(11)北村源右衛門書状

元和3年(1617)3月、2代将軍徳川秀忠の上洛にあたり十津川郷中からの御礼が首尾よく達せられた旨を伝えた文書。北村源右衛門は畿内奉行衆小野宗左衛門貞則の家臣。
「十津川郷由緒書」には、このとき郷士らは美濃国岐阜まで出迎え、油蝋燭をかざして京都まで供奉し、宿舎の二条城の門番をつとめ、白革(鹿皮)30枚を献上したという。

(12)御役筏銀請取状

十津川御役筏銀(延宝8年分)4貫500目のうち1貫237匁5分を請負った池原村(いまの下北山村のうち)板屋九郎右衛門の請取状。

 

(13)南都代官三田守良触状

南都代官三田次郎右衛門守良が幕命をうけ、先祖で将軍家の感状や御書などをうけたものがあれば、現在浪人・百姓・町人にかかわらず南都代官所(中御門町所在)へ持参することを命じた触状。
いわゆる「貞享書上げ」である。十津川郷民も早速これらの古文書を提出したことであろう。

 

(14)かな山留立願状

幕府の鉱山開発政策をうけた南都代官竹村八郎兵衛嘉広の銅山見分に郷民は反対し、玉置山や郷内外の社寺に「かな山御留」の立願をおこなったことが知れる。これは、かつて寛文3年(1663)樫原村領山で開掘され多くの被害をこうむったためである。結果は元禄4年(1691)に見分があったが郷民の歎願をうけ開発は中止されたようである。

 

(15)南都代官竹村嘉広触状

高野山僧徒の二大集団の学侶[がくりょ]と行人[ぎょうにん]は、寺領(2万1300石)の配分をめぐって元禄5年(1692)に衝突した。
そのさい南都代官竹村八郎兵衛嘉広は近隣なので十津川郷民の動揺を制し、庄屋に監視を命じた。なお、配下の藤原・秋山の両名を十津川口の立川渡村に出張させ、十津川郷民を監視するとともにその動員をはかった。
十津川郷から使者が参上したのに対し、重ねて郷民の自戒や禁足を令し、和歌山藩の協力要請には即刻呼応できるよう準備させたり、異変あらば即刻注進するよう庄屋らに命じている。

 

(16)南都代官竹村嘉広召状

東大寺御蔵(正倉院)修復奉行を命じられた南都代官竹村八郎兵衛嘉広は十津川郷上組・下組から庄星10人を警固番人として召した。30日間を予定し、帯刀して6月8日までに到着するよう命じている。

 

(17)上組下組取替書

元禄12年(1699)12月、幕府は当年の風損のため酒造米は前年の5分の1とするよう酒造制限令を出した。同17年にかけて毎年のように発布している。十津川郷でも、頼母子、郷寄合のさいの酒は白酒にかぎり、清酒の村への持込みを禁じた郷内取極めで、下組では七色・田戸村など紀伊国境に立札し、入酒を厳しく取締った。

 

(18)国絵図改国境村々連判答状控

元禄度の国絵図改めにさいし、大和国と紀伊国境に接する十津川郷内の越道、山、川などを南都代官に提出した控え文書。

 

(19)下組山手銀上下組割方訴状

元禄11年(1698)十津川郷に山手銀が賦課されたが、その割方は従来高割(村高による割合)において上組と下組とに差があった。それが棟別割となったので、戸数の多い下組にはいっそう不公平になった。弱百[かじめ]姓の痛苦は甚だしいとして下組惣代が郷代官に対し訴訟をおこしたのである。

 

(20)当山派役人等感状

玉置神社(祭神は国常立尊・伊弉諾尊・伊弉冊尊・天照大神・神日本磐余彦尊)は十津川郷鎮守と仰がれ、古くは熊野三所大権現と号し、高牟婁法王寺とも称した。また熊野三山の奥ノ院との称もある。元禄4年(1691)から京都の安井門跡に属し、享保12年(1727)からは聖護院門跡に属し、その末寺となった。
とくに修験道では熊野から吉野に至る根本道場大峰75靡の1つにかぞえられた。大峰75明の靡攀を峯入といい、熊野からの峯入を順峰(百日勤行)、吉野からの峯入を逆蜂(75日勤行)という。修験道は天台宗聖護院に属する当山派、真言宗三宝院に属する本山派の両派となった。
本文書は宝永元年(1704)の造営のさい、南都代官辻弥五左衛門守誠らを迎えて正遷官をおこなった。そのとき十津川郷下組の郷士が銑砲10挺、10鑓五筋をもって警固したことに対する当山派役人らの感状である。