( 131 ) 川原乞食のこと

 中部地方の亜流をゆく山窩のことである。余の8歳位の頃、よく島津の森の蔭、川近きあたりにテント(せぶり)3~5位あるを見たり。約40年前なり。これに親分あり。夏はウナギ採りをして賣り、冬には「熊シダ」にて巧みに籠をつくり(主として茶碗、皿入れの類)賣りに來し。言葉少なく、各方言交じるかに聞く。
 小生見し最終の川原乞食は、下北山村西脇方にて療養中、小口方面よりウナギ持て來たりしを覚ゆ。
 然し中には野盗となり、民家を襲ふものもありて、一般民を恐ろしがらせたもの。その一つの例として、我1歳母と里に帰りしある冬の夜、我が家へ5名の賊入り來たりたり。大工、屋根師、ハツリ人夫、番頭、父など10人以上もゐたるに、まるで知らなかったと云ふ。あとから銃で追へば易々たるに、錠のところをよく切れる刃にて菱形に切りて外し、父の寝室に入り、25□あまりの金庫を狙ふ。父、それまでには常に金庫の下に頭を伏せたりしも、今夜は多人数の為、安心して逆に足を向けたり。金庫の上にのせたる煙草箱を布団の上ながら父の足許に下ろし、4寸棒を外部より持ち込み、金庫を荷造りして出でゆけり。番頭、朝發見し、大騒ぎとなる。その後、菅家の庫をあけ、酒樽に穴を穿ち、味噌をなめて肴とし酒を飲み、白米の4斗俵の中をヒ首にて切り裂き、2斗あまりを袋にとりて兵糧とし、一時はキリリ道(切入道=玉置川へ行く山径をキリリ道と呼んでいる)を越えんとせしものの如し。後大儀なるを察し戻り來たり(袋の破れより米の落ちたるにて判明)、川舟を盗み、瀞を下り瀞瀬に上がり、屋根師の使ふ小刀にて石を使ひ難なく金庫を開け、現金600円(當時は大金なり)、又母方より預けられし5両、10両、4分金などすべて奪取し、銀のものは不要な書類を置きしを之にて押さへありしと云ふ。
 當時の警察のこと、なかなか埒あかず、1、2ケ月して木之本の鬼ケ城あたり川原乞食巣くふあり。その使ふ銭は當時としては大金の10円札などあるため、木之本署と十津川署と連絡、一網打尽を策せしに事洩れ、捕ふる能はず。その後、串本近くのフクロ港の群れ怪しとの情報あり。内偵を進め、新宮署より藤田刑事、ピストル携帯にて他の刑事と之を襲へり。先方は大勢、甚だしく抵抗せしにつき拳銃を發射、約一丁ばかり離れて遺の前に死にたるは首領、外2名を捕らへ一先づ帰る。3年後奈良にて捕らへられし者、自白により金200円戻り來りしよし。

(32、5、3)

注-
・下北山村西脇方とあるのは、下北山村田戸で西村医者に治療を受けていた時のことである。西垣方の誤りか。
・瀞瀬-瀞峡の下流入り口の瀬になったところ

( 132 ) デコまわし

 余の10歳代、よくデコまわしと云ふ半乞食同然たる者よく來れり。但し、縁起を担ぐ漁場にはまだある筈、景気のよい唄で(正しく唄とは云へないかも知れぬ)漁師を喜ばし、魚を貰ひ受くるなり。特に終戦直後の食糧飢饉の節はうまくやったらしい。
 そのブラブラ頭も顔もいい加減、棒に通した怪しげな衣、1尺位なるを門前に持ち來たり、ニコニコ顔で正規か香かエビスを踊らかし、何がしかの銭を受けて地元を去っていく。
 馬鹿のように、「熱海の海岸散歩する………」など出まかせの唄らしく痴愚を装ひ(或いはさうなるか)、人の世を渡り行く。
 「西宮のエビス三郎左エ門殿は仁なる人には福を与へて、ヒックリ、マックリお祝申せば、エビス様出て來た、タイを釣って引っ込んだ」など。
 往年、竹之内の正光老、「若し年寄りし暁は、この仕事こそやってみたい」と常々言ってゐたのを余は覚えてゐる。□□葛川第一の財を有する老人の言にして如何にもものたらず、積極的意図にかけてゐるとしか思へない。余裕のあるものこそ世のために尽くしてほしい。勿論、人は尊放するし、人間は1人のみにては絶対に生きられず、財産またしかり。独善は乞食の道と通ずる。

注-
・竹之内-東藤二郎家の屋号
・正光-東藤二郎氏の息子

( 133 ) 浪花節

 吉田奈良丸より出で、47士を賣りものにて、余、小学1、2年頃大流行、菓子にも扇子にも□□にて、浪花節の忠臣蔵のことなきはなし。本を求め、小冊子ながら男のみか、山口のよしゑ達も唸るより歌っていた。カルタその通り。後、徐々に節も詞も漸く変はりゆき、現在の如く一般的な師匠の芸となる。かなり古くからあり、亡父の如き不況から抜けるため、養蚕を奨励せしも、人の集まり悪しきに思ひ付き、一人の曲師、木之本の山門久夫と云ふ田舎廻りを頼み、人を集めて本旨を広げしこともあり。
 それより、ちょいちょい入り來たり。指示を役場などに得て、愚にもつかぬことをしゃべる者など戦時中はちょいちょい見たり。中に炭焼き小屋やクラブなど哀れみを乞ふて落人を思はせるあり。この後者は敗戦の直前直後に多かった。内容は極めて非学理的。

注-
・中森忠吉さんは、十津川村へ來たある浪花節語りを大変気に入って助役時代に自分がついて十津川中廻って、村人に聞かせた。その頃浪花節は流行だった。そして、それが山門久夫である。
・山口のよしゑ-田戸の西島留吉家、よしゑ嫗は現存、この人の米搗歌などをテープに吹き込んである。

( 134 ) 時局漫談

 時局漫談と云ふか、一人芝居と云ふか、約17、8年も前より数年前まで來たる。尤もなるは大阪の板橋明善、外にもあり。馴れるに從ひ、怪しげな写真入りウラメシャ、ムギメシャなど書き入れたるポスター前地より送りおき、贔屓の人に宿泊も託し、朝早くより山の彼方よりチャルメラを吹いて來たり。泊まり、花にて一人興行、家人には早朝の食膳を頼み置き,人起きぬ間に去りて次に行く、明善が特徴なりき。最近は來ず。川島芳子、人間魚雷や戦爭もの、バラバラ事件とりとめなき事ばかり話し、一人芝居して変装、人を喜ばしたり。
 その後、浪曲(戦中後)、田舎芝居(顔見せ)、映画となる(競爭あり)。

注-
・花-思い思いの志
・板橋明善-この人は夜のうちに朝食を作っておいて貰って、家人が寝ているうちに食べて出立し、夜の明ける頃には向こうへ着いていた。この人は10何年か毎年続けて來村した。

( 135 ) 初胡瓜と初茄子を河童に供す

 余の幼少時7~8歳頃(明治44年頃)、いろいろ奇特な人ありて、たびたびこれを見る。胡瓜などを喰ひ川に遊ばんものなど、河童に引き込まれるなど云ふ諺に發してか、初胡瓜と茄子の表面を軽く削り、『當年何才の男 河太郎様』として川に流した事を知る。特に東辰二郎老人に見る。

注- 田戸では「當年何才の男(女) 河太郎様」と書くが、東直晴家だけになった。

( 136 ) 金毘羅神社への献木

 我幼き頃のこと、筏の上、河岸などに『奉納 金比羅大権現 當年何才 何ドシの男』と削れる表へ墨痕淋瀝に記されたる木材を見たりき。これ願事ある人、上流に流しおけば、筏夫、舟夫その他も利益のことに、何処にかかるとも次から次へ流し下し、遂には四國舟に積まれて金刀毘羅神社へ着くと云ふ。

注- 金比羅神社への献木「コンピラさんのアゲキ」と言い、昔はよくやった。2、3年前にも上流から流れて來た。

( 137 ) オイチニー(お一二)の藥賣りのこと

 今では幽かに覚ゆるのみなるも、小学1、2年の頃か、紺色の制服、朱帽、やや長き或いは冬のオーバーかを着し、山村戸毎を廻りたり。肩より鞄を下げ、手には手風琴を携へ、「オイチニーのくすりを買ひ給へ」と風琴を鳴らして、殘雪殘る寂しい畑のへりを踏んで、慌てることなく廻りゆきしを覚えあり。當地にては大渡にありし松久保林作と云ふ人、之に加はりたる如し。何となく哀調の音は今に耳底に殘る。發端は日露戦争後の不具者より始まりしか?

注-
・松久保林作-元大野片川の人、一時大渡の旧道傍に住んで茶店をしていたが………。
・オイチニー(オーニ)の藥賣り-東直晴画の口絵参照のこと

( 138 ) 鎌イタチのこと

 外科学でも証明し難いのは「力マイタチ」のことなり。主として前額部、下腿部に突如として創傷を与へる不可思議なる現象なり。
 何人も余之を見た。鎌型の10cmまたは15cm位の大傷を将來せしむ。人に聞きたるに色々あり。突然怪しき風來たり、よろめき、石など地物に當ったとき、又は石垣を落ちたとき、又は新宮の町を好天にて通行中、前方の犬キャンと云ひて膝に當たりて創を受く等なり。結局共通するものは、
①大傷の割にあまり痛くないか、少しも痛まず、後出血し、異常に氣付き、検査せるに、力マイタチに喰はれていた。
②決りとられし如き、新月状の傷多く、その節見るに抉りとられし部分は、新しき場合は白色に見える。
③皮膚の一部は欠損する。
④右に記せる如く、本年(32年)死の99翁の乾銀三郎老人の云ふ。新宮龍鼓橋あたりを好天氣に歩いてゐると、突然前方の半間あまりの犬、キャンと云ひて近寄り來たり。下腿にぶつかりたり。そのまま何ともなかりしに程を経て異常を感じたれば、膝関節直下にカマイタチに喰はれて居たり。医師にて縫合せりと云ふ。この際、特に注目すべきは、ズボンなど少しも破れては居らず、洵に奇怪なり。

( 139 ) 田舎芝居のこと

 前にも漫才が、その類似をやりたるも、稍々型を整へて、少数で芝居に來れり。これは、終戦後しばらく多かりし如し。今はほとんど來ず。

( 140 ) 曲芸師

 戦時中、部隊あるとき慰問と称し、獨樂廻しなど來れり。また、新宮の芸妓(老妓など)來たり。瀞ホテルに舞台をしつらひ、實感的に踊りを見せ、また久保寫真館の弟子、コトブキ洋服店など手品して見せたり。

注- ・久保写真館、コトブキ洋服店は共に新宮市