( 61 )  野尻 清寳( のじり きよとみ )

 明治21年(1888)10月17日、山崎に生まれる。
 十津川中学文武館(現十津川高校)に学び、大正3年(1914)明治大学商科を卒業する。その年の11月、村の収入役に就任、在職3年後の大正6年(1917)2月、推されて村長となる。時に歳わずか29歳であった。
 大正7年(1918)1月、家事都合により退職、大正15年(1926)7月村会議員当選、昭和13年(1938)再び村長となり、昭和15年(1940)奈良県会議員に当選、昭和17年(1942)請われて3度村長となる。
 生涯のほとんどを村政・県政に携わり多くの治績を残した。
 多くの業績の中に文武館問題の解決がある。大正10年(1921)2月、当時込之上の対岸平山にあった村立十津川中学文武館が火災により焼失、そのため当時の経済情勢も反映し、存続再建、廃館の両論沸き起こり村を二分する争いとなった。この中にあって野尻は、終始文武館の必要性、将来の発展策を説き、関東十津川郷友会の乾政彦博士等と力を合わせ、込之上に移転存続再建に至らしめた。この時母校再建に立ち上がり行動を起こした文武館生の情熱も忘れてはならない。
 又県会議員在任中、文武館は将来において村立として一村で維持経営の困難なることを憂慮、同憂の文武館榎光磨呂理事長の要請を受け、積極的に県当局へ働きかけ、遂に昭和17年(1942)3月、県営移管に至らしめた。十津川高校は130年余の長い歴史の中で、幾度か存亡に関わる危機を経て今日に至ったが、その中にあって、野尻の果たした役割は誠に大なるものがあったと言わねばなるまい。
 野尻は温厚篤実、大学卒業直後に村の財政を任され、30に満たずして村長になるなど、頭脳明敏、責任感正義感強く、又人間関係を大切にし、従って交友関係も広く多くの人から慕われ、かつて他人と争い人の悪口など言ったことがなかったという。
 一度ならず、二度、三度と事ある毎に村長の座に就いたことは、村民の信頼性の高さを如実に物語っていよう。
 昭和18年(1943)戦時中の統制経済等混乱する村政・県政の激務の処理に追われ、いたく健康を害し、5月22日急性肺炎のため野原大川橋病院にて現職のまま、前途に多くの村民の輿望[よぼう]を担いながらあたら55歳の生涯を閉じた。人皆これを惜しみ、おくるに村葬の礼をもってした。宜[むべ]なりというべし。

( 62 )  松井 宇吉( まつい うきち )

 慶応3年(1867)4月、父青木良平母たかの五男として内野に生まれる。
 幕末文久3年(1863)8月、中山忠光を首領とする“いわゆる天誅組”が五條代官所を襲撃、討幕の狼煙をあげた。決行後、天誅組は十津川に檄を飛ばし、援兵を求めた。内野村の里正(庄屋)であった父良平は、里民20数名を率いて、野崎主計・深瀬繁理・田中主馬蔵・前木鏡之進等郷士1,500余名と共にこれに応じ、各地に奮戦する。既にして京都に政変おこり天誅組は逆賊となるに及んで、十津川は離脱して郷に帰るが、天誅組追討の命を受けた紀州兵が入郷、内野に来り、良平等数名を捕らえて和歌山へ送り、獄に投じた。後放免されたが、帰国の旅費に窮し笠田村の弟に借り、漸く帰郷することが出来たという。その出陣の際における光景を字吉の兄岡豊若(郷土史家)は、「天誅組騒動の際は7歳であったが、ある夜夢の中で、人声がするので目覚め急ぎ起き上がってみれば、近隣の壮士8、9人が集まり、父はその車座の中にいて、松明皓々たる室内に盥を置き頻りに古刀を研いでいた…」と後年語っていた。
 宇吉は郷里の小学校卒業後、誠之館・文武館に学び、折から文武館教授であった中沼清蔵(文武館開学の祖中沼了三の長男)・宇田康平に漢学を、桃井直正(江戸三大道場主の1人)・黒谷佐六郎に剣道の指導を受けた。長じて明治19年(1886)大阪府巡査となり職務に精励する。やがてその人となりが認められ、難波の紙商松井弥兵衛氏の養嗣子となった。
 宇吉は資性温厚篤実な性格でよく養父に仕え、夫婦相和して3男4女をあげ、家業を益々隆盛に導いた。また家業の傍らよく学事・衛生・地方社会公共の為に力を尽くし、そのためしばしば表彰を受ける名誉をになった。日頃から愛郷心強く、郷里の小学校・文武館・婦人会・青年団・郷社等に多額の寄付を行った。帰郷に際しては、その都度老齢者のため浄財を惜しむことなく頒ったため、人皆その徳に敬服したという。
 明治36年(1903)以来、宇吉は郷里内野に数千町歩にわたり植林したため、山形が改まったという。
 昭和12年(1937)神納川区民が相はかり、その徳を永遠に伝える為頌徳碑を建立した。碑は県道川津高野線、大字五百瀬字三浦バス停横に建っている。

●頌徳碑(バス停三浦口)

( 63 )  玉置 博亮( たまき ひろすけ )

 大正2年(1913)11月26日、玉置経太の長男として重里に生まれる。
 重里小学校から十津川中学文武館(現十津川高校)を卒え、法政大学予科に入学し、昭和13年(1938)3月、同大学文学部を卒業する。
 卒業後、日本ゴム工業㈱に入社、結婚、2度の召集を受け外地に勤務する。敗戦により外地からの復員後、終戦の混乱の中、役場に入り文化課長を務める。
 昭和27年(1952)新しい憲法下に生まれた教育委員会制度により初代教育長に就任する。就任後、学制改革による6・3・3制の実施、教員の再教育や確保等々、幾多の困難な問題に対処してきた。
 とりわけ特筆すべきことは、昭和38年(1963)に教育向上充実や教員の確保、父兄負担の軽減等を目指して「学校統合基本計画」を樹立し、43校もの小中学校を13校に統合したことである。
 このことは、本村にとって文武館の創立・学制発布による各小学校の設立以来の教育上の大事業であった。村を挙げてのこの大事業には、村当局や議会を始め、村民各位の理解と協力があったことは勿論だが、反面様々な問題や障害もあった。しかし玉置は常にその先頭に立ち問題を解決し、障害の除去に努め、計画を実行に移し、遂に成し遂げる事が出来た。その功績は誠に大なるものがある。昭和43年(1968)9月、4期という長期に渡る職を辞するが、昭和46年(1971)村会議員となり、文教副委員長等を務める。しかし任期半ばの昭和49年(1974)2月2日、61歳の生涯を閉じた。
 生前、痩身、眼光鋭く気骨あり、人に臆せず、歯に衣[きぬ]着せぬ発言は時に摩擦を生ずることもあったが、十津川郷士の末裔らしく悪意、私心、物欲のない性格は、多くの人の信頼を得ていた。又酒をこよなく愛した子煩悩の人柄でもあった。
 読書を好み、“為された事は為されている”“人と話しをする時は相手の目をしっかり見て話せ”と常に人に説いた。
 昭和37年(1962)全国教育長協議会による教育視察団に加わり、ヨーロッパを訪れ、紀行文「ヨーロッパ3週間」を出版した。

( 64 )  西村 利男( にしむら としお )

 明治9年(1876)1月5日、西村菊太郎の長男として山手に生まれる。
 小学校を卒え、郷学文武館(現十津川高校)を卒業後、教師の道を志し検定により小学校正教員の資格を取得する。
 教員の第一歩を郷里の平谷小学校で踏み出し、6年間教壇に立つ。
 6年の後当時名門と呼び名の高かった奈良市第一尋常小学校(現椿井小学校)へ転勤、児童の教育に情熱を注ぎ、精励恪勤[かっきん]すること15年の長期間に及んだ。
 やがて長きにわたった第一小学校より、惜しまれて転勤により再度最初の着任校平谷小学校に校長として赴任する。
 西村にとって最後の赴任校となった郷里の平谷校で、またまた前任校と同じく15年の長期間勤務することとなる。
 穏健にして職務に精励、人望厚く教育功労すこぶる多大であり、36年に及ぶ教員生活をわずか2校で終えたことは、赴任した校区の子弟父兄地域住民の大きな信頼感の現れであった。
 奈良市第一尋常小学校に在職中は、主席訓導として教育の向上充実に務めた。その功績が認められ、大正5年(1916)5月、教育功労者として、翌大正6年(1917)には、教育功績者として奈良県教育会長より表彰を受けた。
 教育界勇退後は、農業を営み、農事にいそしみながらも請われて村の学務主任を5年間務め、又十津川村議会議員を1期、又長年にわたって四村区長等を歴任し、地方自治にも貢献した。
 校長時代鼻下に髭を蓄え泰然、悠揚[ゆうよう]迫らざるものがあり、よく部下職員を指導し、学校経営の実を上げた。
 温和な性格の上言動に表裏なく地域住民とよく和し、名校長の名をなした。
 昭和17年(1942)8月15日、誠実に教育一筋に生きた66歳の生涯を、生地山手において終えた。山手に葬る。

( 65 )  中川 貞夫( なかがわ さだお )

 明治元年(1868)12月16日、中川行保の長男として、平谷に生まれる。
 中学校修業後、若くして木材組合の創立に発起人として功労があった。
 村会議員・第16代・第18代村長として十津川村治に、郡会・県会議員として吉野郡・奈良県の治政に貢献した。又昭和信用組合幹事長・文武館中学理事・明治41年(1908)2月より大正11年(1922)7月まで、14年の長期間(途中約1年を除く)十津川郷木材同業組合の組長の職にあり、村の基幹産業を支える重要な役割を果たした。大正10年(1921)文武館が全焼、当時の経済情勢も反映し村を二分する休廃館論・再建論が沸き起こった。
 たまたま県会議員在職中であった中川は、中等教育の重要性に鑑み再建を唱え県会に対し要約次ぎの陳情書を提出した。「県の予算を審議するに当たり文武館の補助額を増額されたい。理由は、今村では文武館の休廃館論が起こっているが、村内外の大勢はこの由緒ある学校を如何なる反対があっても、維持存続すべきと思っている、休廃館論を唱える者も所詮村の財政を憂えてのことである。補助金増額に就いて議員各位の御同情を乞う次第である。」翌年度より補助金は増額され長く続いた。かくて文武館は関東始め各地郷友会の支援もあり、移転再建に決まった。又文武館経営を安定すべく、時の村長・文武館主として財団法人化に努力成功した。
 昭和3年(1928)10月、村長在任中、北海道に第2の新十津川村の建設を計画、手塩国上川郡等を視察、翌年より移住を開始した。しかしこの移住は諸般の事情から実を結ばなかった。中川は数多くの重職に在ると共に、文武館建築に当たり、山林6町歩と金5,000円、平谷小学校建築費に金5,000円、福山神社に山林3反歩を寄付する等の他、青年会・軍人後援会等を始め各種団体や公共事業に多額の寄付を行い、それが為各方面から数多く表彰された。因に中川家は屋号竹林と称し、大正12年(1923)7月、五新鉄道促進状況視察の為、奈良県成毛知事と共に来村した伯爵大木鉄道大臣が、また昭和7年(1932)11月には十津川村と文武館に差遣された子爵黒田侍従が宿泊された。貞夫の妻まさは、社会教育功労者として昭和7年(1932)昭和天皇に拝謁の光栄に浴した。養嗣子小四郎は、医学博士で日本の泌尿器学会の権威者となり、弟中川正左は、鉄道次官・交通短大学長となった。
 昭和18年(1943)6月7日新宮市三輪崎にて村の発展に数々の業績を残し、75歳の生を終えた。

( 66 )  寺尾 威夫( てらお たけお )

 明治38年(1905)4月5日、込之上北村文治の三男として生まれる。
 後に寺尾家の養嗣子となり寺尾姓を名乗る。幼年期、父の事業の関係で岡山県へ、次いで大阪豊中市で少年期・青年期を送る。父は非常に教育熱心で、折に触れ南朝の悲劇や、十津川郷士の維新時の活躍(威夫の祖父丸田藤左衛門は幕末十津川郷士のリーダーであった。)、天誅組の話等語って聞かせたというが、後年郷士的風格を形づくり、何事にも信念を曲げない、“剛直なバンクマン”といわれる素地となったのではあるまいか。やがて名門北野中学から京都第三高等学校を卒業したが、このクラスには湯川・朝永2人のノーベル賞学者、東大・京大の総長となった大河内・奥田の両氏を始め、その他政財界日本の各界に名を為した者は枚挙に暇がない。三高を卒え、東大法科を卒業、当初の目的とは違った野村銀行(現在の大和銀行で当時は三流銀行と言われていた)に入行、当座預金係として銀行マンの第一歩を踏み出す。やがて得意先係となり、大いに顧客を増やし、特に繊維業界へ進出した実績は“現在の大和銀行の歴史を作った”と評価された。その後太平洋戦争中の苛烈な状況のもとにあって、営業部次長、大宮・銀座の各支店長を務めた。戦後は本店総務部長に就任、占領軍による財閥解体、公職追放による混乱する銀行の中にあって諸問題に対処、解決に奔走、抜きんでてよくその職務を果たした。昭和22年(1947)2月、人事の大刷新に伴い取締役となり、3カ月後の4月には常務に登用された。昭和23年(1948)3月、創立30周年に当たり、寺尾等の意見により銀行名を大和と改称、この時専務取締役に抜擢される。
 昭和25年(1950)8月、異例の45歳という若さで頭取というトップの座につく。頭取として幾多の業績を上げたが、中でも大蔵省の銀行信託分離の意向に従わず、10年余確固たる信念と先見に基づき大蔵省と争い、ついに我が国唯一の信託併営銀行と認めさせ、今日の大和銀行の基礎を確立し“大和の寺尾か、寺尾の大和か”と許された。個人的エピソードとしては、8時以降の如何なる宴会にも絶対に出ず、家に帰って読書を欠かさなかったという。昭和48年(1973)、頭取から会長となったが、この間大阪銀行協会会長をはじめ30有余の役職を兼ねた。昭和49年(1974)5月25日、惜しまれて病没。信念に生きた69歳の生涯を閉じ“銀行会の巨星落つ”と報ぜられた。生前、勲一等に叙せられ瑞宝章を賜った。

( 67 )  後木 喜三郎( うしろぎ きさぶろう )

 明治11年(1878)4月15日那知合、中亀太郎の養弟として出生、後木和三郎方へ入り婿となり後木姓となる。
 明治17年(1884)那知合小学校に入学するが、明治22年(1889)の大水害により一家が北海道へ移住したため、新十津川小学校へ転校する。しかし家事都合により卒業することなく中退、専ら農業に従事する。
 当時移住者には一戸5町歩(5ヘクタール)あたりの土地が賦与されたが、喜三郎は一家不調の為、土地が与えられず、止む無く父母と共に他人の土地を借りて生活、晩年よく家人に“私は実に新十津川の小作人第1号であった”と述懐していたという。文字通り赤貧洗うが如き窮状の中で後木家の養子となり、一念発起、農業で身を立てることを決意したという。
 貧苦の中でも常に向上心を忘れず物事に処し、何事にもくじけぬ堅固な信念と実行力は、広く村民の信頼を得、新十津川農業会長・村会議員・名誉村長・産業組合長・農業協同組合長等村の枢要な役職に選ばれた。とりわけ昭和10年(1935)前後、農業会長時代「新十津川産米」の声価を高めるべく努力を傾注し成果を挙げた。昭和26年(1951)より28年(1953)にかけては農業協同組合長として経営不振に陥っていた組合の赤字克服、再建に力を尽くし経営手腕を発揮、夫れ夫れ成果を挙げた。
 喜三郎は幼少のころより読書を好み、学歴は無くとも学力優れ、関東郷友会報に論文を掲載し所信を表明する等(例“新十津川の金融と産業”)文章表現力にも秀でていた。晩年は筆を持つことを苦にすることなく、友人・知己に文章や手紙を書き送り、今でも“後木のじいさんからの手紙だ”と大事に所蔵している人がいるという。日ごろ、移住時に受けた官民の御恩を忘れてはならぬといい、無駄を省き・時間励行・冠婚葬祭の簡素化等を唱導し自らも実行した。
 昭和43年(1968)4月、長年に渡る産業振興等に関わる功績により、勲五等瑞宝章が贈られた。北海道に新天地を求め、創業のあらゆる苦難に耐え、今日の新十津川の礎を築いた喜三郎は名誉町民第1号に推戴された。しかし、叙勲・名誉町民推戴に際し喜三郎は“俺よりもっと功績のあった人が沢山いるのだから”と固辞しつづけたという。
 昭和47年(1972)8月2日、温厚な中にも剛毅、信念に生きた94歳の生涯を閉じたが、町民挙げて偉大なる開拓者の死を悼み、葬るに町葬の礼をもってした。平成12年(2000)「俺の一生記」が孫達の手によって出版された。

( 68 )  島 那雄武( しま なおたけ )

 明治37年(1904)4月13日、前木直立の三男として風屋に生まれる。
 始め前木尚武であったが、後、下市町の旅館「山水」の婿養子となり島姓を名乗り、後年、那雄武と称した。大正12年(1923)3月、奈良県師範学校本科第2部卒業、同時に宇智尋常高等小学校に奉職、その後五條男子小・五條実業専修学校・阿太小・大阿太農業補修学校・大阿太青年訓練所指導員・上市小・上市商業青年学校に訓導あるいは教諭として勤務、昭和16年(1941)水分国民学校教頭、昭和18年(1943)下市国民学校教頭となり奈良県公立青年学校教諭を兼務する。昭和19年(1944)3月、高等官七等待遇となる。同年下市町青年団長・下市町女子青年団長となる。
 同年10月、陸軍歩兵少尉として応召、中部23部隊に入り響部隊に配属、外地勤務[蒙疆]に服する。昭和20年(1945)終戦により復員、昭和22年(1947)4月新学制により発足した新制中学、下市中学校の初代校長となる。
 この年、戦後初の県会議員の選挙が行われたが、島は推されて現職の中学校長のまま見事当選を果たした。当時は教職と議員を兼ねることが出来たが、中学校長として当選の栄を勝ち得たことは、島がいかに県下教職員に人望があり、県民に信頼が厚かったかを物語っている。
 昭和24年(1949)選挙法の改正により、教職との兼務が出来なくなった為、中学校長を退職する。昭和26年(1951)県会議員再選。
 昭和31年(1956)議員退職するが、在任中、教育副委員長・失業対策副委員長・文教委員長・総務副委員長・経済委員長・総合開発副委員長等歴任、県政発展に大いに力を尽くす。
 県会を去った後は、奈良県旅館環境衛生同業組合理事長・吉野食品衛生協会会長・奈良県衛生協会副会長等役職を務めながら、専ら日観連旅館「山水」の経営にあたった。島は裃[かみしも]を着て、袴をつけ、両刀を腰にしたならば、武士としてさぞかし良く似合ったであろう外貌をしており、旧部下に“先生は典型的な十津川郷士と言える人であった”と評された如く、古武士然たる気骨又風格の持ち主であった。
 職務は忠実厳格の反面、内面は心優しく、他人と良く交わり、子供から見ればお人好し的要素を多分に持ち合わせていたといい、校長時代にはよく職員と野球に興ずる一面もあったという。昭和39年(1964)12月13日自宅にて急逝、至誠一貫の生涯を閉じた。享年60歳であった。

( 69 )  中森 瀞八郎( なかもり せいはちろう )

 明治38年(1905)2月25日、第13代十津川村長中森忠吉の長男として、名勝瀞峡の地、神下田戸に生まれる。葛川小学校を終え、文武館(現十津川高校)へ入学、2年の時和歌山県田辺中学へ転校するも、不幸病のため四年で中途退学し帰郷する。その後は自宅で療養に努める傍ら医学を独習した。
 幼少のころより、豊かな才能に恵まれ、特に記憶力に優れ、研究心は極めて旺盛であった。小さい時は小鳥やウサギを、大きくなれば犬の解剖まで手掛け、解剖書と比較研究していたという。
 機械類にも興味をもち、鉱物・化石・生物の造詣も深かったという。
 やがて健康も回復、20歳後半から30歳位までの間、朝鮮に渡り、地域限定の開業医の資格取得。半年程の後帰郷、十津川村議会議員を1期務めた。
 太平洋戦争中、航空食料の研究により賞金を得た事もあったという。
 昭和25、6年ごろ、正式の開業医の免許を得たが、間もなく脊髄炎にかかり両足の自由を失った。病床にあっても枕元に書物を山と積み、読むこと、書くことを怠ることがなかった。
 その中から東直晴の「風俗図絵」と共に民俗学上極めて貴重な文献「瀞洞夜話」が生まれた。「瀞洞夜話」がどんなものか、冒頭の一文を見れば凡の事が察せられると思う。
 (冒頭文)
   昭和二十八年四月六日
            当時四十九歳の我
                中森瀞八郎

   今日よりは、我生まれてこの方見たること、聞きたること、読みたること、感じたることのうち、書き留むべしと思うものは、皆ここに記すことにせり。
 この「瀞洞夜話」は、昭和36年(1961)10月16日、56歳の生涯を終える数日前まで書き続けられた。
 遺文は教育委員会発行の「林宏十津川郷民俗採訪録 民俗4」に総て収録されている。尚生前、“歩くエンサイクロペディア(百科事典)”と呼ばれた和歌山県の生んだ世界的粘菌学者南方熊楠と学問的交流があったことを付記する。

( 70 )  東 直晴( ひがし なおはる )

 明治37年(1904)7月11日、東辰次郎の長男として名勝瀞峡の地、神下田戸に生まれる。
 家は元和歌山県北山村にあり、下滝の長者と呼ばれた旧家であった。
 葛川小学校卒業後、十津川中学文武舘(現十津川高校)に入学するが1年にして学校をやめ、約4年田戸の西久保店で丁稚をし、その後葛川で筏や山の仕事に従事する。
 また葛川3ヶ大字の全住民を対象にした、木材搬出を主とする「葛川土工森林組合」の創設に貢献し、理事等を務めその発展に尽くした。
 30歳過ぎから葛川の農業協同組合に勤め、戦時中食糧困難な時代、米の配給業務等に労苦をなめた。
 戦後、当時葛川にとって重要な事業であった架橋事業・無電灯解消の為の点灯事業にはよくその成功に向けて力を尽くした。
 このようなことから推されて村会議員となり村治にも関わり、村の為に尽くした。
 その後材木業を営むが、昭和48年(1973)健康を害し止む無く廃業し、療養に専念する。
 「瀞洞夜話」の著書中森瀞八郎とは同年輩で終生の友人であった。
 彼の発病後は「瀞洞夜話」の執筆を助け、挿絵を措くことを約束した。
 彼の描いた「風俗図絵」は「瀞洞夜話」の挿絵として描かれたものであるが、当時の人々の暮らしの様を正確に、然も、克明且つ見事に表現されている。又的確な説明文が付されていて、優れた伝承者の一面を見る思いで今更ながら驚嘆する。
 「風俗図絵」は「瀞洞夜話」と共に教育委員会発行の「林宏十津川郷民俗探訪録 民俗4」に貴重な民俗資料として収録されている。
 昭和50年(1975)11月3日、温厚にして誠実な71歳の生涯を終えた。
 奇しくも、同時期しかも国立公園天下の名勝瀞峡に共に生を受け、親友としての交わりを結び、晩年協力して貴重な民俗資料を後世に残した事に不思議な縁を感じるものである。