( 81 ) 西島 吉右衛門( にしじま きちえもん )
文政11年(1828)神下に生まれる。豪胆にして気節あり。文久3年(1863)8月、中山忠光を首領とする天誅組が大和五條で挙兵、代官所を襲撃し代官鈴木源内の首級を挙げた。挙兵後天誅組は十津川に檄を飛ばし援兵を求めた。1,000人とも1,500人ともいわれる十津川郷士が、“15歳から50歳までの者は残らず天ノ川辻に至急集まれ、理由なく遅れた者は厳罰に処す”という脅迫じみた檄文に応じて取るものも取り敢えず天ノ川辻の本陣に集まった。8月23日吉右衛門も神山からの速く瞼岨な山道を郷友と共に食うや食わず、夜もろくろく眠らずに25日本陣に駆せ参じた。1,000人を越す軍勢を得た天誅組は意気大いに上がり、天ノ川辻では宿舎・食料の調達が困難なため五條に本陣を移した。この後高取城を攻撃することになるが、「1日6里以上の行軍をするのは暴挙である。しかも彼ら十津川郷兵は前日既に続け様に東西8里・南北13里という広大な村々から悪路を休まず天ノ川辻本陣に駆け来り、翌日は五條まで約6里を行軍してきた。この不眠不休の兵をもって高取城を攻撃することは無理な戦法である、到底勝利の見込みはない。」と止める軍師もいたというが、首領忠光は聞かず26日高取城を攻撃した。攻撃は無残な失敗に終わったが別動隊にいた総裁吉村寅太郎は、本隊の不甲斐なさに憤慨、一矢を報いんものと、吉右衛門を始めとする24名の決死隊を組織、焼き打ちを計画、高取城下に迫った。各々枯れ草を背負い、火縄を袖に入れ町中に入ったとき数十名の敵兵に遭遇たちまち乱闘となったが、総裁吉村は敵と渡り合う中、夜のこととて敵と見誤られ味方の弾を腹部にうけ転倒。これを見た吉右衛門は直ちに助け起こし、肩に背負い、高取勢の追求を避けながら脱出、戸毛村に至り女医榎本住[すみ]の応急手当を受けた後、金を与えて口止めをし、僚友と戸板に乗せて落ち延びた。総裁吉村はこの後駕籠に乗り鷲家口で戦死する。十津川郷兵は天誅組が逆賊となった事を知り、家郷に帰った。帰郷した吉右衛門は維新回天の大偉業となった天誅組に加わり、しかも負傷した総裁吉村を敵中から救出した“勇者の功”等敢えて語ることなく、庄屋を務め家業に精を出し、明治26年(1893)9月11日65歳の生涯を閉じた。
( 82 ) 中垣 行完 ・ 高瀬 敬蔵( なかがき ゆきさだ・たかせ けいぞう )
中垣行完は文久3年(1863)1月、込之上丸田藤左衛門を祖父に、重理の次男として、敬蔵は明治16年(1883)11月16日行完の次男として出生。行完は中垣家を継ぎ、敬蔵は高取の叔父の家高瀬家を継いだ。行完は第5代村長となる等優れた人物であったが、敬蔵は幼少より極めて腕白、郡山中学に進むが、寮で規則違反を起こし処分される直前、東京へ脱走した。京華中学に籍を置いたが、素行相変わらず喧嘩に明け暮れ、正に“天下に敵なし”の気概に満ちあふれた手のつけられない暴れん坊であった。この様な子供の先行きを最も気掛かりにしていたのは他ならぬ父行完である。そしてこの子を語る時、この親を語らざる得ない出来事が起こった。たまたまこの時期、上市町の吉野郡内村長会の席上、「国策として朝鮮白頭山の森林伐採をするため、林業夫150名・筏師100名、吉野地方より斡旋して欲しい。」という要請があった。朝鮮の詳しい事情が解らず、唯命懸けの仕事であると聞かされた村長達は、反対の為喧喧囂囂[けんけんごうごう]であった。この時沈思黙考していた中垣村長はやおら席を立ち大喝一声、「これは国家の大事業だ、徒に議論をしている時ではない。私は先祖伝来の勤皇村の名誉に懸けてもこれを引き受ける。」と断言したので一同中垣村長に一任した。帰村した中垣は早速人夫の募集に掛かり、一方東京の敬蔵を迎えに行き、行完の代理人の助手とした。朝鮮に渡った敬蔵は、これこそ“命懸けの男の仕事”と惚込み事業に打ち込んだ。しかしこの時期、白頭山中は文字通り千古斧を知らぬ原始林で、匪賊[ひぞく]が出没し、軍隊に守られての危険な仕事であった。やがて幾多の困難を乗り越え、一切を取りしきることになった敬蔵は、昭和10年頃には、木材商として朝鮮全土の多額納税者第1位となり、また鴨緑江の筏流しは“流す筏は5万石”と歌われる程に発展し、郷人の面倒等よく見、侠気[おとこぎ]に富み、豪傑といわれる大実業家となった。しかし敗戦により、生涯懸けて築いた巨万の富も一瞬にして失い、無一物となって帰国した。帰国後の事業等はかばかしくなく、晩年吹田市山田弘済院にて過ごし、昭和40年(1965)12月3日、波乱に満ちた生涯を閉じた。享年82歳。
父行完は明治43年(1910)1月、郡会出張中上市で逝去。47歳。
行完の敬蔵に与えた教訓、“鶏口となるも牛後となるなかれ”
( 83 ) 千葉 善治( ちば ぜんじ )
明治18年(1885)9月6日折立の旧家新坊(姓玉置)に生まれる。長じて結婚により大字重里に居住し、千葉姓となる。文武館卒業後、兵役に服し近衛兵となり勤務成績優秀により善行賞を受ける。除隊後奈良師範学校に入学、卒業と同時に平谷小学校勤務、大正2年(1913)学校卒業後わずか3年にして校長に任用され、玉置川小学校に赴任する。8年(1919)出谷小学校に転じ、在職中昭和2年(1927)十津川村教育の為に尽力、特に地方女子の社会教育を企画実践、成果極めて顕著の故を以て十津川村教育会長より表彰をうけ、7年(1932)同上理由により奈良県知事より表彰される。同年3月重里小学校長に転任する。12年(1937)正七位高等官六等となり、14年(1939)勲七等に叙せられ、瑞宝章授章。15年(1940)奈良県教育会長より教育功労賞を、文部大臣より教育功労顕著の故を以て表彰状を受ける。
重里小学校在勤中のエピソード:某日低学年を校庭の一隅に集め、小さな箱を朝会台の上に置き「静かにするんだよ」と言ってやおらスイッチをいれた。かすかな声が聞こえた時の子供達の驚き、ラジオというものをはじめてみた一瞬だった。箱の後ろにまわり、横にまわり、どんな小さな人間が入っているのか懸命に眺めたものだった。
またラジオの天気予報を学校前の駐在所の壁に掲示した。当時のイカダ師はその予報を見て、「明日は午後雨だから合羽を持っていかんなあかんぞ」と合羽を持って行くとカンカン照り。「明日は曇り後晴れ、合羽はいらんぞ」といって持って行かないと午後はザンザン降り。そんなことがしばしばあったので、よくウソをつく人のことを「あれは天気予報じゃあ」という造語までうまれた。しかし昭和初年のこの時期、果たして十津川に何台のラジオがあったであろうか。重里小学校が存在した西川には電気すらなかった、そんな時代、子供の家庭に無い物が学校には有り、しかもあまりあてに出来ないとはいえ天気予報(予報の確率が上がったのはつい最近のことである)という最先端の情報発信の基地が学校にあったということは素晴らしいことではないか。校長の科学に対する先見性に敬服の他ない。
16年(1941)退職後、推されて村会議員2期勤め、38年(1963)1月22日温厚篤実、教育者として多くの功績を残し78歳の生涯を閉じた。
( 84 ) 大谷 繁太( おおたに しげた )
明治23年(1890)10月、即ち十津川が大水害に見舞われた翌年、父大谷竹松の長男として出谷殿井松本家に生まれた。
幼少のころより才智衆に優れ、出谷小学校(現西川第二小学校)卒業後、家業の農業及び森林伐採業に従事し、早朝より日の暮れるまで労をいとわず仕事に励んだ。
性極めて温厚にして勤勉、実直にして責任感の強い繁太は、やがて地域住民の模範とされ、人々に尊敬される人物となった。
やがて地域住民の強い信頼感から、大字出谷人民総代・出谷森林組合理事・村会議員等に推され、夫れ夫れの職にあって持ち前の性格の上に職責の重要性を自覚し、謹直に務めを果たした。
とりわけ出谷小学校の建築・公民館の設置・森林開発公団による林道の開設・森林組合の育成等夫れ夫れに多くの問題を抱えていたが、誠意をもってこれに当り解決に導き、出谷地域の発展開発に尽くした。
中でも殿井共有林の管理に当り、半世紀に及ぶ50年の長い期間にわたり会計を務め、いささかも誤りを生ずることがなかった。
又出谷共有林の造林等には、わがことの如く文字通り献身的な努力を惜しまなかった。
その生涯のほとんどを公のために尽くし、ひたすら出谷の発展向上を願って止まなかったが、昭和42年(1967)5月、生地出谷において惜しまれて世を去った。77歳であった。
没後、殿井の住民は深くその徳を慕い、生前中の功績をたたえ、永く後の世に伝えんことを願い頌徳碑を建立した。
碑は昭和45年(1970)4月に建てられ、県道龍神十津川線沿いの大字出谷殿井バス停前にある。
思うに村内には数多くの碑が建立されているが、頌徳碑は数少なく、しかも一地区住民による建碑は極めて数少ない。この碑が言うまでもなく繁太の人徳による事は勿論であるが、碑を建て事を録し子々孫々に伝えんとした、殿井住民の深い心情をも知るべきではなかろうか。
( 85 ) 丸田 重理( まるた じゅり )
文政8年(1825)10月19日、丸田藤左衛門を父として込之上に生まれる。
幼少のころより学問を好み、初め郷人西佐平太に、後山形の人清水馬之助について学んだ。天保13年(1842)郷人乾丘右衛門・深瀬茂助等と埼玉の杉山弁吉に剣術を、次いで高取藩士杉野猶助(後年元治元年文武館剣道教師となり来郷)について剣術及び柔術を習う。弘化4年(1847)三州田原藩士中村助吉にオランダ流銃練を、文久2年(1862)には郷友中藤助等、弟連[むらじ]と共に大阪の萩野正親を招き砲術を習う。重理18歳の時の鹿島神伝15代杉山弁吉の名による、直心影流の免許皆伝書が大砲模型・砲術書等とともに現在村の歴史民俗資料館にある。文久3年(1863)4月京に上り、中川宮執事伊丹蔵人はじめ諸国の志士と交わり、相会して密に国事を談じた。8月、十津川郷士は御所警衛のため入京した。しかし着京直後8月18日の政変(薩摩と会津が手を結び長州を排除した)起こり、郷士支配の七卿が長州に落ちたため、混乱を生じたが、重理は父藤左衛門と共に善後策を講じ、引き続き警衛に当たることになった。一方同時期、天誅組の乱起こり、十津川郷は義によりてこれに参加、高取城等を攻撃した。
しかしながら政変により情勢一変、天誅組は逆賊となり、幕府諸藩の追討を受けることとなった。この情報に接した藤左衛門は、急ぎ帰郷の途についたが、重理もまた父に随従し、北山郷より十津川に帰り収拾に努めた。その結果十津川は尊皇の大義により天誅組と離れることとなった。
慶応3年(1867)12月、鷲尾侍従内勅を奉じて高野山に出陣、この時多くの郷士がこれに従ったが、重理は病のため参加することが出来なかった。やがて郷士の活躍を聞くにつけ、病床にいたたまれず病をおして、藤井織之助・深瀬省吾等と幕兵残党の逮捕、軍費調達等を支援した。
その後京に帰り軍防局に大村益次郎を訪問、郷中経済向きの事に就いて陳情した。明治元年(1868)2月、御親兵人選方、軍事会計、郷中人数監察等を命じられた。明治3年(1870)積年王事勤労に付き金200両を、明治36年(1903)特旨をもって従六位に叙せられた。
明治37年(1904)10月3日、生地込之上において、文武の道に通じ、至誠一貫邦家に尽くした79歳の生涯を閉じた。
長男丸田秀實、三菱造船所長となる。
( 86 ) 中畑 恒一郎( なかはた つねいちろう )
明治5年(1872)1月28日父中畑重光の長男として折立に生まれる。
幼少のころより利発にして学問を好み、小学校卒業後も読書を怠らず、広く知識を求め自己の修習に努めた。
家業の農業の他、村の基幹産業であった木材業を営む。長じて木材業界から推されて木材同業組合会長となり業界の発展に尽くした。
又、東区区長を務めること6年、十津川村議会議員に3期連続当選、区や村政に貢献するところ大であった。
大正14年(1925)折立小学校改築に当り建築委員長となり、建築に力を尽くし完成に導いた。この校舎は総檜造り壮麗な威容を誇ったが、昭和26年(1951)夏、類焼により惜しくも焼失した。
大正10年(1921)4月、村立十津川中学文武館(現十津川高校)が火災により焼失した。当時の経済状態も反映し、廃館ないし休館論、移転新築して存続する再建論等議論沸騰、村を二分する数年に及ぶ大論争となった。やがて大正15年(1926)に至り、意見も移転再建にまとまり、位置も込之上浦地平に決まった。
このとき恒一郎は推されて建築委員長となり、昭和3年(1928)に至り完成をみた。
新校舎は周囲の景観にマッチし、本館・講堂・武道場等配置よく考慮され、流石十津川の最高学府に相応しい木造建築物であった。
この校舎も戦後の学制改革と共に姿を消した。
奇しくも小学校・中学校2つの校舎の建築委員長に推され、これを見事に成し遂げた恒一郎の手腕は高く評価されるべきであろう。
たとえその校舎が共に今やこの世に現存せずとも、そこに学んだ幾百幾千の生徒の胸に、木の香り、木の温もりは生きている。“為されたことは、為されている”と言うべきか。
昭和9年(1934)10月文武館理事長となり、経済的経営困難な学校運営に当たった。昭和11年(1936)6月退任。
太平洋戦争の終結を半年後にした昭和20年(1945)2月28日、聡明にして温順、人望高き73歳の生涯を生地折立にて終えた。
養嗣子政信(東京高師卒)は、長く母校文武館の教諭を務めた。
( 87 ) 中井 哲太郎( なかい てつたろう )
文久3年(1863)9月、小原に生まれる。
文武館(現十津川高校)に学び、明治17年(1884)十津川郷士半数をもって創設された、皇宮警察の門部(警察官)となる。やがて制度の改革に伴い転職、帽子職を営むが“武士の商法”とて成功に至らず帰郷、その後、郡役所・役場に勤め生計を樹てた。
明治22年(1889)5月、26歳の若さで村会議員となる。この年8月、村は大水害に見舞われ壊滅的大被害を受けた。
議員中井は村の危急を救うべく、東京の東武(永井出身、後の農林次官・北海タイムス創始者、当時学生)と善後策に奔走、北海道移住に決まるや、自らも渡道、新十津川の開拓に従った。入植後間もなく村で初めてプラオとハローを使って開墾、秋には馬で大根・キャベツを滝川・砂川に売り歩き、翌年には馬車と馬橇により食料輸送・角材、材木輸送をしたという。明治26年(1893)、東武の唱導により雨竜郡深川芽生(メム)の開拓に、移住民100戸団体を新旧両十津川から募集されたが、その一員として東武と共に深川村(現在の深川市)に転住した。当時の深川は原生林生い茂り、熊が出没、時に人畜に危害を加えるという太古のままの姿であった。この様な中にあって中井は寒暑特に冬の寒さの中、孜孜営々として開墾の業に従い、今日の深川の基礎を築いた。その功績は誠に大なるものがある。(深川村の行政は始め新十津川村の所管であり、役場も新十津川村にあった。村名も“雨竜新十津川”と決められていたが使われることはなかった。)芽生入植後、教育の必要性を感じた東武始め有志により、明治28年(1895)“菊水小学校”が創立され、校主には中井が就任した。
深川市には有形文化財“芽生神社”があり、境内に「十津川100戸団体開拓記念碑」が建てられている。中井は深川村議会議員・深川町収入役の要職に携わり、又深川農業協同組合の基礎を作り、土功組合理事として潅漑事業に貢献した。昭和12年(1937)、芽生の東武旧邸跡に「東先生開拓頌徳碑」が建てられたが中井は建設委員長を務めた。東武によって中井哲太郎翁手記「深川風土記」が、田中清太郎により「深川・メム開拓の祖中井哲太郎傳」が刊行された。
昭和27年(1952)2月21日、苦難に耐え、積極的に生きた生涯を閉じた。90歳の長寿であった。没後“深川町開拓功労者”として感謝状が贈られた。
( 88 ) 長尾 一夫( ながお かずお )
明治44年(1911)10月25日、父長尾喜之助・ふさの長男として西中に生まれる。
小学校を卒え、十津川中学文武館(現十津川高校)を経て平壌医学専門学校に学び、昭和11年(1936)3月、同校卒業する。
卒業後平谷蕨尾において長尾医院を開業するが、間もなく始まった日中戦争の為、軍医として応召、中国各地において戦傷者の治療に当たる。
昭和20年(1945)4月、勲五等に叙せられ瑞宝章を授与される。
8月終戦となり復員、陸軍軍医大尉であった。
戦場から還った長尾は、日々訪れる患者に誠実に接し、診察・治療に明け暮れた。しかし繁忙の毎日を送る中にも向学心・探求心は押さえ難く学位取得を思い立ち、大阪市立医科大学において研究を重ね、遂に昭和34年(1959)7月目的を達成した。論文は「CL36によるクロール代謝」であった。この間の事情を同窓生千葉武男(歯科医)は告別式の弔辞の中で次の様に述べている。(前略)…「君は生をこの世にうけるや、人間のなしうる努力の限界を究めんとする如く、寸暇を惜しんで精励し続けました。中でも学位獲得に当たっては、主に夜間を利用して大阪市立医科大学に通い、『我が論文は原子に関係がある』と語り、あたかも、湯川原子理論に肉薄するようなすさまじい意気込みで超人的努力を続け、目的を達成されました。…」(後略)
開業医としての一方、各学校の校医も務めた。又母校十津川高校の同窓会会長を長く務め、十津川高校の100周年に当たっては同窓会長として“文武館創立100周年記念事業委員会”の委員長を務め、募金事業・同窓会員名簿作成・十津川郷土館の建設・文武館100年史の編纂・記念行事等有意義な事業を成し遂げた。
終戦後間もなく、かつて折立小学校時代の恩師勝山直隆校長が病の為、長い闘病生活の末現職中不帰の客となったが、師の病没を心から悼み、今更ながら健全な身体こそ最善のものと考え、校医を務める平谷小学校に「勝山賞」を贈った。平谷小学校では優勝旗を作り毎月1回小運動会を開き、健康増進・体力増強を図り長尾校医の意志に応える事とした。
昭和56年(1981)10月14日、大阪医科大学において勤勉・誠実の生涯を閉じた。70歳であった。高野山に葬る。逝去直前10月3日、村より“功労賞”が贈られた。
( 89 ) 佐古 高郷( さこ たかさと )
天保元年(1830)6月18日、山手佐古高行の次男として生まれる。
通称源左衛門と称する。幼年のころより学問を好み、武技に長じ、資性豪気にして胆力あり。嘉永6年(1853)6月、米艦浦賀に来航、通商条約を迫った為、物情騒然となったが、この時高郷は同郷の野崎主計・上平主税・丸田藤左衛門等と共に主唱者となり、郷の壮年1,000人を集め、武器を調達しこれを訓練、国家の役に立てたいと計画、上平等を総代として五條代官へ建白書を提出した。しかしこのことは当時の混乱した国情から、実現には至らなかった。世は幕府の弱体化に伴い、尊王倒幕論沸騰、かかる中、安政元年(1854)丹波亀山の藩士長沢俊平来り、わが郷士と大いに国事を語る。高郷また俊平と交わりを結ぶ。安政5年(1858)若狭小浜藩士梅田雲浜来郷、郷土を集めて大義を論じ名分を説く。高郷雲浜の説くところに感奮、これより同志と共に京に上り、諸国の志士と交わり密に時期の到来を待つ。文久3年(1863)4月、郷中同志と共に赤心建白書を中川宮に上書、5月学習所に上書し十津川郷士の往古の如く朝廷に奉仕したき旨請願した。結果6月に至り朝廷より「祖先の意志相続忠勤を励むべし」との御沙汰を拝した。この恩命を拝受し、高郷等感激、京より帰郷の途次、千葉清宗と書面をもってこのことを五條代官に伝え、帰りて人数200名を募り日程を定め出発させ、自らも京師に上り御守衛に従う。
慶応3年(1867)王政復古の大号令を前に、紀州及び付近諸藩の動きを封ずる為、鷲尾侍従が勅命を奉じて高野山に兵を挙げた。これを高野山義挙といい、郷人650余名が参加するが、高郷は軍監としてこれに従う。
この義挙は直接戦闘には至らなかったが、親藩紀州を牽制、鳥羽伏見の戦いに紀州が一歩も動くことの出来なかった効果は大なるものがあった。事止みて侍従は部下を率いて帰京するに際し、高郷・丸田藤左衛門等に兵100余名を付して高野山を守らしめた。程なくして京に帰るが、明治3年(1870)病となり帰郷する。
この年12月、積年王事勤労につき金200両を賜う。
明治16年(1883)7月14日、ひたすら国事に奔走した53歳の生涯を閉じた。
( 90 ) 藤井 織之助( ふじい おりのすけ )
文政10年(1827)12月3日、永井千葉定之助の五男として生まれる。
後、平谷藤井広告の養嗣子となり藤井姓となる。
資性剛毅勇断にして武を好む。
弘化2年(1845)18歳の時、江戸に上り鏡新明智流桃井春蔵直雄(江戸三大道場の一、直雄の子直正は、明治15年(1882)11月文武館剣術教授に来郷)の門に入り剣術を修行。安政元年(1854)上京、梅田雲浜始め諸国憂国の志士と交わる。文久3年(1863)6月「十津川郷士朝廷に忠勤を励むべし」との御沙汰書を拝し、一同感激上京、禁裏御守衛に従うや、織之助これと行動を共にする。元治元年(1864)5月、勅命により文武館(現十津川高校)創立されるや、織之助生徒募集の任に当たる。
討幕の風雲いよいよ急を告げる慶応3年(1867)8月、土佐の中岡慎太郎の策を容れ、吉田正義等と相計り土佐藩邸を借り受け、我が郷兵50名銃隊操練を行い、織之助同郷の前田正之とこれを総括する。同年12月高野山義挙にはこの十津川隊を率い、軍監兼隊長として出陣する。明治元年(1868)2月、十津川御親兵人選方・軍事監司及び郷中人数監察を命じられる。
同年6月、北越戦争に際し、十津川郷士は御親兵として2中隊208名が越後に出兵するが、織之助は第1番中隊司令官補助嚮導官として出陣、各地に奮戦する。7月29日、長岡城再攻撃に当たり城の大手千住口に向かい、両軍激闘中、織之助腹部に敵弾を受ける。直ちに北魚沼郡小千谷村の軍事病院に送られ手当を受けるが傷すこぶる重し。織之助到底回復の見込みのないことを知り、看護兵のすきをうかがい即夜自刃する。享年41歳。
真に十津川郷士の名に恥じない潔さに、一軍挙げてその死を悼んだという。同地の極楽寺に葬る。
明治2年(1869)6月、北越の役の戦功により高60石永世下賜せられ、明治3年(1870)12月、積年王事勤労につき、目録金200両下賜される。
明治38年(1905)7月、特旨をもって正五位を贈られる。
小千谷極楽寺境内の墓地には、宮内大臣伯爵田中光顕の文及び書の碑が建っている。
大字平谷字蕨尾の旧街道端には藤井織之助遺髪の墓がある。
●遺髪碑(平谷字蕨尾) |