( 1 ) 野崎 主計( のざき かずえ )

 文政7年(1824)父利七郎の長男として、川津村に生まれる。
川津村の庄屋であり、幕末の十津川を代表する勤王志士の1人である。
資性鋭敏、学問を好み雄弁の才があったという。若年のころ病の為13年起つことが出来ず、その間読書三昧、世情に通じ地方第一の物識りとなり「川津のしりくさり」と綽名された。病癒えて起つことが出来るようになったとき、「達磨は9年、俺は13年、俺は達磨に優る」とうそぶいたという。安政の始め、同志と共に京都に上り、維新の志士吉田松陰と並び称せられる若狭の梅田雲浜を始め多くの志士と交わる。主計の弟民蔵は雲浜の門人となった。又川津の野崎の許には雲浜やその門弟、長州藩、水戸藩、土州藩、薩摩藩各藩の志士が訪れた。文久3年(1863)8月、討幕の狼煙を挙げた天誅組が十津川に援兵を求めた際、主計は沖垣斎宮と共に総裁吉村寅太郎に長殿村において会見、天誅組が正義の行動であることを確かめ、同志と共に一郷を率いてこれに参加、各地に転戦した。然しながら京都における8月18日の政変により、天誅組が賊徒となっていることを知るに及んで、十津川は正義のためやむなくこれを離脱、主計は責任を一身に負う遺書を残し、故郷川津山中狸尾において自刃して果てた。9月24日のことである。年39歳であった。
辞世
“討つ人も討たるる人も心せよ
同じ御国の御民なりせば”
“大君に仕えぞまつるその日より
我が身ありとは思はざりけり”
主計の自刃後5年、幕府は倒れ、明治維新の大業成り、天誅組は義挙と称せられるようになった。主計の墓は神納川の入口新川津大橋近く、道路の上にある。「贈正五位 野崎君墓表」の碑は明治38年(1905)4月、郷人達によって生家近くに建立された。撰文は孝明天皇の儒宮中沼了三の長男、文武館教授中沼清蔵である。この碑は現在、風屋ダムの築造に伴い、旧川津ユースホステル跡に移転、再建されている。傍に辞世の碑・梅田雲浜顕彰碑が建つ。子孫は水害後北海道に移住した。

●辞世

●野崎主計墓表(川津)

( 2 ) 深瀬 繁理( ふかせ しげり )

 文政9年(1826)父幸右衛門の次男として重里に生まれる。
 資性豪胆にして果断であったという。幕末嘉永3年(1850)24歳の時より郷里を出、諸国を巡り、梅田雲浜を始め諸藩の志士と交わり、勤皇運動に活躍した。安政5年(1858)同志数名及び雲浜と長州の志士を訪ね、長州との物産交易に名を借り、相往来して国事を談議することを約して帰る。このことは後一時長州から食塩・ローソク等の輸入があり、物流に名を借りた志士の来郷であった。文久年間、雲浜の門人行方千三郎をはじめ、土州・長州の志士相次いで来郷、繁理の許を訪れた。文久3年(1863)、同志と共に朝延方に十津川郷の由緒書を提出、明治維新時、京都における十津川郷の勤皇活動の端緒を開いた。8月、天誅組挙兵に際しては、川津の野崎主計と共に郷士を率いて各地に転戦した。程なくして京都の8月18日の政変伝わり、十津川は止むなく離脱した。この時、繁理は最後まで天誅組への義理を重んじ、天誅組の脱出を助けるため伴林光平等と共に、風屋より内原前鬼を経て、北山郷に入り、葛川より北山に出た天誅組の本隊のために食料の調達に努め、姉婿福田友之助方に潜伏していたが、藤堂藩兵に探知され9月25日、白川河原(現在池原ダム湖底)にて斬首された。時に年37歳。首級は同志たちの手によって故郷重里に運ばれ、亡き父の墓地に遺骸と共に葬られた。前日の24日、同志野崎主計は自刃し、今また繁理は斬首、十津川はわずか2日の間にかけがえのない人傑を失なったことになる。

辞世
   “あだし野の 露と消えゆく もののふの
              都に残す 大和魂”
 明治24年(1891)11月正五位を贈られた。繁理の事歴を記した碑は、嗣子守為により明治33年(1900)建碑され、現在重里郵便局横にある。
 文及び書は小原出身、かつての同志宇智吉野郡長吉田正義である。
 傍に教育委員会の手によって建てられた辞世の碑がある。

●深瀬繁理碑(重里郵便局横)

( 3 ) 千葉 新蔵 ・ 新作( ちば しんぞう・しんさく )

 千葉新蔵は元文4年(1739)出谷字殿井に生まれた。
 資性純良で朝夕孝養を尽くし、親の喜びをもって無上の楽しみとしていた。新蔵の母みつはかねてから、西国33カ所の巡礼を念願していたが、病と寄る年波の為、どうすることも出来なかった。母の心中を深く思いやった新蔵は、道中の心配もあったが、仏の慈悲を頼りに老母を背負って旅に出た。第1番の札所紀伊国那智山から、第2番紀三井寺までの間は遠く、母を背負った身には困難な道程であったが、親を思う新蔵にとってはものの数ではなかった。それから1年、和泉・河内・大和・山城・摂津・播磨・丹後・近江の霊場を経て、とうとう美濃の第33番札所にたどり着き、母の念願を叶えさせた。この新蔵の孝心が仏に通じたのか、母の病は全く癒えた。この時新蔵は仏の加護を深く感じ、報恩の為再び西国巡礼を行った。母みつはその後、新蔵の手厚い孝養を受け、天寿を全うした。
 新蔵の長男新作は安永7年(1778)生まれで、親の性質を受け継ぎ、孝心厚く、田畑に出ては父の体を労り、身を粉にして働いた。
 この父子の徳行は、次々と伝わり村中の褒め者となった。このことがやがて五條代官に聞こえ、父子に対し夫れ夫れ、
 一・扇子一箱  五本入り
 一・金百疋
 一・六教解一冊
が下された。文化4年(1807)8月のことである。
 翌年、老中松平定信の耳にも達し、新蔵に銀10枚が贈られた。
 新蔵は文政3年(1820)81歳、新作は天保元年(1830)52歳で没した。
 昭和11年(1936)父子の徳行を永く伝えるべく、村人達によって純孝碑が旧出谷小学校の校庭に建てられた。現在学校統合により西川第二小学校校庭に移転されている。碑文は出谷出身、文武館長浦武助である。
 思うに親孝行といえば、日本的には二宮金次郎がその代名詞になっているが、我が村にも親孝行で、しかも父子共々親孝行な村人のいたことを知るべきであろう。

( 4 ) 上平 主税( かみだいら ちから )

文政7年(1824)9月14日野尻に生まれる。
 若くして紀州松岡梅軒に医術を学び、また京都において国学を修める。
 嘉永6年(1853)6月黒船の来航により、天下騒然たるとき同志と共に、一郷を鼓舞して、国事に奔走せん事を謀る。同年9月郷中総代として五條代官へ一郷挙げて奉公致したき旨、建白書を提出した。安政元年(1854)1月、梅田雲浜を京都に訪い私淑する。9月ロ艦大阪湾に入るを聞き上平は、雲浜を盟主として、十津川郷士を伴い打ち払いを謀るが、ロ艦港外に去ったため実行に至らず止む。4年(1857)同志と共に滝峠に護良親王御詠の碑を建て、郷民の士気を鼓舞した。5年(1858)上京、諸国の志士と交わる。
 文久3年(1863)3月中沼了三の門に入る。同月同志と共に再び建白書を中川宮に奉り、十津川は御所の警衛を許されることになった。8月天誅組の変に際しては、急ぎ帰郷、郷中総代として収拾に努める。元治元年文武館開館に際しては、師儒宮中沼了三を案内し、吉田正義と折立に来り式に参列する。明治2年(1869)横井小楠要殺事件起こるや、首謀者と見なされ、伊豆新島に終身流刑となった。流刑中医業を生かし種痘をするなど、多くの島民や流人の命を救い、又手習師匠をする等新島の恩人と尊敬された。今も主税の在島記念の流人塔が、門人によって建てられている。
 碑面には
 “大君の恵みにもれぬ民なれば
  あしきをよきに かえせ罪人”
と刻まれ、側面には大和十津川郷士上平主税などと記されている。
 12年(1879)3月、特赦により島民に別れを惜しまれながら、10年振りに故郷に帰り、医業に従い親に孝養を尽くした。20年(1887)郷社玉置神社の神官となり、24年(1891)3月20日、玉置、松平にて67歳の生涯を閉じた。野尻に帰葬し、玉置山の頂上近くに碑が建てられた。主税早くから勤王の志篤く、神道を敬い、王政復古を目的とした。身体小なるも識見高く、機をみるに敏、策を樹つる事速、十津川の知恵袋といわれ、常に郷士たちのリーダーと目され活躍した。主税亡き後、孫の上平喜晴も新島に渡り、島民の医療に尽くした。浜野卓也作「孤島に日はのぼる。」(PHP研究所)は上平主税を、赤座憲久作「医者ザムライとそのまご」(文研出版)は上平喜晴の事を書いた出版物である。

●屋根のある主税の碑(玉置山)

( 5 ) 谷向 寅蔵( たにむかい とらぞう )

 天保12年(1841)、山手谷岡本家に生まれ、長じて込之上谷向家を継いだ。
 若年のころより、資性極めて無欲にして恬淡[てんたん]、剛毅の人であったという。家業の農業・林業を守り、畠に出でては耕作に汗を流し、山に行きては山林憮育に精を出した為、家運は益々隆盛に向かったという。
 寅蔵壮年のころ、当時この村の風俗は浮薄游惰に流れ、勤労を忌避する者が多かったという。
 このことを憂えた寅蔵は、この風習を正すには如何なる方法が最も適切であろうかと、古老に相談した。その結果、古老の意見を入れ、植林をすることにより、村人の勤労意欲を育成することにより、村の教化を図ることに決し、村人に呼びかけた。寅蔵は自ら先頭に立ち山に入り、杉や檜の苗を植え、又苗を育て、村人を督励して植林すること10有5年の長年月に及んだ。
この間に植栽した本数は実に23万本にも達した。
 村人の教化のために始めた植林事業であったが、この山林は込之上の共有山として、長くこの村の財源となった。
 大正2年(1913)、己を空しゅうして村に尽くした、72歳の生涯を故郷にて閉じた。
 翌年(1914)寅蔵翁の業績を偲び、その徳を慕う込之上の住民によって、頌徳碑が建てられた。
 碑は大字込之上、中岡神社の入り口、国道168号線の傍にある。
 碑文は当時の文武館長、従七位松永信嗣である。
 思うに、人を教化するには多種多様の方策が考えられるであろうが、多くの村人を相手に出来得る対策を考え、その土地の環境にあった植林に思いを致し、この事を実行し長い年月の間に勤労意欲を養い、教化の実を上げると共に、年々育ちいく美林に楽しみを見いだしていったであろうことを想像する時、寅蔵の深謀遠慮に敬服の外はない。ましてこの植林が村の貴重な財源となるまでに至ったことに思いを巡らせば、この思い更なるものがある。

●谷向翁碑(込之上国道端)

( 6 ) 中井 亀治郎( なかい かめじろう )

 慶応2年(1866)3月22日、父多蔵母里よの三男として内原に生まれる。
 明治15年(1882)文武館(現十津川高校)に学び、当時文武館生徒・郷青年指導の為、招聘[しょうへい]された鏡新明智流の達人、元江戸三大道場主の1人であった、桃井春蔵直正及びその高弟黒谷佐六郎に剣術の指導を受け、両3年を出でずしてその奥義を究めたという。19歳の時両師の勧めにより武者修行の旅に出、京阪各地の道場を訪れ、ことごとくこれを降し、又21歳近衛師団に入隊するが、休日には必ず各所の道場を巡り、他流試合を申し込み一度も敗れたことがなかったという。十津川郷・文武館・近郷において剣道指導を行ったのは、剣道修行10年後、即ち25年(1892)以降の事である。
 晩年は文武館長松永信綱先生のたっての要請により、文武館顕彰寮の舎監を務めた。舎生に接する亀治郎は、天下無敵の剣豪の影をひそめ、実に好々爺然としていたと言う。亀治郎は全身針金で出来たような筋肉質で、人に勝って力も強く、剣の得意技は「突き」であったが、門下生の伝えるところにとると、片手で軽く突かれても、道場の壁板まで吹っ飛ばされたという。又極めて身軽く、天井の桟に手を掛けて蜘蛛の様に天井を伝い歩いたとか、崖の中腹に突き出た木に、下駄履きのまま重い石を置いてきたとか、数々の逸話の持ち主であった。この亀治郎の教え子の1人に、戦後、日本のダンス王と呼ばれた玉置真吉がいる。真吉は三重県紀和町の出身で、一時文武館に学び亀治郎に剣を習った。昭和21年(1946)「社交ダンス必携」を出版、37万部を売りつくし、日本各地でフォークダンスの講習を実施、ダンス王の名は全国に鳴り響いた。
 真吉評の中でダンスの基礎が、奇態の剣の達人亀治郎によって培われたとあるが、無骨一辺の剣豪の弟子に、日本一ダンス王の取り合わせは何とも微笑ましく、心和む話ではないか。
 性無欲恬淡[てんたん]、名利にとらわれず、酒を愛し、質実剛健、剣一筋に生きた亀治郎は大正7年(1918)11月18日、病のため52歳の高潔の生涯を閉じた。墓は大字旭にある。
 昭和38年(1963)10月、師を慕う門下生と有志によって、十津川高校前、国道端に「剣豪中井亀治郎先生の碑」が建立された。碑文はかつての門下生、元文武館教諭中垣良彦、書は同じく門下生元近鉄副社長玉置良之助である。

●中井亀治郎碑(十津川高校前)

●中井亀治郎(中央)

( 7 ) 玉堀 為之進( たまほり ためのしん )

 文化7年(1810)林に生まれる。幕末文久3年(1863)8月、天誅組の変起こり、十津川はこの挙兵に参加を求められ、即刻これに応じた。
 しかしこの時為之進は、河内の上田主殿と共に、天誅組主将中山忠光に会い半日議論したが、遂に意見合わず、反逆者の名をもって天ノ川本陣、鶴屋治兵衛邸で先陣の血祭りとして斬殺された。
 為之進は当時、林村の庄屋であり、十津川上組の物事の判断に沈着冷静なリーダーであった。一方主殿は藤田東湖の門弟であり、熱烈な勤皇の志士であった。今河内長野市神岡の上田家墓所には「明治維新勤王の志士 上田主殿墓所」の碑が建つ。後に千葉貞幹(永井出身 大分県知事、長野県知事となり在職中病没)から為之進の息、利喜男にあてた書簡には、為之進の事を「温厚な人柄で、言語さわやか、背高く中肉、上品な人で筆跡も見事であり、上組の牛耳を執り、第一級の人物であったと聞いている。」と書かれている。孫の玉堀貞夫は手記の中で「祖父は勅命を遵法せざるにもあらず、又、倒幕の義挙に参加せざるにもあらず、ただ事の真偽を確かめんとしたるのみ。」と述べている。当時、天誅組が十津川に援兵を求めたとき、既に京都の政変により天誅組は賊とされ、孤立無援となっていたことを思うとき、状況を確かめてという慎重論は、当を得たものではなかったか、後に勅命に背くものとして、十津川が天誅組から離脱せざるを得ない立場に追い込まれた事情等考え合わせるならばこの思い尚更である。為之進・主殿の斬首されたのは文久3年8月24日のことである。上平主税の日誌の中に辞世の句が残されていた。

 辞世
  “国の為仇なす心なきものを
     仇となりしは恨みなりける”

 上野地の国王神社本殿前には、為之進寄進の一対の石灯籠が今も残っており、境内にはこの辞世の碑が建てられている。墓碑は大字林にあり碑表には「忍剣義懐居士」と戒名が刻まれている。天誅組の変により、十津川は幾人かのかけがえのない人材を失ったが、為之進もまたその1人である。

●辞世

●玉堀為之進墓(林)

●本殿前の灯籠

( 8 ) 堀 助八郎( ほり すけはちろう )

 堀助八郎は今から300年程前、山手に生まれた。
 西の蔭地[おうじ]に住んでいたが、たまたま享保年間痘瘡の大流行があり、一家7人がこれに罹り、助八郎1人を残して全滅するという悲運にあった。このため、助八郎は亡くなった家族の霊を弔い、冥福を祈るため、自分の所有していた日浦山の全てを菩提寺の高岩寺(平谷にあった寺で、京都妙心寺中金牛院の末寺であり、山号を南谷山といった。現在奈良交通バス停横に切妻造りの四脚門、瓦ぶきの屋根の山門が残っている。)に寄付し、単身故郷を出、諸方を遍歴し遂に帰らなかった。
 寄付された山は、寺領として受け継がれていたが、明治になって神仏分離令により、十津川は廃仏毀釈(寺を廃し神を祭る)を断行したため、高岩寺は廃寺となってしまった。
 そのため、垣内・垣平・猿飼・山手の檀徒はこの山を等分し、夫れ夫れの所有地とし長くその恩恵をこうむることとなった。
 昭和14年(1939)3月この恩に酬いるため、平谷学区民によって「堀助八郎氏記念碑」が建てられた。
 碑は平谷福山神社下の高岩寺住職の墓地内にあり、碑文並びに書は平谷出身従四位医学博士中川小四郎である。
 尚また、この助八郎の頌徳碑が県道龍神十津川線沿いの下湯、助八郎の寄付した山林領内の道路端にある。助八郎の徳を表す為、その由来を記し、昭和45年(1970)、山手・平谷・猿飼によって建立されたものである。
 助八郎の生年、没年終焉の地何れも不詳である。
 享保5年(1720)痘瘡の大流行があり、記録によれば死人が多く出たと記されているが、このことから類推すれば助八郎の生まれたのは元禄時代であったろうか。何れにせよ助八郎若年のころと察せられる時期、痘瘡の流行により父母兄弟を一時に7人も失うという、思いもかけぬ悲惨な事態に遭遇するとは、正に想像を絶するものがあり、彼が無常感の末全てを捨てて故郷を出た心情察するに余りあるものがある。

●記念碑(平谷)

●頌徳碑(下湯)

( 9 ) 野長瀬 正夫( のながせ まさお )

 明治39年(1906)2月8日、大字小原野長瀬高佳の長男として生まれる。
 大正12年(1923)3月、十津川中学文武館(現十津川高校)を卒業する。在学中早大の先輩玉置淳三(元文武館長)の校友会誌登載の詩を読み、詩の魅力に取り憑かれ、文学書を耽読し、詩を書き始めた。中学卒業後、しばらく下北山村などで小学校の教壇に立ったが、詩作に専念の為上京、22歳で第1詩集「刑務所の庭にも花が咲いた」を出版、爾来苦しい生活の中で珠玉の如き数々の詩を世に出し、叙情詩人野長瀬正夫の地歩を固めた。
 昭和20年(1945)戦火を逃れて一時郷里に疎開、村役場に籍を置いたが終戦と共に上京、詩作活動を始め、昭和29年(1954)金の星社に入社、編集長等を務めた。昭和40年(1965)出版の『日本叙情』(詩集)中の「山上歌27章」は戦後最高の作品であると、新村出は激賞した。昭和47年(1972)十津川村は郷土の詩人野長瀬正夫の詩を顕彰すべく、山村振興センター前に文学碑「うつくしきもの」を建立した。題字「野長瀬正夫詩碑」は坪田譲治の筆による。
 昭和45年(1970)刊行「あの日の空は青かった」サンケイ児童出版文化賞受賞、以来、「小さなぼくの家」野間児童文芸賞・赤い鳥文学賞受賞、「小さな愛のうた」日本児童文学家協会賞受賞等数々の賞に輝いた。
 昭和56年(1981)4月29日、「夕日の老人ブルース」の刊行を最後に健康不調となり、昭和59年(1984)4月29日東京にて永眠。78歳であった。
 新十津川菊水公園、十津川役場前には望郷の詩碑が建つ。
 “ふるさとは そらをただよう しろいくも めにとおく こころにちかく きえては うかぶ しろいくも”
 大塔村天辻峠には、正夫の詩を愛する十津川村の有志によって詩碑「和州天辻峠」が建てられている。
 “誰れにもわかる言葉で、しかし誰れにも書けない詩”をと念願し、終生ふるさとを恋い、ふるさとに思いを寄せる詩を書き続けた望郷詩人野長瀬正夫、“詩作 四十年、米塩の足しにはならず、されど、われを支えしものは詩なり”と喝破し、生涯清貧に甘んじた叙情詩人野長瀬正夫。
 彼の霊は今、朝に夕に思いを寄せたふるさと小原の墓地と、多くの文学者仲間が永遠に憩う静岡県小山町富士霊園(文学者の墓)に静かに眠っている。

●山振センター前詩碑

●野長瀬正夫とうつくしきもの

( 10 ) 東 武( あずま たけし )

 明治2年(1869)4月東義次の長男として永井に生まれる。
 郷校文武館より東京法学院(中央大学の前身)に学んだ。法学院在学中の明治22年(1889)8月、郷里十津川郷は未曽有の大水害に見舞われ、死者168人・家屋の流失全半壊凡そ600戸という大災厄を被った。
 この時、東は郷の先輩と共に、「災いを転じて福となさん」と難民救済策として北海道移住を説き、その実現に寝食を忘れて奔走した。
 結果、600戸2,600人という大移住民が渡道、原始林を開拓、新しき村の建設にあたるという大事業が敢行され、今日の新十津川町が誕生することとなった。東は明治23年(1890)法学院卒業、翌年渡道、新十津川村の開拓に従事、明治26年(1893)十津川及び新十津川の移住民100戸団体を組織し、雨竜郡深川村芽生[メム]に入植、現在の深川市の基礎を築いた。深川市には開拓の恩人として「東先生開拓頌徳碑」が建てられている。
 東はこの後、道会議員として政界に、又北海タイムス社を創立して言論界に進出した。明治41年(1908)以来中央政界に身を置き、当選を重ねること10回、政友会に属し予算委員長等各要職を歴任、昭和2年(1927)には農林次官となった。議会においては爆弾的発言が多かったためかニックネームを“バクダン”と呼ばれたという。東の議員在任中特筆すべきことは、明治44年(1911)第27議会において、南北両朝の何れが正統であるかといういわゆる南北正閠論[せいじゅんろん]が起こり、東は南朝正統論を唱え、ついに北朝正統論者を沈黙せしめたことである。
 昭和13年(1938)日本新聞協会使節団長として当時の同盟国ドイツ・イタリアを訪問するなど活躍したが、昭和14年(1939)9月3日、衆議院議員・日本新聞連盟理事長・北海タイムス社相談役等在職のまま、70歳にて千葉医大病院にて病没した。
 東は青年時代学生の身にあって郷土の大災害に直面し、この危急を救うべく自らその衝にあたるなど、その生を終わるまで数々の障害を理想をもって乗り越え、進取の気概に満ちた生涯を送った。
 功により従四位勲二等を贈られた。
 遺骨は分骨されて、郷里十津川村永井・東京多摩墓地・北海道深川市に葬られている。実子なきため乾政彦(日大学長・法博)を養子とした。
(注)正閠=正は正統、閠は不正の意味。

●東武墓(永井 堂ノ岡)