( 91 )  千葉 武男( ちば たけお )

 明治45年(1912)1月23日、千葉芳治郎の次男として重里に生まれる。
 十津川中学文武館(現十津川高校)を経て、大阪歯科医学専門学校(現大阪歯科大)を卒業する。昭和15年(1940)4月、歯科医師免許取得、和歌山県太地町にて歯科医院を開業する。やがて郷里重里に帰り医院を開く。昭和24年(1949)3月、平谷に居を構え開業する。開業後は営々として診療にあたり、地域住民の絶大の信頼を得た。特に歯科校医として児童・生徒のう歯について、検診後、村報に所見を載せ歯科衛生について父兄の啓蒙を図る等極めて熱心であった。自己の健康には人一倍格別の意を用いており、その保持に努力していた。日常何事にも屈しないという精神力をもって当たり、困難なとき、逆境に立つ程ファイトが沸くと語っていた。この強い精神力は何時何処で培われたものであろうか。
 武男は中学時代、館長浦先生の官舎に兄や同僚3人と共に寄宿していた。浦先生没後、追悼集が刊行されたが、その中で「…前略 五時起床。冬の朝の寒さは格別で、眠りたい盛りの、13・4歳の少年にとって、いささかきつかったが、先ず先生が起きて布団を片付け、“汝の心胆を練るのだよ”と叫びながら、布団をはね、寝根性のいらん奴には拳骨が飛んで来た。この拳骨で出来た瘤を、我々は浅間山と呼んだ。浅間山の数は私が一番多かったように思う。掃除・炊事・勉強が登校前の日課であった。…中略 如何なる困難にも、ひるまず、恐れず打ち勝って行けと我々に教えていたのである。…後略」と述べている。少年時代、昼夜を問わず名代[なだい]の精神主義者の厳しい薫陶[くんとう]を受ける中で、自ずから固い精神力が培われたのではあるまいか。
 晩年医療功労が認められ村より功労賞、厚生大臣表彰、読売新聞主催の医療功労賞、勲五等瑞宝章等数々の賞を贈られた。
 日頃家人に、「・治に居て、乱を忘れるな・借金をするな、止む無く借りた時は直ぐ返せ・請け判は押すな・質素倹約を旨とせよ」と説いた。
 短躯[たんく]、敢えて辺幅を飾らず、一見無趣味の人間に見えたが、日曜日には奇石・名石を楽しみ、又有名・無名に関わらず滝を探勝する等、健康的な趣味を有していた。
 平成元年(1989)4月20日、病んで真実一路に生きた生涯を新宮市民病院にて終えた。齢77歳であった。平谷に葬る。

( 92 )  中川 正左( なかがわ しょうざ )

 明治14年(1881)10月3日平谷、中川行保の次男として出生。
 平谷小学校から文武館(現十津川高校)に満9年7カ月という異例の年齢で入学、日本中学、一高、東大法学部に進む。38年(1905)卒業、逓信省に就職。以後順風満帆の官吏生活を送り、大正7年(1918)7月一躍運輸局長となる。4年11カ月の局長時代、モットーとしたことは、国鉄の使命に鑑み、営利第一主義を排し公益優先主義とすることであった。現場従業員のため休憩所や浴場を設置する等、数多くの改革をし業績を上げた。凡そ彼の仕事ぶりは事を運ぶに当たり、関係者の意見をよく聞き方針を決定、指示を与え決裁し、上部に手続きをとり後は任せきりに実行させ、事が成っても自分の手柄にすることはみじんもなかったという。従って部下はこの局長の為ならと仕事に精励したという。
 12年(1923)関東大震災のため政変があり、山本権兵衛内閣誕生、中川はこの時請われて鉄道次官に就任したが、年わずか43に達したばかりの青年官吏で如何に有能であり異例の昇進であったかが知れる。しかし震災の善後策に奔走している最中12月、虎ノ門事件(国会開院式に向かう摂政宮(昭和天皇)の車に難波大助が発砲)のために内閣総辞職、中川も内閣と運命を共にし辞任した。
 しかしこの有能な人物がそのままにしておかれるはずもなく、辞任直後東京地下鉄副社長、続いて帝国鉄道協会副会長等に就任、昭和3年(1928)産業合理化連盟を組織し会長となる。翌年米国繁栄使節団を組織、日本産業界のトップ25名の団長として米国各地を視察、その後の日本産業進展に大いに寄与した。後、鉄道同志会会長をはじめ東京近郊の私鉄重役、交通関係団体等多くの役職に就き功績を挙げた。他方東大講師・東京交通短期大学学長等を務めた。中川は官吏としては最高位の次官となったが、又一流の財界人、教育者でもあった。郷里十津川を想う情は格別強く、関東十津川郷友会会長を長く務められた。大正年代に起こった火災による文武館の存廃問題にはいたく心をくだき、再建に尽くした。この時期宮内省から文武館拡張のためと全国に例をみない“金500円”が下賜されたが、これは主として中川の力によるものであった。
 昭和39年(1964)1月19日齢83歳清廉の生涯を閉じた。(長男良一は世界に名機零戦のエンジン開発者として有名、後、日産プリンス副社長となる。)

( 93 )  玉置 明亮( たまき めいりょう )

 嘉永5年(1852)12月4日重里に生まれる。
 生来思慮深く、経理に長じていたという。18歳のとき王城警固のため、郷の先輩に連れられ上京するが、この直後兵制の改革があり、御所警衛の者は残らず伏見練兵場にて洋式訓練を受けることとなった為、明亮も直ちに伏見に入隊する。入隊後程なくして戊辰の役起こり、伏見練兵場にいた十津川兵は十津川御親兵として出陣、各地に転戦、偉功を樹てた。戦いおさまり明亮は帰郷する。
 帰郷後明治16年(1883)7月、選ばれて郷中共有物取扱副幹事に当選する。因に幹事は更谷喜延であった。喜延は明治14年(1881)郷中共有物取扱幹事に当選するや、深く我が郷の疲弊窮乏を憂い、政府に士族勧業資金3万円の拝借を願い、政府の要人に働きかけまた郷の先輩の力を借りるなど、努力すること数年に及び遂に明治20年(1887)に至って許可を得た。この時幹事喜延の目的をよく理解し、陰にあって力を尽くした副幹事明亮のあった事を忘れてはなるまい。又明亮は喜延と相計り、勧業資金全てを玉置山に植林することに費やす事にあて、一村経済の基礎と為すこととした。村では勧業山と称し杉檜の植栽に努めた。明治22年(1889)8月、郷中は大水害に見舞われ死者168人・家屋の全半壊600戸に及ぶ大災害を受けた。この時川津にあった郷中会議所も難に遭い、倉庫にあった10万余円の郷有公債証書も悉く流失した。時に明亮、たまたま自宅にあったが、証書の番号をすべて自分の手帳に控えていたので、いささかの損害もなかったという。まさに用意周到“治にいて乱を忘れず”というべきか。自己の職責に忠実なることかくの如く、村治に意を用いることかくの如くであった。
 明治22年(1889)全国町村制自治体改革により十津川郷は合併六ケ村となり、明亮は西十津川村長となった。間もなく水害のため6ケ村では立ち行かなくなり、1村となり、やがて推されて第2代十津川村長の職に就いた。明治26年(1893)より8ケ年間、村宰として村民に奢侈[しゃし]を戒め、勤倹を説き大いに治績を挙げた。又この間文武館館主として中学校としての基礎を確立した。(この時期、県立中学校は1県1校の為、奈良県では郡山中学校のみ、私立中学校は文武館のみであった)。
 大正3年(1914)62歳をもって没した。

( 94 )  池本 楳(梅)吉( いけもと うめきち )

 万延元年(1860)10月大字山崎に生まれる。青年時代数年間教鞭を執るが、明治22年(1889)紀和大水害による北海道移住の際は移住事務会計係として渡道、移住後は組長を務め、26年(1893)推されて移住総長となり、戸長(後の村長)と協力して村の開拓・財政・衛生更に新開地特有の浮動的人情の沈静化に努めた。27年(1894)日清戦役に際し村を代表、広島大本営に天機を奉伺、帰途東京の品川子爵を訪ね、農村振興には信用組合を設立することが肝要という論を聞き共鳴して帰る。後年全国に先駆けて信用組合を組織した構想はこの時楳吉の胸に宿ったという。28年(1895)戸長西村皓平等と図り新十津川製麻工場設立、亜麻作を奨励、村の重要な産業とした。同年、′教育にも深く留意し文武館を開設、館長の任に当たった。30年(1897)戸長となり、シシュンに未開地9万500坪・奥徳富に89万6,000余坪・上徳富に21万余坪の貸付を得て村の基本財産に編入した。34年(1901)新十津川郵便局長となり、退職の大正2年(1913)まで12年の間に公設電話の架設、局の増設等をみるなど郵政事業に尽くした。同年、開拓の一段落着き一段の進展が望まれる時期、長く胸中に秘め時期の来るのを待っていた信用組合(産業組合の始め)の設立を唱導、翌年3月創設、爾来前後30余年理事・監事としてその進展に尽くした。明治38年(1905)頃より徳富川より引水、水田開発の計画があり着々進捗しつつあったが、40年(1907)推されて組合長となり10年間その職にあった。
 大正2年(1913)村長に就任、玉置神社社殿造営村社昇格・開村記念碑及び忠魂碑の建立・村の発展繁栄は人物養成を先決とするにありとして社団法人報恩社を設立。上徳富に官有林約114万坪の払い下げを受け、村の基本財産に編入。道路の開削難所の切り下げ・橋、電灯の架設等々在職3年の間に大いに村の治政向上をみた。村長退任の後は一意産業組合の発展に力を尽くした。昭和8年(1933)春全く公務より離れ、悠々自適の生活に入った。9年(1934)農村功労者として新宿御苑観桜会に招かれる光栄に浴した。
 14年(1939)3月、開村50周年記念式典挙行の日を待たずして逝く。享年79歳。新十津川開拓・発展に生涯を捧げた功績に報いるため村は村葬の礼をもって葬る。

( 95 )  中川 太郎( なかがわ たろう )

 明治44年(1911)4月3日、父中川小四郎・母イクノの長男として東京市に生まれる。
 岡山第一中学校を経て、旧制静岡高等学校を終え、昭和11年(1936)大阪帝国大学医学部を卒業する。同年阪大医学部第一外科教室小澤外科に入局する。昭和16年(1941)学校卒業後わずか五年にして「知覚クロナキシー」により学位取得医学博士となる。
 昭和18年(1943)紀勢病院外科医長となるが、間もなく応召外地に向かう。昭和22年(1947)復員し、十津川村平谷の自宅において中川医院を開業、院長となり医院の経営にあたる。昭和38年(1963)下湯から平谷に温泉導湯を機会に、旅館(竹林荘)を開き、経営の実務には夫人豊子があたった。
 昭和42年(1967)弟中川次郎(医学博士)の経営する大阪の株式会社中川ビルの取締役となる。その他新宮信用金庫理事・十津川村教育委員・十津川ライオンズクラブ会長・小中学校の校医・地元中学校体育後援会役員・十津川高校後援会会長等を歴任した。
 中川が戦場から帰り平谷に医院を開いた昭和22年頃は、いわゆる終戦直後の混乱期、物資の欠乏期で、勿論医療器具治療物資もご多分に漏れない時期であった。このような中で、自宅に診療室を作り、手術室を作り診療治療に当たった中川には大いなる苦労があったのではあるまいか。
 またこの時期自動車の便等全く無く、往診には徒歩による外方法はなく、中川は助手一人を連れて何処へでも出掛けた。
 開院当時過去あまり医者に恵まれなかった村人は“博士の医者が来た”と期待し双手を挙げて歓迎した。中川は性磊落[らいらく]明朗にして些事に拘らず、大らかにして温厚、少年時代より読書を好み、繁忙な医療活動の中にも寸暇惜しんで読書に親しんだ。多くの人に親しみ、また大勢と集まり賑やかに過ごすことを好んだ。
 家人には常々“贅沢はいけない”といましめ、しかし最小限必要なものはこの限りにあらずと言っていた。
 中川の父中川小四郎は日本の泌尿器学会の権威者であり、嗣子中川順夫は医学博士で中川医院の院長である。
 昭和48年(1973)10月5日、平谷において病没、62歳であった。平谷に葬る。

( 96 )  植村 忠知( うえむら ただとも )

 明治37年(1904)12月13日、折立に生まれる。
 折立小学校を卒え、郷校文武館(現十津川高校)に入学、在学中剣道選手として活躍する。昭和10年(1935)平谷に居を移し旅館吉乃屋を創業する。
 第2次大戦後の混乱期、十津川村議会議員となり、以来20年間その職にあった。議員在職中、開発委員長2期、議長6期を務め、折りから十津川にとって大事業である、奥吉野総合開発事業・学校統合・十津川温泉開発事業を手掛け幾多の困難を排除して、優れた手腕を発揮、何れも成功に導き、村のへき地性を打破し、近代化を図ることに貢献した。中でも下湯より温泉を平谷へ導き、十津川温泉として開発したことは画期的な事業であった。平谷は昔より十津川の中でも人口の多い最も商業の発達したまちであったが、国道の開通と共に様相は一変した。いわゆる観光地として、全国に知られることになった。
 又植村は、当時の村の基幹産業であった林業の振興では、十津川村森林組合・木材協同組合の理事として力を尽くした。
 村内における彼の働きはやがて県会へ、と言う声になり昭和42年(1967)推されて奈良県会議員に出馬、見事当選を果たした。
 県会においては、建設・総務・水資源特別開発各委員長等の要職を歴任、県政進展に寄与し、その足跡には見るべきものがあった。
 県政においても、村政においても、道路整備・観光開発等植村の力量発揮に多大の期待が寄せられていた矢先の昭和47年(1972)、10月19日、卒然として逝く。政治家として益々円熟味を加え、豊富な経験による活躍が期待される68歳であった。
 資性豪放にして決断力に富み、他人の為に労をいとわず、前途に尚多くの期待を寄せられながら生涯を終えた。
 奈良県準議会葬・四村区区民葬をもっておくられた。
 昭和53年(1978)、村は植村の遺徳を偲び、その業績を後世に伝えるべく、平谷光岩寺山門前に頌徳碑を建立した。

( 97 )  丸田 連( まるた むらじ )

 天保3年(1832)9月9日、込之上丸田藤左衛門の次男として生まれる。
 はじめ村治と称したが、後に連[むらじ]と改める。嘉永6年(1853)ペリー浦賀来航により、日本国中騒然となったこの時期、連は十津川郷士のリーダー格として活躍中であった父の影響を受け国事に奔走せんことを志し、剣を高取藩士杉野楢助(後に文武館剣道教師として来郷)に、砲術を大阪の萩野正親に就いて修行する。文久3年(1863)8月の天誅組の変には郷士と共にこれに応じ、天ノ川辻に駆けつけ、高取城の攻撃に加わった。既にして京都における政変により天誅組は賊軍となり、追討を受けることとなったため十津川は天誅組を離脱した。追討令を受けた紀州藩は十津川に入り、9月28日、神納川杉本宅にいた連を捕らえ高野山越えに護送し、和歌山の獄に投じた。暫くして11月、釈放されて帰郷する。やがて上京、禁裏御守衛に従うが、元治元年(1864)病を得て帰郷する。慶応元年(1865)込之上村庄司役となる。その後再び上京、御所及び御文庫の警護に従う。慶喜が大政奉還、維新は成ったが、幕府の旧臣等の中には不穏の動きがあり、万一の場合に備え十津川郷士及び土佐その他の志士は内勅を受け、鷲尾侍従を奉じて高野山に立て籠った。慶応3年(1867)12月のことである。この高野山義挙には十津川郷士650余名が参加したが、連は永井村の庄屋郷士松井源蔵と共に、郷中人数を引き連れ高野山に馳せ参じた。義挙参加中華々しい戦闘はなかったが、京都と紀州の間に錦旗を翻し親藩紀州を牽制し官軍を有利に導いた功績は大なるものがあった。
 明治元年(1868)御親兵として伏見練兵場へ入隊、北越戦争には十津川第一御親兵として出陣、各地に奮戦して帰る。同年12月嚮導官として兵器局に奉職する。明治2年(1869)3月、小隊司令格の会計司御用係助役となる。同年6月、戦功により高22石を賜る。同年11月会計司出納係、同年12月会計局御用係(禄15石)申し付けられるが、明治3年(1870)3月、病のため願い出て帰郷する。その後、郷の諸役に付き、明治14年(1881)10月には十津川郷連合会議員、明治16年(1883)文武館新築係、明治18年(1885)より2年間玉置神社社務係を務めた。連は若年のころより、自らを顧みる事なく国事に奔走し、又は郷のために誠実に尽くし、明治24年(1891)8月10日、生家において病の為59歳の生涯を閉じた。

( 98 )  尼野 敬二郎( あまの けいじろう )

 明治22年(1889)平谷藤森嘉四郎の次男として生まれる。
 生来頭脳明晰、十津川中学文武館(現十津川高校)を経て大正4年(1915)名古屋大学医学部の前身愛知医学専門学校を卒業と同時に先代天野源二郎の養嗣子となる。爾来大阪市住吉において内科医院開業、又大阪府立女子専門学校の講師として生理及び衛生学を講ずると共に、同校の校医、大阪の帝塚山学院の校医を務められた。
 また忙しい開業の間をぬって、刻苦勉励して昭和14年(1939)「知能と身体との発育関係」に就いて論文を提出、医学博士となった。
 日々内科の診断・治療に優れた手腕を発揮すると共に、繁忙な業務の傍ら学位をとるなど篤学の内科医師であった。又医師としての力量は勿論物事の判断力に優れ、その措置には極めて敏速であった。
 友情に厚く、故郷十津川を思う気持ちは特に強く、そのため郷人にして就職その他の問題で恩恵に浴したものは数知れないという。
 文武館同窓会・関西十津川郷友会の事は勿論、十津川人の世話を随分された。たとえ自分の身辺にどれだけの悩み事があっても、そうしたことはすべて秘して一切語らず、訪れる人があれば誰をも拒まなかった。又地域の人々の信頼も厚く、PTA会長や民生委員の煩職を引き受け夫れ夫れに活躍された。大阪在住の年月の長いにも関わらず、十津川人に出会うと何時でも十津川弁丸だしと言った風の人であったという。
 昭和28年(1953)6月4日突如脳いっ血に冒され、一言も口のきけぬまま、2カ月後の8月4日、64歳を一期として幽明境を異にされた。
 聞くものみなその死を惜しんだという。
 中学の同級生、中東彦福(東中出身・新宮高校教諭)は、
 故医学博士天野敬二郎君の霊前に捧げ奉る

 “君はなほ生くべかりしを世のために
    為すべきことの多からずやは”
 “君十一我十三の春なりき
    あくがれ高く文武館に入りしは”

と級友の死を悼んだ。

( 99 )  勝山 直隆( かつやま なおたか )

 明治33年(1900)11月14日、勝山兵吉の長男として永井に生まれる。
 文武館・正気書院を経て奈良師範学校に入学、大正9年(1920)卒業と同時に折立小に赴任、以後下市・平谷各小に奉職、昭和7年(1932)、小原尋常高等小学校長となり、後折立・平谷各小学校校長に、昭和22年(1947)戦後の学制改革により誕生した第五中学校の初代校長に就任する。
 早くより郷土の歴史に関心を持ち、師範学校在学中既に独自の史観を有していた。学校卒業後は、教職のかたわら村の史料を渉猟、実地に史跡を踏査するなど郷土史研究に情熱をそそいだ。
 昭和11年(1936)十津川村教育会(会長榎光麿呂)より、郷土を理解し報本反始[ほうほんはんし]の風を振興するため、郷土誌編纂を委嘱され、2年余心血を注ぎ、「十津川読本」を著わした。小学校で使用する目的で、併せて十津川の地史・人文全般に亘る一般の読み物として適するよう配慮され、終戦の年まで副読本として使用された。
 昭和15年(1940)折立小学校校長在勤中、紀元2,600年記念事業として、村会議員寺尾務氏と発起し、折立小学校校庭に「文武館創設地記念碑」を建立した。昭和18年(1943)村から十津川村史編纂委員に任命された。翌年(1944)高等官六等となり正七位に叙せられた。
 昭和20年(1945)終戦となり、教育改革による新学制への対応、校舎の建築等諸問題の処理に追われる中、不幸病に冒され入退院を繰り返す事となった。病床常に“職員や生徒父兄に迷惑を掛けて済まない”と漏らしていた。また委嘱された村史編纂のことが絶えず念頭を離れることがなく、“息が絶えるとともに筆を置くことが出来たら本望である”とペンを執り、郷土史の構想を死の直前まで書き綴った。昭和24年(1949)8月2日、任地平谷において、寡黙にして辺幅を飾らず親に仕えて至孝、終生郷土の教育と歴史探求に情熱を傾けた49年の生涯を、現職のまま終えた。
 四村学区葬の礼をもっておくられ、生地永井に帰葬された。

 没年(昭和24年)正月の感懐
  “四十九(始終苦)の闇の坂道よじよじて
     五十路(いそじ)の光仰ぐ今日しも”

(注)報本反始(礼記)
 本に報い始にかえる意で、祖先の恩に報いること。

( 100 )  岡 照誠( おか しょうせい )

 明治18年(1885)10月25日、父岡文昇の長男として旭に生まれる。
 生家は代々林業を営む村の旧家であった。
 照誠は小学校を卒えるや、五條中学校(現五條高校)に入学、更に上京後日本中学に転校、明治38年(1905)3月同校卒業、同年6月アメリカに渡り以来16年間同国に留まった。その間メッドホードのハイスクールを経て、カリフォルニアの名門スタンフォード大学に学び、後庭園樹の栽培及び種苗の育成等を研究し、一大庭園樹園を経営した。一方著述も手掛け事業と共に確固たる地歩を築いた。
 大正11年(1921)7月郷里の家庭の都合上急遽廃業整理して帰朝。
 以来村にあって家業に従事するかたわら、村会議員を始め方面委員・学務委員・人民総代を務めた。
 十津川の支流旭川の上流宇無川峡谷は、天下の奇勝でありただ交通不便のため訪れる人は極めて少なく、隠れた景勝地となっているのを残念に思い、これが顕彰を企て、それには道路開通が先決と考え、併せて地方開拓事業を起こすため、旭西部土工森林組合を組織しこれが実現に力を尽くした。
 米国において著述にも才を発揮していた照誠は、村にあっても彩雲と号し、郷土の史跡等を調査研究し出版した。即ち昭和10年(1935)「長慶天皇と楠正勝」を著した。当時長慶天皇御陵説が全国60余箇所あり、その確定をめぐって論争があった。十津川にも長慶天皇の御陵と称する南帝陵(高津)が存在したため、役場内に「長慶天皇御陵顕彰会」を設け、積極的にその正当性を主張した。彩雲著「長慶天皇と楠正勝」始め史料を整え宮内省に提出したが御陵指定には至らなかった。又古来皇室と関係の深い十津川との歴史的史実について考究を試みた文献「神武天皇と大和十津川」(昭和12年(1937)発行)、「神武天皇大和入御聖蹟考」(昭和14年(1939)発行)を十津川村史顕彰会から出版した。昭和15年(1940)紀元2600年記念事業に際し、村から史跡調査委員を委嘱された。
 昭和36年(1961)12月3日、若き日には海外雄飛の夢を抱き北米に渡り、大学に学び事業を成功させ、郷里にありては地域の開発、村の歴史の解明を試みた76歳の生涯を閉じた。