(21)かな山開発反対陳情書

十津川村惣代が南都代官の鉱山開発に対し、これの中止を出願したもの。さきに鉱山師福山次郎右衛門(大坂町人)の下代助九郎が樫原村くきの谷の銅山を見立て、寛文3年(1663)から2年間、開掘した。その結果、穀物のほか飯米代用の栃・樫を炭 にし、柿・栗・栢や葛・蕨のほか鮎や茶にまで鉱害があらわれ、またあぶれ者の入村で騒動がたえず、時の代官小野喜左衛門貞勝[さだかつ]に訴え、漸く閉山になったいきさつを述べるし、元禄年間これが停止された旨を記している。

(22)十津川郷山手銀御赦免記録

元禄12年(1699)から十津川郷は山手銀(林産税)を徴されたが、宝永7年(1710)5月、将軍家宣の新政を機とし、その赦免を嘆願した(次号につづく)。
南都代官辻弥五左衛門守誠はその嘆願を具申、勘定奉行(4名)は老中の裁許を仰ぎ赦免状を発した。これを弥五左衛門が施行、いっそうの忠勤を郷民にもとめている。その一件書類の正文である。

(23)南都代官辻守誠召状

23号文書は十津川郷山手銀赦免の恩命(勘定奉行の沙汰書)を申渡すため、郷内各村の庄屋1名ずつを南都に出頭を命じた。その召状である。
十津川郷に対する免税の恩典は永続した。郷民も祖先以来の忠勤にかんがみ、奉公を固く誓いあったのである。

(24)小原村十津川郷宝蔵取立請書

下組では十津川郷年貢赦免状ほか永年保存文書を格納する倉庫(いわゆる宝蔵)の建設を議し、場所は小原村に選んだ。そこで小原村は倉庫の警防の責任を負うが修造などは郷中の負担にするという契約を結んだのである。十津川宝蔵の成立がわかる。
下組は風屋村を中心とする上二村組、野尻村を中心とする下二村組、小森村・小原村を中心とする三村組、折立村を中心とする東村組、平谷村を中心とする四村組、湯川村を中心とする西川組を総称する(玉置の称が消えたのに注意)から、中野組、寒ノ川組など上組の宝蔵は別個にあったと考えられる。

(25)刀鍛冶屋御尋答書

幕府は享保5年(1720)、領内村々で刀(脇差)鍜冶の有無を調査した。これに対する十津川郷の回答書。

(26)藤堂藩古市役所村庄屋交代出願定書

寛保2年(1742)藤堂藩古市役所(城和奉行所)は、筆頭村役人である庄星の交替は、先庄屋、跡庄屋、百姓代の三人が出頭して許可をうけるよう十津川郷惣代に命じた。
これに対し、2月6日、小村の割に庄屋の交替が多いこと、古市(いまの奈良市古市町)へは遠路で3人も出頭すれば入費もかさむので、百姓惣連判をもって跡庄屋(新たに庄屋になるもの)だけを出頭することで済せるように郷惣代が嘆願した。これに対し古市役所は、先庄屋・跡庄屋の2人か、跡庄屋と百姓代の2人が出頭することに定めた。
十津川郷惣代は上組・下組8か組からそれぞれ選出きれ、他の大庄屋格にあたる。各村々の役人はおおむね互選で適任者が選ばれ、代官所(このときは藤堂藩藩預りであったから古市役所)の承認を得てはじめて庄屋の任についた。
ちなみに、十津川郷では文久3年(1863)、庄屋を庄司、年寄を目代と改称した。

(27)触書順達の儀に付願書扣

幕藩の触書は幕藩の定めた村順に回達し、留村から発信元へ返却するのを例とした。延享3年(1746)、藤堂藩預りとなってから十津川郷村々への回達はその回収を急ぎ長殿村で留めとし、長殿村で45通を書写し、それを郷内に廻達することになった。これは古格にもとるから、あくまで本紙を回達するよう嘆願したものである。長殿村に能筆者がないとの理由だが、実は本書の一見を各村が望んだといえる。

(28)十津川郷鎗役四拾五人家筋書

大坂冬の陣にさいし、奈良奉行中坊左近秀政から十津川郷士に鉄砲30挺、弓15張、具足を揃え参陣するよう命ぜられ、武士45人の頭取りほか1000余人が出動した(前掲9号文書参照)。頭取45人は鎗の者と定められ褒美として扶持方米78石7斗5升を代々給付された家筋を藤堂藩古市役所のもとめに応じて提出した控書。

(29)聖護院宮入峯諸役覚書

宝麿7年(1757)聖護院宮の入峰にあたり、藤堂藩古市役所に正徳3年(1713)の先例を報告したもの。
上葛川村まで各組惣代が出迎え、宮や近習らに特産の椎茸を献上、同村および玉置山に宿泊のさいは同山別当の賄いであること、代官所から役人衆の出動はなかったことが知れる。

(30)下組茶業者新宮茶問屋懸銀拒否援助願

新宮の茶問屋9軒が株仲間を設立することを領主に願い出た。かれらと取引きする十津川郷民はこれに反対しなければ茶樹1本につき銀1匁5分の冥加銀を課せられることになり、後代まで他国の運上役銀に加担し、十津川郷の損毛となるから郷会で評議して反対の添書を提出してほしい、と下郷の代表が庄屋に願い出た文書。この反対陳情に要する費用は茶の本数に割付けられるよう同じく評議を願っている。