(1)後村上天皇綸旨

後村上天皇は後醍醐天皇の皇子。正平3年(1348)正月5日、足利尊氏の権臣高師直は河内四条畷の合戦で楠正行を敗死させた。師直の進攻を予想した天皇は吉野山の防備を固めた。この綸旨は花園上庄郷人らを動員されたもの。しかし、同24日、天皇は吉野山を退去、賀名生に行宮をさだめられる。
花園上庄は十津川郷に所在、明治22年成立の十津川花園村(川津・風屋・内原・滝川・野尻・山崎・池穴)の村内と推定される。

 

(2)後村上天皇綸旨

後六月は閏六月のこと。後村上・長慶の両天皇のそれぞれに該当するが、この綸旨は後村上天皇、その正平4年のものといえる。
吉野山焼掠の高師直の暴挙は南朝方を奮起せしめた。いち早く神河郷民らが吉野金峯山寺前執行(吉野山僧兵隊長の吉水院宗信か)の跡の輩(あととりら)を推し立てて吉野山や安芸郷(現在の下市町秋野地方か)城の奪還攻撃をはかったらしい。天皇はこれを嘉賞し、平康宗を遣わして十津川12村の郷村民らに協力蹶起を命じたものである。ちなみに、時運は南朝に幸いし、翌々6年には京都奪還に成功する。
なお、中世の十津川郷は天川郷の以西以南の汎称である。この12村はいわばロ十津川、現在の大塔・野迫川両村域に成立した郷村(村落連合体)組織である。神河郷はこれとは別個の郷村で十津川支流の神納川流域に成立したものらしい。近世の十津川郷はこの12村組(29村)と袂を分ち、これの以南に凝固する。

 

(3)小堀正次書状

小掘新介正次は大和郡山城主豊臣秀長の老家。小掘氏は近江(滋賀県)坂田郡小堀村(長浜市)の開発領主、新介は浅井長政に属したが、浅井氏滅亡により羽柴秀吉に仕え、その弟の秀長に配属された。天正13年(1585)秀長が大和・和泉・紀伊の3 国太守として郡山城入りしたのに新介も従った。
同15年10月、秀長は新介を奉行として吉野・熊野の奥地の検地を実施した。検地は領主が土地台帳(検地帳)を掌握し、領主支配権力の徹底をはかったものである。このおりの検地帳10冊(北部の上二村組、下二村組)が現存している。
熊野権現の奥院と称される玉置山神社では庵主と篠坊とが秀長に忠誠を誓い、神領の検地赦免を新介を介して嘆願したらしい。 水田は絶無で不毛地帯というに近いのだから秀長はこれを許した。新介がその旨を伝えた文書である。文面によると、西川・玉置下郷のことも見える。いらおう、検地竿入れはなく、現場から指出した土地台帳を承認したらしい(各村の村高は定まった)。
新介はのち徳川家康に仕えて大名となる。寛永文化人の伏見奉行小堀遠州の父である。

 

(4)小堀正次書状

大和大納言秀長は十津川郷玉置山神領の検地を赦免した。そこでなお、その輩下のみならず、他の何人といえども、秀長の御墨付を持参せぬ者の徴課などには応ずるなという厳命を発し、これを新介に令達せしめたのである。新介の奉書ともいえる。なお、こ れと同文で11月15日に上二村に宛てた新介の奉書がある(検地帳とともに発見さる)。秀長は十津川郷の谷々(いわゆる組)の検地を逐次赦免、やがて十津川郷一千石を免許したらしい。

 

(5)豊臣秀長書状

豊臣秀長の検地は、十津川・北山両郷としては始めて中央支配権力の進攻をこうむったことだった。十津川郷は甘受したが、北山郷はこれを拒んだ。北山郷は紀州にもわたっている。これの検地奉行は青木紀伊守一矩(新宮城主の堀内氏善は土着武士なので不 起用)・杉若越後守無心(田辺城主)らしい。両名が赦免したとの噂があったが、秀長は武力討伐を決意し、玉置山篠坊には進撃準備を命じている。
篠坊が忠勤、小堀新介に牒報しているのだから天正16年のことであろう。北山郷は天険をたのんで反抗した。しかし、秀長の強権発動に脅え、やがて降服した。これに引かえ、十津川郷は篠坊らの忠勤によって千石赦免の恩恵にあずかったのである。

 

(6)増田長盛書状

熊野北山の山地村の百姓どもが一揆を企だてたので、成敗のため軍勢を派遣したが、十津川郷に逃れてきた同村民は、男女・子供を問わず、なで切りにすることを申付ける。そのさい首一つに米一石を褒美としてつかわすので粉骨するようにと命じたもの。
増田[ました]長盛(~1615)は当時豊臣政権5奉行の一人。この年、大和中納言秀保(秀長の養嗣子)が十津川湯治中に夭折したので郡山城主となった。
文面の長訓は浄楽寺長訓。なお、同年9月23日、同25日の玉置山篠坊(笹坊)宛増田長盛の書状によると、十津川郷士が奮戦し、それぞれ、首二三、首五を討取った功績を賞せられた。

 

(7)増田長盛人夫召状

郡山城主増田長盛(前出)が郡山城普請のため前年12月10日に十津川郷へ人夫を召したが、未だ到着しないことに対する催促状。恐らくは慶長元年(文禄5年)のことであろう。
郡山城15万石の近世城郭が長盛によって整備された。やがて長盛は関ケ原役に西軍に加担、敗れて高野山に逃れたが、家康に召喚され武州岩槻に拘禁きれた。再起はなく、大坂の役後に自刃している。

 

(8)大久保長安書状

大久保石見守(十兵衛)長安(1550-1613)は徳川家康の寵臣。関ケ原役直後に大和国奉行に任ぜられ、大和を徳川政権の前進基地化するに努めた。東海道街道奉行や佐渡金山奉行として有名。
十津川郷もこのおり境域を画定、50余村の郷村として確立した。上組・下組に大別、そしてそれぞれ数村連合の組(区)を擁する。この十津川郷の代表者として有力郷士4名が選ばれ4人衆と称したらしい。この4人衆は後掲文書(10号)に見える玉置山明花院・玉置左兵介・西川左馬介・加藤初右衛門であろう。
慶長8年(1603)徳川幕府が創まるが、この長安書状はその直後のものだろう。恒例の年頭祝儀として十津川郷が熊皮2枚を献上したのに対する受取状である。十津川郷の恭順を嘉賞している。

 

(9)奈良奉行中坊秀政軍役召状

豊臣氏討滅の大坂の役の開戦に当り、奈良奉行中坊左近秀政が十津川郷に対し、鉄砲30挺、弓15人の軍役を課した。しかし、さきに発令した材木役は免除するという。
十津川郷は奈良奉行の支配となった。左近は挙兵を動員したが、奈良奉行配属を嫌ったか郷民は応じない。そこで左近は鉄砲と弓の45人を武士として召した。十津川郷士45人制の成立がここに示される。

 

(10)本多正信書状写

本多正信は家康の老臣。2代将軍秀忠の宰相の地位に在った。十津川郷では課役のことなど種々懇願した。それに答えた書状。明花院以下は十津川郷民の代表、いわゆる4人衆らしい。