( 41 ) 殿井 隆興( とのい たかおき )
天保6年(1835)、天下の名勝瀞峡神下田戸の医師の家に生まれる。
隆興、幼時官平と称し才気換発気節あり、学問を好み学才衆にぬきんでていたという。慶応3年(1867)12月、高野山義挙に従い、明治元年(1868)4月、御親兵として伏見練兵所に入る。幕府軍と勤王軍の戦いである戊辰の役には明治元年6月、北越に嚮導官として出兵。越後各地において奮戦したが7月長岡千手口の戦闘において負傷、12月伏見に帰営した。
明治2年(1869)6月、戦功により高40石を賜った。
その後、新しく創設された日本陸軍の中にあって昇進を重ね、明治10年(1877)西南の役には陸軍大尉として出征し、戦後勲五等一時金500両を賜う。明治27・28年の日清戦役には少佐として従軍、功四級金鵄勲章を賜った。明治37・38年戦役には旅順攻囲軍に属し、激戦中負傷する。戦功により功三級金鵄勲章を授けられ、中佐に進み、正五位勲三等に叙せられた。しばらくして軍職を退き、爾来東京にあって悠々自適の生活を送った。
隆興は平生元気旺溢、読書に親しみ、談論風発、絶えず郷党に思いを寄せ、関東十津川郷友会には毎回必ず出席、後輩の為に懇々と訓話を試みることを常とした。
養斉と号し詩文を能くし80歳を迎えたる詩に
古希記我昨誇人 一笑今朝算八旬
回首波乱幾重畳 素襟誰識不留廛
の七言絶句がある。
又郷史に精通し、かつて明治初年の衝撃的大事件となった“横井小楠要殺事件”で小楠を襲撃し、事件後行方不明となった中井刀根男の甥中井哲太郎が、叔父刀根男の人物に関しての問いに対し、「前略……中井君は真に温厚の人で、かくの如き事に関係することは思いも寄らず当時皆意外の感をなせしことなりし、案ずるにその時の機でここに至ったので、如何にも中井君の本心に出でたりとは思われず、これらは人の持って生れた運命というものにて遅くることの出来ざることなりとす。後略…」と答えている。
昭和6年(1931)2月、病んで没した。天保・弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応・明治・大正・昭和の波乱に満ちた長い世代を生き抜いた96年の生涯であった。
( 42 ) 中西 孝則( なかにし たかのり )
天保13年(1842)池穴に生まれる。
文久3年(1863)8月、御所警護の為上京、元治元年(1864)蛤御門の戦いに出動する。明治元年(1868)2月、十津川御親兵人選の軍事書記を命じられる。同年4月伏見練兵場へ入隊、陸軍筆官を務める。明治2年(1869)3月、天皇再度の御東行に際し、伏見の十津川隊は供奉仰付かり、孝則は天皇に従い東上した。同年6月、役目を果たし伏見に帰営、明治5年(1872)兵制改革を機に帰郷した。
明治13年(1880)宇智吉野郡役所書記となる。郡役所在勤中の明治22年(1889)8月、未曽有の紀和大水害に遭遇、孝則は郷出身の西村皓平(山手)と共に十津川の罹災者救済、北海道移民に懸命に努力をした。
孝則は幼少より学問を好み、文才豊かであったが、郡役所在勤中は余暇を見つけ、郷土に関する史料を収集、岡嵩南著「吉野郡水災誌」の編纂に携わり、又「十津川記事」を著した。「吉野郡水災誌 全11巻」は明治大水害時の災害状況が克明に記録され、当時の実情を知る貴重な資料である。
「十津川記事 上中下3巻」は嘉永6年(1853)6月より明治41年(1908)末までの郷の出来事、郷人の人事等が記され、これ又水災誌と同様郷土の歴史を知る上で重要な資料となっている。
郡役所を退任した孝則は一時五條に居を構えたが、やがて郷里に帰り渓堂と号し文筆に親しみ、悠々自適の生活を送った。
中西孝則墓表 晩年大正3年(1914)上杉直温(今西・3代村長)と相計り、村内の名所・旧跡・故人の事績・村の由緒並びに村内55か大字を和歌に詠み「十津川集」として発刊、村人の郷土知識普及に大いに貢献した。
大正8年(1919)8月、77歳で没した。池穴に葬る。
十津川集より和歌2題
☆湯之原
“いにしへは出湯のけぶり立ちしかど
いまは名のみの湯の原の里”
☆竹筒
“とおくなり近く聞こゆるほととぎす
ふた国かけて鳴きわたるらん”
( 43 ) 千葉 政清( ちば まさきよ )
明治43年(1910)8月30日、千葉芳治郎の長男として重里に生まれる。
昭和3年(1928)十津川中学文武館(現十津川高校)卒業後、国学院大学入学、昭和8年(1933)同校史学科卒業。直ちに大阪毎日新聞社入社、ジャーナリストとして未来を約束され、日ごろの夢であった“無冠の帝王”への第一歩を、四国松山支局の新聞記者として大きく踏み出す。やがて本社に帰るが、時あたかも日中戦争に突入、記者の仕事は多忙を極め、加えて生来の勤勉さが無理の上に無理を重ね、疲労の為健康を害し、遂にジャーナリストヘの思いを断ち郷里に帰った。帰郷後しばらくして、請われて母校文武館で教鞭を執る。2年後、樟蔭女子専門学校の教授となり大阪に転居する。上阪後、太平洋戦争勃発、戦局の悪化と共に、日夜の空襲下、学校に、勤労動員先(大阪郵便局)にと心身を消耗、ようやく戦いの止んだ昭和22年(1947)、初春の寒気の厳しさに耐えられず2月18日、布施市(東大阪市)中小坂の仮寓にて不帰の客となった。齢わずか30有8。幼少時より理知的、探求心極めて旺盛な秀才であり、小学校より大学まで常に優等生であったという。因に中学校卒業の時は県知事賞、大学卒業の際は学長賞が授与されている。国史の研究に志し、とりわけ、郷土史に関しては郷友会誌、新聞紙上にしばしば該博な所論を発表した。又母校や樟蔭の教壇に立つや、厳格熱誠をもって指導に当たり、薫陶[くんとう]を受けた者、敬服して止まなかった。
昭和29年(1954)、政清の恩師元文武館長浦武助先生の編集により「千葉政清遺文集」が十津川村役場より発刊された。その序の最後に、時の村長、後木実氏は「・・・戦後既に十年を経過し、今こそ正しい歴史を求めて、新しい国造り、村造りをせなければならない時、彼の死こそ惜しみても余りがある。彼の生涯は長いものではなかったが、その遺された文献は村史完成への貴重な資料として後世に役立つであろうと信じて疑わない。」と結んでいる。限りなく学問を愛し、書架の一端に「万金の富も一巻の書に如かず」と記し、書籍には格別の愛着を持たれたが、今その蔵書は村に寄贈され教育委員会の一室に収納されている。
二津野ダムの湖水を見渡す平谷に墓地がある。浦先生の墓碑銘に曰く「資性忠純 好学直行心竊期大成 学於国学院大学 誨於樟蔭女子専門学校 昭和二十二年二月病没 享年僅三十有八 噫 天何奪斯人之急也」
没後50年になんなんとする時、「ああ天何ぞこの人を奪うことの急なるや」この思い正に切。
( 44 ) 堀 玉三郎( ほり たまさぶろう )
明治38年(1905)和歌山県朝来村に生まれる。
若くして十津川村の堀藤蔵の養嗣子となり、家業の建設業を継ぎ、努力を重ね業界の第一人者となった。
戦後の昭和22年(1947)推されて奈良県会議員となり、以来3期12年その職にあった。
議員在職中、各常任委員長・副議長を務め、昭和30年(1955)には、遂に議員最高の栄誉である議長の職に就き手腕を発揮した。
彼の議員在職中は、混乱した戦後の中にあって、吉野熊野地域総合開発にかかる電源開発、国道168号線の貫通、十津川分水の一連の事業にその完成を目指して積極的に努力した。
吉野熊野地域総合開発は奥吉野にとって、とりわけ十津川にとっては、正に村始まって以来の「秘境」あるいは「陸の孤島」という呼び名の返上を可能にする大きな開発事業であった。従ってこの事業にかけた玉三郎の熱意は並々ならぬものがあった。努力の成果は、昭和34年(1959)8月、168号線の新宮までの開通、10月より待望のバス運行、昭和35年(1960)10月、電源開発の第一歩である風屋ダムによる第一発電所の発電開始によって現れた。玉三郎は常に書に親しみ、研鑽[けんさん]を怠る事なく、とりわけ歴史を好み史実によく通じていた。
人とよく交わり、談論風発、歴史を語り、政治を語り、茶道等を語り、人を飽かせることがなかった。例えば若者には、“来客があり、客が帰るときは門に立ち、客の姿の見えなくなるまで見送るのがお茶の極意である”等、談笑の内に教え諭していた。
昭和34年(1959)政界から身を引いたが、世人は尚持てる政治力に期待する所が大であった。
昭和38年(1963)5月15日、学問を好み、誠実に生きた58歳の生涯を閉じた。生前の功績に対し従六位が贈られた。
没後、故人の功徳を慕う野迫川村・西吉野村・大塔村・十津川村の4村と有志の手によって昭和40年(1965)11月、頌徳碑が建てられた。
碑は国道168号線に面し、上野地駐在所の隣にある。
撰文は時の十津川村長玉置直通である。
( 45 ) 東 芳子( ひがし よしこ )
天保12年(1841)小山手、栃谷久兵衛の長女として生まれる。
慶応元年(1865)24歳の時、小山手、東正喬に嫁ぐ。
結婚後は夫には貞淑[ていしゅく]にして、よく仕え、舅[しゅうと]長兵にはよく孝養を尽くした。
明治11年(1878)37歳の時、不幸にして夫に死別した。
芳子は当時2歳の乳飲み子をかかえ途方にくれたが、やがて気丈にも気を取り直し、昼は山に入り薪を樵り、夜は草履を作り、少し暇のある時は人に雇われて働き、僅かの賃金を得、舅の好んだ酒や肴を買い求めこれをすすめ、舅の喜ぶ姿を見て無上の楽しみとした。
この事はその後何年も変わることなく、日夜義父に仕え、子供を養育し、身を粉にして働き、家を守った。
このことが府庁(当時奈良県は大阪府に属していた)に知れ、大阪府知事より賞を受けた。
☆ 賞状原文
大和国吉野郡小坪瀬村
栃 谷 よ 志
夫正高生存中克ク貞實ヲ盡クシ
且舅ニ事ヘテ孝養怠ラス七年間志
操ヲ変セサル一日ノ如シ詢ニ奇特トス
仍テ為基賞金弐百円下賜候事
明治十八年二月十日
大阪府知事従五位
建野郷三
(注)
・栃谷よ志→東芳子
・正高→正喬
・当時のおよその物価
酒18リットル12銭 100銭:1円
明治29年(1896)舅は80余歳で亡くなったが、日夜嘆き悲しんだという。
この様を見、この様を伝え聞いた者、皆その孝心に打たれたという。
明治35年(1902)2月、生涯その操行[そうこう]を変える事なく、61歳の労苦多き一生を終えた。
十津川人物史へ 十津川巡りへ
( 46 ) 前木 鏡之進( まえき きょうのしん )
天保11年(1840)風屋久保(前木家屋号)に生まれる。
諱[いみな]は義照、通称鏡之進と称した。幼年より武技を好み、剣を館林の藩士に学んだ。郷内屈指の剣客と謳われ好んで赤鞘の大刀を腰にしていた。
文久3年(1863)8月、中山忠光を奉じた天誅組が大和五條において代官所襲撃挙兵、十津川に檄を飛ばすや、鏡之進は野崎主計・深瀬繁理・田中主馬蔵等と共に、天ノ川辻の陣営に馳せ参じた。時に鏡之進年24歳。
やがて京都の政変の報が伝わり、十津川郷は天誅組を離脱帰郷した。
既にして浪士追討令が発せられていたため、その善後策に努めた。
爾来、京都にあって御所警衛の任に従う。滞京中、七卿都落ちのことがあったが、五卿帰京の際同志と共に伏見にこれを出迎え、警護して入京した。明治初年御所警衛の郷士の間に意見の衝突があった。諸種の論争の要因があったが直接には、警衛中の郷士に伏見練兵場において洋式訓練を受けるように指示があったが、これに賛成反対の二流が生じた。
鏡之進は所謂従来どおりの御所警衛を主張する保守派であり、伏見練兵場に入り洋式訓練を受けることに反対であった。そのため帰郷謹慎を命じられたが、丸太町の剣客吉田数馬方に寄寓して帰郷しなかった。明治2年(1869)横井小楠要殺事件あり嫌疑をかけられたが容疑晴れて放免され帰郷した。郷里にあって鏡之進は保守派を牛耳り、前木党と呼ばれ開進派に対抗した。明治2年紛擾取り鎮めのため来郷の役人に呼び出しをうけた鏡之進は、たまたま和歌山県本宮に居たが、直ちに家に帰り衣服をあらため、決死の書をしたため、これを懐中にして召喚に応じるべく出発した。
三里山を越える時、前方より巡察使の来るを聞き、籠の中で切腹し、明治2年6月13日、西吉野村和田で絶命した。享年僅か29歳であった。
鏡之進は資性豪胆、勝ち気で人に屈することが嫌いであった為、しばしば知己とも離れることがあった。しかし奉公の念は極めて強くかつて画家をして自らの像を描かしめ、その上に「生者現天子御膝元奉仕…」と書していた。
切腹の際懐中にしていた書面には、「(大意):私のしたことは一途に皇国の御為にしたことである。ことここに至ったこと死をもって御詫びする。郷中永く勤王出来ますようよろしく。」
と記されていた。
死後、郷中紛擾責任者として厳しく処分されたが、明治22年(1889)許された。
( 47 ) 松實 富之進( まつみ とみのしん )
天保7年(1836)11月15日、樫原に生まれる。
生来資質剛毅で、幼年のころより学問を好んだという。安政5年(1858)8月より文久2年(1862)12月まで大西素堂に就いて学問を学ぶ。文久3年(1863)8月、天誅組の乱起こるや、直ちに檄に応じ、高取城の攻撃に参加するが、戦い利あらず敢え無く敗退。一方京都において政変起こり、天誅組は逆賊となり、大義名分を失った十津川は天誅組より離脱郷里に帰る。富之進は後上京、禁裏御守衛に従い、慶応元年(1865)5月、京邸執事となる。明治元年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いには、中沼了三参謀のもと仁和寺征討総督の護衛を西村皓平・北村右京等と仰せ付かり、やがて京師に帰る。2月の天皇二条城行幸にも警護を仰せ付けられた。
同月、京都施薬院御親兵係万里小路博房卿より十津川御親兵人選方を仰せ付けられる。又同月軍事監司となり、ついで施薬院より郷中人数監察を命じられる。
十津川郷の玉置神社は崇神天皇の御代に創建されたと言い、郷社として郷民の尊崇を集めてきたが、中世に至り仏教の興隆と共に神宮寺が建てられ、神仏混淆となった。
明治維新時、諸事一新の為神仏分離令が出されたが、これにより廃仏毀釈が行われ、全国的に寺が廃された。
十津川においてはいち早く廃仏に決し、明治2年(1869)玉置神社復古の願いが許可されたため、富之進はこれが処理に当たり、丸田藤左衛門・更谷喜延等と京都を発し帰郷する。郷において聚議館役員及び郷中各組総代一名宛玉置山に集合させ、復古の報告祭を行い、諸般の処理を断行し、京に帰る。十津川における廃仏の最初である。
明治2年郷士の間に御所警衛の在り方に端を発し、新旧思想2派の間に抗争を生じ、そのため一方に属した富之進は郷中紛擾の罪により厳しい処分を受けた。明治14年(1881)宇智吉野郡書記となる。
明治22年(1889)の十津川大水害に際しては、難民の救済策として北海道移住が企てられ、600戸2,600人がこれに応じた。このとき富之進は、移民団の副頭取を務め、自らも新十津川に移住、開墾事業に従事、明治37年(1904)4月、68歳の生涯を終えた。富之進は維新の風雲に際し時流に乗り切れなかったという意味で、漏器と称した。
( 48 ) 後木 實( うしろぎ みのる )
明治40年(1907)6月、永井上家誠馬の次男として生まれ、後に後木姓を名乗る。重里小学校(現西川第一小学校)卒業後、直ちに十津川村役場に雇いとして就職、以来役場吏員として精励恪勤、事務に精通しやがて役場の生き字引と称せられるまでに至った。家にありては寸暇を惜しんで読書にふけり蔵書は家内に満ちていたという。
昭和15年(1940)33歳の若さでその力量をかわれ助役に就任する。
就任間もなく、太平洋戦争勃発、情勢極めて困難なるとき、昭和21年(1946)まで村長を助けてよく時局に対処してきた。
終戦後、戦時中の国策遂行に協力の故をもって公職追放となったが、しばらくして解除となった。
追放解除後、戦後の教育制度の改革による教育委員会の発足に際し、教育委員となった。
昭和28年(1953)6月、村民の期待を一身に担い村長に就任する。
村長在任中の業績を列挙すれば大凡次のとおりである。
☆吉野熊野総合開発の促進・電源開発(風屋ダム、十津川第一発電所、二津野ダムの建設)
☆林道開発・森林開発公団による村内11路線
☆国道開通・国道168号線五条新宮間の開通
☆出版物刊行・『十津川叢書』の刊行・『十津川郷』の復刊・『千葉政清遺文集』の発刊・村報の創刊
☆診療所の開設・小原・上野地・重里・田戸など、2期の間に大いに治績の実を上げ、村を“陸の孤島”から脱却せしめた彼の功績は誠に大きい。
役場を訪れる人が、「後木さんは何処の大学を出たのか」と言われる程の学識を備えており、学歴が小学校卒の身とはとても思えなかったという。役場の給仕から身を起こし、刻苦精励・勤勉力行ついに村長という頂点に起った彼こそ正に立志傳中の人と言うべきであろう。
昭和39年(1964)7月26日、新宮市にて心筋梗塞のため倒れついに起たず。
村政に偉大な足跡を残し、惜しまれて57歳の生涯を閉じた。
( 49 ) 中川 まさ( なかがわ まさ )
明治3年(1870)4月6日、折立玉置高良(宇智吉野郡長)・ユキの長女として生まれる。堺の女学校を卒業し、平谷中川貞夫に嫁ぐ。
日頃、まさは都会に出られない女子のため、尋常小学校の上に教育機関があればと考えていた。やがて自分で教育する事を思い立ち、それを実行するには自分自身が今一度現在の事を勉学し、力量を身に付けることが大事と思い至り、40歳の時、一念発起、大妻技芸学校(現大妻女子大学)へ入学し、裁縫等を学んだ(当時の女子の教育と言えば和裁であった)。
卒業と共に2名の助手を連れて帰郷、平谷小学校に和裁学校を開いた(この時の助手の1人が後の名古屋家庭裁判所長田利清の夫人となった)。
まさは、近隣の子女を集め、遠方で通学出来ない者には自宅の離れを開放し寄宿させた。寄宿した者は常時10名余いたという。
朝は四時頃より掃除・米つき・炊事、昼は学校、夜は機織り等の技芸を主とし、礼儀作法に至る実学を指導した。
又、事情を許す者は息子小四郎の勤務先(医博・岡山医専教授・岡山市在住)の許へ預け、裁縫学校等へ通わせた。毎年2、3名の者が岡山にいたという。
まさは、他人の子も身内の子も別け隔てなく躾をし教育し、善悪の弁別を誰にもはっきりさせたという。
昭和7年(1932)11月15日、昭和天皇の大阪行幸の砌、まさは社会教育功労者として各界の特別功労者と共に拝謁仰せつかる光栄に浴した。
因に・奈良県出身の特別功労者は25名で、内女子は僅かに3名であり、社会教育功労者はまさ唯1人であった。
当時天皇陛下は現八神(アラヒトガミ)と称せられた時代であった為、陛下に拝謁仰せつかるということは、本人は勿論、一家一門の誇りとされ、名誉とされた。拝謁の際のエピソードとして、まさは乗り物に酔うため、上阪するのに五條まで3日掛かりで歩き、五條から汽車に乗ったという。
昭和13年(1938)むらの小学校に依頼され講演に行き、脳卒中で倒れ約2年の闘病後、昭和15年(1940)8月8日、自宅にて70歳の生涯を終えた。
林業家であり県会議員・村長となった夫貞夫を授け、自らは女子の社会教育に情熱を注いだ一生であった。養嗣子小四郎は日本泌尿器学会の権威者となった。
( 50 ) 東 季彦( あずま すえひこ )
明治13年(1880)1月平谷に生まれた。22年(1889)8月十津川は大水害に見舞われ、被災者は北海道に新天地を求め移住した。季彦一家も11月新十津川村へ移住した。村の小学校を卒えた季彦は大志を抱いて上京、開成中学(現開成高校)を経て、一高・東大を卒業する。東大卒業後、陸軍経理学校の教授となるが、大正11年(1922)文部省留学生として民法研究のためイギリス・ドイツ・フランスへ渡る。13年(1924)帰国、九州帝国大学法文学部教授となる。昭和4年(1929)日本大学法文学部教授、14年(1939)兄乾政彦(大学教授・弁護士・法学博士)と同じく法学博士となる。17年(1942)義父の創始した北海タイムス社の社長となり、同年母校開成中学の校長となる。20年(1945)日本新聞連盟常任理事、事務局長、26年(1951)日本大学法文学部長、35年(1960)理事、37年(1962)ついに学長となる。
41年(1966)勲二等に叙せられた。同時期国士館大学法学部教授、44年(1969)日本大学顧問となる。
東は元乾姓であったが、郷里十津川出身の東武(代議士・農林次官・北海タイムス創始者・深川市開拓者)の養子となり東姓となる。
東は当時の日本を代表する商法学者として学究の道を歩むと共に、北海道新聞界の先達として大いなる足跡を残した。
幼少の頃より頭脳明晰、正義感強く、事を処するに常に毅然とした態度を失う事がなかった。このことは37年頃に吹き荒れた日大学園紛争を見事に処理した事からもうかがうことが出来る。
また郷里を思う念強く、関東郷友会の会長を長く務め、旧郷十津川村や新十津川町の会員や後輩のために心配りをされた。
令兄乾政彦氏と共に佐佐木信綱先生に師事し和歌を能くした。
54年(1979)7月病んで、学者として新聞人として清廉潔白の生涯を閉じた。99歳の長寿であった。
遺詠
大東亜戦争開戦前の何となく不安なる
空気の中にありて詠める
“身に迫る大きカにおされつつ
今日のつとめはかく果たしたり”