(101) 往時における特異な結婚風景

 書物でみると、他の國又は地方にても蹄鉄を花嫁に投げつけたり。あるいは雪塊を投げつけたと云ふことあり。當地にても水(セセナゲの濁り水も含む)を花嫁に打ちかける習慣ありし如し。
 現存する今年80歳を過ぐる中井の老母、大字高瀧より中家に嫁し來る。途中何の水禍もなく婚家に入り、「まあ良かった。」と緑の端に腰を下せり。然るに床下より一人の若者出で來たり(現東房松の父弁治)。セセナゲの水、手桶に汲みしを、いきなり頭から打っかけ、逃げ去りたり。流石花嫁もこれにはずぶぬれ、いたく困りしと云ふ。水をかけるは何故か。

(昭31、6、12)

注-
・中井-田戸、「浦地」の古い隠居。姓は中、屋号を「ナカイ」又は「中家」という。老女というのは、中作市老の妻。作市老の娘も高瀧へ嫁いでいる。
・中家-ナカイのこと
・東房松-田戸、屋号「上東(カミヒガシ)」現在はその子利彦の代になっている。
・セセナゲ-台所の流し水の溜め壺

(102) 略奪結婚のこと

 木之本より志摩にかけて、青年意中の女性あれば群れをなし、大挙して暴力を以て女を奪ひ結婚せりと云ふ。この事は南洋の土人間にも行はるるよしであるが何か、関係がありそうである。田辺湾の熱帯植物と云ひ、潮岬あたりの縮れ毛の人、鎖骨の変形など、大昔は南方と相當交通ありしと思ふ。

(昭31、6、12)

(103) 當地の結婚風景

 今は癈れたるも葛川辺り(當地にては最も早く開けたりと思ふ。役小角と葛婆の語ありせばなり。)では、婚礼の夜、若い衆たちは、ヨイコノその他のめでたい唄を高誦しながら婿の家に(庭のあたり)集まる。父兄は代表して家にゐる。釣瓶さし、酒の容器にめでたき歌を記し、竹竿の端につけて座敷の中へさし出だす。主人はこれを見て、釣瓶に酒を入れてやり、鮓など出して若者に与ふ。若者連は好むところにて、これを喰ひ大騒ぎするなり。又、上葛川辺りは、このほか空の酒樽をさも重たげに梯子を横たへなどし、めでたい歌を唄ひて、徐々にその家の座敷に入り、床の間に据ゑて祝儀を申せしなり。主人挨拶、酒肴を与へれば帰り行くなり。
 双方の親達(結婚に)不服の場合、心中するものもあり。式を抜きて二人だけ契りを結ぶものあり。親の心掛け変はりて家に引き取る場合あり。又は家を出でゆくこともある。所謂野合にして妊娠しあること少しとせず。
 正式の場合は橋渡しとて某が大体双方の親子娘を得心せしめ、自ら媒酌人たる場合あり。また、媒酌人は別に選ぶ事もある。
 この時に(式の前)角樽(ツノタル)と称する漆塗りの樽に酒を入れ、嫁の方へ媒酌人が行き納めて來る。これにて婚約極まる。破談あまりなし。
 嫁を連れに行く式の日は、双方ご馳走し、朝までも賑はふ事あり。嫁方へ行くのは媒酌人夫婦(揃いの夫婦)、婿、これに濃い親戚を連れて行く事あり。挨拶を述べ、盛装の嫁出で來たり、家内にて三三九度の盃をなして宴に移る。折りを見て媒酌人は嫁を連れて婿の家に帰る。嫁方からも兄弟姉妹その他從ひて來る。
 上座に花嫁、花婿及び媒酌人、從ひ來れる嫁方。次に婿方の人々、祝儀言上の村人集ひ來る。嫁方の挨拶ありて三三九度の盃終わり、集ひし人々全部に流れ渉る。而して夜更けるまで放歌乱舞する。この場合、嫁の方も婿の方も親は直接関与せず、ただ酒肴や礼物などに當たる。引出物と称し、双方より新たなご馳走を各人に配布する。
 3日目になると径3、4寸の餅を搗き、眞ん中には紅にて丸く恰も日の丸の如きを作り、新夫婦揃って親戚や近所を廻り、挨拶して餅を配るなり。俗に三日帰りと云ふ。
 三重県五郷村方面は今は滅びしも、その行列の途中、村人金品をねだりしと云ふ。菅家、家の娘嫁にゆく際、亡父が宰領たり、金銭をとられしよし。少なしとて後追ひかけ、又とられしと云ふ。

注- 葛川の結婚式の慣習は村内のかなり広い範囲で行われていたようである。大字谷瀬の慣習が文書として残されている。

(104) 生まれし子供の礼式について

 昔は知らず、現今は僅かながら百日詣でとて神社に参向する。晴れ着を著せて将來の幸を祈るなり。誕生の日來るや餅を搗き、「命名、何の某」と記せる紙片を添へて知人親戚に配るなり。餅に代へて落雁(ラクガン)と云ふ菓子を配る例もあり。今以て行はる。

(105) 傳説、護良親王に関し

 東野の下方、川の上流に向かへる場所に橘の木あり。左五郎小門と云ふ人植ゑたりと云ふ。當田戸大森山項上に同人の屋敷跡あり。石垣、茶碗の割れたるが出てくる。人ここをサンゴミ平と云ふ。古老に聞く。建武の昔、護良親王落ち來させ給ひたるも、米と云ふものなし。土民ヤマイモを奉りたり。「何と云ふものぞ」とのたまふ。土民曰く、「トキヨ(時世か)と申すなり」と答へたり。
 しばしお留まりありしやあらん。東野は、殿野兵衛関連あるが如し。大杉は同親王より戴きし「玉だすき」を祭り、王渡りは現存の「大渡り」。神山の「王休場」、神山の同親王より戴きし凹面鏡を祭る。それより玉置山に続く。有名な大平記の文に詳し。
 竹原八郎も東牟婁郡北山村高原に遺跡あり。十津川村谷瀬にも弓場、馬場、黒木御所及び末裔と称する家から錦の御旗出づ。更に大塔村の竹原家には過去帳、墓地あり(遂にこの地を竹原入道の城地と定められたり)。なかなか判明し艱いのである。第一明治初年廢仏のとき文書焼失も与って因をなすがごとし。
 兎も角、米のあるところ、又は地利のよきところを轉々と移らせ給ふにやと考へらる。北山村高原にコウトウの宮と称する小さな祠あり。大塔宮の児を祀るとて年々子供を主として儀礼をとり行ふ神事あり。又、花尻と云ふ対岸三重県領には城を作らんとせしか、大川の水を引かんとする岩石を破壊して作れる水道殘れりと云ふ。なお、同村の祭神の御神体は大塔宮より賜りし金幣なりと云ふ。また一説に曰く、これは花尻の人高原より奪ひとりたるため、或る種の罰を受けることになりしと云ふ。
 その下流の大沼村の祭神は大塔宮なり。余18歳の頃、塵捨場から訝しき長方形の煤けたる漆塗りの箱を發見したり。何の事がわからず内容は何もなし。持ち帰りて、折りふし同居せる他國人葛川鉱山に來れる當時80歳の瀧口哲太郎老あり。洗ひ見んものと之を洗ひしに菊の紋ある御綸旨の箱なりき。
 大塔宮はしばし大杉にありしとも云ふ。大杉にはあらで昔は王杉と云へり。神鏡3ケ戴き奉祀する。王杉より祭神移轉後、神山笹内家(現朝重)の上方守山に祭置せり。椎、玉樟などの大樹天を摩してあり。先主之を伐る。即ち祟りありて久しく病む。故に法事を修して丁重に之を齋き祭る。病はかくて癒えたり。
 後、更に中西の辺りに宮を移すと云ふ。現在のところならん。笹内家にただ一面の古鏡今に存しあり。
 「王渡り」を渡り、玉置方面に玉歩を拾はせ給ひしに、當時は水激しく橋もなし。恐れ多くも御衣の裾を高くとられ水流を選び、足を濡らしてぞ渡りけると云ふ。故に「王渡り」とは申すなり。
 これより「王休場」に至り御休みされしと云ふ。
〔太平記中に出てくる片岡八郎の後裔は王寺町にあり。歴然たる系図を有せりと云ふ。但し、これは約30年前の話なり。〕

注-
・文中の「北山村高原」は、「北山村竹原」の誤り。弓場の森、馬場黒木御所は谷瀬、宇宮原にあり、谷瀬にも竹原八郎の後裔と称する竹原家や彼を祀る神社がある。
・文中の「花尻」は、「花知」の誤り。また、大川とは北山川のことである。
・葛川鉱山-下葛川の西方、北入谷の水源あたり。銅を掘っていたがその後、まもなく廃鉱になった。鉱石は葛川へ出していた。

(106) 往時における當地の豪族

 吾の大叔父、84歳にて没する。上平主税の弟子、東藤二郎は云へり。傳へによると、花井(今の花井)より上川村三津のあたりまでに長訓と云ふ豪族あり。(余、案ずるに長訓は楊枝藥師堂の長老にて武力を持つ。大体、豊臣・徳川の交替期らし、追って記す)
 大字竹筒に伊保里(文字果たして然るか)。北山の津久(これも追って稿を改め記す、この人物は大野心を抱き一揆の張本人なり)北山浦向ひの奥に大なる巖窟ありと云ふ。

(107) 川床の高くなりし事

 上田の曾祖父与平治等の著盛りの頃には、現在の瀞ホテル前の岩に鹿が泳ぎ來たりて立てりと云ふ。今は青々とせる淵の底なり。

(108) 山窩、俗に方言にもって唱へらるる 川原乞食のことと此地は解す

 所謂、山窩族について一考を試みん。
 當地にては(余の幼時7,8歳頃迄)衰亡の時期で、大なる組織をもたなくなり、少数で川原乞食と云はれつつ、特殊の扱ひを受けて、主として川原のあちこちを移動して生活しありたり。テントのマズキを張り、小屋掛けなどして、一家又は数家族が住してありき。
 業は、主として夏はウナギ捕りて賣り、冬はクマシダにて大は径2尺位の民芸的な美しき籠を作り、又箒作りて賣る。
 最も悪性の者は、冬盗賊をし動くものあり。余家も彼ら5名以上侵入して、當時500円あまりと古金銀を奪はれしことあり。5人の内1入射殺され、4人は捕らへられ、他の2人は無事逃げ終へしと云ふ。
 ウナギのみならず、アユその他の川魚をも賣りに來れり。その他、竹細工もやり、箒作りなどなかなか利口である。クマシダは細く美しくも中段に枝あり、作り難いものなり。5本,6本と揃へて見事曲線美を現はした籠作りたり。
 出産の時は川原を掘り、水準に至れば水出づるにより壺形に掘りなして、合羽を敷き、石を火にて焼き之を投入する時、比熱の関係上水は意外に温まるなり。之を用ひて用を足せしなりと云ふ。
 余、17歳の頃、北山村の西村先生方にて養生中、先生その女(山窩)の難産なるを認め、親しく見舞い、之を産ませ、且つ衣料、食物など与へしに、涙して謝せりと云ふ。それよりウナギ、アユなど礼物として心から持参せりと云ふ。余今でも、その女の声、耳にあり。
 當地にては小川口の対岸の島津の川原蔭にいくつかのセブリを見たり。又、當田戸にては、俗に青右と云ふ川原の一部にセブリ2、3あるを余見たることあり。現今はかかる漂泊族は全然見られなくなった。
 上記は、主として大なる川に沿ひて生活するものを云ひしも、殊更山に住する山窩は見られない。こは信州地方ならん。つまり狭義の山窩はこの辺にては疾くより見ず。唯変形と見るべきものあり。但し、山窩とは云はずも、生活の程度、風俗よりして確示せる山稼業と見る。近時強く不詳となりいけり。これは主として木炭を作り居り、近時においても、その方法、手段少しも進歩せず(これがおもしろい)、また、紀州侯の庇護もありて、今に至る。されど元より山窩にあらざる者もこの業をなし生活するあり。混合してしまったのである。然し、彼らの中には純然たる山窩の血をひくものもあるべし。現代にては、その調査なかなか大仕事なり。
 斯く云ふ吾も純粋なる山窩に非ざるも、田戸全部炭焼き(家の貧富は言わず)したと云ふことなれば、唯々彼らより6、700年の昔より轉業をせるならん。されば吾にもその血あるやも計られず。

注-
・熊シダ-当地の呼び名はコマシダ→ この軸をとって籠など作る
・川原乞食の出産については別頁にも詳しい
・西村医者-下北山村上桑原田戸の医師、一時は大変流行って、田戸からも泊まり込みで沢山診てもらいに行った。東直晴氏も診てもらいに行ってきた。新宮の医師よりも良いと謂われたが、後熊野市へ移転して失敗したという。
・青石-・磧のテント(現土産物売店)の100m程上流。磧に蓬餅のような青い石がある。

(109) 煙硝のこと

 あらゆる書物を見しも煙硝のことにつき、余見る能はず。(砲、つまり大小の鉄砲についても得心のゆく文を見ることなし)特にチリ硝石や化学の幼稚なときに各列強は奈何せしぞ、輸入に堺、長崎など全國に比べて果たして充分なりしか。苟も日本全土に渉りてのことなれば、何とか自家生産が必要なり。硝石の存せざる、化学の發達せざるとき果たして如何にせしや、常に疑問とする所なり。
 去りぬる日、84歳で物故せし中作市及び竹之内大叔父、北村源吉老より幽かに余聞いたることあり。昔は「御煙硝炊き」と称して特権を有した職人あり。突然□□の家屋に堂々入り來りて、床下の土をとりて去れりと云ふ。
 余、思ふ。人の住まふところアンモニア生じ、亜硝酸を生ずる可能性あり。且つ、有名な渡辺華山先生の著書中、外人に聞きしところを書いてゐるが、古い家ほど火事の時よく燃える。これ硝石性あるによるなりとしてある。故に蛋白質の分解、長時間の放置を思ふとき、或いはこれら関連性なしとしない。思ひつくまま書き殘す。今は誰も考へる人なし。

(110) 當田戸の昔話

 余、案ずるに往時は(少なくとも300年前)、上葛川が第一に栄え、次に東中(古來より中村と云ふ)、次いで下葛川と下流へ開け、今は田戸は咽喉部であるが、その頃即ち1000年前は上葛川辺は役の行者、葛婆の伝説の如し。又、當時の交通状況よりして(道なく、舟なく、車なく、機械なく、人々はただたとへ登り遺したるとも、最短距離の細道を分けて通行したらしいこと、特に重要なるは藩政であり、川あれど米塩新宮より容易に來たらず。)孤立的存在で生活、文字通り苦しむ土地であった。然し、世の中は移って行き、明治に入ると世も変わり舟運も發達し、他縣とも互ひに経済的な交流が始まった。どちらもそうでなくば生きてゆかれぬことになった。
 田戸あたりは、専ら炭焼き(余の祖父陣平は向学の心あり、リンコルンの如く弟を連れ山仕事の傍ら材木の切片にローマ字を消し炭にて練習しありしと云ふ。33歳で十津川郷出張所〔上市〕にて死す。彼の弟達も勉強家、特に宗三郎は殘せるものにも明らかなり。)を主として、奥の人々は特上の板類、椎茸など、なるべく軽量(旧道、即ち葛川よりは下葛川木戸端の上部に出でて下り、杉原へ廻り、大杉、東野を経て下方の今瀧へ出た。今瀧は店、問屋、筏の休場として栄えたりと云ふ。余の幼時には既に変はりて、車道は平石によりて當田戸まで發達、同分家の菅家また玉置より引っ越し來たり、店も銀行も兼ぬるに至り、自然今瀧は衰ふるに至れり)にして、値の大なるものを産出せし由なり。余の父菅家にて奉公せしものなるが、男女の群れ、庭前に入り來たり、「俺に二合、俺に一合搗いてくれ。」と頼まれ、玄米を搗き粥を炊いたりと云ふ。
 和船は人事の繁多なるにおいて愈々便となりて増し、新宮町との取引年々増加從って木津呂辺りの人々、所謂ダンペイ船の大型を作りて上り下りを扱ひ、玉置口、小川口、湯の口、竹筒など(何々舟と云ふ)も増え、一つ立派な天職をなすに至れり。和船のヤミレはここ4、5年前なり。(今はジーゼルエンジン付きの船)
 増加すれば自ら別なるも、初めは昔も今も変はりなし。社會的な労使間題が起こった。明治初年の頃か、木津呂の船人らスト、田戸のもの積まぬと云ふ。色々問題埒あかず。その時のことである。余の曾祖父与平治なるもの率先して云ふ。もう頼まぬ、自分等でやらうと東直晴君、父及びその弟その他2隻分あまりの船と人とを用意し自力にて始めたり。木津呂など如何に怒ると云ふも何かせん。結局靡いてきたのである。
 當曾祖父は、両親に分かれ14歳の頃、麦畑を独り打ちしに畑一反打ち終わり見れば、最初の分、麦既に生えて青かりしと云ふ。
 次に曾祖父は考へたり。木津呂へ良き人道なし。(玉置川へもまるで今とは違ふ悪道にて)痛く之を憂へ、遂に主となりて浦地前より木津呂まで人道を貫通せしむ。
 考へて見るに昔の人々は、實に社會心を有するものもゐたと云ふこと、挙げれば限りなし。あの當時實に感ずべきことである。如何に世の中は変はるとも原理原則は変はらない。
 又、當店の場より上地までも良い道がなかったのであった。(なお、昔はこんな小さな田戸も上田戸、下田戸に分かれ、附属の寺も違ってゐた)菅家の初代玉置高久らは、これに着目して自弁にていま殘れる石畳の道を作りし、と傳へられる。

注-
・「大正12年頃の瀞を偲ぶ」を参照のこと
・木戸-下葛川部落の上手
・今瀧-東野すぐ下、川べりのハマ