(101) 明治二十二年八月の大洪水
時は、明治二十二年八月のことである。十七日から雨が降り始めた。そして、この夜、少し風があった。翌十八日午前十時頃から大風雨となり、夜に入ってさらに厳しくなった。翌十九日、栗平川[くりだいらがわ]は大水となって、丸木橋や川に沿った水田を流してしまった。
しかし、このようなことは時々あったことである。
ところが、雨は、少しの休みもなく降り続けた。夜に入ってますます激しい大雨となった。私は、それでも平静で、床につき寝入ってしまった。
夜半頃であった。家の中で、「みんな起きよ、起きよ。」と、悲鳴のような叫び声があがった。私はすぐさま起きて、板戸を開け、四方を眺めた。なんと外の景色の不気味さよ。あたかも空中に河ができたように、あふれる大雨が降っていた。庭さきは、まるで沼のようになり、その後の谷水の音は、雷が鳴っているようであった。
天には稲妻が走り、あるいは激しく鳴り響き、大地が揺れ、地震のようである。実におそろしい心地がした。
そこで、まず、奥座敷に眠っている祖母を起こして炊事場に連れてきた。家族全員がここに集まった。大雨はたたきつけるように、この間も降り続けているのである。私は心を静め煙管[きせる]を持って、煙草を一、二服したときである。突然、奥座敷で大きな音がした。私は、風の音かと思ったのであるが、なんと、瞬時にして家は破壊され、前の畑に落ちた。
鴨居[かもい]、天井などは大雨と一緒に私をおそってきた。私は、「これはいかん。」と、パッと走ったのである。暗闇のことなので何かに行きあたり、倒れてしまった。しばらく起き上がれないままに、雨にうたれていた。
そのとき考えたのである。
「これは世界の終りであって、泥海になるのではないか。助かろうに道はない。このまま私の生涯も終るのだ。」と。
そのとき、壊れた家の中から、
「子どもを一人抱いて逃げてくれよ。」
と、叫ぶ者があった。まだまだ助かる道があるにちがいないと思い直し、すぐ立ち上がり、子どもを抱き、祖母を連れて、ようやく庭に出ることができた。
長屋も破壊され、道をふさいでいた。そこで庭さきの石垣をよじのぼった。
夜の明けるのを待ちかねて、家のありさまを見ようともどって見れば、残ったものは門と便所二棟だけであった。破壊されたのは、七棟である。
しかし、一人の死傷者もなく、家畜まで助かったのは不幸中の幸いであった。
同じく二十日、栗平川は大氾濫を起こし、田畑のあらかたは河原となってしまった。わが家の倉にあった穀物や諸器械、道具などは、すべて流失してしまったのである。
記録 (文書)栗平 乾 菊治郎
再話 松実 豊繁
(102) 中井亀治郎
まだ、今のように自動車道がついていない時分じゃった。
旭[あさひ]の中谷の在所に近い道の端に、なんでも根元のさしわたしが二尺(およそ六十センチ)あまりもある古い松が立っておった。この松のうらは八、九間(およそ十五、六メートル)もある切りたった崖で、その下には旭の流れが渦を巻いておった。
わしは、こどもの時分、そこを通ったことがあったが、そのとき、この松の枝叉に大きな白石が一つ、ズシリとのっていたのを覚えておる。
いっしょに歩いておったおやじが、
「ありゃあ、亀治郎先生がのせたんじゃよ。……昔、この村に中井亀治郎という剣の達人がおったんじゃ。この人の連れ合い(妻)は中谷の人じゃったから、よう、こっちへも来とった。
あるとき、先生は、何を思うたか、下の谷へ下りて、一かかえもある白石を拾うて来ると、下駄ばきで、この松にヒョイ、ヒョイ、ヒョイと登り、あの枝の元へのせたんじゃ。」
と、言うてくれたもんじゃ。
わしは、亀治郎さんという人は、ただの人じゃなかったなと、つくづく思うたもんじゃ。あれから、もうかれこれ七十年、あのときの道も、それから、あの松も今はみんななくなってしもうたわ。
昔、狩川[かりかわ]というてな、この十津川じゃ、伐[き]り出した材木は谷川に落として流し、大川に集めたもんじゃ。大川に集められた材木は、そこで筏に組まれて新宮へ下っていったもんじゃ。
この旭川でも、その狩川はようやったもんじゃ。
あるとき、大雨が降って谷川が増水したので、
「おうい、きょうは狩川じゃあぞ。さあ。みんな出た、出た。」
と、男衆はめいめいにとびぐちを担[かつ]いで川へ走った。ちょうど中谷へ来ておった亀治郎さんも男衆に交じって狩川へ出てきた。
せまい川幅いっぱいに溢れた大水は、ゴウゴウと音を立てて流れている。川上の男衆が下す材木は荒波にもまれ、押し合いへし合いして流れた。
さっきから、このようすを見ておった亀治郎さん、手ごろな材木を見つけると、いきなり、ヒョイとその上に跳び乗り、材木の先っちょにとびぐちを打ち立て、まん中あたりにすっくと立ち、腕組みして濁流に乗り出した。
岸の男衆が、
「おうい、だれじゃ。危ないぞ。」
「やめろ、おりろ。」
と、悲鳴に似た大声で叫んだが、当の亀治郎さん、振り返るようすもなく、荒瀬も岩場も体をよじって自由自在に舵[かじ]をとり、下[しも]へ下へと乗り下ったものじゃった。
男衆は、
「なんというおとろしい奴じゃ。ありゃあ神わざじゃ。命いくつあっても足らんわ。」
と、あきれかえった。
昔、十津川の衆が立里[たてり](野迫川村)の荒神詣[こうじんもうで]をするときにゃ、てくてく歩いて大塔の宇井を過ぎ、川原樋川[かわらびかわ]を上って野迫川の池津川に着き、そこから険しい山道を立里まで登らにゃあならなんだ。
亀治郎さんも、あるとき、数人の仲間たちといっしょに、立里詣に出かけたのじゃ。仲間のひとりが、そのときのことをあきれ顔にしゃべっておった。
「池津川から立里へ登る山道は、まっことえらかった。ところが、あの亀治郎さんときたら、道沿いの立木によじ登り、下の木から上の木へとまるで猿のような身のこなしで上がってしもうた。わしらも負けんようにと地面を急いだが話にならん。いくらも行かんうちに置いていかれてしもうた。わしらがやっとのことで荒神さんへ着いたときにゃあ、亀治郎さんは、とっくのむかしにお参りを済ませ、昼飯も食うて、ひとねむりして起きたとこじゃった。」
亀治郎さんは、杣夫[そまふ]になって杉や桧の大木を伐りに出たこともあった。その連れのものが、こんなことを言うておどろいておった。
「木を伐り倒すとき、たまに風向きなどで、ほかの木に枝がひっかかって地面に倒れんことが起こる。もし、そうなったら、杣夫はあわてたり、途方に暮れたりするもんじゃけんど、あの亀治郎さんは違う。そんなとき、猿みたいにスルスルと倒れかけの木によじ登り、じゃまになる枝を切り払うが早いか、乗っている木が地面に落ちるより一瞬早く地面に飛びおりるんじゃ。そして、けろっとしておるんじゃよ。」
亀治郎さんが、文武館(旧十津川中学=現十津川高校)で剣道を教えておったころにも、おもしろい話がぎょうさんある。
そのころ、武者修行じゃいうて、亀治郎さんは、よう、よその道場へ試合に行ったそうじゃ。
ある道場へ立ち合いを申し入れたら、亀治郎さんの評判を聞いておったその道場じゃ、尋常[じんじょう]に勝負したら勝目はないというので、ま冬のことじゃったから、夜中に道場の板の間に水を撒き、カチンカチンに凍らせておいたそうじゃ。ところが、いよいよ立ち合いとなってみると、亀治郎さんは臆するどころか、凍った床の上をすべるように動き回るし、それに引きかえ、道場の門弟たちは、どれもこれもスッテンコロッで、まるで試合にも何にもならなかった。
ある日、亀治郎さんが、文武館の寄宿舎の炊事場で炊事を手伝っているところへ、あんまり人相もようない二人連れがやって来よった。普通より長い竹刀をちらつかせながら立ち合えというのじゃった。
亀治郎さんは、
「おお、よかろうよ。」
と、気軽に受けると、はま下駄をはき、その二人連れと演武場の方へ行ったのじゃった。が、じきに、一人戻ってきて、また、炊事の仕事を続けるのじゃった。
生徒たちが、不思議に思うて、
「あの連中は、どうしましたか。」
と、たずねると、
「ああ、もういいんだよ。」
と、こともなげに言うのじゃった。
亀治郎さん、いったい、この二人連れをどのようにして追っぱらったか。それを知る人はなかったと。
とにかく、この出来事は束の間のことじゃったから。
ある日、亀治郎さん、蠅[はえ]取りをして見せてくれたそうじゃ。
亀治郎さん、畳の上を這い回る蠅にねらいをつけると、サッと刀の鞘[さや]を払い、目に止まらん速さでスッと刀を走らせる。次の瞬間、刃[やいば]の切っ先きには蠅が吸い着いたようにくっついていた。畳の表には、刀の傷あとはひとつもなかったと。
亀治郎さんは、よう好んで酒を呑んだ。さもうまそうに杯をあおっている姿はよく見られたそうじゃ。
ところが、なにか気にくわんことがあると、持っていた杯(瀬戸もの)をバリバリと音を立てて噛み割ったそうじゃ。いっしょにのんでおった連中は、その様子があんまり気色悪いので、顔色変えて一人、二人とこそこそとその場を去ったと。
鹿というのは、追われると、山の上から谷川へ下りるらしい。
あるとき、亀治郎さんは、仲間たちとその鹿狩りに出かけた。
「鹿が下りるぞ、谷へ回れ。」
の合図に、丘にいた亀治郎さんは、さっと身をひるがえして谷川へと走った。ひと跳びで、四、五メートルもはねる鹿よりも、亀治郎さんの方が谷川へ下りるのがよっぽど速かったと、狩人たちがびっくりしておったと。
話者 旭 福井 恵之
再話 湯之原 大野 寿男
(103) 三十三の観音像
昔、熊野街道の果無[はてなし]越えには、追いはぎがたいへん多かったという。それで、命を落とす人も多かったという。そこで、追いはぎを防ぎ、なくなった人を供養するために、大津越[おおつご]えの切畑屋[きりはたや]が観音像を彫り、観音堂を建立したのだという。
ある年、お燈明の火があまって、観音堂の一部を焼いたことがあった。そのとき、みる人にみてもらったら、熊野街道の桑畑から八木尾まで、観音像を建てるようにと言われたそうじゃ。
観音像を建てるという話がもち上がると、多くの人々からの寄進があり、三十三の石像は、すべて寄進によって彫られたそうだ。
こうして造られた観音像は、桑畑の柳本から、果無峠を越えて八木尾の間に人々の奉仕によって、大正十二、三年に据えられたものじゃ。
石像を運んだり据えたりする仕事は、すべて桑畑の人々がやったのじゃよ。
三十三の観音像を全部据え終わると、魂入れということになった。そこで、那智神社の大阿闍梨[だいあじゃり]、「中森了三」という方にお願いして行われたのじゃ。
この時、大阿闍梨は八木尾から観音像一つ一つに魂を入れて行かれた。途中からは、桑畑の青年団がかついできたかごに乗り、さらに観音像一つ一つに入魂していき、ついに果無峠を越えて、山口という茶屋で一晩泊ったそうだ。
次の日、残りの観音像に魂入れを無事終えたのじゃ。
観音堂の所に「総開眼供養観世音菩薩大阿闍梨中森了三」と書いた標木が建ててあったことをおぼえているよ。
話者 桑畑 岡本 辰吉
記録 那知合 後木 隼一
(104) 和気の大和
竹筒[たけとう]の下[しも]の川の突き当たりに、槍折れの岩というところがあるんじゃ。
ずいぶん昔の話らしいよ。新宮の殿様が舟に槍を立てて川をのぼっていたのじゃそうじゃ。その様子を見ていた竹筒の人たちは大声で、
「槍を倒せ。」「槍を倒せ。」
と、喚[おめ]いたそうじゃ。みんなの声が聞こえたのか、突き当ての岩のところで槍を倒してから、舟は川上へとのぼっていったそうじゃ。そのころは竹筒も勢力があったんじゃろうかい。
昔は玉置神社の勢力も強かったらしい。九重[くじゅう]からずっと下まで玉置の領地であったということじゃ。
ところがある年、このあたり(竹筒)から下では、大和につくか紀州につくかで大変な争いになったことがあったそうじゃ。やはり新宮や紀州の殿様の方が力があったのじゃろう。九重から下の人らは紀州についたのじゃ。
また、竹筒と九重の境界については、ずいぶんもめたらしい。竹筒の人は谷限りにしようというし、九重の人は、谷を越えて上の丘までだという。長いこともめたが、結局、九重の人らに竹筒の人たちが押しまくられ、丘限りにされたということじゃ。
そのころ、十津川には千本槍というのがあったそうじゃが、紀州につく人々が、千本槍のうち五本抜いて持っていったときいている。
大和の領地がもっと南まであったという証拠に、和気の岩場に「大和[やまと]」という大文字が彫り刻んであるということじゃ。
話者 竹筒 大平 直治
大下 トシ江
記録 那知合 後木 隼一
(105) 津久(継)
一六一四年、大阪冬の陣の折、北山郷は、徳川幕府に反対する豊臣方につき、一揆をおこした。大将の中に、津久という侍がいた。
一揆方は、新宮城へ攻め入ろうとしたが、失敗に終わり、山中へ逃げ込んだ者、新宮城主に殺された者、さまざまであったという。
さて、津久はどうなったであろうか。
津久は追手から逃れ、大野の田垣内にあった安田という家にかくまわれていたのである。しかし、ここもあぶなくなって、近くにある竹の谷の八畳敷位の洞穴[ほらあな]に、じっと身を潜めていた。(のち、この洞穴は津久の岩屋と呼ばれている。)そのうち、追手がいよいよ迫ってきたので、片川[かたこう]向う越えで、白谷の逢阪山[おうさかやま]の向うの崖[くら]に隠れた。ここなら安心と思ったのも束の間、とうとう見つかってしまった。津久は、刀を口にくわえてすぐ下の渕へとび込んだ。(この渕も津久渕と呼ばれている。)津久は泳ぎながら、
「もう、わしも逃げ隠れはせん。岸に上がるまで待ってくれえ。」
と叫んだ。なにしろ津久は、招き斬りの術をもつ剣の達人であった。追手の者たちは、岸にあげては勝ち目がないとわかっていたので、火縄銃でうち殺し、首をとった。
追手の一行は、大野の中井家で休んだあと、焼峰[やけみね]を越えて、武蔵の井矢[いや]という家で祝杯をあげたということである。
井矢という家はその後栄えず、絶えてしまったという。また大野の中井家も栄えない家だったという。
話者 大野 下谷 貞彦
再話 小西 良子
(106) 平内坊主
むかしむかし、平内という坊主がおりました。この坊主は、坊さんのくせに、鹿をとるのがとてもすきでした。大井谷という川の上流の山奥一帯に、たくさんの犬をはなって鹿を追い出させます。鹿は川辺がすきですから、だんだん川の方へ出てきます。
平内坊主は、ホーイホーイと籠を振って、川下の方へ鹿を追いおとして行きます。川下には両岸の山がせまって、昼でも暗いような滝があって、その下に渕がうずまいています。その渕尻[ふちじり]に柵をしておいて、渕へとびこんだ鹿をとっていたのです。
あるとき、いつものようにたくさんの犬に追い出させた鹿を、坊主は籠を振って、ホーイ、ホーイと川を下り、とうとう渕へ追いこんだのです。ところが、この鹿は、今までよりとても大きく強い鹿で、太い棒でなぐってもびくともしません。さすがの平内坊主もよわりました。その時、急に渕の水がクタ、クタ、クタ、わきかえるようにねばって、まるであめのようになりました。平内坊主は、どうもがいても渕から出ることが出来ません。とうとうおぼれてしまったということです。
上湯川の平内滝は、今でも暗くてさみしい所です。
話者 永井 勝山 やさ子
再話 重里 榊本 利清
(107) 地蔵堂の謎
私には、藤治[とうじ]という叔父が居た。以前、出谷の松柱に住んでいた。若い頃は、臆病で、夜になると一人で歩けない男であった。
串崎[くしざき]には、藤治の兄が住んでいて、その家で泊って出材[しゅつざい]の仕事に通っていた。ある夕方、仕事がおそくなって、地蔵堂の岡に来たときには、日がどっぷり暮れていた。串崎へ行くには、地蔵堂の岡の手前で本街道から別れて、斜めに細道を下ったのである。
叔父は、暗い道を鳶[とび]をかついで下っていた。ちょうど、地蔵堂の岡の下に来た時、道ばたの草原で、バサバサッと音がした。臆病な叔父は、
「それ、狸がいた。」と思って鳶を打ち込んだら、
「きばってくれーよ。(やめてくれ)」と声がした。
さあ、よわった。人を傷つけた、と思ったが、寂しいのと、おとろしいのとで、後もふり向かず、一目散に兄の家に駆けて行った。
兄は、「えらいことをしたのうら。」
と言って、提灯[ちょうちん]に火をつけた。二人で行ってみると、大津屋の方へ血がポタリ、ポタリと続いていた。でも、それから何日たっても、怪我をさせられたという人もなかった。あがあに(あのように)血が続いているのじゃから、どこかの家へ入って傷の手当[てあ]ちょうするはずじゃあが、その話もなかった。
「きばってよう。」と声がしたんじゃすか、まんざら狸でもなかったじゃろうと思うが、今もって不思議じゃ。
記録 重里 榊本 利清
(108) 天狗の止まり木
今から五十年余りも前、わしが若い頃じゃった。
たしか、あれは六月じゃった。在所の仲間と二人で白谷ヘアメノウオを釣りに行ったときじゃった。
朝、まだ夜が明けんうちに湯之原をたって、湯の谷を通り、武蔵の在所へのぼり、焼峯[やけむね]を越えて大野の在所へ下り、また谷を渡って山越えし、白谷の飛び渡りへ下りたものじゃった。まあ、ざっと五里(約二十キロ)ほどの山坂道を歩いたものじゃ。
この日は雲具合も水加減もよかって、まっこと、よう釣れた。あんまり釣れるので、時のたつのも忘れて、どんどん奥へ入ったものらしい。二人がやっと気がついたときには、すっかり日もかげって、もう夕方じゃった。
「こりゃあ、たいへんじゃ。はよ、あがらんと、よういなん。」
二人はあわてて、魚の始末もそこそこに、朝来た山道を戻り始めたものじゃった。ころげるようにして、二人はものもいわずに走ったものじゃ。それでも、やっと、武蔵まで戻ったときにゃあ、もう、とっぷり日が暮れておった。あと一里余りじゃと、ずっしり重いぼうつり(びく)を肩にゆすりあげて歩きつづけたんじゃ。湯の谷を過ぎて、二つ丘を越えると、やっと湯之原の燈がちらちら見えだした。
「やっと来たぞ、あと一息じゃ。」
と、わしが声をかけたそのとき、どうしたことか、わしの足が動かんようになった。足を前へ出そうとすると、こんどは腰の力が抜けて、その場にへたへたっとへたりこんでしもうたんじゃ。後についておった仲間が、
「おい、どうした、おい。」
と、わしの背中をゆするのじゃが、もうどうにもならん。
-ははん、これじゃな。ダルにとりつかれるというのは。-
わしは、仲間に
「すまんけんど、おれのうちへ行って飯をもらってきてくれ、おれはダルにとりつかれたらしい。動けんよ。」
と、頼んだ。仲間はあわてて家に走り飯を持って迎えに戻ってくれたんじゃ。わしは、飯を口いっぱいに押し込んだものじゃ。
そして一息ついたら、わしは、さっさと帰ってくることができたよ。
わしがダルにとりつかれたのは、湯之原のつい下[しも]まで来てからじゃった。今でも、このときのことを思い出すと不思議でかなわん。
話者 湯之原 羽根 定男
記録 湯之原 大野 寿男
(109) 天狗の鼻擦り石
山手から椋尾[むくりょう]に登る途中に、きじの森というところがある。そこに天狗の鼻擦り石があるんじゃよ。
むかしむかし、椋尾の天狗は、この石で鼻をこすって磨いたんじゃと。わしも見たことはあるが、子どもの背丈ほどの石で、その面[おもて]には、のみで刻みこんだような溝が幾本もあったのをおぼえている。
五十年以上も昔のことになるが、きじの森の近くの山から材木が切り出された。そうして、ちょうどこの鼻擦り石のあたりが、材木の中継所にされた。ところが、どうしてもこの石がじゃまになってしまい、とうとうその一部を割ってしまったんじゃ。
ある日のことじゃ、中継所に積んでいた材木のうちの何本かが突然、空中を飛んだかと思ったら、一人の職人を突き殺してしまった。石を割った職人は昼日中、羽織袴をつけて、奇声を上げて家の周りを飛び回ったんじゃ。そのかっこうは、まるで天狗のようじゃった。
あんまり不思議であるので、親方は山神のたたりかもしれんと、ていねいにお祀[まつ]りした。その晩、親方の夢の中に真っ赤な顔をした天狗が現れた。
「よくも、おれの大事な石を割ってくれたな。割った者の命をとるから覚悟しろ。」
と、たいへんな怒りようであった。目が覚めた親方は、職人たちと一緒に、あの石をそれこそていねいにお祀りした。しかし、ついに許してはもらえず、石を割った職人は狂い死にしてしまった。
それから数年たってからの話になるが、また羽織袴を着て飛び回る人が現れた。まだ天狗の怒りは解けていなかったのかと、あわてた村人が巫女[みこ]に神寄せしてもらったところ、
「われは南条に住む天狗である。山を伐られて住むところがなくなってしまった。どこかに住むところを作ってもらいたい。」
と、言ったという。村人たちは相談しあって、樫原[かしはら]の九鬼の山に祠[ほこら]をたてて祀ったところ、今まで飛び回っていた人は、ようやく正気にもどったのだった。
今も天狗の鼻擦り石は残っているが、九鬼に祀られた祠の所在を知る人は、もうわし一人じゃろう。
話者 高森 森 隆
再話 松実 豊繁
(110) 松之助のこと
湯之原の川向こうの山の中に、栃谷[とちだに]という谷川が流れている。
あの明治の大水害の前には、この谷川のほとりには田畑もあったし、何軒か家もあったそうじゃ。
この栃谷に今から百五十年ほど昔、松之助という者が住んでいたそうじゃ。松之助は、いつごろからこの地に住みついたものか、妻もなければ子どももおらず、とうとうその一生を独りぐらしで終ったという。
松之助は、顔・形が美しゅうて、そのうえに、ことば遣いも上品で、見るからに気品のある人じゃったらしい。
松之助は、ときどき畑に出て働いたが、その様は、ほんに女のあで姿じゃったという。長いゆたかな黒髪を背に流し、まっ赤な腰巻きで下半身を包み、それは絵のようじゃったという。
松之助は、村の衆とは親しく交わらなかったが、歯痛や腫れものを念力で治すというので、近郷近在[きんごうきんざい]からも栃谷をたずねる客がたえなかったそうじゃ。
やがて、時が流れてこの松之助も老い、その生涯をこの栃谷で終わったのじゃが、いまわのきわに、
「わたしは、きりこ(かき餅の一種)や豆炒り、焼きなすびのような香うばしいものが大好物じゃった。わたしが死んだら、どうぞ、その香うばしいものを供えてくだされ。さすれば、願いごとの一つだけは、必ずかなえて進ぜようぞ。」
と、遺[のこ]したそうじゃ。
村人たちは、ねんごろに松之助を栃谷に葬ったのじゃが、その後、子どもの寝小便や歯痛や腫れものなどを治してほしさに、墓前に香うばしいものを供えて祈ると、ふしぎによくきいたということじゃ。
松之助の墓には、湯之原や小原の信心深い人びとによって墓碑が建てられ、今も参りに来る人がいるということじゃ。中十津川の年輩の人には、松之助のことは、よう知られている。
湯之原の橋掛[はしかけ]の人が、二十年ほど前に祈祷して、この松之助の霊を呼んでたずねたら、
「今から七百年の昔、屋島の合戦で源氏に敗れた平家の残党が五百瀬[いもせ]に落ちてきたのであるが、その中に「清水」を名乗る一族がいた。わたしは、その末裔[まつえい]なのじゃ。わたしの氏[うじ]は清水、名は松之助である。」
と、答えたということじゃ。
話者 小井 天野 武春
再話 湯之原 大野 寿男