( 11 ) 中島 林蔵( なかじま りんぞう )

今から凡そ300年余り前、現在二津野ダムとなっている果無山の麓、桑畑に沿う十津川本流は、巨岩屹立、激流渦を巻いて、舟の運行は全く不可能であった。従って新宮から十津川郷への物資は総て、桑畑までは舟で、ここよりは人の肩により、果無山を越えるより方法がなかった。
当時この船着場に桑畑の住人で中島林蔵という人が商店を営んでいた。新宮から十津川へ、十津川から新宮へと総ての物資の集散地という地の利を得ていた上、商売熱心の為、店は繁盛し、そのあたりきっての財産家となった。
林蔵は生来、温厚にして人一倍情に厚い人情家であった。
日頃数里(1里:約4km)の山坂を越えて、生活物資を自分の店に求めなければならない難儀を思いやって、深く同情していた。
林蔵は、「あの大きな巌が無ければどんなに助かるだろうか」と思案に思案を重ね、遂に「たとえ自分の財産は無くなっても、村人の困難を救ってやろう」と固く決心した。
そこで数百金を投じて、石工を雇い自分も手伝って、多くの日数を掛けてとうとう大きな巌をことごとく打ち砕き、桑畑から上流小原まで、約5里の間舟の運航を可能にした。これが為、今まで人の肩によらなければ物資の運搬が何一つ出来なかった人々は、大変な恩恵を受け、非常な利益をあげ、地方の産業も大いに発展した。
ところが一方このことにより、林蔵の店は全く収益が上がらなくなってしまった。しかし、林蔵は一向に頓着せず、物資を山と積んで上り下りする舟を眺めて1人楽しんでいたという。
元禄15年(1702)赤穂義士討ち入りの年、正月5日、この世を去った。
犠牲的精神に満ち、身を捨てて人の為に尽くした生涯であった。
林蔵の生年は不詳である。

明治天皇御製
“おのが身はかえりみずして人のため
尽くすぞ人の誠なりけり”

( 12 ) 森 秀太郎( もり ひでたろう )

 慶応2年(1866)1月28日、父森平蔵母カンの長男として、内野に生まれる。
生来記憶力に優れ、生まれながら伝承者としての資質を備えていた。秀太郎23歳の時即ち、明治22年(1889)8月古今未曽有の大水害起こり、幸い生家は崩壊を免れたが田畑は流失し、十津川での生活の基盤を無くし止む無く、郷民600戸・2,600人と共に北海道新十津川村へ移住した。
移住後幾多の辛酸をなめ、後半生天理教団北海道教務支庁の常任書記を勤めたが、故あって職を追われ、失意と憂悶の余生を送り、その間欠かさず、微醺[びくん]低唱したのは「韓信が股を潜るも時世と時節…牡丹も菰[こも]着て春を待つ」の鴨緑江節であったという。北海道沼田村において、昭和17年(1942)9月、76歳の生涯を終えた。没後、上下2冊の懐旧録と数冊の日誌が残された。遺文原本は現在新十津川町の開拓記念館に保存されている。
昭和59年(1984)この資料を元に秀太郎の末子森巌(新十津川生まれ、札幌一中北大鉱山工学科卒、北見工大・北海道工大教授歴任、工学博士、北方生活科学研究所長)が編集、『懐旧録 十津川移民』として出版された。
移住前の十津川の生活状況、水害時の有り様、移住後の開拓の様子など克明に記録されており、「明治の常民による驚異の生活記録、第一級の民俗資料」と高く評価された。川津から神納川沿いの県道川津高野線、大字内野の道路端に「発跡地記念碑」が建つ。碑文には水害により森秀太郎が新十津川に移住した顛末が記されている。
水害の状況を伝える一部の記録を転記すると、
「上野地村では、川下から人家が濁流に乗り逆流して来るので、まさか山崩れのためとは知らず“これは海から支[つかえて]来るのじゃろう。昔話の泥海になるのじゃろう”と驚いて話し合っているうち、たちまち役場を呑んだ水は、上の段まで上がって来たので、慌てて山の上へ逃げた。宇宮原対岸の茶店は流失して、泊り客もみな溺死したが、ただ1人老人客が一瞬早く逃げ出し助かった。宇智・吉野両郡の郡長玉置高良氏は折立村の平石の主人だが、ちようどこの時下葛川から瀞へ車道が開削されたので、その開通式に出席して郡役所へ戻る途中、ここに泊まっていて遭難した。(後年ここに碑が建った)とにかく上野地も宇宮原も、平坦の田畑はみな流失したので、価値にすれば八分通りは失われたわけである。」
・逆流にやられて(懐旧録P136より)

●懐旧録

●記念碑(内野)

( 13 ) 玉置 義正( たまき よしまさ )

 天保3年(1832)8月15日、玉置歌之助の長男として折立村山崎に生まれた。
3歳のとき足を病み、足が不自由となり、次いで翌年4歳にして父の病死にあう。そのため母は幼い義正を連れて、山手谷の母の実家に帰った。やがて母が再婚したため、叔父源助に養育される。7歳から縄ない13歳から筵織りをし、夜は疲れた身体に鞭打ち、睡魔と闘いながら、生来の好学心もさることながら向学心に燃え一心に勉学に励んだ。19歳の春山手谷より実家の山崎に帰ったが、義正は早くからこの地に学問を教える塾の無いことを憂い、20歳に達した嘉永5年(1852)より近隣の弟子を集め自宅に家塾を開いた。
この頃日本には浦賀に米艦が来航、幕府に対し通商条約を迫り、物情騒然たる時期であった。この様な世情を反映してか、学問の重要性に目覚めたむら人によって塾生は年々増えていった。嘉永年間より20余年間に教育した塾生は、込之上・平谷・山手谷・樫原・折立方面から集まった子弟300余人に達した。給料としては特に徴収せず、盆・正月等年4期、父兄より思い思いの祝儀により教授をした。義正は又若年より老年に至るまで、地方の人々の争いごとや、家内の不和等何事によらず立ち入り、その解決の為に不眠不休、昼夜を問わず、寝食を忘れて解決に努力したことは、数え上げるときりのない程であった。
義正は齢45歳のとき、身体が不自由なため自ら塾を閉じた。明治32年(1899)、義正67歳の時、寺尾義一・寺尾定松・中村惚次良、外数人世請人となり子弟相寄り、有志者の寄付金を募り、顕彰せんことを計り、師恩に報いる表徳碑を建立した。
幕末の郷内では、時勢に目覚め学問の必要性・重要性を感じた郷人等は、寺子屋において住職から読書・習字・算術を学び、あるいは郷外より学問あるいは剣術の師を招き、又は郷外に師を求めて修行した。

この時期、自ら私塾を創り、子弟を集め教育した義正の行為は誠に意義深いものと言わねばなるまい。
義正は大正5年(1916)7月14日、無欲向学の84歳の生涯を閉じた。
表徳碑は元字山崎の道路端にあったが、国道改修工事の為、大字折立、折立中学校校門入口に移転した。

●表徳碑(折立中入口)

( 14 ) 野崎 正時( のざき まさとき )

 天保11年(1840)川津に生まれる。
 若くして、医学を亡父野崎秀易に学んだ。
 秀易は三枝玄良の門人で、玄良の師は一橋家(御三卿の1、田安家・清水家・一橋家)の御典医(江戸時代、将軍家や大名に仕えた医者)である小野玄甫であった。
 正時は明治16年(1883)内務省の医術開業免状を取得、川津の実家において村人の治療診察に当たった。正時は心広く、人情厚く、人を愛し、患者の病いを看ること、あたかも自分の病いを看るように真剣そのものであった。煩わしさをいとわず、営利を求めず、唯々ひたすらに村人の医療一筋に明け暮れた。
 正時は医術に優れ、治療に熱心であったばかりでなく、村の雑事についてもよく世話をやき、時に応じて村人に人倫道徳を説いたという。為に村人は彼の人格高く、徳の高さに打たれ、賞を贈って感謝の意を表す事数度に及んだという。
 医療に生涯をささげ、この地を終焉の地としたが、村人皆この人の亡き後、人情薄く風俗の乱れた末世の感のある今日、これを批正する正時のような人物が居なくなったら、道徳ということは無くなってしまうのでないかと、惜しみ憂い嘆き悲しんだという。
 正時の没後、川津青年団が発起して村人の手によって、正時の徳を広く顕彰し永く伝えんとして頌徳碑が建てられた。
 このことは正に故人を仰ぎ慕う村人の善行であり美挙というべきことであろう。
 大正13年(1924)5月の事である。
 碑文は浦武助十津川中学文武館教諭(後の館長)である。
 この碑は昭和35年(1960)10月、風屋ダム築造のため、水没を避けて現在地の旧川津ユースホステルの庭に移された。
 隣接して川津の生んだ天誅組の志士野崎主計の碑、明治維新勤皇の志士梅田雲浜顕彰碑が建っている。

●頌徳碑

( 15 ) 中井 庄五郎( なかい しょうごろう )

 弘化4年(1847)4月23日、野尻に生まれた。
 記録によれば、生まれた時全身黒い毛で覆われた、極めて異相の子であった。長ずるにおよび長身、毛深く「ひげ男」と呼ばれていたという。何処でどの様な修行をしたのか一切不明だが、剣術にすぐれ、特に居合の達人であったという。彼の闘いぶりを当時の人は、「彼の闘うや猛虎の如く、又隼の如く俊敏、機先を制して剣光一閃忽ち敵を倒す」と許した。文久3年(1863)、同郷の先輩上平主税に連れられ、この年から始められた十津川郷士による御所警衛の為上京、王城警固に従う。在京中多くの志士と交わり、かって長州藩士品川弥二郎の依頼で、長州藩の裏切り者岡伊助を同郷の前岡力雄と付けねらい、遂にこれを斬り懐中の密書を奪って品川に渡した。この功により長州候より刀二振りが贈られた。土佐の坂本龍馬とは武士の魂である刀を贈られる程の、親しい関係にあったという。慶応3年(1867)11月15日、京都近江屋の2階において、坂本龍馬・中岡慎太郎の両名が暗殺された。刺客が近江屋を襲った時、取り次ぎの藤吉に「十津川の郷士で御座る、才谷先生(龍馬の変名)にお取り次ぎ願いたい。」と名刺を手渡し油断させ、2階へ駆け上がり2人を斬殺したという。親交のあった龍馬暗殺の報を聞いた庄五郎は、十津川郷士の名を騙られたということもあって、必死に下手人を探索し、新撰組の土方歳三等(当時坂本・中岡の暗殺は新撰組の仕業と専らの噂であった。)が天満屋に居ることを突き止め12月7日夜、陸奥宗光等同志16名と共に襲撃を敢行した。
中井庄五郎殉難之地 真っ先駆けて斬り込んだ庄五郎は、戦闘中不覚にも刀が鍔元1尺ばかりのところで折れ、それでもひるまず闘っていたが、遂に力尽き倒れた。双方40数名が入り乱れての乱闘で闘死したのは庄五郎1人であった。今から考えると仇と狙った相手は的外れであったとは言え、情報不足の当時の実情からすれば致し方のなかったことといわねばなるまい。かくして庄五郎は龍馬の為に若き20歳の命を京洛の巷に散らして果てた。庄五郎死して2日後、王政復古の大号令は下された。
 京都霊山には多くの維新の志士の碑と共に庄五郎の碑が建てられ、天満屋跡には「中井庄五郎殉難之地」と刻まれた碑がある。又生地野尻には「生誕之地碑」がある。大正4年(1915)特旨をもって正五位が贈られた。因に龍馬暗殺の真犯人や、その黒幕については未だに論議の的になっている。

●生誕地碑

●野尻の里

●中井庄五郎の佩刀

( 16 ) 浦 武助( うら ぶすけ )

 明治15年(1882)11月8日、父織吉の長男として、出谷に生まれる。郷校文武館(現十津川高校)に学び、東京開成中学校(現開成高校)を経て、早稲田大学卒業、同時に42年(1909)長崎県猶興館中学校に就職、大正2年(1913)山口県岩国中学校に転じ、翌年4月十津川中学文武館の教壇に立つ。甫水と号し、漢籍を好み18史略・日本外史等ことごとく暗記していたという。10年(1921)3月文武館長となる。4月、火災により平山にあった校舎その他全焼、その為当時の経済事情もあり、学校の休廃館論・存続論が巻き起こった。浦館長は“文武館精神は、火をもって焼く可からず”と、再建を願うあまり早朝玉置神社に1カ月参拝する等、終始存続再建に精根を傾け、遂に現在の十津川高校の建つ込之上に移転再建をみた。浦館長が「文武館中興の祖」と称せられる所以である。尚この時、母校存続の嘆願書に血判を押し、村会に陳情した生徒達の情熱に燃えた行動や、乾博士を始めとする関東郷友会の存続にかけた活動も忘れてはなるまい。昭和2年(1927)4月新校舎に移転した。着任以来、文武館教育に、その経営に、至誠一貫、情熱を傾け、文武館といえば浦館長といわれるほど、生徒・父兄・村民のみならず、県下中等教育界にその名を知られ、文武館の一時代を画した。14年(1939)4月、惜しまれて退任し、17年(1942)9月、母校東京開成中学校の教頭に招かれた。因に校長は平谷出身東季彦(日本大学学長)であった。程なくして19年(1944)2月、同校校長に就任。太平洋戦争の末期、空襲警報下の学校管理・勤労動員中の生徒の安全確保等、休む暇もなく対処、終戦に際しては、混乱の中で事態収拾に努めた。22年(1947)願いにより退職、十津川に帰る。帰郷後、戦死者の霊を慰める為、村内くまなく行脚、27年より28年にかけて72日間の十津川遍路であった。
 その後護国神社・玉置神社の宮司を勤め、村史編纂にも取り組まれたが、35年(1960)4月25日、78歳の高潔な生涯を閉じた。
 質素にして辺幅を飾らず、名利を求めず信念に生き、開成では使丁とよく間違えられたというエピソードはその人柄を彷彿とさせる。奇しくも日本有数の古い歴史を有する文武館・開成を母校とし、しかも両校の館長・校長として、校運の隆替をかけた時期に際会し、学校を安泰に導いた功績は甚だ大きい。
 60年(1985)4月浦元館長の徳を慕う教え子、村人によって、十津川高校に胸像が建てられ、63年(1988)教え子によって「浦武助先生の面影」が出版された。

●浦武助胸像(十津川高校玄関前)

( 17 ) 中川 小四郎( なかがわ こしろう )

 明治20年(1887)5月24日、大込正修の四男として平谷に生まれる。
 平谷小学校を終え、京北中学校を経て明治38年(1905)、千葉医学専門学校に入学し、明治42年(1909)同校を卒業した。卒業後東京において私立の医院に勤務し、明治44年(1911)、東大で外科学を学んだ。
 明治45年(1912)新潟医学専門学校第2外科の助手となった。
 翌大正2年(1913)私費でドイツのミュンヘン大学に留学し、試験を受けてドクトルメジチーネの称号を得た。僅か4カ月の滞在で学位を得たその陰には理由がある。それは中川の人並み外れた勤勉振りと、語学の才能によるものである。大正5年(1916)ロンドンの研修を終えて、イギリス・フランスの病院を見学し帰国した。同年11月東北帝大の外科に入局し助手となる。大正8年(1919)講師に昇任、翌年(1920)7月、岡山医学専門学校の教授となり、翌年同校の付属病院の皮膚科・泌尿器科の医長に任命された。
 大正12年(1923)5月から泌尿器科学研究のため、文部省在外研究員としてヨーロッパに行き、各国で研修して大正15年(1926)1月帰国した。
 昭和5年(1930)職を辞して、大阪に中川病院を開設したが、空襲により消失した。その後大阪女子医専・大阪女子医大、関西医大の教授、関西医大付属病院香里病院長を歴任。
 昭和46年(1971)12月25日、大阪にて病没した。84歳であった。
 この中川について日本ではあまり知られていない医学上の世界的開発業績が、松本明知(弘前大学医学部教授)著「横切った流星」副題“先駆的医師達の軌跡”に紹介されている。「昭和20年(1945)に出版されたトーマス・E・キイズの“麻酔の歴史”は麻酔科学の歴史の定本とされ、各国語に翻訳され、日本語版も昭和42年(1967)出版されている。この本の中に唯1人、日本人の名前が出て来る。華岡青州に違いないと考える方が多いと思うが、答えは否である。その人の名は中川小四郎である。中川は大正10年(1921)東北帝大において、アルコールによる経静脈的点滴麻酔法(独文)を発表したが、これはアルコール麻酔による世界最初の本格的研究であった。中川の名前はこの事によって欧米にまで知れ渡った。」ということである。
 長男・次男共に医学博士、孫も又医学博士で平谷にて中川医院を開業、墓碑は福山神社下中川家墓地にある。

●中川小四郎墓(平谷中川家墓地)

●横切った流星

( 18 ) 佐古 高英 ・ 志津( さこ たかひで・しず )

 佐古高英は明治13年(1880)6月28日、佐古高郷の孫として山手に生まれる。
 高郷は幕末明治維新時、国事に奔走した十津川郷士の1人であった。
 高英は幼名泰太、後高英と称した。長じて大阪府立高等医学校入学、明治40年(1907)10月卒業する。卒業後大阪市内医院等に勤務し、後下市町で開業。大正元年(1912)9月、故郷十津川に帰り山崎にて佐古医院を開業する。大正11年(1922)7月村会議員に当選、1期就任する。
 志津夫人は明治20年(1887)1月1日、賀名生村(現西吉野村)堀重信の長女として生まれる。堀家は賀名生村の名家で南北朝時代行宮[あんぐう]となり、今も門に「皇居」の扁額が掲げられている。志津の父重信は十津川郷風屋、沖垣家の出身であり、賀名生村長を務め、志津の兄弟丈夫は陸軍中将となった。志津は大阪府立清水谷女学校裁縫部卒業、高英と結婚する。
 高英は人格高潔、財には無欲恬淡[てんたん]、患者に対しては貧富の別なく一視同仁、唯々里人の医療・保健に力を尽くした。
 自己を犠牲にして30有余年間、不便な僻遠の地において、医療のみならず社会の為に労を惜しまず献身、わずかに盆栽・草花・骨董等に慰めを見いだして診療に明け暮れた。
 昭和17年(1942)9月2日、五條町において“医は仁術なり”を身をもって実践した62歳の生涯を終えた。
 志津夫人は結婚以来貞淑にして、言動誠に優雅、夫の医師としての職分を理解し、患者や里人に優しく、よく家を守り夫を授けた。
 昭和24年(1949)11月20日、山崎谷の上の寓居で、奇しくも夫と同じ62歳で世を去った。
 年を経て夫妻への慕情禁じ難く、往時を追想し、報恩の念つのり、永くその高徳を伝えるため、二村区及び有志によって夫妻の頌徳碑が建てられた。昭和44年(1969)のことである。
 碑は大字山崎、旧山崎小学校の入口に建てられている。
(注)村内には数多くの碑が建立されているが、夫妻共にその名が刻まれた碑は寡聞[かぶん]にしていまだ聞かず。

●頌徳碑
(旧山崎小学校入口)

( 19 ) 丸田 賀孝( まるた がこう )

 天保13年(1842)込之上に生まれる。
 元治元年(1864)御所警衛の為京に上り、その役目を果たし帰郷後、木材界に志を立て、杣職に身を投じた。以来この業界において、あらゆる辛苦をなめ、とりわけ明治14年(1881)には四国に渡り、数年間事業を営んだが、不景気の為大損害を受け、引き揚げざるを得なくなるなど辛苦を重ねた。しかしながら賀孝はいささかも屈することなく、益々志をかたくして事業に励み、遂に成功をみ、巨万の富を築いた。賀孝の如きは、正に立志傳中の人というべきであろう。
 過去十津川村の各所で用いられた、人力あるいは畜力による橇(木馬)に材木を乗せて搬出するいわゆる「木馬出し」の方法は、賀孝が四国より伝えたものだと言われている。この方法は従来の搬出法より能率的で長く方々で用いられた。明治36年十津川郷木材同業組合が設立され、賀孝は推されて組長に就任し、木材業界発展に尽くした。大正10年(1921)79歳、堅忍不抜、木材にかけた夢を達成、静にその生を終えた。大字折立山崎、林業会館前に頌徳碑が建てられている。

 -頌徳碑全文-
 生為男子不能有所益于一世則負罪于天也大矣
 唯此一語以自奮成功者丸田翁是也翁専志于伐
 木連材千辛万苦能成其志一而日兄弟三人同心故
 有此功同心之羔不可志也此言無可啓発後人矣
 翁名賀孝丸田其姓十津川込之上人家頗貧困幼
 賃身浄財得則蓄以供其父酒価盖孝爰之行天姓
 為然而奮然立志盡力于山林自明治十四年在土
 阿二州者数年有損無益難苦特甚一而不屈不撓志
 気益壮遂成今日之羔且既帰傚二州器械以便搬
 出故業木材者為推組長仰恩感恵遂相謀建此碑
 以示後人如翁者実精神一到金石皆透者也乃銘曰
  行既美矣 業既成矣 唯日未学 一片至誠
       明治卅九年七月
       南岳藤澤恒選並篆額
       恭堂江添鼎書

( 20 ) 玉置 高良( たまき たかよし )

 天保8年(1837)9月6日、父銀之助の長男として折立に生まれる。
 文武に秀で謹直にして、思慮深い人物であった。
 幼年のころより、学問を好み、亀山藩士長沢俊平等に和漢の学を、田辺藩士安藤彦九郎等を招いて武技を学ぶ。幕末、文久3年(1863)十津川郷士は、京都御所警衛の任に維新までの約5年間従事した。この間滞京中の郷士達にとっての大きな問題の1つは、経費の捻出であった。高良は私財2,000余両を投じて、公費を補い、郷士の勤皇運動に大いに尽力した。
 天誅組の乱には、政変による混乱を同志と共に収拾に努めた。元治元年(1864)5月、松雲寺を仮校舎として郷校文武館が開館された。高良は校舎新築に努力し、11月平山に落成をみた。建築後文武館詰助役となり経営にあたった。次いで郷総代となり郷務の整理に当たる。明治5年(1872)玉置神社祠官となり、後、市町村制の改革による各役職に就く。13年(1880)4月、宇智吉野郡長に任ぜられ、至誠を以て郡民に接し、産業・教育の振興、道路の開削等に力を尽くした。22年(1889)8月17日、田戸街道(上葛川~田戸間)の開通式に臨み、帰途宇宮原の旅館に宿泊したが、折から紀和地方を襲った大暴風雨、いわゆる十津川大水害の為、19日夜山岳崩壊し、家屋と共に十津川に押し流された。時に年52歳であった。特旨をもって従七位に叙せられた。因に田戸街道12粁余の工事費の内、千数百円は高良の寄付によるものであった。住民はその徳を表す為、表徳碑を建立した(現在神下にある)。遭難地の宇宮原には「字智吉野郡長玉置高良君遭難碑」が有志によって建てられている。尚、洞川・吉野両地区は大峰山寺の領有権をめぐって、明治初期以来約10年間、相争っていたが、高良は郡長就任後、調停役を務め、非常な努力の末、解決に導いた。住民はその恩に感じ、洞川竜泉寺に表徳碑を建て、碑文中に郡長の恩“百世忘る可からず”と刻んだ。時を経て高良没後100年目、平成元年(1989)洞川区民はこのことを忘れず、高良の曾孫、当時の十津川村長玉置春雄を招き、天川村長を始め約100人、竜泉寺碑前において盛大な追悼、報恩法要を行った。11月10日のことである。
 尚明治41年(1908)、吉野山に高良の高徳に報いる為、碑が建てられ、没後20年の大祭典が行われた。主唱者は東中の福井清重であり、経費は宇智吉野郡内有志家の醵金[きょきん]によった。

●遭難地碑(宇宮原)

●玉置高良碑