( 31 )  西田 正俊( にしだ まさとし )

 明治13年(1880)5月、西田直人の次男として小森明円に生まれた。
 明治27年(1894)4月、郷立文武館(現十津川高校)に入学、3年在学中、当時県立郡山中学校(現郡山高校)の分校であった五條中学校(現五條高校)に転校した。転校後家運傾き学資が途絶えた為、已む無く中途退学、五條市の磯田弁護士事務所の事務員となる。
 明治32年(1899)10月下旬、磯田氏の東京転出に伴い上京する。間もなく明治法律学校に入学、明治35年(1902)同校を卒業する。
 明治37年(1904)税務官吏となり、香川・高知を経て東京へ転任したが、病にかかり、明治41年(1908)10月、職を辞して郷里に帰った。
 やがて新宮市に居を移し、健康回復後新聞社に入る。社員として奈良へ赴任するが、暫らくして再度新宮市へ帰った。
 晩年は神職として、男山八幡宮及び那智・新宮両神社に務めた。
 西田は“黒潮”と号し文筆を能くした。早くから十津川村史の解明に情熱を傾け、昭和7年(1932)10月、多年に亘る研究成果を「十津川郷」として刊行した。翌年(1933)12月、続いて「十津川郷士及亡命志士列伝」を著した。更に「十津川郷第2版」の出版を計画したが、時局の変動等により目的を果たす事が出来なかった。
 昭和22年(1947)5月、郷史究明に畢生[ひっせい]の努力を傾けた生涯を終えた。
 終焉の地は新宮市、享年67歳であった。
 西田の著した「十津川郷」は昭和7年11月、黒田侍従十津川御差遣の砌[みぎり]、十津川村より侍従へ奉呈された。尚故人の生前果たされなかった第2版は昭和29年(1954)十津川村史料編輯所(浦武助)によって発刊された。
 西田の生地小森明円は、往昔南北朝時代大塔宮護良親王御潜行の働、尼明円(みょうえん)なる者が橡[とち]粥を宮に差し上げたと伝えられ、地名由来もこの事による。付近には尼にまつわる伝説地もある。西田の郷土史への関心探求心はこの様な環境の中で育ったのではあるまいか。
 「十津川郷」は600頁に垂[なんな]んとする浩瀚[こうかん]な郷土誌であり、十津川の歴史・地理・社会・産業・宗教・人材・言語・災害移住等全般に渡り、特に明治維新時の郷の動き、郷士の働き等広範にしかも克明に記述され、今日十津川を知る貴重且つ重要な文献となっている。史料収集編纂にどれだけの時日と努力を要したか、思えば敬服の外はない。

( 32 )  乾 丘右衛門( いぬい きゅうえもん )

 文政5年(1822)風屋に生まれた。天保14年(1843)、西久左衛門(小森)丸田重理(込之上)等と甲府の杉山弁吉を招いて剣道を学んだ。
 嘉永6年(1853)6月米艦浦賀に来航、通商条約を求めた為天下騒然となった。この時丘右衛門は同郷の上平主税・丸田藤左衛門・野崎主計等と共に起って国事に奔走せんことを謀る。同年9月上平主税等を総代として、十津川郷の由緒を申し述べ、応分の奉公を尽くしたき旨、支配庁へ建白した。安政元年(1854)正月京へ上り、梅田雲浜[うんぴん]に持論を聞き、感奮して帰郷した。同月亀山藩士長沢俊平・熊本藩士松田重助来郷、国事を語る。この後丘右衛門は郷友に勤王を説くに至ったが、これは明治維新における十津川勤皇運動の第一歩であった。同年9月ロシアの軍艦が大阪湾に入港したが、丘右衛門は上平主税と計り、梅田雲浜を盟主とし撃ち払いを図った。この時雲浜の詠んだ詩が不朽の愛国詩となった。即ち、「妻は病床に臥し 児は飢えに泣く 身を挺して直ちに戎夷に当たらんと欲す 今朝の死別と 生別と 唯皇天后土の知る有り」である。かくして雲浜を擁した十津川隊は大阪に乗り込んだが、ロシアの船は既に港外に去った後で、この挙は実現には至らなかった。その後丘右衛門は雲浜始め五條の志士森田節斎・乾十郎・下辻又七等と気脈を通じ、国事について大いに談ずるところがあった。又長州藩の京都留守居役宍戸九郎兵衛と往来して、十津川郷の振興策として長州との物産交易を画策した。
 又、丘右衛門は安政の始め、長沢俊平・上平主税等と相計り、十津川郷の勤皇精神を鼓舞するため、元弘の昔十津川に潜匿された護良親王御詠を石に刻み、千載不朽に伝えんと計画したが、その実現を見ずして病にかかり安政4年(1857)没した。享年わずか36歳。丘右衛門、資性豪放気宇闊達、家富裕にして屈託なく、諸国の志士浪人来り訪れる者あれば快くこれを迎え、幾日となく滞留せしめた。早くから五條代官に知られ、常に代官邸に出入りし十津川方面の所用を足していた。当時十津川郷内屈指の大人物と言われ、毎年行われる年1回の村の代表による寄り合いには常にその首席をしめた。
 この様に優れた人物であった為、幕末、郷にとって極めて重要なこの時期、その早世は惜しみてもあまりあるものがあった。
 嗣子楯雄剛毅明敏、御親兵隊長となる。やがて司法省に入り前途を嘱望されたがわずか31歳で病没。

( 33 )  千葉 正中( ちば まさなか )

 文政9年(1826)8月6日、父周平の長男として上湯川に生まれる。
 幼年のころより学問を好み、16歳の時、10歳の弟田中主馬蔵と共に、紀州田辺藩の藩儒平松良蔵に漢学を、同藩の柏木兵衛に剣術を学んだ。
 弘化4年(1847)江戸に出、心形刀流第8代伊庭軍兵衛秀業の門に入るが、修行中病になり帰郷、庄屋となる。米艦浦賀に来航、天下騒然となるや、文久2年(1862)2月、上平主税等と京に上り、諸藩の志士と交わり天下の形勢をうかがう。3年(1863)2月深瀬繁理・田中主馬蔵等と郷士総代となり、郷の由緒を申し述ベ、国家非常の時に際会、応分の力を尽くしたいと赤心を披瀝[ひれき]、次いで4月、丸田藤左衛門・深瀬繁理・田中主馬蔵・上平主税・前田正之等と、中川宮に上書した結果、禁裏御守衛の任に従うこととなった。8月、正中等御守衛人数を率いて上京、以後“京詰”と称し十津川は交替で王城警固に当たった。維新5年前のことであり十津川をして「明治維新魁の村」と評される所以となった。以後正中は京都にあって天誅組の変・8月18日の政変等に際し、郷の立場を守る為その対応に奔走事なきを得た。明治元年(1866)2月十津川御親兵人選方を命じられ、同月軍事監司、続いて郷中人数取締となるなど国事に尽くすこと7年余に及んだが病となり、故山に帰った。帰郷後の正中は再び国事に関わることなく林業に専念した。29年(1896)居を京都に移し、翌年(1897)9月25日病没、71歳であった。吉田山神楽岡に葬る。
 大正4年(1915)積年王事勤労につき正五位を贈られた。正中品行厳正、神を敬い、勤倹を旨とし、山林樹木を愛し、愛樹又は樹山と号した。
 植林の余暇には漢書に親しみ、和歌を詠じた。日常“勤皇と殖産は万古不易なり”を信条とした。雑談中といえども、言、朝廷の事に及ぶと襟や膝を正したという。正中には4人の弟があり即ち、直弟田中主馬蔵・田中賢七郎・千葉小助・岡本良橘で兄弟5人揃って勤皇家であった。

  諷詠
   津越野遠望
    “はるばると見渡す山の春景色
       かすみのあなたはてなしの峰”

( 34 )  深瀬 隆太( ふかせ りゅうた )

 明治15年(1882)6月7日、重里に生まれ、長じて永井深瀬家を継いだ。
 資性頭脳明敏、雄弁家であった。
 明治31年(1898)3月、郷校文武館(現十津川高校)を卒業、医学を志し大阪あるいは愛知の医学校に学んだが、日露戦争従軍の為、業半ばにして退学した。除隊後帰郷、文武館会計、木材同業組合の業務等に従事する。
 大正5年(1916)十津川村会議員に当選、大正10年(1921)名誉助役、大正11年(1922)村民の輿望[よぼう]を担って村長に推された。
 隆太は村長となるや、行政の中心課題に道路整備を置き、村内各所の道路開発を計画した。今日村内の主要道は当時の計画によるものという。とりわけ五條新宮間を結ぶ鉄道を敷設する、五新鉄道法案を国会で通すべく、あたかも同時期、同じ計画をもつ奈良県(十津川村折立出身)選出、代議士玉置良直と相呼応して運動を展開した。玉置は国において鉄道省その他に、深瀬は村や沿線関係町村に強力に働きかけた。深瀬はこの鉄道の国策上、また観光上、産業上極めて有用性の高いことを力説、文字通り政治生命を賭けて取り組んだ。長く東京に出張滞在し、陳情活動を行ったが、これが国会での法案通過には尋常一様の努力ではその成果を見ることが出来なかった。
 時に深瀬は運動の効現れず悲観の極に達し東京より役場、玉置神社に宛「万策尽キタ 一村ノ興廃コノ一挙ニアリ 村民挙テ祈願セヨ」と打電、村よりは「斎戒沐浴祈願ニ努ム 最後ノ五分間極力奮闘ヲ乞ウ」と返電。または代議士玉置は病躯をおして、村長深瀬の肩にすがって鉄道省の階段を昇降したという。かくして猛運動の結果、大正12年(1923)法案通過、悲願達成へ大きく前進した。しかしながら国内外の情勢変転に伴い、幾度か予算化着工の繰り延べが行われ遅々として進まず、(戦後僅かに阪本までの半完成をみたが、)遂に戦後の鉄道合理化案により、日の目を見る事なく「幻の鉄道」と化した。深瀬はこの運動の為自らの資産ことごとくを費やし、昭和22年(1947)鉄道にかけた夢を抱いたまま、報われる事なき生涯を閉じた。享年65歳。
 昭和51年(1976)西川区民は深瀬の情熱を偲び、遺徳を後世に伝えるべく頌徳碑を建立した。碑は国道425号線沿い西川を臨む川合神社前にある。

( 35 )  久保 成吉( くぼ なりよし )

 天保9年(1838)11月1日、平谷に生まれた。
 嘉永6年(1853)米艦来航天下騒然たるとき、成吉は丸田藤左衛門・藤井織之助等と共に全郷を激励、武器を購入して防御の策を講じ他日の用に備えた。文久3年(1863)8月、五條において討幕の狼煙[のろし]を挙げた天誅組には、いち早くこれに応じ、各地に転戦する。然るに8月15日の政変により天誅組は朝敵と化し、諸藩の軍勢は追討の為十津川郷に迫った。
 この時、紀州藩は特に多数の兵を率いて、日高郡丹生川に陣を構え、四村組に使者を送り「十津川郷が紀州藩に降参し、以後我が藩に従うことを誓約するならば朝廷や幕府に対して、紀州藩においてしかるべく取り計らってやろう。」という意味の書状を送って来た。
 これを読んだ成吉等は憤然として「十津川郷は目下幕府軍の包囲下にあるが、固より朝廷直轄の地である。何故に他の藩に従う事ができようぞ。」と断固としてこれを拒否、使いを追い返したという。
 元治元年(1864)5月、禁裏御守衛の為上京、これに従う。
 高野山義挙には東四番隊副長を命ぜられ出陣。暫くして京都に帰り伏見練兵場にて洋式訓練を受ける。明治元年(1868)6月、御親兵第一番中隊大伍長となるが病の為職を辞して帰郷する。明治3年(1870)壮兵募集に応じ再び伏見兵営に入り、陸軍一等伍長として大阪鎮台へ転営、11月退営帰郷する。帰郷後地方自治制度の実施に伴い、成吉は新制度の副戸長・戸長等を務めた。明治22年(1889)6月には、町村制施行により郷内59ケ村が6ケ村になったが、成吉は南十津川の名誉村長となった。
 この年8月、村は大水害に見舞われ壊滅的被害を受け、この為止む無く北海道へ分村移住のことがあり、成吉は移住地までの総取締役を委嘱され、移住民600戸・2,600人を率い渡道、現新十津川町を開墾永住の地となす計画を定め、帰郷した。明治23年(1890)6月、村は再度合併、「十津川村」となり成吉は初代村長となった。9月、名誉村長に推挙され文武館主を兼任した。明治26年(1893)2月病におかされ、村長・館主を辞した。
 同年7月県知事より褒状と木杯一組が贈られた。
 明治35年(1902)12月2日、資性思慮周密・決断力・人望あり、国事に、地方自治に奔走した64歳の生涯を終えた。

( 36 )  沖垣 斎宮( おきがき いつき )

 天保13年(1842)風屋に生まれる。
 賀名生堀家を継ぎ重礼と称す。資性朴直にして胆力あり。文久の始めより京都・大阪の間を住来し憂国の志士と交わり国事を談じたという。文久3年(1863)8月、天誅組の変には野崎主計・深瀬繁理等と共に参加、一方の隊長として活躍したが、後これと離れ専ら禁裏御守衛の任に従う。慶応2年(1866)11月、幕吏の中傷により我が郷は支配庁の嫌疑を受け、紀州藩がその取り調べの命を受けたが、斎宮は郷人藤井織之助と共に、紀州藩の三浦久太郎等に面会弁明に努めた。又同藩の野口駒五郎等一行が入郷するや、丸田藤左衛門・吉田正義・前田正之等と郷中総代となり会見し、意見を交換し一行を引き上げさせた。
 慶応3年(1867)2月、紀州藩の課した不当な新宮湊口銀問題につき吉田正義・千葉清宗等と紀州藩を訪い、撤廃の交渉を行った。同年12月鷲尾侍従内勅を奉じて高野山に立て籠ったいわゆる高野山義挙には、人数を率い軍監として出陣した。この義挙は徳川慶喜が大阪を出て江戸に去った為、華々しい戦闘には至らなかったが、京都と紀州の間に錦旗を翻し、親藩紀州を牽制し官軍を有利に導いた功績は大なるものがあった。
 斎宮はその後、御親兵人選方・軍事監司・郷中人数監察・伏見二番中隊補助官に任ぜられた。
 明治2年(1869)伏見練兵場繰り込みを命じられたが、郷中紛擾事件(郷中新旧二派に分かれて争った事件)に関連して謹慎申し付けられる。
 明治5年(1872)3月、創立間もない海軍兵学寮生徒取締となったが、同年10月24日東京にて病没した。時に年わずか30歳、芝高輪泉岳寺に葬る。
 明治31年(1898)7月従五位を贈られた。
 斎宮体躯短小なれど弁舌鋭く、渾名[あだな]を“釘抜き”と称した。
 酒を好み、酔えばしばしば奇行にはしったという。
(注)斎宮の継いだ堀家は賀名生の名家で南北朝時代行宮[あんぐう]となり、今も「皇居」の扁額が掲げられている。斎宮の弟重信又堀家を継ぎ賀名生村長となる。
 その子丈夫は陸軍中将、孫栄三は大本営参謀、戦後駐在武官としてドイツ大使館勤務、のち西吉野村長を務める。

( 37 )  千葉 清宗( ちば きよむね )

  文政8年(1825)8月8日、永井に生まれる。父は定之助。
 資性剛毅、文武を好み、18歳のとき郷里を出て江戸・京都において修行する。弘化4年(1847)父の死去の後をうけて庄屋となる。
 幕末、全郷の勤王思想を鼓舞するため、丹波亀山の藩士長沢俊平及び郷士達と相計り滝峠に護良親王御詠の碑を建立した。次いで俊平と共に上京梅田雲浜を訪う。雲浜は国の内外情勢を説き、十津川の由緒を論じて大いに激励した。文久3年(1863)4月、丸田藤左衛門・上平主税・深瀬繁理・千葉正中・田中主馬蔵等と共に書を中川宮に奉呈、一郷挙げて王事に尽力したき旨上願した。6月に至り、先祖の遺志を継ぎ忠勤を励むべし、との御沙汰を賜り、清宗等帰郷、人数選定の上8月、郷士170余名御所警衛に従うこととなった。着京間もなく政変起こり、十津川はその対応に大いに苦慮したが、清宗等はその処置に奔走、中沼了三の鷹司殿に対する助言等もあり、引き続き警衛続行となり事なきを得た。一方同時期、天誅組義挙あり、十津川郷士はこれに参加したが、天誅組が賊軍となった為、早々にこれと離れるよう御沙汰があり、清宗は命を奉じて帰郷の途次、紀州兵に捕えられ28日間和歌山に抑留された。程なく紀州の不当な行為が厳責され、謝状を提出、清宗は解放された。事止んで後、再び上京し、郷士を督励し王城警護に従う。上京中、西郷隆盛・大久保一蔵等諸藩の志士と交わる。滞京中、郷士達は軍資金の調達に大いに苦慮した。そのため清宗は吉田正義等と相計り、十津川の木材等を取り扱う物産会社を大阪に創設せんことを計画し、資金の借入等行ない、一部土州屋敷における銃隊の訓練等の費用に充当出来たが、事は順調に運ばなかった。唯高野山義挙に郷兵の携えていったゲベール銃は、この時の購入によるもので、ここに至ってその効用を大いに発揮した。明治元年(1866)高野山義挙の陣中にある時、命により、五條において軍備充当の為、金穀を募るが、このため故なき嫌疑を掛けられ代官所内に拘留される。このまま命を待つときは嫌疑は晴れないと判断、一夜牢を焼き京に上る。このため益々譴責[けんせき]を被り、蟄居[ちっきょ]申し付けられる。
 明治3年(1870)積年王事勤労につき金200両を賜り、明治28年(1895)特旨をもって従六位に叙せらる。
 明治35年(1902)6月28日病の為、東京四谷にて没す。享年77歳。嗣子貞幹大分・長野県知事となる。

( 38 )  千葉 貞幹( ちば さだもと )

 嘉永5年(1852)2月10日、千葉清宗の長男として永井に生まれる。
 幼年より学を好み、5歳田良原村福田寺の住職に読書・習字を学ぶ。
 12歳高野山に登り、三宝院主に講学する。13歳京都に行き中沼了三の門に入るが、やがて孝明天皇の勅命により中沼了三来郷、文武館が創立されたので帰郷、文武館に入学する。慶応3年(1867)12月高野山義挙には父清宗と共に参加。明治2年(1869)中沼了三の上京に従い西洋の法律を研究する。明治7年(1874)司法省に入り、以後裁判官の道を歩む。
 明治24年(1891)5月11日、大津裁判所長在任中、折から来日中のロシア皇太子(後の皇帝ニコライ2世)が大津において、警備中の巡査津田三蔵に斬りつけられるという、日本中を驚愕させた大事件が突発した。千葉所長は直ちに大審院長児島惟謙に「津田三蔵の犯罪は、普通法律によるものとして、すでに予審に着手した」と報告、院長よりは「法律の解釈至当なり、この際他の干渉を顧みず予審を進行せよ」と返電があった。しかし司法の見解とは裏腹に、内閣は大審院に対し、「外国の皇太子に対しても、日本の皇太子に対する刑罰を拡大適用し、被告を死刑に処すべし」と圧力をかけた。恐露病という言葉が流布される程、強国ロシアに恐怖心を抱いていた当時の国内事情から、外交の悪化を恐れる余りの司法への介入であった。
 このことは正に国を挙げての大問題となったが、大審院は司法の独立を堅持し、千葉所長の意見通り一般人の謀殺未遂罪を適用、無期徒刑の判決を行った。かくして当時の日本を震憾させた大津事件は決着をみ、児島惟謙は司法の独立を守った“護憲の神”と称せられるに至った。
 その後貞幹は、大阪控訴院部長・岡山・神戸各裁判所長・行政裁判所評定官と昇進を重ね、遂に明治39年(1906)7月、大分県知事となった。
 5年余の在任中、知事の大計による大分港の築港、産業振興に尽くし、日本一の知事とその名をうたわれた。明治44年(1911)7月、長野県知事に転任、河川事業等に治政の実を挙げたが、不幸病のため、大正2年(1913)3月23日、知事官舎にて現職のまま61歳の生涯を異郷にて閉じた。
 葬送に際しては、祭祀料500円を賜い、勅使が差遣された。
 貞幹、至誠一貫、清廉にして、情誼に厚く、皇室を敬い、常に郷党に思いを寄せていた。知事在職中の逝去、人皆これを惜しんだという。

( 39 )  深瀬 仲磨( ふかせ ちゅうま )

 天保12年(1841)川津野崎家に生まれ、後深瀬姓となる。
 資性沈着、謙譲にして能く人と交わる。幼少より読書に親しみ、医術を修め紀州新宮にて医院を開業、優れた治療により大いに繁盛する。
 仲磨は早くから勤皇の志を抱いていたが、幕末世情騒然となるや、天下の情勢を察知、文久3年(1863)断然医院を閉ざし、郷土十津川の同志と共に京に上る。爾来薩長土肥等諸国の志士と交わり、一意勤皇運動に挺身する。元治元年(1864)3月、新宮湊口銀撤廃運動を吉田正義・田中主馬蔵等と起こし、紀州の吉本伍助と京において会見、交渉を重ねた。更に3名総代となり薩摩藩に周旋を依頼し、次いで議奏職に請願した。
 慶応元年(1865)8月、郷友田中主馬蔵と密に公卿諸藩の間を往来し、薩長2藩の提携を策したという嫌疑で京都西町奉行所の獄につながれる。翌2年嫌疑晴れ許されて京邸に帰る。
 明治元年(1868)5月、郷中総代となり当時十津川郷が最も苦心していた御守衛の経費支弁について、軍務官品川弥二郎を訪ね協議し救助方を請う。(当時の御守衛向きの負債は1万円以上であったが、後恩賜5,000石によって決済される)9月大阪府判事試補、明治2年(1869)7月大阪府少参事、明治3年(1870)11月舎人助となる。同年12月積年王事勤労につき、終身8人扶持が下賜された。明治4年(1871)3月、退職。明治7年(1874)1月24日、東京麹町にて病没。年わずか33歳、駒込高林寺に葬る。明治34年(1901)特旨をもって正五位が追贈された。
 挿話:仲磨は機知に富み、早くから三条実美公に知られていた。かつて三条公が薩摩の西郷吉之助に密書を届けようとしたが、西郷が容易に人に会わないことを知り、使者の選定に悩んでいた。たまたま仲磨の機知のあることを思いだし、仲磨に密書の使者を依頼した。仲磨は命に従ってその役を引き受け薩摩に下った。仲磨は心中密に如何にすれば西郷に会えるかと思いを巡らし、遂に一計を案じ実行に移した。仲磨はかねてから西郷が祖先崇拝の念の強いことを聞いていたので、このことを思い起こし、西郷家の菩提所を探し、墓地において突然かがり火を焚いた。それを見つけた西郷が何事かと驚いて駆けつけて見ると、仲磨が墓地の前で端然と額づいていた。静に頭を上げた仲磨は、三条公の密書を西郷に渡し役目を果たしたという。

( 40 )  前倉 温理( まえくら おんり )

 文政10年(1827)4月5日、永井に生まれる。
 資性温厚、思慮深く、緻密な頭脳の持ち主であった。
 嘉永6年(1853)米艦浦賀に来航、天下騒然となるや、温理は同志と共に国事に奔走せんと謀る。文久3年(1863)4月郷友と京師に上り、十津川郷の由緒復古につき奔走し、結果、禁裏御守衛の任を仰せ付かる御沙汰を拝する事となる。以後温理は郷士の屯所にあって最も重要且つ困難な経理を担当し、巧にこれを処理し、衆望に応えた。
 上京間もなく政変起こり、郷士支配の七卿長州落ちの事あり、大いに混乱したが温理は上平主税・千葉左中等とその対策に努力し、伝奏支配となり事なきを得た。
 上京後の郷士の宿舎は当初寺院・民家等を借り受けていたが不便の為、元治元年(1864)、藤井織之助・吉田正義・深瀬仲磨等と相謀り、新築を計画、同年11月新烏丸切通、円満院宮の所有地を拝借、慶応元年(1865)春着工、4月落成郷士はここに移った。この屯所は「十津川屋敷」あるいは「京邸」と呼ばれた。
 温理は平生郷中文武の衰退せるを憂え、振興が急務であることを唱え、儒官中沼了三により郷立文武館(現十津川高校)が創立されるや、常にこの学校に関心をもち、帰郷の際には必ず文武館に立ち寄り、好んで生徒たちに靖献遺言[せいけんいげん]を誦読したという。慶応2年(1866)5月、薩摩藩邸に西郷隆盛を訪ね、練習用銃器の借り入れの交渉を為した。慶応3年(1867)4月、新式の我が郷兵隊を組織し実地の用に立てるべく、前田正之と相謀り江戸薩摩藩邸において平元良蔵に従い、洋式銃練を練習せしめた。又12月の高野山義挙に際し温理は密に宿舎の2階に籠り、パトロン弾薬数万発を手製し、高野山の陣営に送ったという。明治2年(1869)十津川御親兵人選方・軍事監司・郷中人数監察を命じられた。明治3年(1870)12月、積年王事勤労につき、金200両を賜う。
 明治5年(1872)十津川郷総代、明治7年(1874)十津川一円の副戸長となる。明治8年(1875)十津川郷士族賞典祿5,000石奉還に対する御下賜金10万余円の保護取扱担当を嘱託される。
 明治19年(1886)12月2日、59歳にして病没した。永井に葬る。
 明治31年(1898)従五位が贈られた。