( 51 ) 沼田 竜( ぬまだ りゅう )
文政10年(1827)9月15日、字宮原村に生まれる。
京蔵又は恭三、次いで民部と称し、後竜と改める。資性朴直剛毅、容貌魁偉[かいい]であったという。
嘉永6年(1853)6月米艦浦賀に来航、ペリーが和親通商条約を迫った為、幕府はその対策になすすべ無くそのため世情騒然となった。
この時竜は、郷の有志と共に決然起って国事に奔走せんことを謀る。
安政5年(1858)正月、上平主税・深瀬繁理等と京都に上り、諸国の勤王の志士と交わる。安政6年(1859)4月、新宮湊口銀問題について、上平主税・佐古源左衛門外数名と共に材木方総代となり五條代官へ請願する。
文久3年(1863)8月、十津川郷は京都御所警衛のため上京、竜もこれに加わる。同時期天誅組の変起こり、十津川郷士の多くはこれに加勢した。
然しながら8月18日の政変により情勢一変、天皇の大和行幸は中止、天誅組は逆賊となった。この為十津川の去就について深く憂慮した竜は、事の到底成らざるを知り、急遽帰郷密に善後策を講じて帰京する。
やがて、十津川は天誅組から離れ、順逆を誤ることがなかった。
その後京都にあって、京邸の執事・御親兵人選方・軍事監司・郷中人数監察を命じられる。
慶応3年(1867)洋式調練等をめぐり、郷中で賛成反対の意見の衝突があり大紛擾となった。竜は当初より洋式調練に賛成であり、洋式練兵の断行に努めた。伏見練兵場において洋式訓練を受けた成果は直ちに現れ、戊辰の役に十津川郷士は御親兵として北越の野に武勲を輝かせた。この事は竜等の力によること大である。
明治2年(1869)春、大阪府治川使出仕、次いで治川使廃止に伴い、堺県に出仕、権大属(明治新政府の職階制13階級中9番目)に任ぜられた。
明治3年(1870)12月、積年王事勤労につき金200両を賜う。
明治12年(1879)1月、一意王事に専心した52歳の生涯を閉じた。
死の数日前、二等属より一等警部に昇進した。
明治31年(1898)7月4日、従五位が贈られた。
( 52 ) 大畑 秋雄( おおはた ときお )
明治26年(1893)9月10日、小山手に生まれる。
畝傍中学校(現畝傍高校)に入学するが、2年終了後大阪府立農学校畜産科に転入し、同校を卒業する。
大正2年(1913)軍隊に入り、大正5年(1916)獣医少尉に任官する。
除隊後4月、農業技手として十津川村役場に入り、7月奈良県衛生技手となる。
昭和6年(1931)名誉助役、次いで村会議員、昭和15年(1940)には推されて第22代村長となる。就任時、日本は日独伊三国同盟の締結、大政翼賛会の発足等戦争への歩みを続け、ついに運命の太平洋戦争に突入するという時期であった。在任中は、長年の懸案であった文武館の県営移管を始め、困難な戦時下の地方行政に優れた手腕を発揮した。
昭和18年(1943)村長退任後、和歌山県新宮市に移り、昭和30年(1955)市会議員に出馬、多くの市民に推され当選、以来3期連続当選を果たした。
議員在任中、建設常任委員長・副議長等歴任、ついに議員最高の栄誉たる議長になるなど、市政の進展に尽くした。
又十津川村や新宮市の木材関係機関の役員として業界発展に尽くした。とりわけ戦後の混乱期いち早く優れた洞察力をもって、「新宮市の発展は木材の集散地としての地域性を生かすに如かず」と「木材の町 新宮市」として市の復興を図った業績は高く評価された。
又請われて新宮高校野球部の後援会長となり、幾度か甲子園出場を果たし“新高野球部”の名声を高らしめた。
昭和37年(1962)全国市議会議長会から、又和歌山県知事から表彰を受けた。
昭和42年(1967)勲五等に叙せられ瑞宝章を賜る。
昭和62年(1987)12月30日、埼玉県川口市において高潔の生涯をとじた。
秋雄は十津川村においては村行政の最高責任者たる村長となり、新宮市においては議員最高の議長となり、夫れ夫れの村・町にあってその進展に力を尽くした、希有な経歴をもつ政治家であった。
94歳の長寿であり、没後、特旨をもって従六位が追陞[ついしょう]された。
( 53 ) 松實 喜代太( まつみ きよた )
慶応2年(1866)11月28日、樫原に生まれる。
父は松實富之進又の名を漏器という。
明治8年(1875)5月より明治17年(1884)3月に至るまでの間、平谷小学校・堺師範平谷分校・文武館(現十津川高校)に学ぶ。
明治18年(1885)慶応義塾に入学するが、明治21年(1888)横浜商業学校に転じ、明治23年(1890)卒業する。同年北海道新十津川村へ移住し、農業に従事する。明治36年(1903)7月より、明治40年(1907)9月まで新十津川村長を務める。村長在任中は特に産業振興に力を尽くした。
明治38年(1905)12月より明治40年(1907)8月まで村農会の会長を務め、昭和2年(1927)4月から昭和4年(1929)3月まで再度会長職にあり農業の振興に努めた。
明治40年村長在任中の手腕が認められ、道会議員に当選、大正9年(1920)まで4期当選する。大正9年より衆望を担って国政に参画、昭和11年(1936)まで衆議院議員に当選すること5回。昭和7年(1932)功により勲三等に叙せられ、瑞宝章を賜った。昭和10年(1935)には旭日中綬章を授けられた。
松實は道会においては予算通として通り、しばしば予算委員長を務めた。国会においては終始政友会に籍を置き、財政通として予算委員・決算委員を度々務め、院内でも党内でも重きをなしていた。
代議士退任後は、札幌祖霊神社顧問、生長の家札幌相愛会長として宗教活動に従ったが、総じて家にあって晴耕雨読の生活を送った。
松實は村長、道会議員、代議士と生涯の大部分を村政、道政、国政に尽力し政界の舞台にあった。父富之進は自らを漏器と称し、明治維新という国の大変革に際会しながら、折角の機会を逃し、自らの志を遂げられなかったことを悔やんだが、その子が政治家として、父の夢を果たしたというべきではなかろうか。
松實は温厚にして親しみ深く、しかし政界では十津川郷士の末裔らしく硬骨漢で通り、直情径行の人と評された。昭和28年(1953)5月2日、87歳の生涯を閉じた。
( 54 ) 中畑 義愛( なかはた よしちか )
明治43年(1910)川津に生まれる。
昭和3年(1828)3月、十津川中学文武館(現十津川高校)卒業後、法政大学文学部法律科入学、昭和9年(1934)同校を卒業する。
経済界の不況時代、昭和10年(1935)広告会社日本電報通信社(現電通)入社、新聞広告の担当として営業部に配属される。
やがて始まった太平洋戦争中には一度ならず二度までも召集され、戦場に立たされたが、南方で終戦を迎え無事復員、直ちに電通に復職した。
昭和28年(1953)日本初の民間放送の誕生と共に、同社にラジオ・テレビ局が開局、中畑は初代部長に就任、未知のテレビ部門で大いに手腕を発揮した。その後営業連絡局長・常務取締役・副社長と昇進を重ね、昭和48年(1973)推されて遂に社長となる。
局長時代、某週刊誌に“絶対に社長になれない局長ナンバー1中畑”と書かれたことがあるが、間もなくして社長となったのは、一重に中畑の人柄の良さ、勤勉さ、先見性によるものとされる。
社長就任時は、各会社が利益追求の為競って他業種に進出する中で、広告一筋の経営を続け、今日世界広告業界の雄と言われる電通の基礎を築いた功績は、大いなるものがあるといわねばなるまい。
中畑は十津川郷士末裔の典型的性格で、無口で恬淡[てんたん]、後輩の面倒もよくみたという。学生時代から関東十津川郷友会の幹事となり、戦後は中断されていた郷友会を東季彦(日大学長)会長、中畑義愛幹事の体勢で復活させた。その後、会長となり益々その充実を図り、十津川村・新十津川町をはじめ、関西・中京・奈良等の各郷友会との連携を密にし、会の発展に尽くされた。郷友会と言えば、“中畑さん”と言うように人徳が人を呼び、温厚で謙虚な人柄から“畑さん”のニックネームで多くの人から慕われた。
昭和52年(1977)経営の第一線から退き相談役となった。
同年広告業界での業績が認められ、勲二等瑞宝章が贈られた。
平成3年(1991)7月、急性心不全のため生涯を広告業界の為に尽くした81歳の生を終えた。
同年10月、長年の功績に対して従四位が贈られた。
( 55 ) 勝山 倉吉( かつやま くらきち )
明治15年(1882)1月、永井に生まれる。
重里小学校を卒え、十津川中学文武館(現十津川高校)に入学するが、4年生のとき家事都合にて退学。20歳の時、西中次いで重里小学校の代用教員を勤め、明治36年(1903)5月、武蔵尋常小学校の代用教員となる。21歳であった。明治40年(1907)5月、本科正教員となり、6月訓導兼校長となる。時に年わずか25歳。以来他校に転勤する事一度もなく、明治・大正・昭和3代にわたり十年一日の如く30余年間、武蔵校に勤務、昭和8年(1933)8月末、惜しまれて退任した。退職前年1月、多年の教育功労が認められ、従七位に叙せられた。
在職中、学校教育においては勉学には勿論、特に徳育に厳しく、便所の掃除等は土曜日の午後、便器の枠を近くの谷へ持って行き洗わせた。
時間には厳格で、単身赴任であったが土曜日帰宅しても月曜日には、永井から武蔵まで山坂を越えて始業前に必ず出勤、袴をつけ威儀を正して授業に臨んだ。又現在の保護者会の先駆けとも言える「母子会」をつくり、毎年半夏至の日に学校と母親との懇親会を開いた。
尚、女子青年の教育を企図し、夜学「修養会」を開き“教育点呼”と称して学習達成度を調べ、教育向上を図った。又在任中、「報徳会」という会をつくり、大字民を教化したという。「報徳会」は毎月1回会合を開き、実践目標を定め実行を促し、目標を達成すれば次の目標をきめ、出来なければ出来るまで繰り返し、目標の達成に努めさせたという。
目標の例を挙げれば、
・草履をそろえる
・時間厳守
・病人の見舞いは短くする
等であり、これらのことは現在も守られているという。
退職後、文武館の会計等を務めたが、昭和41年(1966)7月27日、84歳で病没した。平成8年(1996)先生の全生涯をかけて慈しみ、大字の人々によって守られた学び舎は、村の文化財となり「教育資料館」として生まれ変わった。残された教えは、古き校舎と共に今も武蔵の人々の胸に残り脈々として生きている。
( 56 ) 前東 計男( まえひがし かずお )
明治29年(1896)6月1日、長殿に生まれた。
両親は、明治22年(1889)の大水害の直後、和歌山県学文路村に移り、次いで明治37年(1904)新十津川村に移住した。
計男は農作業の手伝いをしながら小学校を卒業した。その後札幌の逓信講習所を卒え、道内各地の郵便局に勤務、のち東京の逓信局に転勤、苦学して専修大学を卒業する。卒業後、台湾銀行・明治漁業・太田屋を経て、昭和19年(1944)科学測定器等を生産する東亜電波工業会社を設立し、専務取締役となり営業を担当、大いに業績を上げた。その後会社は時代の波に乗り益々充実拡大した。昭和31年(1956)には合理的モデル工場として中小企業庁長官から表彰、翌32年(1957)社長に就任する。
社長就任後、埼玉県狭山市に研究所・工場を設立、札幌等各地に営業所を開設し、会社の発展に努め、又通信機器工業組合理事長・日本電気計測器工業会監事等を務め業界発展にも尽くした。
昭和34年(1959)には日本計測器工業会など業界の功績に対し、紺綬褒章、又昭和43年(1968)には勲四等瑞宝章を賜った。
昭和47年(1972)取締役会長となる。計男は、旧郷十津川の歴史に限りない誇りを感じ、十津川人としての自覚を持ち続け、折に触れこれを語り、文に書くことを常としていた。又移住により故郷となった新十津川町をこよなく愛し、毎年盆には帰省し、老いた母をいたわり親戚や関係者との親睦を深めることを常としていたという。また新十津川町望郷会東京支部長も引き受け、新十津川町との連絡を密にし後輩の指導育成に貢献した。
関東十津川郷友会には若いころから出席し、十津川村出身者との親睦を図り、晩年には副会長を務め、会の発展に尽くした。
文筆を好み、『77歳の遍歴・移住90周年の回想・米寿を記念して・徳富川』等を著した。
平成元年(1989)9月、93歳の長寿を保ち、苦労人として、勤勉努力の人、として真面目に生きた生涯を終えた。
( 57 ) 安井 芳野( やすい よしの )
文久3年(1863)、天誅騒動のあった年、小原中上家に生まれる。
幼少のころ故あって、山手の玉置奉悦医師の養女となる。
容色衆に優れ、まれに見る美女であったためか、当時
“山手芳野は 日輪さまよ
光輝くどこまでも”
と謡われたと言われている。
豊臣秀吉は“日輪の子”と称せられた後に関白となったが、日輪と言われた芳野は如何なる女性であったろうか。
17歳のとき、山崎の医師佐古嘉彰と結婚するが、不幸にして21歳で夫と死別する。寡婦となった芳野は長男高義(当時4歳)次男洋彰(当時1歳)を、夫の姉即ち伯母に養育を託し佐古家を去った。大阪に出て女医を志し大阪医学校に学んだ。その後明治27年(1894)日清戦争のころ、大阪赤十字病院の看護婦として勤務していた時、たまたま傷を受け入院していた安井男爵と知り合い、千葉貞幹(永井出身 長野県知事)の斡旋により結婚、安井家に入った。長男英二は幼年のころより頭脳明晰、東京帝国大学を主席で卒業、内務省に入り、内務省地方局長・岡山県知事・大阪府知事・文部大臣・内務大臣等歴任した。
戦前、大臣大将の出なかった県は、沖縄県と奈良県だけであったと言われるが、奈良県では大臣は出なかったが、大臣を生んだ母親が出たと当時話題になったと言われる。100余年の昔、文字通り秘境十津川を出て男爵夫人となったのは、天性の容姿に加え天与の才があり、それにその時代の女性としては珍しく自由闊達に生きる性格が加わったためであろう。
それにしても若くして2人のいたいけな子供を残し、家を出た彼女にとっては幾多の苦難が、また母に残された2人の子供にとっても人知れぬ悲しみ苦しみがあったのではなかろうか。昭和15年(1940)7月23日朝日新聞の報ずるところを、要約すれば、「謹厳居士の新内務大臣に安井英二氏がなったが、…新大臣の義兄(高義)が1人、十津川村山崎に村人から慈父の如く慕われつつ医師を開業している。高義氏は養母の伯母が、生母を訪ねてはいけないという言葉を固くまもっているが、義弟の大臣就任に50年振りに心動いているのではないか」と結んでいる。はたして兄弟の対面はあったのであろうか、その後の報道は不明である。
芳野は91歳の天寿をまっとうして生涯を終えた。
( 58 ) 中南 忠一( なかみなみ ちゅういち )
明治34年(1901)6月14日、父中南忠武母げんの長男として山天に生まれる。
大正3年(1914)4月、郷校文武館(現十津川高校)を卒え、家業の林業に従事する。生家は村内有数の山林家であった。
昭和5年(1930)推されて十津川村議会議員となり、その後3期、議員として村政に尽くす。昭和10年(1935)より1期収入役を務め、村の健全な財政管理を高く評価された。
その後村の基幹産業である林業に深く関わり、十津川村森林組合連合会長を務め、十津川木材協同組合の設立に努力、理事長に就任する。又新しく組織替えされた木協の陸上貯木場「新宮出張所」「潮来出張所」の所長を務める等村の木材業界の要職につき、林業発展に大いなる役目を果たした。
昭和24年(1949)請われて助役となり、終戦後間もない世情甚だ不安定の時、村長を補佐し治世に貢献する所があった。
昭和44年(1969)第32代村長となる。
村長在任中は、
・林業近代化の促進
・道路の開設
・山村振興センターの建設
・老人医療の無料化
これは国・県に先駆けた施策として高く評価された。
・文学碑の建立
郷土の生んだ叙情詩人「野長瀬正夫詩碑」“うつくしきもの”を改善センター前に建立等治績を上げる。
昭和49年(1974)村治発展功労者として十津川村より表彰、昭和52年(1977)多年にわたる地方自治に対する功績が認められ、勲六等に叙せられ単光旭日章が贈られた。
昭和57年(1982)7月28日、病みて大淀病院にて81歳の生を閉じる。
( 59 ) 榎 光磨呂( えのき みつまろ )
明治17年(1884)高津に生まれる。
上野地小学校を卒え、文武館(現十津川高校)に学び、後奈良県師範学校を明治37年(1904)12月卒業、翌年1月吉野郡高見村尋常小学校に奉職する。大正9年(1920)3月まで同校に在職し後依願退職、翌10年(1921)3月家郷に帰り上野地尋常高等小学校に9年間、花園校に1年間、都合約26年間、訓導又は校長として勤め、昭和6年(1931)3月家事の都合により退職。
その後は家に在りて、十津川村北和信用組合監事・十津川村信用購買販売利用組合長・十津川村木材同業組合代議員・中野村区森林組合長・奈良県森林組合連合会理事・十津川村漁業組合初代組合長・中野村区長・十津川村会教育委員・十津川村経済厚生委員・十津川村議会議員等を務め、昭和15年(1940)には名誉助役になるなど村治に尽力する。
十津川分水補償問題、上野地中学校建設問題には何れも委員として努力する。又瀞八丁を守るためダム建設に反対運動をする等、郷土の環境問題にも強い関心をもっていた。
教育者として如何に信望を得ていたか、退職後も十津川村教育会の名誉会員として従前の副会長を継続し、昭和9年(1934)には従来村長の職であった会長に推挙され、4期8年間その任にあったことは、そのことを如実に物語っていよう。
昭和11年(1936)財団法人村立十津川中学文武館の理事長となり、村営としては将来の維持経営の困難なることを痛感、十津川出身県会議員野尻清寳氏等の協力を得て、県営移管に力を尽くし、昭和17年(1942)ついに県立となした。戦後の村の経済状態を考え合わせたとき、この時期県営となし得た事の意義は誠に大きい。昭和18年(1943)2月11日教育功労者として奈良県知事より表彰状とともに金一封が贈られた。
温厚にして謙虚、極めて几帳面な性格で、50年間日記を欠かすことがなかったという。和して動ぜず、意志強固の反面、家に在りては極めて子煩悩であった。ある時、散髪をしに出掛けたが、可愛い孫に土産を買うのに夢中になり、肝心の散髪を忘れて帰り家人に大笑いされたことがあったという。又季節に応じた花見・釣・紅葉狩り・狩猟などを楽しむ多趣味の人でもあった。
昭和43年(1968)1月24日84歳で没した。
( 60 ) 中垣 英三郎( なかがき えいざぶろう )
明治20年(1887)、中垣行完の三男として込之上に生まれる。
幼少のころより知能衆に優れ、成績抜群であった。
小学校卒業後は郡山中学校(現郡山高校)、旧制第四高等学校(現金沢大学)と難関を突破し、遂に京都帝国大学法科に進んだ。
大正7年(1918)3月、同校を卒業する。卒業後一時郷里十津川中学文武舘(現十津川高校)で教鞭を執ったこともあったが、やがて志を外地に求め当時日本の領土であった朝鮮に渡り、北朝鮮商事株式会社に入社した。
やがてその力量を認められ、専務取締役に抜擢され、会社経営に参加する。商事会社に勤務すること暫くして、法曹界への夢捨て難く帰国、大正14年(1925)大阪において、独立して弁護士を開業する。
開業後中垣は、その性極めて穏健にして正義心強く、依頼者に対して親切心・同情心をもって接したので、優れた人格者として名弁護士の名声を博した。
しかし“好事魔多し”、弁護士として順風満帆経験豊富前途正に洋々と見えた彼の前に、“病”という人間として避けがたい一大障害が立ちはだかった。
昭和13年(1938)10月16日、弁護士として、又1個の人間として円熟味を加え、飛躍を期待されながら大阪住吉にて生涯を終えた。
前途尚幾春秋に富む51歳であった。
死期が迫るや、我が身の短き天命を嘆きつつも、且つ大悟して死の時刻を予言して、眠るが如く瞑目した。
人皆、その早世を惜しんだという。
因に中垣の曾祖父正五位丸田藤左衛門は幕末十津川郷士のリーダーであり、従六位丸田重理は祖父、父中垣行完は第5代十津川村長であった。中垣の兄高瀬敬蔵は、朝鮮において木材業を営み、巨万の富みを築いたが第2次世界大戦敗戦後、無一物となったという波瀾に満ちた生涯を送った異色の人物であった。元三菱造船所長丸田秀實は伯父、兄弟揃って、法学博士となった乾政彦・東季彦は従兄弟である。一族には他に元大和銀行頭取として名を馳せた銀行界の巨頭、寺尾威夫等優れた人物が多い。