十津川探検 ~わたしたちの村 十津川~
村のあゆみ
各 説  - 時代と遺物・遺跡
1 壬申の乱のころ
 1300年あまりも昔,吉野に大海人皇子という人がいました。
 皇子が天皇になるとき,国にさわぎ(*1)が起りましたが,わたしたちの祖先は,皇子に味方して,大きな働きをしました。
 やがて,皇子は天武天皇となりましたが,このてがらをよろこび,「三光の御旗」と「おうた」(*2)をくださったばかりか,年貢までもゆるされたと伝えられています。

(*1) 壬申の乱。大海人皇子と大友皇子との皇位継承のあらそい。
(*2) 「遠津川吉野のくすのいつしかと仕えぞまつる君が初めに

2 玉置神社
玉置神社
○玉置神社
神代杉
○神代杉
 玉置神社は,崇神天皇(*3)のころに建てられたといい伝えられています。
 1100年ほど昔,神と仏をあわせまつるようになってからは,朝廷や幕府も,あがめるようになりました。
 その後,熊野三山(*4)の奥の院として世に知られ,ますます信仰をあつめるようになりました。
 また,玉置山は,吉野から熊野への修験者(山伏)(*5)の通路に当たり,道場として行者が集まったといわれます。
 朝廷の人々が,お参りしたことを示す塔,樹齢約3000年といわれる神代杉,1000年をこすといわれる杉の木立,800年をすぎるつり鐘(*6)に,この山の昔をしのぶことができます。

つり鐘 後白河院の参詣を示す塔
○つり鐘 ○後白河院の参詣を示す塔

(*3) 第10代 1700年ほど前
(*4) 熊野座神社(本宮)熊野速玉神社(新宮)熊野夫須美神社(那智)
(*5) 山で修行する人
(*6) 応保3年(1163)

3 元弘の乱から南北朝のころにかけて
 660年ほど昔,朝廷と幕府との間に争い(*7)が起り,国は大いに乱れました。後醍醐天皇(*8)の皇子,護良親王(*9)は,都をのがれて,この十津川に身をかくしました。この時,竹原八郎,殿野兵衛(*10)をはじめ郷民は親王をまもりました。
 その後,朝廷は,京都(北朝)と吉野(南朝)に分かれましたが,郷民は,南朝につかえました。そのころ,朝廷からいただいた文書などが,村の歴史民俗資料館に残されています。また,そのころのあとといわれる所が,村の中にはたくさんあります。

黒木の御所跡
○黒木の御所跡
 黒木の御所跡(谷瀬)
 護良親玉は,黒木の御所に,しばらく身をかくしていました。このかりの住まいは,殿野兵衛たちがつくったとも伝えられています。今も,そのやしきあとが残されています。







 芋瀬のこしぬけ田(五百瀬)
芋瀬の荘司(*11)にうばわれた朝廷のみ旗を,親王のけらい村上義光がひとりでうばいかえしたという話が伝わっていよす。この争いのとき,義光になげられた荘司は,田におち,こしをぬかしたので,人々はその田のことを,こしぬけ田と呼ぶようになったといわれます。
 今では,神納川の川底になっています。


芦廼瀬の碑
○芦廼瀬の碑
 芦廼瀬の碑(小原)
 親王が追手からのがれ,十津川を通るさいに,小原の滝峠でしばらく休んだそうです。そのとき,
琵琶乃音毛 昔爾変江天 物凄志
芦廼瀬川廼 瀬々廼水音

と,よんだといわれます。幕末のころ,郷士たちが,村人の心をはげますために,この碑をたてました。




花折塚
○花折塚
 花折塚(*12)(玉置山)
 親王の一行は,玉置山の僧兵にゆくてをはばまれました。けらいの片岡八郎は,ひとりふみとどまって僧兵と戦い,たおれましたが,一行は,そのすきにおちのびることができたといわれています。道行く人が,八郎の墓に花を折ってそなえたことから,花折塚と呼ぶようになりました。



 国王神社(上野地)
 南朝3代目,長慶天皇(*13)をお祭りしていると伝えられます。
 11月1日は,この神社のお祭りで,武者行列などが行われます。

楠正勝の墓
○楠正勝の墓
 楠正勝の墓(武蔵)
 楠正成(*14)の孫,正勝は,南朝のために兵をあげようとして,十津川にきました。けれども病にかかり,望みをはたさずなくなりました。
(*7) 元弘の乱
(*8) 第96代
(*9) 元弘の乱で朝廷の中心としてはたらき,建武の親政後征夷大将軍に任じられる。
(*10) ふたりとも大塔・十津川・北山の人という3説がある。
(*11) 芋瀬村の頭
(*12) 片岡八郎の墓
(*13) 第98代目(後村上天皇の子)
(*14) 後醍醐天皇のためにはたらいた武将,今の大阪府の人

4 幕末から明治維新にかけて

 このころは,長い間つづいた江戸幕府の力がおとろえていたことや,朝廷中心の考え方が人々の間に高まったこと,また,外国が日本に開国を求めてきたことなどによって,国じゅう大へんさわがしくなっていました。

 御所のまもり役
 このころ,郷民は,相談して,
「わたしたちの郷は,古くから,朝廷のご恩をいただいた土地柄で,祖先たちは,いっしょうけんめいお仕えしてきました。今は国にとって大事の時ですから,わたしたちも,祖先の心をついで,ぜひ,お役に立ちたいと思います。」
と京都の御所に願いでました。
 やがて,郷士たちは,御所をまもる大役をつとめることになりました。京都には,十津川屋敷(*15)もつくられ,いつも250人ほどの郷士がつめていました。また,このつとめには,郷民が交替であたり,5年間も続いたといわれます。

 天誅組(*16)
 文久3年(1863)8月,十津川郷士が御所をまもるため,京都につく前夜,中山忠光(明治天皇のおじさん)は,土佐藩士(高知県)吉村寅太郎らとはかって,武力で幕府と戦おうとしました。この一軍は,天誅組と名のり,京都から大阪をへて五條にあらわれ,代官所(*17)をせめおとしました。
 おどろいた朝廷は,これをしずめようとし,幕府もまた,軍をさしむけました。
 この幕府軍と戦うため,いったん,天辻峠にしりぞいた天誅組は,十津川郷士に味方になるよう呼びかけてきました。朝廷のために働くのだと聞いた野崎主計(川津)・深瀬繁理(重里)ら郷士たちは,忠光のもとに,いさんでかけつけました。その数,実に1000人(15才から50才まで)をこえたといわれます。
 しかし,郷士のなかにも,かるはずみに動いてはならないといって反対する者もいました。
 十津川勢を味方につけた天誅組は,さっそく,高取城(*18)めがけて攻めのぼりましたが,つかれているうえに,いくさになれていないためか,もろくもやぶれてしまいました。そして,追われ追われて十津川まで落ちてきました。京都にいた郷士たちは,このことを聞き,このさわぎは朝廷のためにならないことを知らせたので,野崎ら十津川勢はまよったあげく,解散することにしました。
 しかし,繁理は,さいごまで戦って北山の白川でたおれ,主計は,責任を感じて自害しました。忠光らは,十津川から北山をへて長州(山口県)へのがれました。寅太郎らのほとんどは,とらえられたり,殺されたりして,このさわぎは,わずか,40日ほどでおさまりましたが,これは,明治維新のさきがけとなったともいわれています。

郷士の印
○郷士の印
 菱十のいわれ
 御所をまもっていた郷士の旗印は丸十でした。ところが,同じつとめをしていた,さつま武士(鹿児島県)の旗も丸十でした。そこで,朝廷のさしずもあって,十津川は菱十と改めることになりました。
 今,わたしたちが,村の印としている菱十には,このようないわれがあるのです。

 文武館(*19)
 御所のまもりをしていた郷士は,もっと文武の道を学びたいと,朝廷に願い出ました。
 孝明天皇(*20)は,これを聞き入れ,中沼了三(*21)という学者を十津川につかわしました。そして,元治元年(1864)5月,折立の松雲寺(*22)を校舎として,文武館は開かれたのです。
 この文武館にも,いろいろな移り変りがありました。なかでも,大正10年,火事で焼けた時には,学校を続けるか,やめるかで,ずいぶんまよいました。村人ばかりでなく,よそへ出ている人たちも一緒になって考えたのです。その結果,この学校の歴史や役目を深く考えて,続けることになり,昭和2年,込之上の現在地に木造の校舎が建てられ,昭和48年に現在の鉄筋校舎に建てかえられました。

 明治維新のいくさ
 慶応3年(1867),幕府が大政を朝廷にかえしたことをめぐって,世の中は,たいへんな争いとなりました。朝廷は,幕府がわである紀州藩(和歌山県)を見はるため,高野山に兵を集めました(*23)。この時,十津川郷士は650人も,これに加わりましたが,さいわい戦いとはならずにすみました。
 つぎの年,越後(新潟県)で,朝廷がわの軍かたいへん苦戦しました。(*24)京都につとめていた郷し200人は,これを助けてはげしく戦い,81人もの死傷者を出しました。
 新しい世をつくるために命をすてた郷士の墓が,新潟や京都にあります。

(*15) 京都寺町にあった郷士の詰所
(*16) 首領 中山忠光 3総裁 吉村寅太郎,藤本鉄石,松本圭堂
(*17) 代官 鈴木源内
(*18) 高市郡高取町
(*19) 今の十津川高等学校
(*20) 第121代
(*21) 儒官 島根県隠岐の生まれ
(*22) 今の折立中学校のあるところ。
(*23) 高野山義挙
(*24) 北越戦争と呼び長岡城を攻撃する。

5 明治維新以後
 排仏毀釈(*25)
 幕府は,寺を大切にしましたが,明治の新しい政府は,神をうやまうことをすすめました。政府は明治元年,神社と寺をきりはなせという決り(*26)を出したのです。
 そこで村人たちは,玉置山にあった15寺のうち高室院の1寺を残してあとは,とりこわしてしまいました。これをきっかけにして,村のあちこちでは,仏ぞうをこわしたり,お経を焼いたりしました。こうして,53もあった寺は,数年たって,高室院のほかは,すっかりなくなってしまったのです。

 明治の大水害(*27)と北海道移住
 明治22年8月,村は,集中ごう雨にみまわれました。17日の午後,村のあちこちににわか雨が降りました。それまでは,雨らしい雨が降らなかったので,田や畑などが乾ききっていました。人々は,「いねやくわが生きかえる。」と,よろこびました。
 でも,この雨ははげしさをますばかりでした。18日には風も加わり暴風雨となりました。夜には,支流も本流も水かさがまし,小さな橋をあとかたもなく流してしまいました。19日には雷雨となり,地面をたたきつぶすほどのすさまじさでした。山々からは地鳴りが聞こえ,人々はおびえきっていました。
 山くずれが家々や田畑をおしつぶしてしまいました。山くずれはまた,大きな湖をもつくりました。そのため,水が逆流して上流の家々や山の木々を流してしまいました。さらに鉄ぽう水となって,下流のむらをおそいました。一夜開けた20日,人々はなすすベもなく,赤茶けた山やごうごうとうなりをあげて流れ狂う川を見ているだけでした。
 さい害をうけた村人たちは,村に住めないことを知り,何度も話し合ったすえ,北海道に新しい村をつくる決心をし,600戸あまり,約2600人が,ふるさとに別れをつげました。大阪まで歩き,神戸を船出して小樽に着きました。ひざまでつかるぬかるみ道を50kmあまり歩き,石狩の滝川で冬をこしたのです。春になって徳富の原生林によきやくわを入れ,苦しさと戦いながら新十津川をつくりました。その後,十数回の水害や夜盗虫の発生など多くの苦しみをのりこえ現在の新十津川町まで発展させ,平成2年(1990年)に開基100年を迎えました。


(*25) 寺をなくす。
(*26) 神仏分離令
(*27) 吉野郡水災史による。
 

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