( 71 )  岡 豊若( おか とよかわ )

 安政5年(1858)12月22日、内野青木良平の三男として生まれる。
 文久3年(1863)父良平は里生(庄屋)として里民20有余名を率いて天誅組に参加、各地に転戦した。豊若幼年時の思い出として、ある夜就寝中人声に目覚め、急ぎ起き上がり恐る恐る眺めると近隣の壮士8~9人が集まり、父はその車座の中に居て畳の上に盥を置き、松明皓皓たるなか古刀を研いでいたという。
 長じて、郷校文武館(現十津川高校)に学び、卒業後教育の道に志し、学制発布による草創期の上野地小学校を始めとし、折立・今西・五百瀬・山崎・葛川・小原・上湯川・小湯各小学校・母校文武館で教鞭をとり、村内各地の子弟教育に情熱を注いだ。
 明治23年(1890)岡重政の養子となり岡姓となる。教職を離れた後、十津川村役場・吉野郡役所に勤務した。郡役所在勤中明治22年(1889)8月紀和大水害に遭遇、この時に当たり管内12ケ村(天川村・大塔村・野迫川村・北十津川村・十津川花園村・中十津川村・西十津川村・南十津川村・東十津川村・宗檜村・南芳野村・賀名生村)の被害状況を克明に記録した「吉野郡水災誌 全11巻」を著した。
 吉野郡内各村共甚大なる災害を被り、交通・通信途絶応急処置に追われる中、よくもこれだけの資料を収集整理し、しかも水害わずか2年後に書物として出版したことに驚嘆のほかはない。災害の記録として極めて貴重且つ重要なものであると言われる所以である。
 他に「日露戦役吉野義勇之鑑」等の著書がある。
 学校退職後、某小学校に問題起こりその解決の為復職を依頼され、再び校長として処理に当たったこともあったという。
 史書を好み、村の歴史史料をあまねく渉猟し当時“岡先生程村の歴史に通じた人はいない”と評されていた。又好んで漢詩や歌を作り嵩南と号した。こよなく酒を愛し、山道を歩くのに常に腰に一瓢を携えて居たと言う。十津川村より「村史編纂委員」を委嘱されたが、病のため完成を見ず、昭和7年(1932)12月26日、その才を惜しまれながら74歳の生涯を閉じた。
 内野には文武館長浦武助撰文の墓碑が建っている。

 某愛弟子に与えた一首
  “とどめおけ唯むら肝の至誠(まごころ)を
     ふみの林の花の咲くまで”

(注)「十津川記事」下60ページより引用
 明治二十四年四月
 「吉野郡水災誌」十有一巻成ル。本誌ハ郡衙雇岡豊若客年二月以来ノ起草ニカカルモノナリ。

( 72 )  西垣 文清( にしがき ふみきよ )

 明治32年(1899)11月21日、大字樫原に生まれる。
 大正12年(1923)大日本武徳会本部剣道部聴講生として剣道への第一歩を踏み出す。
 大正14年(1925)京都府巡査となり、勤務のかたわら武道に精進、剣道錬士・柔道三段となる。昭和5年(1930)退職。同時に同志社高商剣道師範に就任、昭和16年(1941)退任するが、この間に銃剣道練士・剣道教士となった。やがて同志社辞任、京都高等蚕糸学校・京都工専の剣道・銃剣道の師範となる。銃剣道教士を取得するが程なく終戦の為、武道禁止となり、師範の職を解かれる。一時同志社の農業担当教官・京都府立医科大学警備主任等を務めた。昭和33年(1958)9月、剣道再興を願う十津川村の要望を受け、十津川高校に迎えられ同時に村内中学校の剣道指導も行った。
 耐えざる修練によって自己の技能を磨き、又同志社やその他の学校での指導の実績がここにおいて花開き12年の在任中、奈良県代表としてインターハイ出場連続9回という偉業を成し遂げた。
 “博仙”と号し、多く和服を着用、泰然として温和明朗、指導技術に妙を得ており、生徒の持てる力を十分に導き出した。
 教え子の多くは、警察官・教師として又夫れ夫れの職場において、師の教えを守り剣道を通して活躍をしており、有段者は数知れない。
 教え子の中には日本の試験で最も難しいと言われ、毎年合格率僅か2%前後という八段昇段試験の難関を突破した者も2名いる。西田照夫(折立)千葉十一(出谷)である。又遠くブラジルにおいて果実園を営むかたわら、道場を開き剣道普及に情熱を燃やしている快男児、尾中弘孝(高滝)もいる。晩年歩行いささか不自由となり杖を用いていたが、一度[ひとたび]具足を着け竹刀を持って道場に立てば、足の不自由さは微塵も見せなかったのは流石であった。数々の栄光をもたらし、見事十津川剣道の復活を果たし、多くの後継者を育成、西垣剣道の名を成したが昭和45年(1974)職を辞した。余生を京都において静かに送り、昭和49年(1974)3月、剣一筋に生きた75歳の生涯を閉じた。没後七段範士が贈られた。遺言により墓は生まれ故郷大字樫原にある。教え子達は折に触れ、師の墓に詣で近況を報告し、冥福を祈ることを常としているという。

( 73 )  原田 守典( はらだ しゅてん )

 弘化3年(1846)12月19日、原田守一の長男として中村に生まれる。幼名を丹宮、後守典と改める。
 (中村:現在の西中、村内葛川・西川の2カ所に同じ中村があったため、明治13年(1880)東中・西中とした)
 幕末動乱時、武力倒幕の魁となった天誅組の挙が起こるや、守典年わずか19歳であったが、奮然として檄に応じ、高取城の攻撃に参加した。
 その後、元治元年(1864)郷士と共に京に上り御所警衛に従う。
 明治元年(1868)戊辰の役では鳥羽伏見の戦い、北越の戦いに従軍する。
 明治2年(1869)戦功により伍長に任ぜられ、賞として禄22石(1石:1升の100倍約180リットル)を賜う。
 明治3年(1870)12月、日田県(大分県)の騒擾事件(百姓一揆)の鎮定に赴く。
 明治4年(1871)8月、一等軍曹に任ぜられる。明治7年(1874)江藤新平の起こした佐賀の乱、次いで台湾征伐、西郷隆盛による西南戦争と休む間もなく転戦、数多くの戦功をたて、しばしば賞せられた。
 漸くにして国内の戦乱治まるや、軍籍を退き郷里に帰った。
 帰郷後は、村会議員あるいは、文武館協議員等の職に就き、夫れ夫れに為す所があった。守典が最も力を注いだのは西川街道の道路整備である。
 それまでいわゆる山道であった平谷~西中間を明治13年(1880)改修、西中~迫西川間を明治15年(1882)拡張改良をみたが、その陰に守典の力の大いにあったことを知るべきであろう。
 この道はやがて林道となり、現在は和歌山県龍神へ通じる国道425号線となっている。
 守典は資性剛直、果断実行、若くして維新争乱時に際会、しばしば数多くの戦闘に身命を賭して戦い、戦い終われば家郷にありて、村の為に持てる力を発揮した。
 大正5年(1916)6月4日、病の為70歳の生涯を終えた。
 西川の左岸、大字西中原田家の墓地には、守典の後を継いだ三子唯三によって建てられた墓碑が、かつて守典が生前情熱を注いだ西川街道の変容を静かに見守っている。

( 74 )  和田 薫( わだ かおる )

 明治31年(1898)2月8日、小川に生まれる。
 幼少のころ愛知県に移り、大正4年(1915)愛知県立第一中学校卒業後、阪神急行電鉄株式会社に入社する。
 入社後、創業者小林一三の厚い信頼を得、経理・資金の業務を任され、経理部長・局長・常務・専務と昇進を重ね、昭和26年(1951)7代目阪急社長となる。社長就任当時阪急における緊急の課題は、神戸・宝塚・京都の3線を合流して、輸送力の強化、サービスの向上を図るため梅田~十三間を拡充することにあった。時あたかも昭和32年(1957)が会社創立50周年に当たるため、記念事業の一環として、梅田~十三間三複線化を計画、1年7カ月20億を投じ完成した。
 これは我が国最初の民営鉄道による3複線化工事であり、これにより阪急は宿願を達成、輝かしい未来への第一歩を印することになり、氏の最も大きな業績となった。
 その他の経歴をあげると枚挙に暇がないが、中でも理事長を務めた関西を代表する名門ゴルフ場「西宮カントリー倶楽部」の建設に携わり、その同ゴルフ場には氏の貢献を記念した「かおる橋」が残されている。
 他に大阪ロータリークラブ・関西電気協会等いくつかの会長、阪急ブレーブス・大阪スケート場等の取締役社長、新日本放送・後楽園スタジアム・日本航空等十指に余る会社の取締役、大阪医科大学・大阪経済大学・関西学院大学・宝塚音楽学校等の役員、関西経済連合会・経団連等の理事、大阪商工会議所・同会議所法規委員会副委員長等を務めた。
 昭和35年(1960)交通功労者として運輸大臣賞、昭和36年(1961)藍綬褒章、昭和42年(1967)建設大臣表彰、翌年(1968)従四位勲三等旭日中授章を賜る。関西財界に重きをなし、京阪神急行電鉄会長として活躍中、昭和43年(1968)2月13日、心筋梗塞のため、誠実で人情に篤く、万事に控えめで番頭役に徹した70歳の生涯を終えた。
 社葬には故人を偲び、会社関係・関西財界の首脳・私鉄・文化関係者等1,000人を越す多数が参列したという。

( 75 )  今西 林蔵( いまにし りんぞう )

 万延元年(1860)5月11日父喜代治の長男として出谷に出生、始め千葉林蔵と称したが、同じ出谷村に同姓同名の人が在ったため、紛らわしさを避けるため、姓を今西とあらためたという。
 幼にして寺子屋に学び、当時としては読み・書き・算盤の出来る知識人であった。その力量が認められ隣村の池津川村8か村の戸長となった。野迫川村は明治22年(1889)4月1日市町村制がしかれるまで今井村外4か村、池津川村外8か村に分かれていた。野迫川村として発足した同年6月、池津川外8か村(紫園村・立里村・中津川村・北股村・北今西村・平村・弓手原村・檜股村)の戸長であった林蔵が、玉置高良宇智吉野郡長の命で村長事務取扱となり、初代野迫川村長となった。北今西村は通称“今西”と呼ばれていたが、林蔵によって“北今西”となったという。(注 同じ郡内の十津川にも“今西”があったからであろうか。)やがて帰村した八月、西十津川村(当時の十津川村は風屋花園村・北十津川村・中十津川村・東十津川村・南十津川村・西十津川村の六か村にわかれていた)の収入役となる。役場は玉垣内の川合神社にあったが就任直後、明治の紀和大水害が起こった。この時、父喜代治はわが子の身を案じ、川合神社の対岸まで駆けつけ、林蔵の姿は認めることは出来たが如何せん濁流とうとうとして渡ることは勿論、荒れ狂う川音の為、声も届かない。一計を案じた父は無事でいることを示す為、踊りを踊って見せ、それを見た林蔵もまた無事を表すため踊ったという。未曽有の大災害の陰に川を挟んで踊りを通じて、親子の情愛を交わしたというエピソードである。26年(1893)より4年間十津川村の収入役、39年(1906)より3年間名誉助役、又総代、区長等を務め村・区・字のために尽くした。家にありては登記関係に詳しく、よく相談に応じていたという。文武館長浦武助とは親交あり、上京の行をしばしば共にしていたという。温厚にして真面目、几帳面な性格であった。
 昭和18年(1943)10月27日83歳の生涯を終えた。

( 76 )  玉置 文右衛門( たまき ぶんえもん )

 天保9年(1838)重里に生まれる。
 文久3年(1863)8月、武力討幕の魁となった天誅組の乱には、文右衛門は檄文に応じ、進んで同郷の郷士と共にこれに参加、高取城の攻撃に参加する等活躍する。やがて京都における政変により天誅組が逆徒となるに及んで、これと決別郷里に帰る。
 慶応3年(1867)将軍慶喜が大政奉還したとはいえ、会津・桑名や幕臣の中には不平を唱える者があり、当時の形勢は甚だ穏やかでなかった。そこで万一の場合に備えて、鷲尾侍従が内勅[ないちょく]を奉じて12月、高野山に兵を挙げたが、十津川郷士650人が出兵、文右衛門も参加する。12月のことであり、これを高野山義挙という。この義挙は戦闘には至らなかったが、京都と紀州の間に錦の御旗を翻し、親藩紀州や幕府軍を牽制し、官軍を有利に導いた功績は大なるものがあった。
 明治元年(1868)、北陸を戦場とした討幕軍と幕府軍の戦いである戊辰の役には、討幕軍に230余人が十津川御親兵として加わり、越後に出兵する。文右衛門は越後口の出陣に郷兵と共に先鋒隊としてこれに加わり、又長岡城の奪回戦には勇戦奮闘活躍し戦功を収めた。その後各地に転戦、同年11月東京に帰還、明治2年(1869)1月、陸軍局より御親兵第1番隊散兵隊長を命じられた。6月戦功により高22石(1石:1升の100倍 約180リットル)が下賜された。8月伏見営所において、四条少将より職務勉励につき金一封が贈られた。10月小隊司令官補、明治3年(1870)3月、小隊司令官を命じられた。同年5月十津川郷親兵取締となり、同年7月大隊準四等士官を命じられ第一大隊嚮導官[きょうどうかん]を申し付けられた。明治4年(1871)陸軍少尉を命じられたが、同年11月病気の為職を辞した。
 退職にあたり戊辰以来の職務精励が賞せられ、目録金60円が贈られた。
 その後、明治5年(1872)奈良県庁に入り聴訴職に就くが、再び病の為職を辞し帰郷、同年8月15日、齢34歳不帰の客となった。
 文右衛門は若くして明治維新の動乱期に際会、天誅組の乱・高野山義挙・戊辰の役等に従軍、軍務に服し、身命を賭して邦家[ほうか]の為に尽くした。病の為軍職を辞し、県庁に再起の道を見いだしたのも束の間、病の為道は閉ざされた。資性聡明にして剛毅、人皆前途あるこの若者の早世を惜しんだという。

(注)邦家=国、国家

( 77 )  沼部 園春( ぬまべ そのはる )

 明治39年(1906)7月20日、沼部光四郎の五男として大字谷瀬に生まれる。
 谷瀬小学校(昭和6年上野地小学校へ合併)へ入学、上野地小学校卒業後、十津川中学文武館(現十津川高校)へ入学するが、やがて五條中学(現五條高校)に転校、卒業後旧制姫路高校へ進学する。
 京都帝国大学法学部入学、昭和7年(1932)3月、同校を卒業する。
 卒業と同時に農林中央金庫に入社、主に関西を中心に勤務する。
 課長・部長と昇進、遂に大阪支社長となり、昭和35年(1960)農林中央金庫理事となった。理事在任中、農林中央金庫の出資先である共和精糖株式会社が、経営不振となったが、沼部はこの時再建のため理事の中より特に選ばれて社長として出向し、約3年で会社を立て直した。
 その後共和精糖は第一糖業となり沼部は引き続き社長となった。
 昭和41年(1966)永楽興業株式会社の社長、昭和48年(1973)同社会長に就任、後財形協同センター社長となる。
 関東十津川郷友会には青年時代よりよく出席し、中畑義愛会長の時、推されて十津川村側副会長となる。
 夫人の弟吉村武氏が北海道帯広市長を務めた関係もあってか、北海道新十津川と十津川の交流親和によく努めた。
 平成3年(1991)10月より中畑会長亡き後会長となる。
 “明るくて 楽しい 郷友会に”、そして会員が“何かの時に頼りにしてみたいと思うような郷友会を”と就任の抱負を語り、会の発展に努力した。
 明るい性格で、真面目にして質実剛健、十津川郷士の末裔を偲ばせる風格を備えていた。
 病没する約3年前から体調をくずし入退院を繰り返していたが、天命には勝てず、平成10年(1998)1月11日、遂に不帰の客となった。
 92歳の長寿であった。

( 78 )  榊本 利清( さかきもと としきよ )

 明治41年(1908)2月28日、重里榊本彦三郎の次男として生まれる。
 重里小学校を卒え、文武館(現十津川高校)を経て、奈良師範学校に進み、昭和2年(1927)卒業。卒業と共に竜門小学校に赴任、教職第一歩を踏み出す。やがて重里小学校に転勤、在勤中向学心に燃え、1年間奈良師範専攻科に学ぶ。後、南生駒小学校・折立国民学校に転じ、昭和19年(1944)平谷国民学校教頭となる。昭和22年(1947)戦後の学制改革により誕生した新制中学、第五中学校教諭となるも、昭和26年(1951)病の為、止む無く退職。昭和30年(1955)十津川村議会議員に立候補初当選、以来4期16年間連続当選を果たし、その間、監査委員・文教厚生委員長・副議長等歴任し村治に尽くした。又西川第一森林組合常務理事として林業振興に、十津川高校・西川中学校の育友会会長として、中高の教育進展に努めた。
 書や和歌を能くし草山と号した。昭和45年(1970)請われて十津川高校書道講師となる。
 昭和49年(1974)和歌同好の士を集め、十津川短歌会を創始し、推されて会長となり、会員を指導し、会誌「たまかずら」を発行するなど、11年間会の発展に努めた。
 昭和50年(1975)選挙管理委員会の委員長に推挙され、9年間その職にあった。昭和58年(1983)勲六等単光旭日章を賜る。
 その他関係した多くの団体から感謝状・表彰状が贈られた。
 その生涯を見るに若き日に教職に志し、将来を嘱望されながら、不幸病のため業半ばにして倒れ、医師に再起不能とまで言われながら、不撓不屈[ふとうふくつ]の精神で病に打ち克ち、様々な困難を乗り越えて数々の要職につき、長寿と言われる年齢まで生き通した精神力には敬服のほかはない。
 平成7年(1995)7月17日、誠実・無欲・真実一路に生きた87歳の生涯を郷里にて終えた。
 生前中、平成5年(1993)、名勝“笹の滝”のほとりに短歌会一同によって歌碑が建立された。

 “天誅の志士のあわれをひびかせて
     蕭々と落つる 笹の滝水”
             榊本草山作

( 79 )  丸田 秀實( まるた ひでみ )

 安政6年(1859)1月22日、込之上丸田重理の長男として生まれる。
 祖父丸田藤左衛門は幕末十津川郷士のリーダーとして活躍した。
 明治初頭、維新新政府は国防の充実を急務と考え、兵制改革を行い、明治3年(1870)東京に海軍兵学寮(後の海軍兵学校)を創設したが、丸田は明治5年(1872)9月、年僅か13歳にして入校する。成績優秀であったが、特に英語は抜群であったという。在学中のエピソードとして、「一級下に後に海軍大将・総理大臣となった斎藤實がいた。英語の成績が悪く退学を免れなくなったので、教官に相談すると、“一級上に丸田という大変英語のよく出来る生徒がいるからこの人に教えてもらえ”といわれ、それで丸田さんについて英語を習い、やっと卒業することが出来た。丸田さんは私の恩人ですと後年斎藤は語っていたという。」
 明治初年、丸田の兵学寮入学のこのころは日本海軍の創設期に当たり、海軍では兵学寮の俊秀を選んで海外に派遣、将来の海軍の支柱と為すことを考えていた。明治8年(1875)9名の留学生が派遣され、機関科研究のため英国2名の中に丸田がいた。丸田は7年の英国留学中、海軍造船所・グリニッジ海軍大学校に学び、明治17年(1884)1月帰朝、海軍大機関士(大尉相当)に任ぜられ、その後機関学校教授・磐城機関長・海軍兵学校教官等歴任、明治26年(1893)1月退官、同年5月三菱造船所技師長・明治38年(1905)副所長・翌年第3代三菱造船所長となる。明治44年(1911)三菱重工本社勤務・翌造船部長・大正5年(1916)専務・2年後(1918)退職する。
 退職後、日本工学の重役等を務めた。明治40年(1907)飽の浦に本邦初の船型試験水槽が出来たが、丸田の建言によるものという。
 海のない山国生まれの丸田が、海軍を志向し、幼にして兵学寮に入り、刻苦勉励、選ばれて海外に学び、草創期の旧海軍の艦船整備充実に力を注ぎ、無敵海軍と謳われるまでに至ったその礎を築き、あるいは我が国造船界の進展に果たした役割は誠に大なるものがあった。
 三菱の創始者岩崎弥太郎は、丸田の三菱重工・三菱造船時代からの労に報いるため、東京西大久保に2,000坪の邸宅を贈った。この邸宅は太平洋戦争中惜しくも米軍の空襲により焼失した。
 大正11年(1922)十津川郷士の血をうけ、誠実・豪放磊落[らいらく]・無欲恬淡の生涯を終えた。享年63歳であった。

( 80 )  玉置 淳三( たまき じゅんぞう )

 明治30年(1897)1月24日、重里玉置虎三郎の三男として生まれる。
 文武館(現十津川高校)3年終了後上京、商家で数年間丁稚奉公を務め、順天中学卒業、早稲田高等学院文科入学、大正15年(1926)3月、早稲田大学英文科を卒業する。[早大在学中校友会誌に、詩を発表したが、中学生であった後の詩人野長瀬正夫はこの詩を読んで、“詩を書くことに憑[ツ]かれた”と自作の年譜に記している。
 野長瀬正夫:小原出身、赤い鳥文学賞等多くの賞に輝いた日本の代表的叙情詩人]
 同年4月、福島県立福島中学英語教師として赴任、昭和2年(1927)文武館中学に転任。昭和16年(1941)4月、村出身者として浦武助館長に次ぐ2人目の館長となるが、わずか1年にして退任。当時文武館の経営について、“将来村立としては経済的に維持困難の為、県営に移管すべし”と言う意見、一方“県営となれば文武館の特色が失われる”等、移管反対の論議があり、淳三も反対意見を持っていた為、移管となる前年辞任したという。
 文武館在任15年、かつて学んだ郷校をこよなく愛し、正に十年一日の如く教壇に立ったが、昭和17年(1942)惜しまれて館を去り、広島県山陽中学(現山陽高校)に転じた。太平洋戦争終戦間際、三菱重工業広島機械製作所へ勤労動員出動中、世紀の悲劇原爆に見舞われ負傷した。
 十津川郷友会昭和28年(1953)12月発行の会報第30号に“原爆8周年に当たって”と題し、被爆の体験を悲痛な思いをこめて語っている。
 即ち「-前略-恐怖戦慄の原爆の第1弾が、昭和20年8月6日午前8時15分、広島市の空に炸裂した。-中略-髪は焼けちぢれ顔は焦げ、着衣は焼け破れ去り、全身血だらけ足は折れて自由が利かず…それでも渾身の生きる本能の力をもって活路を求め逃げまどう人々の姿、修羅のちまた、生地獄の絵巻、凄絶の極み、筆舌の到底よく尽くし得ることではない。-後略-そして世界恒久平和を十津川人の私は祈願して止まない。」と結んでいる。
 昭和35年(1960)3月、病の為退職。昭和40年(1965)8月23日、広島県吉島町において、酒を愛し、詩歌を愛し、平和を愛し、郷土を愛し、痩身に烈々たる気迫を秘め、名利にこだわらず、十津川郷士の末裔として誠実・実直に生きた68歳の生涯を閉じた。
 東京在住の詩人タマキ・ケンジは淳三の次男である。