( 101 )  前木 茂( まえき しげる )

 明治41年(1908)9月12日、前木直立の四男として大字風屋に生まれる。
 十津川中学文武館(現十津川高校)を終え、和歌山高商(現和歌山大学)を卒業する。中学在学中、大正10年(1921)4月校舎全焼、全国的不況のせいもあり、廃校・休校・移転存続の各論が村を覆った。この成り行きを心から憂えた文中生4・5年生は嘆願書に血判を押し村会に陳情した。この時のリーダーは前木であったと言う。かくして郷友会等の支援を得て、文武館は移転新築と決まった。前木は中学・高商と弁論部に属し、弁論、文筆の才に優れていた。高商時代2年生のころ寮歌を作詞したが、この寮歌は大学となった今でも歌われている。
 「夕焼け空の」前木茂 作詞
一、夕焼け空の色褪せて 薄紫に暮れ行けば
  名草が原は夢に似て 月見の草の花淡し
二、み空に星のまたたきて 地上の闇を照らす
  とき 励行寮をただ独り さまよひ出でし
  男の子あり(三・四・五・六・七略)
 昭和5年(1930)和歌山高商卒業後、国鉄に夢を求め、奈良駅改札係として国鉄マンの第一歩を踏み出した。その後各駅の各掛を歴任、16年(1941)10月軍属となり、第四特設鉄道司令部付として仏印に渡った。
 20年(1945)1月内地帰還、管理部の業務に従事する。
 24年(1949)兵庫駅長に栄進、36年(1961)2月大阪駅長となり、10月参与に昇格した。39年(1964)3月、長年の国鉄生活に終止符を打ち退職。4月鉄道弘済会関西支部経理部長、大阪営業所長歴任、47年(1972)退職。その後、鉄道弘済整備㈱専務取締役、その他の会社の顧問に就任活躍する。前木は幼少よりその才をうたわれ、在学中教科書等一度読めば、すべて暗記してしまったという。趣味は読書・散歩であり、人品いやしからず、鄙[ひ]にはめずらしいいわゆる英国型の紳士であった。
 “恐れず おごらず”を信条とし、内に情熱を秘めるも、外あくまで柔和、決して怒らず、温和な性格であった。
 常に郷土のことを忘れず、後輩の就職の事などにも意を用いた。又長年関西郷友会の会長として、郷友のために尽くした。56年(1981)4月、運輸事業に功ありとして、勲四等旭日小綬章受章。平成13年(2001)10月1日、西宮市にて惜しまれて死去。
 93歳の長寿であった。

( 102 )  小松 典膳( こまつ てんぜん )

 江戸末期(1800年代)神納川に生まれる。
 幼年のころより、武を好み義侠心に富んでいたという。若くして江戸にのぼり、御徒士組[おかちぐみ]の井上傳兵衛に剣法を学んで帰る。
 天保9年(1838)2月、天保改革に権勢を振った鳥居甲斐守の家臣、長崎人本庄辰助(元茂平治)が貸金の取り立てを傳兵衛に依頼したが、拒否された上意見されたことを根に持ち、傳兵衛を闇打ちにした。傳兵衛の弟、伊務松山の藩士熊倉傳之丞は主家を辞し、江戸に出て傳兵衛の一子傳十郎と共にその仇討ちをはかったが、傳之丞は返り討ちにあってしまった。一説には、既に仇として狙われていることを知った本庄は、傳之丞を誘い出し殺してしまったともいう。これを知った典膳は師の仇をとり、又傳十郎の親の仇討ちを助けるべく、江戸へ行き傳十郎と力をあわせ百方探索すること数年に及んだ。たまたま弘化2年(1845)水野老中が失脚、鳥居甲斐守も捕えられた時、本庄もこれに関係して捕えられた。弘化3年(1846)8月6日、取り調べを終わり護送中の本庄を、傳十郎・典膳両名が襲撃、護持院二番ケ原で討ち果たし本懐を遂げた。
 この仇討ちは、“日本最後の仇討ち”と呼ばれ、これを主題にして森鴎外は大正2年(1913)岩波書店「ホトトギス」から「護持院原の敵討」を発表、歴史考証的な文章で書かれているものの、内容は完全な創作である。
 小松典膳のその後の動静は不明、生年・没年共に不詳。
(注)
 人物としては不明の点が多く、取り上げることが果たして適当かどうか苦慮したが、「十津川郷士傳・歴史大辞典・森鴎外年譜」等に名前の出ていることでもあり、何より“日本最後の敵討”と呼ばれる仇討ちに十津川郷士が加勢していたことに興味を引かれ、番外として取り上げることにした。