( 21 ) 吉田 正義( よしだ まさよし )

 天保8年(1837)10月20日、小原に生まれる。父は藤吉である。
 正義は通称源五郎又は俊男という。生来才能優れ、学問を好み識見豊かであった。
 安政4年(1857)8月丹波亀山藩士長沢俊平及び郷の有志と相計り、郷民の勤皇思想鼓舞のため、滝峠に護良親王御詠の碑を建立した。文久3年(1863)3月野崎主計等同志と上京、勤皇運動に身を投じ、諸藩の志士と接触、とりわけ西郷吉之助・伊東俊輔・中岡慎太郎等と相交わる。御所警衛に当たっては京邸にあって、郷中の事務処理を行なった。同年12月13日中沼了三の門に入る。元治元年(1864)3月以降、新宮湊口銀撤廃問題につき田中主馬蔵等と共に、しばしば紀藩と交渉を繰り返す。5月勅命による文武館(現十津川高校の前身)開館に当たっては、上平主税と共に師儒官中沼了三を案内し、折立松雲寺における式に参列する。慶応3年(1867)陸援隊長中岡慎太郎の策を用いて正義は、土州邸を十津川郷が借り入れ、郷中の壮士50名を選抜して調練を行った。この50名が高野山義挙に参加した。
 明治2年(1869)郷中に2派を生じ、互いに相争う紛争事態が起こった。事の起こりは維新直後、京都御所警衛の郷士に、伏見練兵場で洋式訓練に従うようにと命令があった。この命令に従う者、従わない者の2派が生じたことが発端である。正義は伏見練兵場での操練に賛成であり、これを推進した。この為正義は反対派から西洋かぶれ、国体を誤るものだと指弾された。しかし、戊辰の役に伏見練兵場より出兵、十津川御親兵の名声を天下に知らしめたのは、正義の先見の明と英断ではなかったか。
 3年(1870)10月軍監に登庸されたのを始めとし、官界において昇進を重ね、兵庫区裁判所長・大阪始審裁判所奈良支庁長・隠岐国西郷治安裁判所判事等歴任、22年(1889)遭難死した宇智・吉野郡長玉置高良の後をうけ郡長となる。27年(1894)初代吉野郡長(宇智・吉野郡分離)となり、29年(1896)退官、41年(1908)3月従五位に叙せられた。
 同月20日五條町にて病没、享年71歳、小原に帰葬する。
 正義愛郷心に富み、親に仕えて至孝、文を能くし、又芳陽と号して書に秀でていた。玉置山にあるかつての同志、上平主税の碑文は正義の書であり、重里の深瀬繁理の碑文及び書は正義の手による。

( 22 ) 丸田 藤左衛門( まるた とうざえもん )

 文化2年(1805)10月10日込之上に生まれる。通称藤左衛門、後監物と改める。少壮時郷人森重蔵に撃剣・柔道を学ぶ。嘉永元年(1848)新宮藩が新法を設け、十津川郷の移出木材に対し高い口銀を課したが、郷中総代として紀州藩に対して廃止運動を行なった。幕末米艦来航し天下騒然たる時、郷中59ケ村の総代を集め、村々に十匁銃・陣笠・カルサン袴等を購入することとし、他日の用に備えた。又大阪から萩野正親を招き、萩野流の砲術を学び、一子藤助や郷人等を激励して武事を銃練した。現在歴史民俗資料館には、この時の大砲模型や兵法書が保存されている。安政4年(1857)丹波亀山の藩士長沢俊平や郷士達と相計り、郷中の勤皇思想を鼓舞するため、滝峠に護良親王御詠の碑を建立した。5年(1858)正月上平主税・深瀬繁理・野崎主計等と上京、梅田雲浜・長州藩の宍戸黒九郎兵衛等に面会、長州と十津川の物産交易と称し、その実国事を密に論議した。4月同志と共に雲浜を訪ね、その紹介をもって中川宮に伺候し、十津川郷の由緒書を奉り、他日十津川が中川宮の恩遇を受ける端緒をつくった。文久3年(1863)3月再び中川宮に十津川郷の由緒を申し述べ、一郷挙げて王事に尽力せんことを奉願した。5月、ついにこの願いが聞き届けられ、十津川郷士は京都御所の警衛をすることとなった。維新5年前幕府の支配下を離れ“明治維新の魁”をなし得たことは、郷士達の年長者として、よくリーダーシップを発揮した藤左衛門の力に負う所が極めて大きい。
 天誅組の乱に当たっては8月18日の政変による、十津川郷の立場の変化を憂慮、収拾に当たり、上平主税と共に風屋福寿院にて伴林光平、乾十郎と会見、十津川退陣を決めて帰京する。滞京中藤左衛門は、中沼了三・坂本龍馬・中岡慎太郎・桂小五郎・大村益次郎・伊東俊輔・西郷吉之助等と会合、しばしば国事を論議した。明治になって十津川は神仏分離令により廃仏毀釈を断行したが、この挙は神を敬い、仏法を排した藤左衛門の果断によるという。明治2年(1869)郷内二流に分かれ相争う事態が生じ藤左衛門は反対党の為、激しく詰問され、又事態収拾の為、鎮撫使入郷を聞き、“郷士多年の忠勤一朝にして水泡に帰すのみならず、いまや天朝より厳責を被らん”と憤激、ついに病重り程なくして4月29日、込之上にて没する。享年64歳。従五位が贈られた。
 生家の丸田家は豊中の日本民家集落博物館に移築され、大阪府指定有形文化財として保存されている。

●丸田藤左衛門生家

( 23 )  前田 正之( まえだ まさゆき )

 天保13年(1842)正月4日、風屋に生まれる。父は前田清右衛門。初め清三、次いで雅楽[うた]と称し、後正之と改める。幕末嘉永6年(1853)米艦来航により天下騒然たる時、父清右衛門の感化指導を受けた正之は、年少ながら国事に力を尽くさんと心に期していたという。安政4年(1857)8月、長沢俊平・上平主税・丸田藤左衛門等と相計り、護良親王御詠の碑を小原滝峠に建立した。文久3年(1863)4月、丸田藤左衛門・上平主税・深瀬繁理・千葉左中・田中主馬蔵等と上京して、中川宮に十津川郷由緒書を奉呈した。かくて同年6月禁裏御守衛の恩命を拝するに至り、8月郷士170余名上京御所警衛の任に就く。同時期、8月15日の政変により十津川支配の七卿落ちあり、十津川の加勢した天誅組の変あり、郷士は大いに動揺したが正之は同志と共に事態の収拾に努め事なきを得た。
 天誅組の騒動以後、京にあって御守衛の任に従う。
 慶応3年(1867)10月、京邸の総代となり帰郷し、折立松雲寺に各村の代表1名宛を集合せしめ、郷中役人人選方に関する京都における邸議を披露し、討議の結果、十津川郷由緒復古以来の事務に熟練せる者30名を挙げ、これを評定衆と名づけ、郷中内外の事務を担当せしむることとした。
 同年12月、高野山義挙に際しては、郷士650余名が参加したが、正之は補翼兼参謀としてこれに従う。明治元年(1868)2月、十津川御親兵人選方・軍事管轄及び郷中人数取締を命ぜられる。同年戊辰の役には十津川第一御親兵補助官となり北越に従軍する。明治2年(1869)7月、戊辰の役の戦功により永世高60石を賜う。明治3年(1870)6月兵部省出仕となる。
 同年8月艦隊筆記となり甲鉄鑑乗り組みを命じられる。同年11月海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)権充、明治4年(1871)7月兵学寮権大属、翌4月大属(教頭)となる。明治9年(1876)9月、兵学寮廃止により解任される。明治17年(1884)皇宮警察官宮内門監長となる。皇宮警察史によれば、皇宮警察の草創期門部(皇宮警察官)採用の内規に、
・門監長2名の内、1名は十津川郷士前田正之とする
・門部の半数以上は十津川郷士を採用する
と記されている。明治25年(1892)6月従六位に叙せられ、7月京都にて病没、享年50歳であった。
 正之は友誼[ゆうぎ]に厚く、文久3年(1863)天誅組に加わり各地に転戦、風屋で病死した知人で熊本の志士竹下熊雄(正しくは竹志田)を風屋の共同墓地に葬り、碑を建て手厚くその霊を弔った。

( 24 )  東 國吉( あずま くにきち )

 明治15年(1882)5月18日、東義次の三男として永井に生まれた。
 郷校文武館に学び、北海道に移住した長兄東武(後の農林政務次官)を頼り渡道、その後妻子を残し単身北アメリカに移住した。
 北アメリカにおいて、裕福なアメリカ人家庭の料理人をするなど、勤勉努力すること40余年、質素倹約孤独の生活を送り、昭和27年(1952)12月12日、フィラデルフィア市ハーネマン病院にて70歳で病没した。
 臨終に当たって知人平田三郎博士(三重県人)に「遺産の全てを十津川村の医療施設と、教育施設を整える目的の為に寄付する」と遺言された。
 村は寄付された800余万円を、医療施設として小原診療所を、教育施設として十津川高校に図書館を建設、残金を奨学金として故人の遺志を生かすこととした。
 小原診療所はその後改築され内容が充実され、診療活動も活発化し故人の目的とした医療施設としての役割を果たしている。
 十津川高校の図書館は、校舎の改築により図書室が新設されたため、「東記念館」として多目的に使用されている。
 没後、営々として蓄積した汗と脂の結晶である“遺産の全て”を、村に寄付するなどという奇特な行為は、村始まって以来のことであったのではないか。このような行為の持ち主である國吉とは一体どのような人であったろうか、二、三の人物評を紹介する。
 國吉と同じ永井の竹馬の友である勝山倉吉(元武蔵小学校長)は、「彼は寡言で大胆で短気で意志強固であった。人に対して上手は言わぬが親切であった。兄富七君が長兄武君に頼り北海道に移住するので、國吉君は文武館を半途退学して同行した。」と語っている。
 臨終に立ち会ったドクトル平田三郎は、「同氏は年来の胃病で始終青ざめて貧血で随って身体も余り強い方でなく、体重も軽く年齢の割りにずっと老けて見えました。中略…東氏は下宿住居しながら自炊して居られ所持品としては懐中時計一個さえ持たない奇人でした。自己所有の荷物や容物用器等一つもなく唯古い手提げ鞄と写真数枚と一通の故国からの古手紙だけでした。」と言っている。
 昭和29年(1954)12月、村は永くその徳を後世に伝える為、小原診療所前に遺徳碑を建立した。國吉の墓は北アメリカフィラデルフィア市にある。

●診療所(遺産による建物は改築された)

●十津川高校図書館(現東記念館)

( 25 )  乾 政彦( いぬい まさひこ )

 明治9年(1876)11月、平谷中垣精悟の次男として生まれる。
 13歳のころ同村の乾正二郎の養子となる。幼少より頭脳明敏衆に秀で、郷校文武館(現十津川高校)に入学するが間もなく明治21年(1888)志を抱いて東都に上り、叔父丸田秀實(込之上出身 長崎三菱造船所長)方に寄寓し、日本中学から一高東大法科に進み、卒業後、東京高商・法政大学の講師となる。明治34年(1901)秋、文部省より民法学研究の為ドイツに留学を命じられ、3年間ボン大学で研鑽、帰国後直ちに東京高商教授に任ぜられ、爾来その職にあること11年余、その間東京大学・陸軍経理学校・慶応・明治各大学の講師として民法学を講じた。大正3年(1914)法学博士となった。翌年(1915)大学の職を辞し弁護士となり晩年に及んだ。しかしこの間、東京弁護士会会長に選ばれること4回、昭和21年(1946)には貴族院議員に勅撰せられた。議員となったこの年病を得たが、無理をおして登院、昭和23年(1948)に至り病重り鎌倉山の家にて療養に努めたが、昭和26年(1951)4月ついに75歳の高潔な生涯を閉じた。
 博士は一高在学中から和歌に親しみ、弟の東季彦法学樽士と共に佐佐木信綱先生に師事し、多くの歌を残した。
 昭和27年(1952)十津川郷友会により「乾政彦歌集」が出版された。
 序文は佐佐木信綱先生である。
 博士は常に郷里十津川に思いを致し、特に郷校文武館にはその維持に強い関心を寄せ、大正10年(1921)火災による学校の存廃論が起こった際には、関東郷友会を代表して十津川に帰り、村を回り文武館の歴史と存在意義を説き、存続すべきことを訴えた。今日十津川高校の存在する所以は、前身の文武館存続に努力を傾けられた博士の力の大であったことを忘れてはなるまい。

 乾政彦歌集より二首
  “ふるさとの十津川の瀬に若鮎の
     さばしる春ぞ帰りなんいざ”
  “八十路あまり四つの翁がそのかみの
     腕白者の我を見て泣く”

( 26 )  西村 皓平( にしむら こうへい )

 天保10年(1839)山手に生まれる。初め信之進、後皓平と改める。
 資性沈着冷静にして知略あり、と評せられた。慶応3年(1867)12月高野山義挙に際しては、十津川に参加要請があった。郷内には軽挙して天誅組の轍[てつ]を踏むことを恐れ、参加に躊躇[ちゅうちょ]したが、この時皓平は「速やかに高野山に行き事の成り行きを確かめ、又一方京に上り在京者の意見を聞くべきなり。」と進言、ことはこのことに一決、よって十津川は立場を誤ることがなかった。
 明治元年(1868)2月十津川御親兵軍事隊長を命ぜらる。同年4月、明治天皇の大阪行幸があり、十津川郷士は供奉仰せ付けられ、東御堂(東本願寺南御堂難波別院)において撃剣の天覧試合が催された際、郷士15名と共に皓平も選ばれて出演した。5年(1872)兵制改革により帰郷、9年(1876)三小区副区長、13年(1880)宇智吉野郡役所に勤め、主席書記となった。たまたま明治22年(1889)8月の紀和大水害に遭遇、郡長玉置高良遭難死の為、郡役所の事務一切を処理、管下羅災民の窮状打開には、文字通り寝食を忘れて東奔西走、とりわけ、被害甚大であった十津川の羅災者救済に当たっては北海道移住に努力、遂に600戸2,600人の移住による新十津川開村の実現をみた。25年(1892)新十津川戸長更谷喜延辞任旧郷へ帰村後、新十津川村内に争い起こり、そのため請われて皓平は渡道、戸長となる。
 皓平の戸長となるや、村は皓平の徳望により静穏となり、治績は大いに上がった。村はその功労に報いる為、畑地1町7反余を贈った。
 後手腕を買われて夕張他4郡長となり、令名を謳われた。
 皓平は又新十津川にあって、上徳富土功組合の創設に力を尽くし、水田開発の先駆をなし、あるいは文武館の館長を務める等、常に勧業・土木事業・又教育に思いを寄せ、その進展をはかった。これらの功績に対し、従六位に叙せられ、大正6年(1917)5月藍授褒章が贈られた。8年(1919)12月5日、謹厳な80歳の生涯を閉じた。村は葬るに村葬の礼をもってした。
 因に皓平の長男直一は、水害当時東京遊学中であったが、故郷の窮状を救うべく、移住地の視察や、同郷の東武と共に、移住の取りまとめに奔走した。やがて自らも移住、第7代新十津川村長となった。
 今も語り継がれる水害の状況をうたった「故郷の残夢」は、直一の作である。

( 27 )  田中 主馬蔵( たなか しゅめぞう )

 天保3年(1832)5月1日、千葉周平の次男として上湯川に生まれる。
 後田中家を継ぎ田中姓を名乗る。10歳にして兄千葉正中と共に、紀州田辺藩平松良蔵の門に入り漢学を修め、同藩士心形刀流柏木兵衛に剣術を学ぶ。安政5年(1858)郷中の同志と共に上京し、薩長土諸藩の志士と交わる。
 文久3年(1863)4月丸田藤左衛門等と有志総代となり、十津川郷由緒復古の義を上願した。6月11日御所学習所において「朝廷に忠勤を励むべし」と御沙汰書を賜り、8月郷中170余名上京、円福寺に入り御所警衛の任につく。“京詰”と称するこの挙は正に十津川が幕府の勢力下を離れ、朝廷側についた、全国に先んじた行動であり、しかも明治維新6年前のことである。「明治維新魁の村」と言われる所以である。この端緒を作った主馬蔵等、郷士達の働きは誠に大といわねばなるまい。これと同時期天誅組の変があり、主馬蔵は郷士を鼓舞し、一方の隊長となり、各地に奮戦したが、戦い利あらず遂に捕らえられ和歌山の獄に投ぜられた。主馬蔵獄中にて病み、薬液にて雑詠数十首をしたため、密に食器に入れて家郷に送った。

 獄中述懐
  “数ならぬ身にしあれども君がため
     尽くす誠はたゆまぬものを”

 同年10月許されて帰郷、その後京阪の間をしばしば往来諸国の志士と交わる。慶応元年(1865)春、土佐の田中光顕伯十津川に亡命、自宅に匿[かくま]いその世話をする。その年長州へ落ちた7卿の召喚運動に関わった等の嫌疑を受け、京都東町奉行所に捕らえられる。
 翌2年(1866)、疑い晴れて帰郷するも獄中での病い重り、2月9日本宮にて没す。34歳の若さであった。
 特旨をもって正五位を贈られる。

 辞世
  “ことかたの黄泉ひろ坂こゆるとも
     なほ君が代をまもらしものを”

 郷中挙げてその早世を惜しんだという。主馬蔵は和歌を能くし、文筆に優れ、嘉永以降死に到るまで日誌を書き続けたという。
 十津川高校の前身文武館が130余年前、孝明天皇の勅命によって創立されたという唯一の史的物証は、実に主馬蔵滞京中の日誌の1頁「御所御内玄関中ノ間ニ而文武館取立可申旨御沙汰之事」による。

( 28 )  更谷 喜延( さらたに よしのぶ )

 天保12年(1841)11月5日内原に生まれる。初め数男、後喜延と改める。
 文久3年(1863)8月上京、御所警衛に従う。明治になり神仏分離による玉置神社の廃仏毀釈に当たっては、丸田藤左衛門・松實富之進等と帰郷、聚議館役員・郷内各組総代等を玉置山に集め、復古の報告祭をなして滞りなく処理を終えた。その後文武館執事・勧業係・郷金担当役・郷中共有物取扱幹事・花園村長等歴任した。喜延の多くの業績の中で特筆すべきことは旧郷十津川においては、勧業資金の拝借による勧業林への杉・檜の植栽、新十津川においては、創業の基礎を築いたことであろう。即ち明治維新後十津川郷は、幕末の勤皇運動の結果、公私の出費かさみ山林伐採後の植林等手入れに力及ばず、山林は荒れ、加えて不況の為失業者続出、村は疲弊した。この窮乏を救うため、明治15年(1882)喜延はじめ同憂の士が政府に働きかけ、勧業資金の貸付けを請願した。しかし事は簡単には捗らず、喜延等は日夜東奔西走、20年(1887)に至って漸く士族授産資金3万円の貸与が許可された。村はこの全てを産業復興資金としてこりかき・北又山554町歩、300万本の杉檜の植栽に充て、27年(1894)完成をみた。後年この山林は勧業山と呼ばれ村の基本財産となり、一部は文武館財政の基盤となった。尚、借り受けた資金は年々返済の予定であったが、22年(1889)8月村は大水害に見舞われた為免除された。大水害の羅災者は北海道への移住を余儀なくされた。喜延はこの時推されて移住総長となり渡道した。23年(1890)1月、新十津川創立と共に初代戸長に任命され、滝川戸長を兼ねる。当時移住民は故郷を離れ、極寒の地に移り、境遇の急転風土の激変により、不安焦燥の念に駆られ、目前の事に気を取られ、永遠の計を忘れる者があった。喜延は深くこの事を憂い、「移民誓約書」を作り一致団結を強調、風紀の粛正を呼び掛け、且つ基本財産蓄積の計を確定し、各戸主に署名捺印させ厳守することを誓約させた。思うに今日新十津川発展の基礎は、喜延の高遠な識見による所が極めて大きいといわねばなるまい。 創業3年、故郷に帰ったが新十津川は、銀杯一組を贈り謝意を表した。帰郷後、村議会議員2期、41年(1908)には第7代村長に当選。
 大正11年(1922)10月1日、病没。資性温厚にして謙虚、思慮周密忍耐心強く、新旧両村の治世に大いなる功績を残し、81歳の生涯を終えた。

( 29 )  玉置 良直( たまき よしなお )

 明治9年(1876)7月2日、宇智・吉野郡長玉置高良の長男として折立に生まれる。幼年の頃より頭脳明敏、意志強固であったという。
 折立小学校を卒え、早稲田専門学校に学び27歳にして、十津川村会議員、翌年吉野郡会議員並びに奈良県会議員に、明治44年(1911)、吉野郡会議長に選任される。大正元年(1912)には推されて十津川村長となり、4年間村政に携わった。大正9年(1920)衆議院議員に無投票で当選、国政に参画することとなった。良直が終生の事業として、政治生命をかけて取り組んだものは、五條と新宮間に鉄道を通す五新鉄道の敷設であった。衆議院議員当選を機に、この鉄道の国家的・地方的にみて重要路線であることを力説、地元民・近隣の町村民と共に強力に運動を展開した。
 村にあっては時の村長深瀬隆太が、五新鉄道に最も深い理解者であり、これに積極的に協力した。良直は国会議員当選の頃から、脚疾を患っていたが、この運動に奔走の為、病いよいよ重り医者から「命が大事なら1日も早く東京を去れ」と忠告される程になったが、責任感の強い良直は全く聞き入れず、悲壮な決意を胸に運動を続け、鉄道省の階段は人の肩にすがって昇降したと言われている。この様な良直の熱誠はやがて政府を動かし、五新鉄道敷設法案は国会を通過した。大正12年(1923)のことである。
 良直は己を持すること厳、謹直にして倹素、人の短を言わず己の長を説かず高潔な人格の持ち主であった。またしばしば私財を投じて公共の為に尽くしたので、昭和5年(1930)紺綬褒章が贈られた。良直の晩年10年は宿痾の為、立つことが出来なかったが、村民からは常に敬慕され回復を待たれた。然しながら昭和9年(1934)9月21日58歳をもって堺市大浜南町にて没した。村は生前の功績に報いる為、村葬の礼をもってした。
 良直の生前、生命をかけて国会を通した五新鉄道は、半世紀の間、幾度か工事の着手を見たが、時代の変転と共に鉄道の合理化案が浮上する等、遂に完成をみることがなく、わずかに西吉野村城戸までの鉄道の路盤を残して、“幻の鉄道”と化したことは返す返すも残念なことであった。
 故人の無念さ思うも更なり。

●追悼碑(折立)

( 30 )  上杉 直温( うえすぎ なおはる )

 嘉永元年(1848)今西に生まれる。年少のころより学問を好み、書を能くした。文久3年(1863)郷士と共に、京都御所警衛の任に従う。明治元年(1868)4月、伏見練兵場に入隊、同年6月北越出兵に際しては、十津川第一御親兵として、長岡に出陣各地に転戦する。9月11日奥州小荒井の役に戦傷を負い、軍事病院に入院する。12月伏見に帰営し、2年(1869)3月明治天皇東京行幸に供奉仰せつけられ東上する。同年5月函館の戦いには、十津川郷兵小隊司令官乾楯雄に率いられ出兵、5年(1872)兵制改革により帰郷する。爾来村にあって学区取締・副戸長・戸長等歴任、村治にカを尽くした。13年(1880)宇智吉野郡役所開庁に伴い郡書記となる。29年(1896)請われて北海道に渡り、新十津川村第6代村長となり、草創期の新十津川建設に大いに力を尽くした。そのため、大正8年(1919)開村30年記念式典において、旧郷出身の先輩として移住のため極力尽力された、前田正之・千葉貞幹・松村勇・中西孝則・天野源二郎・吉田三郎等6名と共に表彰され、銀杯が贈られた。
 帰郷後、明治34年(1901)4月十津川村長となる。
 直温は文才あり、特に歌道に秀でていた。晩年悠々自適の生活の中で、同郷の中西孝則と共に、村の由緒・名所・旧跡・故人の事績や55ケ大字夫れ夫れを31文字に詠い「十津川集」として出版、郷土意識の高揚に努めた。他に「遺芳漫詠」がある。

 詠草二首
  ・十津川郷由緒復古
   “十津川ながれもたえず大君に
      つかへぞまつる むかしながらに”
  ・今西
   “むかしたれひがしをあとにうつりきて
      すみそめにけん 今西のさと”

 大正14年(1925)、若くして幕末国事に従い、新旧両村長を勤め誠実に生きた77歳の生涯を生地にて終えた。