( 11 ) 犬の小便のこと

 今日28年4月6日午後2時頃、新宮へ電話をかけるべく向かひの組合まで行き、待ってゐると小雨降る中を一匹の白犬がやって來た。見てゐると壁にもたせてある菰の側と□中電柱に対し、徐に小便をひっかけて去った。この事は一寸した事であるが、大切なことと思ふ。第一、同じ動物でもこんな事をしないものもある。第二、同族を認めさせる為か。第三、少なくともこんな事をする犬が我等の社會にあること。我等との歴史前よりあった事と思ふが、こんな横の連絡があることは、我々の考へてゐる發生とは違ふ重大な秘密がある事と思ふ。

( 12 ) 日本和歌のはじめ

 前記桐野利秋のもってゐたと云ふ『博物筌』の中に、「和歌のはじめ」と題し日本武尊御東征の折り、次の如く口ずさまれたのが最初だと記されてあった。即ち相模(甲斐)の或る夜にて御夕食のとき、尊が
 ニヒバリ ツタバリ(ヲ) スギテ イクヨ力 ネタル(ネツル)
と云ひしところ、炊ける翁が
 カカナベテ ヨニハココノヨ ヒニハトホ力ヲ

注- 古事記中巻
即ち其の國より越えて、甲斐に出でまして、酒折宮に坐しし時、歌ひたまひしく、
新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
とうたひたまひき。ここにその御火焼の老人、御歌に續ぎて歌ひしく、
かがなべて 夜には九夜 目には十日を
とうたひき。ここをもちてその老人を譽めて、すなわち東の國造を給ひき。

( 13 ) 大木を搬出する為、岩を切り開きし跡

 一昨年、26年3月頃、東中、西老人(良助)の云ふには、材木を狩川中、曲がり角の岩を材木の通る丈け切り開き通した形跡ありしと云ふ。その頃の事、林道なく、ワイヤーなく、川を利用するより致し方なかったが、よほど大きな特殊材であったらしい。
 材木も、その頃よほどでなくては価値なく、角材でハツリと称する法にて作りなしたものを出したらしい。道が開け、ワイヤーが入り、所謂ヤエンと云ふものが出來、製材機の出現、力センが考案され、これが漸次發達して、今日の日和木材、東信木材(昭和25年)の如く大發達し、往復の運搬可能となり材価も非常にあがって現在の如くなったのである。勿論、永久的でなく、これはむしろ現在の道路に依らねばならぬ。編筏にはカンと云ふものの出現にてメガを切る要なく、ネジの代わりに藤カヅラ、次いでワイヤーの切片を使ふようになり、組み方にも変を來たした。カセンはヤエンとは違い、動力つまり發動機を使用する点が進歩的である。

注- ・日和木材・東信木材-田辺の人がやっていた木材会社の名称

( 14 ) 山に火をかけて道の明かりとして帰った狩人の話

 自分19歳の折り、聞いた話である。上葛川の富之内老人、「俺りゃ、若い時白谷山から猪をとって帰ってくる内に日が暮れてさっぱりになった。提灯はないし、松明も早速に出來んし、仕方ないよって山へ火をつけて、その明かりで帰って來たんじゃ」と、話してゐた。實に驚き入った話である。今であれば、それこそ大変である。

注- ・富之内老人-上葛川、椎茸業をする人だった 森下家

( 15 ) 鼠が人の髪に巣を作りかけた話

 大字上葛川故島本盛吉医師は、若い時、大変猟が好きだった。立合川(タチアイゴ)に山狩りし、日が暮れてしまひ、野宿する事になった。ふと夜中、目が醒めた。何か頭の辺でゴソゴソする物があるからである。大胆な男であるから、じっと目をつぶって考へてゐると、一匹の鼠が同人の髪の乱れ(髷であった)を利用して、頻りに巣をかけようとしてゐたので、流石の同人もびっくりしたとの事である。或る本に平清盛の死ぬ前、同邸の飼へる馬のシッポに鼠が巣を作ったとあった。

( 16 ) 堤灯の火を見て狸となり鉄砲を用意せし事

 自分が子供8歳位の事、或る冬の夜であった。今の橋(山彦橋)は、勿論なく渡し舟にて渡ってゐた時分のこと、約40年前。自分の店にゐた若者が外に出ると、川向かふに灯が見えると云ふ。出て見ると、提灯の灯が一つ山を下りて來る。すると、又一つ、次いでまた一つ、一つ一つ増えて20ケ程となり川辺へ下りて來る。じっと様子を見てゐると様子がおかしい。一つに渡し場の辺に固まってゐるが、「渡してくれー」と叫ばない。「おかしいぞ、こいつはてっきり狸に違ひない。用意せにゃならぬ。鉄砲持って來る。」と云ふ。父も半ば賛成しそうだが「もう少し待て」と云ふ。しばらくしてから、やっぱり狸でなく人である事が判った。即ち、葛川の方に死人があり、それを受取に來たのである。つまらぬ話であるが、思へば思想はいかに変轉するか。今時馬鹿なと一笑に附されてしまふことであるが、之を以て当時の幼稚さを證するに足る。

(以上全部28・4・6記)

注-  
・山彦橋は田戸と三重県の木津呂を結ぶ吊り橋で、「山彦橋」の名称は、中森氏の命名になる。昭和10年8月に竣工した。それまではずっと渡しだった。
・自分の店-父忠吉が旧菅家(現西旅館)の向かいに開いた店、中森氏の家である。

( 17 ) 夜、新しい草履を履くときには

 自分の幼時、夜新しい草履をはく時には、必ず鍋の墨をつけてはきたり。何の故か知らず。

( 18 ) くちはなの大きさを云へば

 余の幼時のこと、或いは今でも少しは見る蛇の大きさを指にて輪を作って示した時、つまり、すべからざる事をしたとき友人などの手によって之を切り崩してもらひしものなり。

注- ・蛇を指さした場合は、その指をしっかり噛んで歯形をつけた。

( 19 ) 田戸秋葉神社のこと

 明和9年(1772)、京都において吉田神社より分祀を許されて之を祭る。昔時は吉田神道とて大いなる権威ありて、全國の総取締りであり、宗家であったと云ふ。同神社裏に至れば、今にても小祠ごとに各國の全社を祭りあるをみる。(註)祭神 訶遇突智命なり。同社は、明治年間一旦下葛川へ合祀され昭和20年頃、分散の為、神体帰座す。之より曩に各地に神社を祭ること要望されしも許さざりしかば、各地において仮祠を設け、遥拝所なるものを作る。昭和10年頃なりと思ふ。田戸も同じく荒廃せる跡を開き、一祠を設くるに付、余之源を正し京都へゆき吉田神社を取り調べ、幣帛をもちて之を納めたり。火防鎮護遠州秋葉社と同じなり。

注- ・葛川谷の各社は明治42年、下葛川の東雲神社に合祀されたが、今次戦争後再び分祀された。

( 20 ) 瀞の河床が上がったと云ふ話

 余の伯父なりし中森友吉生存中云ひけらく、「河床は大分上がったと思ふ。その証拠は、あづまやの前(現、瀞ホテル)の川中に深く見ゆる石の上に、上手から鹿泳ぎ來たり、立ち留まった事あり。」現在では、絶対不可にして、二匹を以てしても立ち得ざるなり。

注- ・あづまや-瀞ホテルは、元「あづまや」と称して、前からここで宿屋を営業していた。