(31)公文窟と青草の平

 大塔宮一行は、日高川にそって上り、さらにその支流の八重佐[やえさ]川にそって十津川を目ざしていた。
 そして、とうとう十津川領に入られたのである。その夜はひとまず、旅の疲れを休めるための場所をさがしていると、崖の中に一つの岩屋を見つけ、一行は、そこで一夜を明かしたのである。
 村人は、岩屋で宮の一行が一夜を過されたことを知り、その後、ここを公文窟と呼ぶようになったということである。
 夜が明けたので、一行の一人が外をうかがっていると、はるか向こうの草原を野武士らしき者が、こちらに向かって懸命に駆けて来るのが見えた。
 四面を賊に囲まれている一行にとっては、少しの油断もならない。あれは間違いなく賊の手下の者であろう。我らの行方を探して、すでに賊はここまで迫っているのか。
 宮は、従者に命じて、野武士を射させた。矢はみごとに当たり、野武士はぱったりと倒れた。しばらくは、静まりかえっていた。賊らしき者も現われない。従者たちが駆け寄って、野武士の顔を見たとたん、その場にくずれ込んでしまった。あゝ、この武士は、藤代[ふじしろ]の戦いで行方知れずになっていた、大塔宮の近侍なのであった。近侍は賊の中をくぐり抜け、宮を慕って、後を追ってきたのであろう。何とも悲しいことである。
 宮は、大そう哀れに思い、従者たちも、深い悲しみに沈んでしまった。まもなく、真心をこめて、そのなきがらを葬り、読経して、近侍の心を鎮め、冥福を祈ったという。
 その後、この平地には、なぜか大木は茂らず、年中青草が絶えないのでいつのころからか、あたりの人々は「青草の平」と呼ぶようになったということである。

話者   上湯川   岡本 勝比古
再話   後木 隼一

(32)藤の局

 今から数百年も昔の話である。そのころ大塔宮護良親王の一行が賊に追われて逃げる途中、この沼平家[ぬまひらけ]に立ち寄られたそうだ。賊は近くに迫っている。一行の中には女、子供もまじっている。そんなわけで、宮は急ぎ従者(けらい)たちと話し合われて、
「我らは賊に追われている身。これから先、うまくのがれて望みを大成しなければならない。今から行く旅は険しくそれは大変なのだ。それに、賊から逃れるためになるべく荷物は軽くし、足手まといになるものも捨てていかねばならない。このことをよう心得よ。」
と、かたい心のうちを述べられた。
「なぜに我らを捨てていく。いっしょに行きたい。死ぬならば共に…。」
と、むせび泣く声にも、従者たちは心を鬼にした。宮の命令で、四歳になる男の子と藤の局、それに下男一人、下女一人を沼平家に託して、一行は立ち去った。
 宮の一行が去って、間もなくやって来た賊の手にかかって、四歳になる男の子は、情け容赦もなく殺されたそうだ。可愛い子を失った藤の局の悲しみは、何ともいたましいものであった。
 藤の局は悲嘆にくれ、泣き暮らしているうちに、やがて目を患うようになった。それで、不動様を建て信仰するようになったが、とうとう盲[めしい]になったということだ。
 我が身の不幸を嘆いた藤の局は、とうとう鎌で自分の首をかき切り、自害したということである。
 これまで一心に仕えていた下男下女も、藤の局親子の不幸を目の当りにして、今はもう心の支えを失い、共に自害し果ててしまったということである。

話者   小原   沼平 ウタノ
記録   小原   沼平 三千代
再話   後木 隼一

(33)仏峠

 奈良県の屋根とよばれる吉野の山おくに(十津川村の西南、和歌山県とのさかいに)上湯川[かみゆのかわ]という村がある。
 むかし この村には、住む人もすくなく、深い山のあちらこちらに、十けんほどの家があるだけだった。
 この村の庄屋に、重谷寛太夫[しげたにかんだゆう]という人がいた。もとは、京都のほうから来た、りっぱなさむらいだったそうである。心のやさしい人だったので、村人たちから、親のようにしたわれていた。
 高くそびえたつ深い山々は、はてしなくつらなり、大きな古い木が、おいしげっていた。この広い山は、村山といって、村人みんなの山であった。
 それで、たきぎを切るのも、家道具[やどうぐ]をつくるのも、夜のあかりにたくたいまつをとるのも、みんな、この山であった。
 山あいを流れる一すじの小川の水は、きれいにすみ、青い渕には、アユのむれが、泳いでいた。
 村人は夏になると、この小川に来て、アユをとったり、ウナギをとったりして、みんななかよくしあわせにくらしていた。
 さて、いつのころからであろうか。この村に、渋谷与作[しぶやよさく]というどこかの浪人が住みつくようになった。
 この与作は、庄屋の寛太夫のように心のやさしい人ではなかったので、村人からよろこばれてはいなかった。
 ある年の秋、氏神さまのお祭りの日が近づいてきた。
 お祭りには氏子たちの家で、毎年、かわりばんこにごちそうをつくって、祭りの座をつとめることになっていた。
 与作は、そのころになって、ふと、そらおそろしいことを考えるようになった。
 それは、このお祭りの日のお神酒[みき]に、どくを入れて、村人をみな殺しにして、あの広い村山を、ひとりじめしようというのである。
 そこで、ためしに大江の岡に住んでいたひとりもののばあさんのところへ、酒とっくりをぶらさげて、なにくわぬ顔で出かけていった。
「ばあさんや、祭りももうじきじゃのう。今年はうちが当屋[とうや]じゃ、前いわいに一ぱい飲みなされ。」
と、どくのはいった酒をすすめた。
 なにも知らないばあさんは、あのけちな与作がめずらしいこともあるものじゃと思いながらも、よろこんで、
「これは、かたじけのうございます。」
といって、その酒を飲みほしてしまったので、まもなくくるしみながら死んでしまった。
 これを見とどけた与作は、ほくほく顔でうちへ帰った。
「しめしめ、これでよい、これでよい。なにもかもうまくいくぞ。さあ、そうなったら、今におれは、村いちばんの山持ちになるぞ。」
と、ひとりごとをいってよろこんでいた。
 ところが、悪事千里を走る(わるいことはすぐ知れる)とか。ちょうどそこを通りかかったおへんろさんに、与作のひとりごとを聞かれてしまったのである。そのおへんろさんは、村人の一人に、
「村の人たち、祭りのお神酒を飲んだらあかんぞ。あの与作はだいそれたたくらみをしとるぞよ。」
と、そっとつげて、どこへともなく立ち去っていった。
 その夜のうちに、このことが村じゅうに伝わった。
 村人はかんかんにおこった。
「おのれ、ふらちな与作め、ただではおかぬぞ。」
「すぐに、村からたたき出せ。」
と、口ぐちに与作をののしった。
 そんななかで、一人、庄屋の寛太夫だけがじっと目をとじて考えこんでいた。そして、おこりさわぐ村人に、
「みなのもの、さわぐでないぞ。はやまったことをするでないぞ。」
といって、たしなめた。
 しかし、いきりたった村人は、
「いかに、庄屋どののおことばでも、こんどだけは聞くわけにはいかぬ。」
「あの与作のやつを追い出さんと、はらの虫がおさまらぬ。」
「庄屋どの、こんどだけは見のがしてくだされ。」
と、寛太夫のことばに耳をかさない。
 うしろはちまきをきりりとしめて、手に手にぼうぎれを持った村人は、与作の家を取りかこみ、
「与作、出てこい、与作、出てこい。」
と、どなりながら、家の中へ小石を投げこんだ。
 ふいをつかれておどろいた与作は、刀を取るひまもなく、はだしでまどから飛び出して、大江浦[おおえうら]の竹やぶの中へにげこんだ。
 しかし、運わるく、竹の切りかぶで足をついて、にげることができなくなった。
 ぐずぐずしているところへ追いかけてきた村人に、ぼうぎれでなぐられるやら、けられるやら、もうさんざんである。
 そのうち、だれかの投げた石がみけんにあたって、与作は、
「ううん。」
と、うめいてたおれ、死んでしまった。
 おどろいて、われにかえった村人の頭に、庄屋どののいわれたことばがうかんできた。
「ああ、しもうた。えらいことしてしもうた。」
「いのちまでとるつもりはなかったのに。」
 しかし、今となってはあとのまつりである。
 このさわぎのすきに、与作の妻のおはるは、生まれてまもない赤んぼうをふところにだいて、はだしで大井谷のおくへにげこんだ。
 道がよくわからず、うろうろしているあいだに、日はとっぷりくれて、どこへも行けなくなった。
 しかたなく、近くにあったウルネ(キカラスウリの根)をほった深いあなにかくれて、夜をあかした。
 そして夜のあけるのを待ちかねて、牛廻峯[うしまわしみね]にはい登り、カヤ原にかくれて、カヤではきものをつくった。
 おはるは、それをはいて、赤んぼうをふところに、紀州(和歌山県)の龍神村へたどりつき、小又川坂[こまたがわさか]をおりて生まれた村にかくれた。
 このとき、おはるが、カヤではきものをつくったところを「はるふなやすば」と、いい伝えている。
 いっぽう、寛太夫は、
「ああ、取り返しのつかぬことをしてくれたものだ。」
と、毎日考えこんでいた。
 そのうちに、なにか心にきめたらしく、いつものようにおちつきはらっていた。
 さて、いく日かたって、このさわぎが五条の代官に聞こえてしまった。
 まもなく、代官所から、取り調べの役人がやってきた。
 よび出された村人は、まっさおになってふるえているばかりである。
「そのほうども、渋谷与作なるものを、石こづめにして、殺したと聞きおよぶが、しかと、さようか。」
 だれ一人、頭をあげるものはいない。
「ことのしさいはともかく、人をあやめるとはふとどきせんばんなり。かくごいたせ。」
と、役人のきびしい声がとんだ。
 そのときである。
 庄屋の重谷寛太夫が、つかつかと役人の前に進み出て、りんとした声で、
「申しあげます。渋谷与作を殺したるは、この寛太夫めでござりまする。村人どものいたしたことではござりませぬ。」
と、きっぱりいった。
「寛太夫をひきたてい。」
 村人は、あっと息をのんだ。
 なわをうたれ、ひきたてられた寛太夫は、村人にいつもとかわらぬやさしいまなざしをむけていた。
 やがて、寛太夫は大井谷上の天井平の近くの峠で、いさぎよく首をはねられた。
「寛太夫どの。」
「寛太夫どの。」
と、あとを追う村人は、声をあげてなきさけんだ。
 うちとられた寛太夫の首は、峠にさらされた。
 村人は、代官にねがい出て、寛太夫の首をもらいうけ、ていねいにこの峠にほうむった。
 そのときから、この峠を「仏峠」とよぶようになった。
 寛太夫の首をはねた血刀をあらった谷の水は「飲まずの水」といって、だれも飲まない。
 これいらい、この寛太夫をほうむったところは「花折塚[はなおりづか]」とよばれ、村人がたむけるサカキや花が、今もたえないのである。
 月日は流れて二十年。
 秋祭りの当日のことである。
 成人した与作のむすこが、
「きょうこそ、うらみかさなる父のかたきをとりにまいった。」
と、刀をきらめかせて、庄屋の家にのりこんできた。おはるがふところにだいてにげた、あの子である。
 庄屋は、
「まあ、気をしずめて聞いてくだされ。」
と、わかものをおしなだめて、これまでのいきさつをのこらず話して聞かせた。
 しまいに、寛太夫がいのちをすてて、村人を助けた話を聞いているうちに、血気にはやるわかものの心もしだいにやわらいできた。
「いかがでござろう。おまえさんが父上をしとうて、うらみに思う心はよくわかる。しかし、今さら、血で血をあらうようなことは、もうやめようではござらぬか。このさい、おわびのしるしに、父上がのぞんでおられた山をさしあげましょう。」
 村役たちに相談して、北又おくの山を一か所わたした。
 わかものもなっとくして、祭りの酒をくみかわして帰ったということである。
 それいらい、この山のことを「首銭山[くびせんやま]」とよぶようになった。
 今では、花折塚は、寺垣内[てらがいと]の氏神さまの境内にうつされて、だいじにまつられている。

文   勝山 やさ子(日本標準社刊「奈良の伝説」から)

(34)おさよ

 上湯川の古谷[ふるや]川の上流に上(かみ)という家があった。今では屋敷跡だけが残っている。
 ずいぶん昔の話である。この家におさよ、という娘がいた。ある日のことである。おさよは、日が暮れても一向に帰ってこなかった。家の人は大さわぎをしてさがしたが、何の手がかりもなかった。村の人も次の日から手分けをしてさがしたが、全くどこへ行ったかわからなかった。
 おさよが突然消えてからというもの、家の人は、何とか無事に生きて帰って来てほしいものだと、一心に神様や権現様にお祈りし祈とうも続けた。それでも、おさよは一向に現われなかった。
 ところが、まる三年過ぎたある日、おさよがひょっこり帰ってきた。
 あわれにも、おさよは見るかげもない姿であった。着物はぼろぼろになり、歯は一本もなかった。
 みんながいろいろ聞きただしたところ、おさよのいうには、出谷奥の栂[とが]の木の本[もと]で天狗にかくまわれていたという。その間、天狗がひょいと出してくれるものは、石でも何でも食べられたという。そして、天狗のところでは三日しかいなかったはずだ、と話していたということである。

話者   上湯川   乾 良蔵
記録   那知合   後木 隼一

(35)不思議な足跡

 昔の話にぬうら(のうら)。小山手寒行地[かんぎょうじ]山の道に、ひらたあー石が今もあるけんど、そこへ昔々御大師様[おだいしさま]が一休みしようとおもうて、そのひらたあー石んところで休んだんじゃーと。ほいて「どこらへいこうしら」とおもおて、むこうむいてみたら片川[かたこう]道から西中へ降りる道のうね(峠)に大きな松の木があった。そこへとおうだ(飛んだ)らしいちゅう話じゃ。その時、ひらたあ石[いしゅう]のうね(上)に右足と左足の跡を残しているのが、今でもあるんじゃ。片川へとおーだ御大師様を昔の人は祠[ほこら]をこさえて、石の像にして毎年旧の三月二十一日にまつりよったけんど、今は新の三月二十一日にかわってだいじにまつりょるよ。神様じゃーろうこさ、そがあーなとぉいまで飛びゃいいせんじゃろうのら。その足跡ちゅうのは親指だけべつじゃ、ほで、あと四つの指はまるうなってのら、ついとるよ。まったく不思議な足跡じゃのら。

話者   小山手   大谷 あやの
記録   小山手   大谷 勢子

(36)お大師さまと上湯川

 高野山は弘法大師さまが開いたことで名高い山じゃ。
 その大師さまが、高野山を開くまでに、全国各地を修業して歩いたのじゃが、そのおり、この上湯川[かみゆのかわ]へも立ち寄られたらしいのじゃ。とくに、大師さまは、人びとが修業するのにふさわしい道場をどこに開くかと、各地を旅して探したようじゃ。
 上湯川の上流、古谷[ふるや]川に今でも「見残し滝」というのがある。
 これは、大師さまが、谷々を調べ数えるうちに、この滝だけ見落したらしく、それでその名がついたらしい。この見残し滝は、寺垣内[てらがいと]の少し上の、大野というところにあるのじゃ。
 上湯川の古道[ふるみち]を歩いて行くと、道端に「大師がわらじを履き替えたところ」というのがあって、里の人びとは、そこを通るときには榊や花を供えたものじゃった。
 また、梅垣内[うめがいと]の奥に、大師さまが旅の途中、お弁当を食べたとき使った箸を地面に差したら、のちにその箸が根を下ろし杉の大木になった、といい伝えられた大杉があるのじゃ。この大杉は、地上三メートルほどのところで三本に枝分かれした大木で、一二〇〇年の年令[とし]を数えるといわれる。里の人びとは三本杉と呼んで大切にしているのじゃ。
 大師さまは、山の中でのどが渇き水に困った。
 そこで、旅する者が、こんな山中で水がなくては、たいへんだろうと、この三本杉のところで水が湧き出るようにと祈り、きれいな水を導き出されたと言い伝えられている。この清水は、今も尽きることなく、こんこんと湧き出ているのじゃ。

話者   上湯川   岡本 勝比古
再話     大野 寿男

(37)河童の草かき

 上湯川[かみゆのかわ]に菅原神社という小さな社がある。その社の下を流れる上湯川に妙神渕[みょうじんぶち]という渕がある。この妙神渕は、明治の大水害以前は、たいそう深い渕で、その下には暗い岩穴があって河童が棲んでいたそうじゃ。
 夏の頃になると、河童たちが毎日のように四・五匹連れだって流れの速い瀬で水浴びをしていたという。河童たち、水しぶきを上げて、ぞんぶんに戯[たわむ]れたあとは、岩に上がって甲らを干してひと休み、そして、また水にもぐるといった具合で、いかにも、のどかな日々を送っておったという。
 ある夏の昼下り、百姓が田んぼに入って二番草をかいておったそうじゃ。そこへ、だれか呼ぶ声がするので頭を上げると、どこから来たのか、見馴れぬ一人の男が畦[あぜ]につっ立っている。
その男、しきりに
「わしにも、草かきさしてくれ。」
という。それほどいうのならと、草かきを手伝わせることにしたそうじゃ。
 ところが、その男、不思議なことに、畦につくまった(すわった)まんま、三メートルでも四メートルでも、手を延ばして草かきをするではないか。
これを見た百姓、
「ははん、これは、ただものではない。」
と、ひとり言をいいながら、そっと嫁に耳打ちして、いそいで煤水[すすみず]を作らせた。そして、なにくわぬ顔して、
「これ、これ、お前さん。これは、夏負けにはめっぽう効く妙薬じゃ。これをひと息に呑めば、ぐっと体が楽になるぞ。」
と、その煤水を湯呑み茶碗にたっぷり一ぱい飲ませたのじゃ。
 男は、本気にして、ひと息にその煤水を飲み干したからたまらない。たちまち、男はギャーギャーと悲鳴をあげて、下の川へすっとんだそうじゃ。
 そもそも、煤水は河童の大敵じゃ、と昔から伝えられておる。
 河童は人間に化けたが、百姓がそれを見破ったという話、上湯川の津越[つごえ]という家に古くから伝わっている。

話者   上湯川   岡本 勝比古
再話     大野 寿男

(38)かったい水のいわれ

 昔、昔。大雨が降りしきる夕暮れどきのことじゃった。
 上湯川の寺垣内[てらがいと]の、とある家の前に、いずこから来たのか一人の旅人が立ちどまったのじゃ。
「もし、どうぞ一夜の宿をお貸しくだされ。」
 家の者が,おもてに出てみれば、この旅人、体じゅう生傷と膿[うみ]だらけで、家の者は、これを見て泊めるわけにもいかず、あれやこれやと口実をつけて断わったそうな。
 旅人は、仕方なく疲れた足を引きずるようにして、その場を立ち去って行ったのじゃ。
 やがて、旅人は丹生[にゅう]の川の方へと足を向けたのじゃが、道中雨はいよいよはげしく、その上に日もとっぷり暮れて、もはや歩くこともならず、とうとう道端の大石の陰に入って、雨をしのぎ一夜を明かそうとしたらしい。この大石というのは、引牛峠[ひきうじとうげ]のお地蔵さまの近くの谷にあった大石じゃった。
 旅人は昼間の疲れと、夜ふけの寒さに、もう死人のようにぐったり、動くこともかなわなかった。夜半、昼間からの大雨で地盤がゆるんだのじゃろ、この大石がぐらぐらと地ひびきたてて崩れ落ちたからたまったものではなかった。旅人はその下敷きとなり、あわれ一命を落としてしもうた。
 あとになってわかったことじゃが、この旅人、身なりこそ、ふびんじゃったが、大きな袋を背負った大金持ちじゃったそうな。
 そんなことがあってから、地下[じげ]の衆、だれ言うとなしに、このあたりをかったい水というようになったそうだ。
 地下の衆が、この旅人の死をいたみ、ねんごろに葬ったことはいうまでもない。

話者   上湯川   岡本 勝比古
再話     大野 寿男

(39)二重滝のしろへび

 むかし、迫[せ]の在所に、吉兵衛と六兵衛という男がおった。二人は大の釣り好きで、ちょっとの暇を見つけては、川へ走るほどの仲であった。
「このごろ雑魚[ざこ]しか釣れらんのーら。」
「うん、どこへ行ってもアメノウオ一匹もおらんのーら。」
「ほんまに、どこへ消えてしもうたんじゃろう。」
「あした、もっと奥へ行ってみらんか。」
「おう、そうしょうら。こんどこそアメノウオを釣ろうらー。」
 あくる日、吉兵衛はきげんよく六兵衛に話しかけた。
「よう、六兵衛、わしはいいところを思いついたぞ。」
「ほんまか、それはどこじゃ。」
「二重滝じゃ。あそこは、ぎょうさんおるということじゃ。」
「二重滝じゃあと。あすこには、滝の主がおるちゅうことじゃあぞ。なんでも、しろへびということじゃ。行かん方がいいぞ。吉兵衛。」
「なあに、そんな話は年寄りの考え出した嘘か迷信に決まっとる。わしは行くぞ。」
「吉兵衛、人が行ってはならんという所には、何かわけがあるに決まっとる。行かんほうがいいぞ。やめておけ、吉兵衛。わしは絶対に行かんぞ。」
「ふうん、お前は意外に肝っ玉の小さい男じゃのー。そんな男とは知らなんだ。よし、それじゃあ、おれ一人で行くぞ。おれが釣ってきても、うらやましがるなよ。」
そう言って吉兵衛は、本当に出かけて行った。
 二重滝は、迫のずっと奥にある。滝は上、下二段に分かれていて、音もなく流れ落ちる水は、とろんとした笹[ささ]色のふちをつくっている。この滝には、年中アメノウオが群れていた。実際、この滝へ行くのは今でも相当の覚悟がいる。川に沿って行けば、つかみどころのない岩壁を命をかけて登ってゆかねばならない。
「いやあ、これはほんまによう釣れる。六兵衛も来ればよかったのになあ。ばかなやつじゃ。憶病者というのは損なもんだ。」
 吉兵衛は、大岩の上から顔だけ出して、腹ばって釣り糸をたれていた。こうして小一時間もすると、ぼうつり一杯になってしまった。
「もうこれくらいでよかろう。腹でもするか。」
ぼうつりをひっくり返して一匹目のアメノウオの腹を割[さ]こうとした。そのとき、小さな白いへびが足元によってきた。
「ほう、これが六兵衛の言っておった滝の主か、なんとまあ、ちびっこい白へびじゃないか。」そういって足でけりこもうとしたとたん、白へびは、吉兵衛の足にかみついた。 
「このやろう、何をするのだ。」怒った吉兵衛は、持っていた小刀で白へびの首を切り落とし、ふちの中へ投げこんだ。するとどうだ。みるみるうちにふちはわきでるように真っ赤になってしまった。そして、赤い帯となって下流へ流れていった。
「うわあ、助けてくれー。」悲鳴をあげて吉兵衛は後ろも見ないで山へかけのぼった。
 それからは、再び誰一人として、この二重滝へ近寄ろうとするものはいなかったのである。

話者   旭   岸尾 富定
記録   上野地小学校
再話   松実 豊繁

(40)古だぬき

 ずっと、昔の話である。松柱のある家の父さんは丸太切りで、山へ泊まり込んで仕事をしていた。
 ある夜のこと、誰かが戸をたたくので、開けて見ると、嫁さんが子供を背負って立っていた。びっくりしている父さんに、
「子供が、どうしても父さんの所へ行こうら言うすか(ので)、連れて来たんじゃ。」
と言った。父さんも一時は変に思ったが、子供の顔を見ると機嫌も直り、
「まあ、入れよ。」
と、小屋に入れた。嫁さんは、子供を背負って中に入って来ると、
「ああ、腹へった。」
と言うもんだから、飯の用意をして、たらふく食べさせた。しばらくして、
「今日はもう帰れ、あんまり遅うなってもいかん。」
と言うと、嫁さんは子供を背負うてさっさと帰って行った。
 あくる夜になると、夕べと同じころ、嫁さんが子供を背負ってやってきて、
「子供が、どうしても父さんの所へ行こうら言うすか、連れて来たんじゃ。」
と言ったと。そして、腹がへったと言うもんだから、たらふく食べさせて帰らせた。次の夜、またまた同じころ、嫁さんは子供を背負ってやって来た。そして、「子供が、どうしても父さんの所へ行こうら言うすか、連れて来た。」
という。どうも、おかしい。
「いつもいつも、こんなに夜遅う飯を食らいに来て。もしも、明日の晩、お前らがここへ来たら、この鉄砲でうつぞ。」
と怒りながらも飯を食べさせて帰らせた。
 それにしても不思議なことだ。こう度々来られてはたまらん。とにかく明日は家に帰るとしよう。
 翌日家に帰り、これまでのことを嫁さんに話した。嫁さんは、そんなことはしていない、全く知らぬことだという。いくら確かめても知らないというのは本当のようだ。それならよい、嫁さんを疑う余地はなさそうであった。
 それでは、昨夜まで来ていた者は何者であろう。いよいよ不思議でたまらない。不安がないわけでもないが、
「もし、お前らが、また、小屋へ来たら本当にこの鉄砲でうつからな。絶対に来るなよ。」
と、きびしい声で何度も念を押してから山へ出かけて行った。
 仕事を終えて、夕飯もすまし、あれだけ言っておいたんだから、よもや今夜は来ることもなかろうと、休んでいると、意外にも、いつもと同じころ、嫁さんが子供を背負ってやって来た。
「子供が、どうしても父さんの所へ行こうら言うすか、連れて来た。」
と言った。こいつはただ者ではない。よくもずうずうしく来られたもんだ。油断していたら命が危ない、と思い、
「昨日あれだけ言ったことがわからんのか。今日来たら鉄砲で撃ついうたこと覚えとるじゃろ。」
と言うが早いか、そばにあった鉄砲を取って、逃げようとする嫁さん目がけて一発ぶっぱなした。
 嫁さんは泣き泣き、
「これまで一緒に暮らして来て、こんな目に合わされるなんて…。」
と撃たれた傷を押さえ、泣き叫びながら逃げていった。
 父さんも、一時は恐ろしさと腹立たしさとでかっとなり、嫁さんを撃ってしまったが、少し気が落ち着いてくると、やはり気になって、たいまつをつくり、後を追った。たいまつを明かして見ると、まだ、真新しい血が道にそって落ちている。しだいに心臓も高鳴ってくる。胸さわぎもする。足どりも早くなってくる。血のあとは、家まで続いている。家に着くとあわてて戸を開け、いきなり飛びこんだ。
 部屋では親子は、いつものように寝ていたが、気の立っている父さんは母子をゆり起こし、
「今日、あれだけ言ったのに、お前ら、さっきおれの小屋へ来たな。」
と、大声でどなると、
「行きゃあせんぜ。」
と嫁さんがねぼけまなこで言った。それでも、まだ信じられない父さんは、
「うそつけ、確かにさっきお前ら、おれの小屋へ来とったんじゃ。」
「うそじゃない。行きゃあせん。-そういゃあ、さっき、牛小屋のあたりで、何かうなるような声がしよったわ。」
と言う。嫁さんも起きて来て、たいまつを持って一緒に牛小屋に行った。血は牛小屋のそばの大木へ続いている。よくよく見ると、腐ってあいた木の穴へ、飯をたくさんつめこんで、真白な大きなたぬきが、血まみれになって死んでいたということだ。

記録   西中   光野 広実
再話   後木 隼一