(31)代官小堀数馬証状

十津川郷では享保13年(1728)将軍吉宗の日光社参の節、恐悦として酒・塩鯛を代官石川伝兵衛成征[なりゆき]を通じ献上した。安永5年(1776)将軍家治の日光社参にさいし、先例により酒・塩鯛の献上を十津川郷の惣代が願い出たことに対し代官小堀数馬邦直[くになお]は江戸勘定所に問合せた上、これを嘉納し、江戸の賄所に廻送したとあり、その証文として郷中に交付された。

(32)触書写并請書控

文化5年(1808)朝鮮信使の来朝につき、その入用費として全国各村々へ村高100石に金1両宛、国掛りとして来る5か年割合1か年100石に永200文宛賦課することになった。村々で免課の理由があれば証拠書類を提出し、申し出がなければ大川普請掛り定式(国役)で10月かぎり京都奉行所へ割賦で取立てられることになった。
そこで十津川郷では「往古より由緒有之無年貢地ニ而国役諸掛り御免除之訳」を五條代官所に嘆願したものである。

(33)代官御巡在役赦免願書

代官(辻甚太郎)の御順在(巡見)に対して、郷惣代は会同して御赦免を願った。近来では大屋四郎兵衛正巳[まさみ]、河尻甚五郎春之[はるの]支配のときにも先格をもって断ってきたという。休泊場所が定まらず、出水ときは数日も川留になり、米穀にも支障をきたすという理由をあげている。

 

(34)虫干用費村極書

下組六惣代、上組二惣代と小松靱負(御会前本)が会合、「御宝書虫干御会所御招」をおこなった。この時期、両郷とみえるから上組、下組合同の御宝所管理となっていたらしい。その費用の分担について郷中が取極めた文書である。

(35)大塩平八郎探索請書

天保8年(1837)2月、大坂町奉行所の与力大塩平八郎(1793~1838)が反乱を起した。陽明学者(大塩中斎)としても名声をうたわれていたが、天保の大飢饉による庶民の困窮をみかね、蔵書を売って窮民の救済にあて、檄文を摂津・河内・和泉・播磨の4か国に配布し、幕吏の無道と豪商の腐敗を糺明、挙兵計画をたてた。これは露顕した。同志十数名と挙兵、大坂船場の商家を襲撃、市中の要所を焼き払った。蜂起は一日で鎮圧され、同志は四散した。平八郎は3月末幕吏に襲われて自殺した。
幕府は逃亡したと噂される平八郎やその一味の探索廻状をもって潜伏先の追及にやっきとなった。本状は十津川郷惣代の要請により、前鬼山役所では部内に潜伏したおそれのないことを報じたものである。

(36)江戸城本丸普請木献上願書

天保15年(1844)、江戸城本丸の普請にあたり、五條代官小田又七郎から十津川郷惣代に対し、5尺廻り、2間以上の立木数(檜、槻、栂など)調査の命令があった。そのさい国恩に対する冥加として献木(檜材20本)することを願い出た文書。

(37)合薬製方取締書

異国船の来航で諸国は騒然となった。このとき十津川郷ではその防禦のためいつでも幕府の御用をつとめる覚悟をきめた。嘉永6年(1853)9月、郷内に所持する465挺の鉄砲用の硝石合薬を谷瀬・風屋・野尻村の三か村で製造することに郷中として異存のないことを確認した。いずれ五條代官所にその製造方許可を陳情したことであろう。

(38)武器取調帳

異国船渡来で海岸防禦など十津川郷民は古来の由緒をもって幕府の御用につとめたいと所持する武器類を調べ五條代官所に願い出たもの。

(39)梅田雲浜書状

安政3年(1856)3月10日、梅田雲浜が五條の下辻(紙屋)又七に与えた書翰。
梅田雲浜は通称源次郎。若狭国小浜藩士。朱子学を修めた攘夷論者。安政の大獄に殉じた。文中の深瀬は十津川郷士深瀬繁理(1826~1863)のこと。繁理は嘉永3年(1850)郷里を出、諸国を遊歴、同6年ペリーの浦賀来航を機に国事に奔走することを申し合せ、6月総代をして五條代官所に建白書を提出させた。安政元年(1854)繁理は雲浜らを訪れ、国事を論談。同5年正月上平主税・野崎主計らと再び雲浜をたずね、その紹介で長州藩大坂留守居役宍戸九郎兵衛らと物産交換に名をかりて時事を談議。同年4月上京、雲浜をたずね、その紹介で粟田殿に伺候、十津川郷の由緒書を提出、その殊遇をうける端緒を開くことに成功した。
山口薫二郎は梅田雲浜の門人、山城国葛野郡川島村の庄屋。村嶌は大和国葛下郡高田村の豪商村島長兵衛の姻戚の村島内蔵進[くらのしん]のこと。雲浜は妻亡きあと肥後藩士松田範義の媒酌で内蔵進の娘千代を後妻に迎えた。こうした因縁で大和の豪商らと長州藩との間に物産交易をとおし国事に奔走することになった。この書翰で雲浜が下辻又七らと気脈を通じ、十津川の振興をはかるため画策したことが知れる。
安政6年(1859)6月雲浜は十津川村に下り、川津に野崎主計をたずね、滞在数日、時事を談じている。同年9月、雲浜は幕吏に捕えられ、翌6年9月14日幽囚のうちに没した。いっぼう繁理は天誅組に加担、各地を転戦、北山郷に潜伏していたが、やがて藤堂藩士に揃えられ、文久3年(1863)9月25日、京都の白川河原で斬首された。明治3年11月に正五位を追贈された。

(40)郷中取締書

農閑期には武芸稽古をすること。武器装束を整え御用に役立つように準備をすること。郷中のはからいなく郷惣代として行動したり、惣代の印を乱用をしないこと。博奕かけごとを禁じ、取締りのゆるい村方については隣村組合役人で取締ることなどを取極めた文書。千石箱とは宝蔵に保管した年貢御赦免文書箱のことである。