(41)産物取調帳

幕府の産物取調に対し、十津川郷から提出した帳簿。杉、檜、樅、栂、松、桜、樽丸、煙草、割菜、楮、当皈、炭、蜂蜜、椶櫚、椎茸、とりもち、松煙、松脂、茶、熊、猪、鹿、川鮎のほか槻皮曲物などをあげている。

(42)郷中地所取締書

無年貢地の由緒ある十津川郷で、他国あるいは他郷のものへ、耕地や山林を売買したり、質入れをする心得違いのないよう郷中惣代が評定し取りきめたもの。

(43)曹洞宗興聖寺郷内末寺江戸城本丸普請献金願書

文久元年(1861)、十津川郷下組の曹洞宗宇治興聖寺の末寺33か寺が江戸城本丸普請料として14両3分の献上願を五條代官所の代官松永善之助に提出したもの。下組の寺院所在地と寺名がわかる。
ちなみに明治4年(1871)一郷あげて仏祭を神葬祭に改めることを請願して認可され、翌5年2月郷内の廃寺を請い、6年4月4日認可された。

(44)中川宮沙汰書

嘉永6年(1853)ペリー来航を機に十津川郷士らは一郷戮力応分の御用を勤めたい旨の建白書を五條代官所の代官内藤杢左衛門に提出した。しかし幕府からは沙汰なく、ついに十津川郷では文久3年(1863)2月深瀬繁理らを郷士惣代として「赤心建白書」を、次いで同年4月、上平主税らが郷士惣代として中川宮に上願書を捧呈することがあった。5月に中川宮(もと青蓮院尊融法親王のち久邇宮朝彦王)から大和十津川郷有志之者へ「誠忠之志情御感悦之至」「国家之御為致進退侯為手当金」として300両の令旨と下賜があり、次いで6月11日、丸田藤左衛門らが長州藩の佐佐木男也と学習所に参殿したところ東園基敏ら三鄕列席のもとにこの御沙汰書を下賜された。
丸田らはこれを拝受して帰郷、6月15日郷民に披露し郷箱へ納めたことがわかる。

(45)天誅組追討文書写(六通)

文久3年(1863)8月17日、前侍従中山忠光は同士数十名を従え、皇軍の先鋒と称し、五條代官所を襲い、代官以下の首級を屠り、代官所陣屋を焼き払い、義兵を十津川に募り、高取藩を攻めて失敗、以後各地でゲリラ戦を展開したが、鷲家ロの戦で四散した。幕末討幕の第一声であり、王政復古、明治維新の端緒を開いた天誅組騒動であるが、十津川はこの騒動に大きくまきこまれた。
①は8月26日づけの中川宮の御沙汰書(十津川記事)。②は9月5日づけの中川宮の御沙汰書(十津川記事)。③は10月6日づけの中川宮の御沙汰書(十津川記事)。
10月6日郷士上平主税らが上京し、擾乱前後の状況や各藩に捕えられた郷士の釈放恩赦を哀願した。同日中川官は十津川郷鎮撫として渡辺相模守、東辻図書権助両名を下向さすので、薩摩、土佐藩に警衛、津藤堂藩に御賄案内警衛を仰せつけたもの。
④⑤は、9月27日、津藤堂藩の天誅組鎮圧の先手藤堂新七郎(上野城代)から手交されたもの。④は中川宮の御沙汰書。⑤は藤堂新七郎の通達。
⑥は10月8日づけで藤堂新七郎内の水沼久大夫が十津川郷鎮撫使の来郷にさいし賄いなどを高田定之進らに命じたもの。

(46)伴林光平筆大和義挙の檄文

文久3年(1863)9月、天誅組の首領中山忠光が天ノ川辻の本陣から十津川郷士に贈った趣意書。日付の下に花押(書き判)を据えているが、これは「忠光」の二字の合字体であろう。文章および筆蹟は伴林光平のもの。
同3年8月18日、天誅組は五條代官を屠り、代官所陣屋を焼き払い、桜井寺を陣屋として五條新政府を樹立した。そして民心の収攬につとめたが、18日の政変が平野国臣によって五條にもたらされると、義兵の募集や討幕の拠点としての要害をおさえる必要から、評定一決して本営を天ノ川辻に移した。
8月23日、吉村寅太郎(総裁、土佐藩士)は保母健・乾十郎を十津川郷にいれ、義兵を募った。朝命による旗挙げと信じ、郷民1500名が応じ、天ノ川辻の本陣に馳せ参じ、やがて高取城攻めに参加し、大敗する。その後、和歌山・彦根・藤堂・郡山藩などの追討軍に天誅組は包囲され、ついに十津川の天険を扼して最後の一大決戦を試みる外なく、9月14日天ノ川辻の本陣を焼き捨て、上野地村の東雲寺を本陣に屯営するさい、天ノ川辻から十津川郷士へ贈った趣意書である。
伴林光平(1813~64)は通称六郎、屋号をきせる屋ともいう。国学者、歌に能く、書にすぐれた。「河内国陵墓図」「吉野道記」「月瀬紀行」などをあらわす。天誅組では記録方と軍議衆(参謀)に推された。9月16日中川宮の令旨で十津川郷民の撤兵を説かれたので平岡武夫(北畠治房)らと南山を脱出、駒塚(今の斑鳩町のうち)にたどりついたが、同月25日、京都に赴かうとして岩船山で幕吏に捕えられ、奈良奉行所に護送された。獄中「南山踏雲録」を執筆、元治元年(1864)2月16日、京都六角の獄で同志らと斬首刑に処せられた。享年52歳。明治24年従四位を追贈される。

(47)伝奏方通達書

天誅組一件の落着後、旧五條代官所支配の村々は高取藩預りと決った。文久3年11月1日付の高取藩主植村駿河守家壺[いえひろ]からの村継による触状は次のようであった。
一 今般其村々駿河守当分御預り被仰付候間、可得其意、追テ呼出シ相違候義モ可有之候 得共、先此段相達候、此触状村下調印致シ、月日刻付ヲ以テ早々順達留リ村ヨリ可相 返モノ也、
これに対し、十津川郷では文久3年9月4日、両伝奏(中納言飛鳥井雅典宰相中将野宮定功)支配となっていたことから、いまさら他の管轄を受ける理はないと触状を長殿村で留め、その趣旨を在京者に伝え、伝奏方に伺がった。11月10日にこの通達を得、高取藩へは大方源左衛門・上平主税が総代となって触状を返却している。
なお、庄屋・年寄の呼称を旧名の庄司・目代と改称することになった。また慶応3年(1867)12月14日、十津川郷は伝奏から参与役所に支配替えとなった。

(48)鷲尾侍従副書

慶応3年(1867)12月、王政復古の大号令直前、天下の形勢不穏となり、幕府の向背も定かでなかったから、勅を奉じて鷲尾侍従が和歌山藩などを牽制して、大和の諸藩を早く新政府側に立たせようという目的をもって高野山に挙兵した。同月8日、京都の土佐藩邸から十津川郷士50名、土佐陸援隊、浪士らを随従させて伏見に下り、淀川を船で大坂へ、9日堺、10日河内三日市、11日紀伊学文路宿(ここで王政復古の大号令発布の報告を受ける)を経、11日高野山に到着、檄を四方に伝えた。12日神谷において十津川郷士に別勅「方今時勢切迫ニ付鎮静者勿論対朝廷反逆之賊徒於有之者十津川挙郷征伐可抽忠勤趣御沙汰候事」を賜わった。本文はこの別勅にそえた鷲尾侍従の副書である。

(49)軍務官申達書

慶応4年(明治元年)2月新政府のもとで軍制改正がおこなわれ、親兵掛万里小路博房から郷士代表らを指命し、郷民を精選して十津川郷親兵隊の編成が命ぜられた。
同年5月有栖川宮を総督とする関東親征軍が発せられた。十津川郷兵はその壱番、弐番中隊の基幹となる。いわゆる戌辰戦争である。この軍は6月15日伏見から越後方面に向かわせられ、12月に伏見に帰還する。その間、長岡城攻防を中心に北越や会津に転戦した。郷兵207人が参戦、死傷者81人の犠牲を出した。
本書は12月19日、軍務官からその軍功を嘉せられ、一時帰郷を命ぜられたものである。

(50)郷中取締覚書

幕府からの鹿袋角入用につき、十津川郷川津村領の山を狩場として鹿狩りをするにあたり、郷惣代が十津川郷下組の村々にあてた覚え書。狩猟の方法がうかがえる。近世中期のものか。