤棒)・これも挺になるもの少しと云ふ〕出で來たりぬ。皆々茫然たり。
 これは、祖先が初めに塩を求め、天秤棒で肩に担ぎ、東奔西走して財を成した。稼ぐに追ひつく貧乏暇なしも、一度イの一番からやりなおせ、との事。子孫に無言の教訓なり。(玉置川徳田老人より聞く)

注- (2)話「開けずの長持」参照

( 62 ) 初生児を喰ひし猫

 母に聞いた話であるが、入鹿村板屋の或る農家の妻が,乳児をおいて外にて作業し、帰り見れば大きなる飼猫クロが、顔面を殆ど喰ひ尽くしゐたり。吃驚仰天、村の者と計り、その猫を殺したりと云ふ。明治20年頃の話なり。

注- 徳田老人 玉置川の人。農業、キンマも曳いた。最近亡くなった。

( 63 ) タクラタと云ふ怪獣の話

 余、昭和4年頃、田辺市南方熊楠先生に尋ねたる事あり。先生は、いろいろ古文を引き、御親切に知らせて下さった。やはり古文にもあるらしく、ジャコウネズミとの説もあるよし。下葛川竹之内老人の日く、(又、下北山村の古老にも聞きたり)『小さな熊のようなる硬毛に覆はれたる動物にて、杣夫など雪の日、小屋にて火に温まりをると、出し抜けに入り來たり、人の座を分けて爐に近づき、手をかざして温まり、終われば風の如く出て行くよし。人に害を加ふ事なし』と云ふ。

( 64 ) 四十釣の淵のこと

 竹の内大叔父曰く、瀞入口の下にある四十釣淵と云ふよし。その故は昔或る人、ウナギを釣りしに、ひとあげごとにウナギ釣れ、遂ひに40尾を揚げたり。あまりの不氣味さにたうたう之を見捨てて逃げ帰りたり。

( 65 ) 玉置神社祭日の覗き

 余の子供時代を顧みて思ひ出す。古色蒼然たるは玉置祭りの「ノゾキ」なり。お神酒徳利が6尺棒を飲み、芝居がかった動きのない、児の漫画にもない木版の画を配し、繰り返し現はるるよう紐にておろし、レンズにて参詣客に料金をとって覗かせる。節面白く、(但し今では噴飯物)伊藤公のハルピン遭難その他男女交代に唄ふ………六連發のピストルで打ち出す弾は侯爵の胸に中りてハルピン大騒ぎ………など。それを人々は、口あんぐり見たものである。後年、余、朝鮮京城にて朝鮮人のノゾキを見たが、形は小さく方2尺余り。然し、紐を引けば太鼓と鐘が鳴る仕准卜けあり。盛んに怒鳴っていたのを思ひ出す。その頃は映画も断然進歩し、その他の娯楽も進歩しありしに、思へば新旧の存在は面白し。

( 66 ) 火の玉の話

 西洋でもよく云ふ火の玉、又はセントエルモの火など云はれてゐる。當地でも時折火の玉を見た話あり。果たして存在するか否か。余をして云はしむれば、何れとも軍配をあげかねる。實は、余、20歳位の時、大渡の下あたり帰路を急ぎつつありしに、下葛川方面より大杉の前面を掠めて、フットボール位のダイダイ色の赤き火球が猛烈なる速度で空中に飛び去り行きしを見たり。又、小森より文武館へ通学中、小森の中家と云ふ家の門を赤き火の玉くぐり抜けし由聞く。
 空電と云ふか、隕石か不思議。この科学の進歩未だしと云ふ訳ならんか。兎も角判らない。その本体が。

注- ・文中の地名で大渡を王渡と記述してあったが、(51)話のような意図はないので、大渡とした。

( 67 ) 空飛ぶ円盤の事

 2、3年前に空飛ぶ円盤と云ふ不可思議なるもの世界各地で見たりとて騒がれしものなり。又、日本で(神奈川県)青白き光線を發しつつ、足許を照らし、はるか彼方へ飛び去ったのを見た女性あり。東京でも2名あるよし。単なる風説をまことしやかに流し、あるものにせんとしたるものか。妙な話である。十何年も前にも英国ロホネル湖で先史時代の恐竜を見たとて大騒ぎした事あり。ある自動車の運ちゃん、写真まで撮ってゐた。これも全然か。空飛ぶ円盤についてアメリカの海軍がなせるものとか、又有名なるピッカール教授が成層圏研究の為、ナイロンの氣球を飛ばしたのだと云ふなど噂はまちまちなり。

注- ・中森氏は末尾余白に別のインクで、「然し又相當の有名の士も見たりと云ふ。その他数々不思議なり。ロホネル潮はロホ・ネスLoch Nessの誤り」と記している。

( 68 ) エエジャナイカ踊り

 維新前後、エエジャナイカ踊り全近畿その他に広まり、毎日百姓町人、「オコッテモ、エエジャナイカ、ワロウテモ、エエジャナイカ」とヤケ氣味(と云ふ内行政の乱れに対する反動?)で踊り抜いたと云ふ。そして、天空より伊勢神宮の神札がヒラヒラ降って來たと云ふ(横井小楠の行為とも云ふ)。神鏡が三里村音無家(一本松)の庭へ降ったとも云はれる。眞か偽か、おかしい事だ。
 幕末の頃、関東地方より伊勢神宮などヘオカゲマイリと称して、何十万の庶民が東海道を上った話がある。これも政治と関係があると思ふ。

注- ・音無家 瀞八郎氏の母方の里。なお、この文章の末尾に別のインクで「民はかくなる」とある。

( 69 ) 小松山本家の祖先の威光

 多分、現當主の祖父ならん。庄屋様の上、あんな封建的なる地、己が有する基□の権力は、秋霜烈日の如し。人の生殺与奪も朝飯前であったそうな。例えば、或る冬の夜、炬燵に暖を村の青年達と共にとりありしに、突然、「ワレラ、オレャ シビ喰ヒトウナッタ」と云ひしに、若人は間髪を入れず、「ヨシ、キノモトデ カウテコウ」と、急に飛び出し、小松へ來た時、一番ドリの声を聞きし由なり。現今と比して感あり。
 又、ある正月の頃、第三男になる15、6の児が神に供へし鏡餅を無断で喰ひしとて激怒し、簀巻にして川へ投棄し殺したりと云ふ。又、時折愛妾を具して、馳走・川遊び、村中これに從ひしと云ふ。然し一面よく働き、杉植に1人して行きたりと云ふ。戻りには、狼が草履片一方を街へて迎へに來たと云ふ。(七色山口家の蛇の詰の類なり。)

注-
・(2)話の「開けずの長持ち」・(185)話の「北山川上流Y家の勢力」を参照のこと。
・山口家は紀州北山村七色の旧家として知られる。下北山村桑原の稲荷社境内に同家奉納の石灯籠あり。池原の倉谷家の姻戚。
・折立、笹本家の伝説参照のこと-同家のお婆さんは、白蛇が家のハタ(傍ら)におったのを祭りソメてから、家が一気に盛んになったという伝えがある。

( 70 ) スズキ追ひの事及び川伏の事

 余、10歳前後の頃、旱天にして雨降らざる時、スズキ追ひを為す。村中休み、御馳走。酒、鉄砲その他4斗樽(水中に入れ、之を叩く音、波はかなりの距離に達すべし。父の發明なり。)を持ち、きらびやかな風にして全部の舟を動員し、東野の下あたりより發砲、唄声、いろいろの騒音をたて、飲食にアイアイたる氣分にて下る。一方スズキは、新宮方面より登り來る魚にして、川魚にしては鯉を凌ぐ。尾のヒレは人を傷つける危険箇所なり。而して旱天の時に上り來、音を忌むと云ふ故に、下瀞の入口あたりにセギを打ち、大きなモドリを入れ置く。この行事には、その他ナワアミを川の両岸に沿ひ舟にて引く。愈々半日がかりで下瀞入口に至り、モドリを揚げる。入ってゐたスズキを調理して、飲んで大騒ぎ。児女等は喰ふて楽しく一日を過ごしたものである。それも何時とはなく消えてしまった。

注-
・スズキ追い(雨乞行事) 川伏(水難防止祈願)
スズキ-二尺位のものもいて、秋、ヤナに入ったこともあり、エビで釣ったこともある。今でも木津呂あたりまでは、ちょいちょい來る。ススキと呼ぶのが普通である。
・スズキは尾鰭もそうだが、背鰭でパシッとハチラレルと棘のようになっておって、手が切れることがある。
・セギ-セギは堰である。
・スズキは、主に煮て食べた。