■小原の大踊り

十津川村小原に伝わる盆踊りである。盆に備えての「道普請」を行う8月1日からナラシ(練習)を始め、7日盆で一旦区切りをつけ、さらに本格的に練習を積んで13日の大盆には、小学校の校庭で盛大に踊られている。もとは寺の堂内で踊られていたが、現在では地元の小学校校庭で行われるようになり、ヤグラを組み中央に青竹を立て、ハッポウ(八方提灯)を吊り下げるようになった。曲目には、一般に馬鹿踊りと呼ぶ比較的簡単な踊り(串本節・木曽節など)と、男が主になって踊る男踊り(世の中踊り・お花踊り・お宝踊りなど)、女性中心の踊りとなる口説き(お杉口説き・つばくら口説き・中山口説き・お熊口説き・おいそ口説きなど)、さらに最も伝統的な大踊りがある。
大踊りは円陣とならず、男女が方形に並ぶ。前列には男が太鼓打ちと太鼓持ちに分かれて並び、その後ろには女が扇を手にして並ぶ。はじめはゆったりとした調子でその場で踊り、後半部のセメに入ると太鼓打ちは白・赤・緑に染め分けた長い房のついたバチ(桴)を振りまわしながら太鼓持ちの太鼓を激しく打つ。女性は円陣を組んでこれをとり囲み、頭上で左右に扇を振る。この大踊りには笹竹に太鼓のバチと同様の房をつけた切子灯籠を持つものも加わる。また、時に農作業・山仕事や女形の仮装をして踊りに加わるものもいる。笠や麦わら帽子をかぶって顔をかくし、こうして踊りの一団に加わることを「化けて出る」と呼んでいるが、その姿には、盆に子孫の里を訪れて祝福を与える祖霊を連想させるものがあり、興味深い。
現在は大踊りが踊りの最後であるが、かつてはこのあと「中入り」があり、酒食を楽しんだあと伊勢音頭を踊り、夜の明けるまで踊り続けたという。16日の送り盆には送り踊りが行われるが、かつてはこのあとハッサクにも踊られていた。

●保持団体/小原踊保存会
●所在地/奈良県吉野郡十津川村小原
●時  期/8月13日
●場  所/三村小学校校庭
●時  間/19時30分~23時30分(予定)

 

 

■武蔵の大踊り

十津川村武蔵では、8月14日の夜、もとの小学校の校庭でヤグラを組んで盛大に盆踊りが催される。
夕方7時半頃から真夜中まで行なわれるが、以前は明け方まで踊り続けたものであるという。現在では、屋外でヤグラを組んで音頭台とし、その周囲を踊るが、かつては光明寺の堂内で踊られていた。(戦後暫くはまだ屋内で音頭取りを中央にして踊られていた。)踊りには、お松口説き・お杉口説き・花づくし・笠くずし・笠踊り・おかげ踊りなどを始めとして多くの曲があり、30曲余りも伝えられていたというが、なかでも最後に踊られる最も重要な踊りが大踊りである。踊り方も他と異なり、男は太鼓持ちと太鼓打ちに分かれ、女はタスキをかけて扇を手にし、さらに笹竹に切子灯籠を吊り下げた灯籠持ちが列を作って横に並ぶ。他の曲は女性が音頭をとるが、大踊りには男性も加わり、男女かけ合いで歌う。初めは、ゆったりとした調子であるが、後半になるとセメの部分からテンポが早くなり、女性は円陣を作り、その内側で太鼓打ちは赤・青に染めわけた房の付いたバチを振りあげ、はねるようにして太鼓を打つ。灯籠持ちは踊りの場を駆け巡るが、かつては最後にその灯籠を焼いたという。また、女形や百姓姿に扮した道化も登場することがあった。
大踊りは今では一曲のみであるが、今は踊られていない十三四五・鎌倉踊り・御城踊りも大踊りであった。特に十三四五は、胸に太鼓を吊り、両側から打つ太鼓踊りの形式をとるものであった。現在伝わる大踊りは、中でも本踊りであるとされ、「なむあみだぶつ さあおどらいで」の歌詞を含んでいるように、念仏踊りの系譜をひくものであることを示している。
この盆踊りは、かつては青年団が主催し、道普請をする8月1日を踊り始めとして、練習を開始し、16日に送り踊りを行なった。付近の村々でも盆踊りが行なわれていた頃には、互いに踊りの日をずらして青年達は交流を深めた。高張提灯を先頭に、伊勢音頭を歌いながら威儀を正して他地区を訪れると、来訪を受ける側は村境まで一行を出迎え、丁重に踊りの場に招き入れたという。下の写真は、雨天時に、旧小学校校庭に残る寺の堂内で踊られた時のものである。

●保持団体/武蔵踊保存会
●所在地/奈良県吉野郡十津川村武蔵
●時  期/8月14日
●場  所/旧武蔵小学校校庭
●時  間/19時30分~24時(予定)

 

 

■西川の大踊り

十津川村南西部西川筋に伝わる盆踊りである。かつては川筋の大字ごとに盛んに踊られていたものであるが、大正初年頃から永井に周辺の人々が集まり一緒に踊るようになった。もとは青年会の手で催されていたが、現在では永井・垂里の人々を中心に西川踊保存合が結成され、独特の優雅な踊りを守り伝えている。
8月7日(昔は8月1日)頃からナラシ(練習)が始められ、盆の15日、地元の中学校の校庭で夜の更けるまで踊り続けられる。第二次世界大戦前は旧盆の14日に踊られていた。もとは川原で、さらに以前は寺の堂で踊られていたという。曲目には、伊勢音頭・追分・笠踊りなどの気軽な趣きをもった「馬鹿踊り」とイリハ・ヨリコ・力ケイリなどの重要視される「大踊り」がある。イリハは、女は両手に扇を執り、男は胸に太鼓を吊り下げ、紅白の和紙を貼りつないで作った長い房のついたバチ(桴)を美しく振りまわし、太鼓を打ちながら踊る。ヨリコは、踊りの場に人を寄せるために行なうものともいい、男は白い房のついたバチを持つ太鼓打ちと太鼓持ちに分かれて横隊となり、その後ろで両手に扇を持った女性が踊る。力ケイリは本晩の最後に踊られるもので、ヨリコと同じ形態で踊るが、切子灯籠を吊り下げた笹竹を持つ灯籠持ちが加わる。この力ケイリの終末部にはダイモチというものが必ず行なわれ、円陣になって即興の歌をうたいながらゆったりと踊り、盆踊りのしめくくりとする。 大踊りは他に、しのび踊り・かまくら踊り・おはな踊りなどがあるが、これらは仏法踊りであるといわれている。またヨリコは歌詞をかえて雨乞い時にも踊られていた。現在は、この三曲が大踊りとされているが、もとは、ヨリコの形の踊りが大踊りとされ、他は小踊りと呼ばれていた。踊りの場にはヤグラを設けず、方形の一団となったまま場所を移動する形式をとるのが、この地区の踊りの特色である。




●保持団体/西川踊保存会
●所在地/奈良県吉野郡十津川村重里
●時  期/8月15日
●場  所/西川中学校校庭
●時  間/20時~24時(予定)